第十六話 声が三つ聞こえたら
レオニードが錠を外し、戸を外へ開けた。
廊下の油皿の光を背に、灰色の外套が立っていた。右足をかばって、杖にもたれている。ベネシュだった。
私は帳面に目を落として、顔を伏せた。伏せたまま、視界の端だけで見た。
「副長官殿。お話が」
「聞こう」
レオニードの声は、さっきまでの声と別人だった。薄くて、冷たくて、少しも急がない。
「ここで、ですか」
「何か問題でも」
「いや、その。荷運びの新顔が」
「入れ。新顔を見るのも、私の仕事のうちだ」
ベネシュは、杖を突きながら中へ入ってきた。足を引きずる音が、石の床に湿って響く。
アレクは樽の横に立っていた。帽子のつばを下げて、動かない。私は先生の机の脇で、帳面に墨の減りを書くふりを続けた。筆を持つ手が、ほんの少し汗でぬれた。
「で」
レオニードは、机の端に片手を置いた。
「用件は」
「へい。まず、この荷運びの野郎が」
ベネシュの杖の先が、アレクを指した。
「俺の足の前で、わざと樽を回しやがった」
「樽を廊下に置けと言ったのは、誰だ」
ベネシュの口が、開いたまま止まった。
「……それは」
「置き場は台の上と、三年言わせてきた。廊下に置かせて、その樽を蹴ったのは、お前の足だ」
「ですが、箍が」
「蹴ったあとで、次から箍のないほうを向けておけ、と言ったそうだな。置かせて、蹴って、箍のせいにするのか」
ベネシュを案内してきた衛士が、戸の外で身を縮めているはずだ。余計なことを、きれいに全部、言ってくれていた。
「足の指が折れていないなら、安い授業料だ」
アレクの肩が、一度だけ、揺れた。私は帳面で顔を隠した。揺らすな、と心の中で自分に言った。
ベネシュは、咳払いをした。
「それより、本題で。運河の件です」
「聞こう」
「先生が運河に落としたと言った原紙。話を聞いてすぐ、下働きを六人走らせて、橋の下から船着き場まで、さらわせました。さっき、その報せが来たところで」
ベネシュは、先生のほうを、ゆっくり見た。
「紙の切れ端ひとつ、出ねえ」
先生の筆が、止まった。止まったのは、ほんの一瞬だった。すぐに、次の字へ移った。
「出ないものは、出ない」
先生は、顔を上げずに言った。
「夜道で、風にさらわれたのです。申し上げました」
「風はな、先生。紙は運んでも、俺の六人の目は運ばねえ」
ベネシュは、杖の先でこつんと床を叩いた。
「嘘をついてると思うんで。副長官殿、ミラの寝床を別に移しちゃどうです。先生の筆が、もう少し素直になる」
部屋の空気が、凍った。
先生の肩が、はっきり震えた。奥の布の向こうの歌が、ぴたりと止まった。
私は、息を止めた。アレクの手が、樽の縁を握りしめるのが、見えなくても分かった。
レオニードは、動かなかった。
三つ数えるくらいの、長い間があった。
「ベネシュ」
「へい」
「娘に触るな」
低い声だった。怒鳴ってはいない。けれど、石の壁に染みるように、重かった。
「娘がここにいるから、先生は逃げない。動かせば、先生の筆が鈍る。今も、六枚目は一行目で止まっている」
レオニードは、先生の机の上の紙を、指の背で叩いた。
「遅れの理由を、お前はまた私に言わせる気か。毎朝毎朝、書く前に先生の戸を叩いて、怒鳴り込んでくるのは誰だ」
「それは、急がせないと」
「怒鳴られた筆は、速くならない。曲がるだけだ」
ベネシュの顔が、赤くなって、それから灰色になった。
「六人も運河に入れて、目立つ真似をした。誰の許しだ」
「いや、あの、先生が嘘を」
「嘘かどうかを決めるのはお前ではない」
レオニードは、ゆっくりと言った。
「運河へ戻れ。橋の下を、もう一度。紙が出るまで帰ってくるな」
「え」
「二度言わせるな」
「しかし、足が」
