第十五話 十人の迎え
男は何も言わなかった。
三つ数えるあいだ、動かなかった。
私は、帳面を持つ手に力を入れた。袖の奥の手巾には、裂けた紙の欠片しかない。武器にはならない。
男は、一歩だけ中へ入って、後ろ手に戸を閉めた。かちり、と錠の落ちる音がした。
「サヴァ」
外の衛士に、低く呼びかけた。
「しばらく、誰も通すな」
「は、はい」
椅子を引く音がして、足音が戸の前に戻った。
私は、一歩前へ出た。アレクと男のあいだに。理由は考えなかった。体が先に動いた。
男は私を見て、わずかに目を細めた。
「辺境からいらした、お客人でいらっしゃいますね。宮中の噂は、書記局にも届きます」
「……ええ」
「ご安心を。害するつもりは、ありません」
「それを、信じる理由が」
「ありません」
男は、あっさり言った。
「ですから、先に、この場を整えさせてください。先生」
先生が、はっと顔を上げた。
「筆を。止まったままだと、外で怪しまれます」
先生は、震える手で筆を取った。紙の上で、筆先がまた、ゆっくり動き出した。
麻の布の向こうで、老女が小さく歌い出した。子守歌のような、調子のはずれた歌だった。こちらの話を、あの子の耳に入れないための歌なのだと、分かった。
男は、それを確かめてから、アレクのほうへ向き直った。
右手に革の手袋。左手を、胸に当てた。
それから、静かに、片膝をついた。
床の石が、こつ、と鳴った。
「十三年、お待ち申しておりました」
戸の外には漏れない、低い声だった。少しも震えていなかった。
「書記局副長官、レオニードと申します」
副長官。先生が言っていた、足音のしない人だった。
アレクは、動かなかった。
荷運びの帽子の下で、呼吸だけが、ゆっくりになっていくのが分かった。
「どうして分かった」
「その石です」
レオニードは、手袋のずれた、アレクの手首のあたりを見た。
「上でベネシュが喚いておりましたので、見に参りました。そうしたら、御印の指輪の青が見えました。朝議で、何度も拝見した青です。それと、顎の線が」
それから、眉ひとつ動かさずに続けた。
「お顔に、墨の線が」
「荷運びだ」
「存じております」
間があった。
私は、笑ってはいけない場所で、笑いそうになった。
アレクが、帽子を取った。
銀色の髪が、灯りの下でほどけた。墨で引いた頬の線が、場違いなほど滑稽だったけれど、灰色の目は、笑っていなかった。
「四十一枚」
アレクの声は、氷のようだった。
「お前が、書かせたのか」
「はい」
レオニードは、目を逸らさなかった。
「私が命じ、先生が書き、私が封をしました。言い訳は、いたしません」
「なぜだ」
「妹が、人質に」
先生が、筆を持ったまま息を止めた。
「二か月前から、妹のイダが、どこかに。私には居場所が分かりません。月に一度、手紙だけが届きます。『げんきです』と、震えた字で」
「誰に取られた」
「存じません」
「イダは、取り戻す」
アレクの声に、迷いはなかった。
「必ずだ」
レオニードの喉が、ひとつ鳴った。返事は、なかった。
「命令は、誰から」
「私の机の、鍵のかかった引き出しの中に。夜のうちに、入っております。黒い蝋の、印のない封です。中に、紙の種類と、文面と、書かせる人の名が。北方産の灰色の麻紙は、いつも封に添えて届きます」
「封を置く者の顔は」
「見たことがありません。一度も」
「引き出しの鍵は」
私は聞いた。
「私しか、持っておりません。ですが、朝には必ず入っているのです。鍵をかけて帰った引き出しの中に」
「では、もうひとつ」
「はい。誰かが、もうひとつ持っています」
レオニードは、うつむいた。
「二か月、誰なのかを考えました。分かりません」
「指示の字は」
私は、続けて聞いた。
「誰の手か、お分かりになりますか」
「分かりません。それが、分からないのです」
レオニードは、少し考えてから続けた。
「書記局の者の字ではない、とは言えます。ただ、整いすぎている。定規で引いたような字です。人の癖を、わざと削った字だと思います」
「癖を、削った」
「書く人間を、隠すために」
先生が、小さく頷いた。手本を書く人間の目で、そう見えたのだろう。
アレクの握りしめた拳が、白くなった。
私は、そっとその袖に手を置いた。
言葉はなかった。ただ、置いた。
アレクは、一度、目を閉じた。十三年という数を、胸の中で数え直しているようだった。
そして、小さく言った。
「……あの夜、私を背負ったのは、お前か」
レオニードの肩が、ぴくりと動いた。
「はい」
「覚えている。背中が、熱かった」
アレクが言うと、レオニードの顔が、はじめて崩れた。
「十人で、お連れしました」
声が、細くなった。
「裏門を出てから、七人が倒れ、三人が砦の門まで。私は、そのひとりでした。手傷を負っておりましたが、最後の三百歩を、背負わせていただきました」
「そうか」
「陛下は、一度も泣かれませんでした」
彼は、床を見ていた。
