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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第十五話 十人の迎え

 男は何も言わなかった。

 三つ数えるあいだ、動かなかった。

 私は、帳面を持つ手に力を入れた。袖の奥の手巾には、裂けた紙の欠片しかない。武器にはならない。

 男は、一歩だけ中へ入って、後ろ手に戸を閉めた。かちり、と錠の落ちる音がした。

「サヴァ」

 外の衛士に、低く呼びかけた。

「しばらく、誰も通すな」

「は、はい」

 椅子を引く音がして、足音が戸の前に戻った。

 私は、一歩前へ出た。アレクと男のあいだに。理由は考えなかった。体が先に動いた。

 男は私を見て、わずかに目を細めた。

「辺境からいらした、お客人でいらっしゃいますね。宮中の噂は、書記局にも届きます」

「……ええ」

「ご安心を。害するつもりは、ありません」

「それを、信じる理由が」

「ありません」

 男は、あっさり言った。

「ですから、先に、この場を整えさせてください。先生」

 先生が、はっと顔を上げた。

「筆を。止まったままだと、外で怪しまれます」

 先生は、震える手で筆を取った。紙の上で、筆先がまた、ゆっくり動き出した。

 麻の布の向こうで、老女が小さく歌い出した。子守歌のような、調子のはずれた歌だった。こちらの話を、あの子の耳に入れないための歌なのだと、分かった。

 男は、それを確かめてから、アレクのほうへ向き直った。

 右手に革の手袋。左手を、胸に当てた。

 それから、静かに、片膝をついた。

 床の石が、こつ、と鳴った。

「十三年、お待ち申しておりました」

 戸の外には漏れない、低い声だった。少しも震えていなかった。

「書記局副長官、レオニードと申します」

 副長官。先生が言っていた、足音のしない人だった。

 アレクは、動かなかった。

 荷運びの帽子の下で、呼吸だけが、ゆっくりになっていくのが分かった。

「どうして分かった」

「その石です」

 レオニードは、手袋のずれた、アレクの手首のあたりを見た。

「上でベネシュが喚いておりましたので、見に参りました。そうしたら、御印の指輪の青が見えました。朝議で、何度も拝見した青です。それと、顎の線が」

 それから、眉ひとつ動かさずに続けた。

「お顔に、墨の線が」

「荷運びだ」

「存じております」

 間があった。

 私は、笑ってはいけない場所で、笑いそうになった。


 アレクが、帽子を取った。

 銀色の髪が、灯りの下でほどけた。墨で引いた頬の線が、場違いなほど滑稽だったけれど、灰色の目は、笑っていなかった。

「四十一枚」

 アレクの声は、氷のようだった。

「お前が、書かせたのか」

「はい」

 レオニードは、目を逸らさなかった。

「私が命じ、先生が書き、私が封をしました。言い訳は、いたしません」

「なぜだ」

「妹が、人質に」

 先生が、筆を持ったまま息を止めた。

「二か月前から、妹のイダが、どこかに。私には居場所が分かりません。月に一度、手紙だけが届きます。『げんきです』と、震えた字で」

「誰に取られた」

「存じません」

「イダは、取り戻す」

 アレクの声に、迷いはなかった。

「必ずだ」

 レオニードの喉が、ひとつ鳴った。返事は、なかった。

「命令は、誰から」

「私の机の、鍵のかかった引き出しの中に。夜のうちに、入っております。黒い蝋の、印のない封です。中に、紙の種類と、文面と、書かせる人の名が。北方産の灰色の麻紙は、いつも封に添えて届きます」