「冷やしながらでも歩ける。杖は、折れた足のために突くものだ。お前の足は、折れていないのだろう」
アレクの口の端が、帽子の影で、ぴくりと動いたのが見えた。
ベネシュは、ぎりぎりと歯を鳴らしてから、最後に、こちらを睨んだ。
「……荷運びの夫婦者か」
私は顔を伏せたまま、帳面の端を握った。
「妙に背の高い亭主だ」
喉の奥が、きゅっとなった。
レオニードの声が、横から落ちた。
「背が高いと、疑うのか」
「いや、そういう」
「ならば書記局の衛士は全員、牢に入れろ。背の高い者から順に」
ベネシュは、口を閉じた。
「用が済んだら、行け」
「……へい」
杖の音が、遠ざかった。突き当たりの階段の、石を叩く音。上へ、上へ。
誰も、動かなかった。
音がすっかり消えてから、レオニードが、長く息を吐いた。
左手の指が、机の端で、細かく震えていた。
「……あれでは、私が悪役でございますね」
先生が、顔を上げた。唇の端がゆるんでいた。笑ってはいなかった。涙の通り道を、笑いで塞いでいた。
「お上手でしたわ」
私が言うと、レオニードは、弱く首を振った。
「十三年、やっておりますので」
アレクが、帽子を少し押し上げた。
「お前は、役者にも向いている」
「陛下には、どうぞご内密に」
「私が、その陛下だ」
「……失礼いたしました」
麻の布の向こうで、歌が、また始まった。今度は、さっきより少しだけ、はずんでいた。
◇
「さて」
私は帳面を閉じた。
「時間がありません。決めることを、順番に」
レオニードが、うなずいた。先生も筆を置いた。アレクは樽の縁から手を離して、私のほうへ向き直った。
「ひとつめ。六枚目と、七枚目」
机の上の紙を、指さした。
「六枚目は『本日夕刻』の一行目で止まっています。これを今日のうちに出さなければ、相手は別の口実を作ります。もっと乱暴な」
「出さなければ、東屋の件は、違う形に変わるだけです」
レオニードが言った。
「七枚目も、出さないわけにはいきません。明朝の朝議で発表する紙は、私が読み上げる手はずになっております」
「あなたが」
「書記局の副長官の役目です。皇太后陛下が薨去なさったと、私が、広間で読むのです」
アレクの目が、一瞬、氷より冷えた。
「その紙を、私の前で、読ませるつもりか」
「読み上げなければ、私が疑われます。疑われれば、イダの手紙が止まるでしょう」
言い切った声は、静かだった。静かなぶんだけ、どれほど眠っていないかが分かった。
「だから、出します」
私は言った。
「相手の筋書きのとおりに、出させてください。出して、受けて立ちます」
「シャル」
「出さない、は一番危ない手です。相手は紙が出ないことで、こちらが気づいたと知ります。出して、その先を押さえます」
アレクは、黙って私を見ていた。
「先生。六枚目は、日が傾く前に、仕上げていただけますか」
「……はい」
先生は、筆を取り直した。握り直した指は、もう震えていなかった。
「ふたつめ。封を置く手」
レオニードの顔を見た。
「今夜、あなたの引き出しの前に、ラドミル様の人を隠してください。あなたが鍵をかけて帰ったあと、誰が来て、どうやって封を入れるのか。見るのは、その瞬間だけでいいのです」
「部屋の中に」
「あなたのお部屋に、隠れられる場所は」
「天井の修繕の職人として、入れましょう。梁の上なら、人が隠れられます」
「みっつめ」
私は、息を吸った。
「夕刻の東屋には、私が参ります」
「許さない」
アレクの声が、間をおかずに飛んだ。
「お聞きください」
「聞かない」
「お聞きください、アレク」
彼の眉間が、深く寄った。
「六枚目の紙で、私は東屋へ呼ばれます。私が行かなければ、相手は『呼んだのに来なかった』という別の筋書きを作るでしょう。行けば、少なくとも、誰が来るかが見えます。庭の木と生垣には、ラドミル様の人を」