「背中は熱いのに、声ひとつ出されない。私は、それが、ずっと恐ろしゅうございました。泣いてくださればと、何度も」
アレクは、黙っていた。
「泣けなかった」
ようやく、言った。
「泣くと、息が、止まる気がして」
「もう、吐いていいのですわ」
思わず、口が動いた。
「先生が、そう仰いました」
アレクが、私を見た。
灰色の目が、ゆれていた。
レオニードは、拳を床につけたまま、肩を震わせていた。声は、出なかった。出さないようにしている背中が、あの夜の少年の背中と、同じなのだと思った。
背中の熱さを覚えていた人と、その熱さを恐れていた人。十三年、同じ夜を、別々に抱えてきたのだ。
しばらくして、アレクが、手を差し出した。
「許したわけではない」
「存じております」
「だが、立て。話を聞くのに、膝は要らない」
レオニードは、一瞬ためらってから、左手でその手を取って立ち上がった。革の手袋の右手は、だらりと下がったままだった。
私は、それを見て聞いた。
「その手は」
レオニードは、顔を上げた。
「お気づきでしたか」
「先生の見立てです。右手を痛めた方が、左で書き直したような字だと」
先生が、筆を持つ手を、小さくこわばらせた。
「裏門の追っ手の剣を、この手で止めました」
レオニードは、革の手袋をはめた右手を、左手でそっと包んだ。
「以来、利きません。あの夜は、先帝陛下付きの書記官として、剣も持たされておりました。剣は、それきりです。左で字を覚え直し、書記局に残り、ここまで来ました。あの壁の手本は、古い紙がその前、新しい紙が左で書いたものです」
「あの手本を書いたのは、あなただったのですね」
「はい。それと、砦の古い図も」
息を止めた。
「井戸道が塞がれる前の砦を、私が描きました。万一のとき陛下をお預けする場所を、頭に入れておくために。写しが、書記局の書庫の奥で眠っておりました」
「その図が、使われた」
「私の描いた図が、陛下とお客人を止める紙に使われたと知ったときは」
レオニードは、目を閉じた。
「この手を、切り落としたかった。もう、利かない手ですが」
国境で、紙に止められた。街道で、紙に眠らされかけた。南門で、紙に囲まれた。
その全部が、この人の手の上に、あった。
それなのに、この人は、さっき、膝をついた。
「ひとつだけ、教えてください」
私は言った。
「四十一枚の紙の、どれにも、御印がありませんでした。なぜですか」
レオニードの口もとが、ふっと緩んだ。
「作れない、と、返事を引き出しに入れておきました。翌朝、それは消えておりました」
「作れない」
「御印の型は、偽造できないと。本当は、作れました。作る手は、持っておりました」
「型は、どこに」
アレクが聞いた。
「二番の戸の内側に。書記局の発行印の型は、数十、揃っております。鍵は一本きりで、私が持っております」
レオニードは、少しだけ声を低くした。
「ですが、御印の型だけは、あの部屋にございません。作っておりませんので」
彼は、先生のほうをちらりと見た。
「印のない紙は、いつか必ず破れます。私は、それを待ちました。破ってくださる方が、現れるのを」
先生が、筆を置いた。
皇太后様の声が、頭の中で重なった。そういう者は、いつか必ず、自分で紙を破る。
「私は、破るのに、ひと月半かかりました」
先生が、低く言った。
「私は、十三年かかっております」
レオニードは、そう答えた。笑っているのに、目は濡れていなかった。濡らさないようにしている目だった。
「先生を、お選びになったのは」
私は、ふと思って聞いた。
「先生の字だけが、『陛』で止まるからです」
レオニードは、先生を見た。
「十三年前の廊下を知る者の、癖です。あれを見ておかしいと思う人が、いつか現れる。そう賭けました。それと」
声が、低くなった。
「あの夜、私は、裏門で追っ手を止めておられた先生を、振り返らずに走りました。生きておられると知ったのは、去年の春です。下町の手習い塾の看板に、お名前がありました」
「ミラを地下へ連れてこさせたのは」
先生が、静かに聞いた。
「私の命令です。ベネシュの手を借りて」
先生は、長く目を閉じた。許すとも、許さないとも、言わなかった。
「あの杖の男は」
アレクが聞いた。
「どこまで知っている」
「ベネシュは、書記局の下役で、命じられて動くだけの男です。紙の中身も、陛下のことも、知らされておりません。迎えと見張りに、金で雇われております」
レオニードは、こともなげに言った。
「ベネシュは、荷運びが樽を回したと喚いておりましたが、樽は勝手に回るものです。……そういうことに、しておきます」
アレクの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
そのとき、麻の布の向こうで、歌が途切れ、衣擦れの音がした。
レオニードの目が、そちらへ動いた。
「あの灯りは」
布の下から、小さな明かりがこぼれていた。
「先生が、毎晩、油を足しておられる灯りですね。あの子が眠るまで」