「封を置く者の顔は」

「見たことがありません。一度も」

「引き出しの鍵は」

 私は聞いた。

「私しか、持っておりません。ですが、朝には必ず入っているのです。鍵をかけて帰った引き出しの中に」

「では、もうひとつ」

「はい。誰かが、もうひとつ持っています」

 レオニードは、うつむいた。

「二か月、誰なのかを考えました。分かりません」

「指示の字は」

 私は、続けて聞いた。

「誰の手か、お分かりになりますか」

「分かりません。それが、分からないのです」

 レオニードは、少し考えてから続けた。

「書記局の者の字ではない、とは言えます。ただ、整いすぎている。定規で引いたような字です。人の癖を、わざと削った字だと思います」

「癖を、削った」

「書く人間を、隠すために」

 先生が、小さく頷いた。手本を書く人間の目で、そう見えたのだろう。

 アレクの握りしめた拳が、白くなった。

 私は、そっとその袖に手を置いた。

 言葉はなかった。ただ、置いた。

 アレクは、一度、目を閉じた。十三年という数を、胸の中で数え直しているようだった。

 そして、小さく言った。

「……あの夜、私を背負ったのは、お前か」

 レオニードの肩が、ぴくりと動いた。

「はい」

「覚えている。背中が、熱かった」

 アレクが言うと、レオニードの顔が、はじめて崩れた。

「十人で、お連れしました」

 声が、細くなった。

「裏門を出てから、七人が倒れ、三人が砦の門まで。私は、そのひとりでした。手傷を負っておりましたが、最後の三百歩を、背負わせていただきました」

「そうか」

「陛下は、一度も泣かれませんでした」

 彼は、床を見ていた。

「背中は熱いのに、声ひとつ出されない。私は、それが、ずっと恐ろしゅうございました。泣いてくださればと、何度も」

 アレクは、黙っていた。

「泣けなかった」

 ようやく、言った。

「泣くと、息が、止まる気がして」

「もう、吐いていいのですわ」

 思わず、口が動いた。

「先生が、そう仰いました」

 アレクが、私を見た。

 灰色の目が、ゆれていた。

 レオニードは、拳を床につけたまま、肩を震わせていた。声は、出なかった。出さないようにしている背中が、あの夜の少年の背中と、同じなのだと思った。

 背中の熱さを覚えていた人と、その熱さを恐れていた人。十三年、同じ夜を、別々に抱えてきたのだ。


 しばらくして、アレクが、手を差し出した。

「許したわけではない」

「存じております」

「だが、立て。話を聞くのに、膝は要らない」

 レオニードは、一瞬ためらってから、左手でその手を取って立ち上がった。革の手袋の右手は、だらりと下がったままだった。

 私は、それを見て聞いた。

「その手は」

 レオニードは、顔を上げた。

「お気づきでしたか」

「先生の見立てです。右手を痛めた方が、左で書き直したような字だと」

 先生が、筆を持つ手を、小さくこわばらせた。

「裏門の追っ手の剣を、この手で止めました」

 レオニードは、革の手袋をはめた右手を、左手でそっと包んだ。

「以来、利きません。あの夜は、先帝陛下付きの書記官として、剣も持たされておりました。剣は、それきりです。左で字を覚え直し、書記局に残り、ここまで来ました。あの壁の手本は、古い紙がその前、新しい紙が左で書いたものです」

「あの手本を書いたのは、あなただったのですね」

「はい。それと、砦の古い図も」

 息を止めた。

「井戸道が塞がれる前の砦を、私が描きました。万一のとき陛下をお預けする場所を、頭に入れておくために。写しが、書記局の書庫の奥で眠っておりました」

「その図が、使われた」

「私の描いた図が、陛下とお客人を止める紙に使われたと知ったときは」

 レオニードは、目を閉じた。

「この手を、切り落としたかった。もう、利かない手ですが」

 国境で、紙に止められた。街道で、紙に眠らされかけた。南門で、紙に囲まれた。

 その全部が、この人の手の上に、あった。

 それなのに、この人は、さっき、膝をついた。

「ひとつだけ、教えてください」

 私は言った。

「四十一枚の紙の、どれにも、御印がありませんでした。なぜですか」

 レオニードの口もとが、ふっと緩んだ。

「作れない、と、返事を引き出しに入れておきました。翌朝、それは消えておりました」

「作れない」

「御印の型は、偽造できないと。本当は、作れました。作る手は、持っておりました」

「型は、どこに」

 アレクが聞いた。

「二番の戸の内側に。書記局の発行印の型は、数十、揃っております。鍵は一本きりで、私が持っております」

 レオニードは、少しだけ声を低くした。

「ですが、御印の型だけは、あの部屋にございません。作っておりませんので」

 彼は、先生のほうをちらりと見た。

「印のない紙は、いつか必ず破れます。私は、それを待ちました。破ってくださる方が、現れるのを」

 先生が、筆を置いた。

 皇太后様の声が、頭の中で重なった。そういう者は、いつか必ず、自分で紙を破る。

「私は、破るのに、ひと月半かかりました」

 先生が、低く言った。

「私は、十三年かかっております」

 レオニードは、そう答えた。笑っているのに、目は濡れていなかった。濡らさないようにしている目だった。

「先生を、お選びになったのは」

 私は、ふと思って聞いた。

「先生の字だけが、『陛』で止まるからです」

 レオニードは、先生を見た。

「十三年前の廊下を知る者の、癖です。あれを見ておかしいと思う人が、いつか現れる。そう賭けました。それと」

 声が、低くなった。

「あの夜、私は、裏門で追っ手を止めておられた先生を、振り返らずに走りました。生きておられると知ったのは、去年の春です。下町の手習い塾の看板に、お名前がありました」