「……ご存じでしたか」
先生の声が、かすれた。
「存じておりました。地下のことは、全部私の耳に入ります。そして」
レオニードは、言いにくそうに目を伏せた。
「あの子の部屋に、毎晩、熱い乳を届けさせていたのは、私です」
先生が、ぽかんと口を開けた。
「老女が持ってくるものと、思っておりました」
「そう思っていただくために、あの方に頼みました。言えませんでした。善い顔をしても、償いには、なりませんので」
麻の布が、ぱさ、と持ち上がった。ミラが、顔だけ出した。髪の片方が、ほどけかけている。
「おじさん、だれ」
レオニードは、ゆっくりとミラのほうへ体を向けた。
「……おじさん、で、よろしゅうございます」
「ふうん」
ミラは、じっと彼を見た。それから、墨の線を引いたアレクの顔を見て、また彼を見た。
「きょうは、おじさんが、いっぱいだね」
「……ご迷惑を、おかけしております」
レオニードは、神妙に頭を下げた。
先生が、ごほ、と咳をした。笑いを飲みこんだのだと思う。アレクが、そっぽを向いた。
布が下りて、ミラは奥へ引っ込んだ。歌が、また始まった。
私は、息を整えてから、アレクの袖を、もう一度だけ強く握った。
「アレク。今、すべきことが」
「分かっている」
アレクは、レオニードを見下ろした。
「お前の話は、まだ終わっていないだろう」
「はい」
レオニードは、左手を、左の袖の中に入れた。
「今朝、引き出しに届いたものです。先生には、まだお見せしておりません」
灰色の麻紙が、折りたたまれて出てきた。黒い蝋の封が、すでに切られている。
広げて、アレクに渡した。私は、横から覗いた。
短い文だった。
『七枚目。皇太后陛下、御病にて薨去。明朝の朝議にて発表のこと。書記局発行』
背筋が、冷えた。
私は、声を絞った。
「皇太后様は、昨日も、お元気でした」
「はい。今朝も、朝餉を召し上がったと聞いております」
「では、この紙は」
「生きている方の死を、明日の朝に、発表せよという命令です」
六枚目の紙が、先生の机の上で、まだ一行目のまま止まっている。
『本日夕刻』。
夕刻、北の庭の東屋へ呼ばれるのは、私だ。皇太后様の御意の紙で。
そして、明朝の訃報。
私は、その二枚を頭の中に並べた。
「皇太后様が亡くなったと発表される、その前の晩に」
喉が、からからだった。
「御意の紙で呼ばれた私が、ひとりで、庭にいた。そういう形に、なるのですね」
レオニードは、何も言わなかった。
それが、答えだった。
「紙は、そこまでしか申しません」
やっと、そう言った。
「東屋で、何が起きるかは、封の指示に書いてありません。ですが、二枚を並べれば、そう読めます。私も、夜明けまで、その並びを見ておりました」
アレクの手の中で、灰色の紙が、かさ、と音を立てた。
「皇太后にも、シャルにも、近づけさせない」
アレクが、低く言った。
「どちらにも、だ」
「陛下」
レオニードが、呼んだ。
「もうひとつだけ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「十三年、お待ちしておりました。そのあいだ、陛下の隣に立つ方のことは、考えたこともございませんでした」
彼は、私のほうを見た。
「お隣におられる方の、お名前を。胸に置いておきたく存じます」
アレクは、一瞬、止まった。
それから、私のほうを見て、まっすぐに言った。
「シャルロット・フォンテーヌ。私の——」
言葉が、そこで止まった。
「まだ、ですわ」
私が先に言った。
「……まだ、で、ございますか」
レオニードが、生真面目に聞き返した。
「まだだ」
アレクが、耳の先まで赤くなって、答えた。
先生が、下を向いて、肩を震わせた。奥の布の向こうから、小さな声が、「まだなんだよ」と聞こえた気がした。
そのとき、戸の外で、椅子が鳴った。
「副長官殿」
衛士の声だった。
「ベネシュ殿が、お戻りです。昼になる前に、お話があると」
空気が、変わった。
レオニードの顔から、さっきまで膝をついていた人の色が、すっと消えた。書記局の副長官の顔になった。
「すぐに行く」
それから、低い声で、私たちにだけ言った。
「陛下。お客人。ここからは、芝居をお願いいたします」
「芝居なら」
私は、息を吸った。
「昨夜から、ずっと続いております」
アレクが帽子をかぶり直した。灰色の目が、荷運びの影の中に隠れた。墨の線を引いた頬を、ごしごしと袖で擦って、余計に濃くした。
レオニードが、戸の錠に手をかけた。
かちり、と、音がした。
読んでいただき、ありがとうございます!
「陛」の字で止まる手の奥にいた人が、やっと名前を名乗りました。
書きながら、いちばん長く立っていたのは、膝をついた副長官の背中でした。
次回、戻ってきた迎えの男の前で、芝居が始まります。
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