「ミラを地下へ連れてこさせたのは」

 先生が、静かに聞いた。

「私の命令です。ベネシュの手を借りて」

 先生は、長く目を閉じた。許すとも、許さないとも、言わなかった。

「あの杖の男は」

 アレクが聞いた。

「どこまで知っている」

「ベネシュは、書記局の下役で、命じられて動くだけの男です。紙の中身も、陛下のことも、知らされておりません。迎えと見張りに、金で雇われております」

 レオニードは、こともなげに言った。

「ベネシュは、荷運びが樽を回したと喚いておりましたが、樽は勝手に回るものです。……そういうことに、しておきます」

 アレクの口の端が、ほんの少しだけ動いた。

 そのとき、麻の布の向こうで、歌が途切れ、衣擦れの音がした。

 レオニードの目が、そちらへ動いた。

「あの灯りは」

 布の下から、小さな明かりがこぼれていた。

「先生が、毎晩、油を足しておられる灯りですね。あの子が眠るまで」

「……ご存じでしたか」

 先生の声が、かすれた。

「存じておりました。地下のことは、全部私の耳に入ります。そして」

 レオニードは、言いにくそうに目を伏せた。

「あの子の部屋に、毎晩、熱い乳を届けさせていたのは、私です」

 先生が、ぽかんと口を開けた。

「老女が持ってくるものと、思っておりました」

「そう思っていただくために、あの方に頼みました。言えませんでした。善い顔をしても、償いには、なりませんので」

 麻の布が、ぱさ、と持ち上がった。ミラが、顔だけ出した。髪の片方が、ほどけかけている。

「おじさん、だれ」

 レオニードは、ゆっくりとミラのほうへ体を向けた。

「……おじさん、で、よろしゅうございます」

「ふうん」

 ミラは、じっと彼を見た。それから、墨の線を引いたアレクの顔を見て、また彼を見た。

「きょうは、おじさんが、いっぱいだね」

「……ご迷惑を、おかけしております」

 レオニードは、神妙に頭を下げた。

 先生が、ごほ、と咳をした。笑いを飲みこんだのだと思う。アレクが、そっぽを向いた。

 布が下りて、ミラは奥へ引っ込んだ。歌が、また始まった。


 私は、息を整えてから、アレクの袖を、もう一度だけ強く握った。

「アレク。今、すべきことが」

「分かっている」

 アレクは、レオニードを見下ろした。

「お前の話は、まだ終わっていないだろう」

「はい」

 レオニードは、左手を、左の袖の中に入れた。

「今朝、引き出しに届いたものです。先生には、まだお見せしておりません」

 灰色の麻紙が、折りたたまれて出てきた。黒い蝋の封が、すでに切られている。

 広げて、アレクに渡した。私は、横から覗いた。

 短い文だった。

『七枚目。皇太后陛下、御病にて薨去。明朝の朝議にて発表のこと。書記局発行』

 背筋が、冷えた。

 私は、声を絞った。

「皇太后様は、昨日も、お元気でした」

「はい。今朝も、朝餉を召し上がったと聞いております」

「では、この紙は」

「生きている方の死を、明日の朝に、発表せよという命令です」

 六枚目の紙が、先生の机の上で、まだ一行目のまま止まっている。

 『本日夕刻』。

 夕刻、北の庭の東屋へ呼ばれるのは、私だ。皇太后様の御意の紙で。

 そして、明朝の訃報。

 私は、その二枚を頭の中に並べた。

「皇太后様が亡くなったと発表される、その前の晩に」

 喉が、からからだった。

「御意の紙で呼ばれた私が、ひとりで、庭にいた。そういう形に、なるのですね」

 レオニードは、何も言わなかった。

 それが、答えだった。

「紙は、そこまでしか申しません」

 やっと、そう言った。

「東屋で、何が起きるかは、封の指示に書いてありません。ですが、二枚を並べれば、そう読めます。私も、夜明けまで、その並びを見ておりました」

 アレクの手の中で、灰色の紙が、かさ、と音を立てた。

「皇太后にも、シャルにも、近づけさせない」

 アレクが、低く言った。

「どちらにも、だ」

「陛下」

 レオニードが、呼んだ。

「もうひとつだけ、よろしいでしょうか」

「何だ」

「十三年、お待ちしておりました。そのあいだ、陛下の隣に立つ方のことは、考えたこともございませんでした」

 彼は、私のほうを見た。

「お隣におられる方の、お名前を。胸に置いておきたく存じます」

 アレクは、一瞬、止まった。

 それから、私のほうを見て、まっすぐに言った。

「シャルロット・フォンテーヌ。私の——」

 言葉が、そこで止まった。

「まだ、ですわ」

 私が先に言った。

「……まだ、で、ございますか」

 レオニードが、生真面目に聞き返した。

「まだだ」

 アレクが、耳の先まで赤くなって、答えた。

 先生が、下を向いて、肩を震わせた。奥の布の向こうから、小さな声が、「まだなんだよ」と聞こえた気がした。

 そのとき、戸の外で、椅子が鳴った。

「副長官殿」

 衛士の声だった。

「ベネシュ殿が、お戻りです。昼になる前に、お話があると」

 空気が、変わった。

 レオニードの顔から、さっきまで膝をついていた人の色が、すっと消えた。書記局の副長官の顔になった。

「すぐに行く」

 それから、低い声で、私たちにだけ言った。

「陛下。お客人。ここからは、芝居をお願いいたします」

「芝居なら」

 私は、息を吸った。

「昨夜から、ずっと続いております」

 アレクが帽子をかぶり直した。灰色の目が、荷運びの影の中に隠れた。墨の線を引いた頬を、ごしごしと袖で擦って、余計に濃くした。

 レオニードが、戸の錠に手をかけた。

 かちり、と、音がした。

読んでいただき、ありがとうございます!


「陛」の字で止まる手の奥にいた人が、やっと名前を名乗りました。

書きながら、いちばん長く立っていたのは、膝をついた副長官の背中でした。


次回、戻ってきた迎えの男の前で、芝居が始まります。


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