「危険だ」
「危険です。ですから」
私は、まっすぐ彼の灰色の目を見た。
「あなたは、東屋の見えるところにいてください。柱の影でも、生垣でも。私の見えるところに」
「……見えるところ」
「私の扉の前は、あなたの場所でしょう?」
アレクが、はっとした顔をした。
「東屋に、扉はない」
「では、柱の前に」
沈黙が落ちた。
氷の皇帝が、地下の写字室の隅で、荷運びの帽子をかぶったまま、本気で悩んでいた。
「……生垣は、虫が出る」
「我慢なさってください」
「分かった」
観念した声だった。
「そのかわり、お前の声が三つ聞こえたら、出ていく。理由は聞かない」
「三つ」
「悲鳴でも、名前でも、息でも。三つだ」
私は、笑ってしまった。
「承知いたしました」
「笑うな」
「笑っていません」
「笑っている」
レオニードが、咳払いをするふりをして、顔を背けた。先生は机に向かって、肩を震わせていた。
「それから、よっつめ」
私は、笑いを引っこめた。
「皇太后陛下に、今日のうちに、お会いします」
アレクの笑いの名残が、すっと消えた。
「七枚目のことを、ご本人にお伝えしないまま、朝を迎えるわけにはいきません。それに、あの方は」
箱のことは、言えない。約束した。けれど、約束の外側なら、言える。
「あの方は、私より先に、この紙の意味をご存じなのではないかと思うのです。筆の止まる手の持ち主は、いつか自分で紙を破る、と、仰ったのですから」
「……あの夜は、茶だけだと言った」
「お茶のあとに、お話を少し。言えないことも、ございます」
「そうか」
アレクは、それ以上は聞かなかった。顔を伏せた。帽子のつばの影が、表情を隠した。
「……あの部屋には、子どものころ以来、入っていない」
「存じております」
「あのとき、一度、茶を飲まされたきりだ」
「渋かった、と仰っていましたわね」
「渋かった」
かすかに、口の端が動いた。笑ったのか、苦しかったのか、見分けがつかなかった。
「今日は、入ってください」
私は、静かに言った。
「命がかかっているのです。あの方の」
「……扉の前までなら」
「中までです」
「シャル」
「アレク」
彼の肩が、大きく落ちた。長い、長い息が、帽子の下から抜けていった。
「……中までだ」
先生が、顔を上げた。何かを言いかけて、やめた。代わりに、小さくうなずいた。
長いこと開けられずにいた扉の内側へ、この人は、入ろうとしている。
私は、そっと、彼の手袋の袖を引いた。
「私も、中までお供いたします」
「……ああ」
◇
別れ際、麻の布が、さらりと動いた。
「おじさん、もう、かえるの?」
ミラが、顔を出していた。髪の片方は、結び直されていた。老女の手だろう。
「ああ」
アレクの声は、ぎこちなかった。
「また、くる?」
「……来る」
「いつ?」
「近いうちに。必ず」
ミラは、じっとアレクを見た。それから、後ろ手に隠していたものを、ぐい、と差し出した。
紙だった。
『おじさん またきて』。ひらがなが、八つ。『き』の向きだけ、逆さだった。
「これ、おじさんに、あげる」
「私に」
「さっき、ちゃんとかけたの。ぎゃくの字もあるけど、よめるから。おじさんが、よんで」
アレクは、しばらく動かなかった。
やがて、荷運びの手袋の指で、その紙を、そっと受け取った。四つに折って、胸の内側にしまった。ゆっくり、ていねいに、息を止めないように。
「読む」
それだけ言った声が、少し震えていた。
「毎晩、読む」
ミラは、満足そうにうなずいた。
「おねえさんも、また、きてね」
「ええ。きっと」
私は膝をついて、ミラの目の高さで言った。
「そのときは、先生と三人で、お茶を飲みましょう。渋くないお茶を」
「あまいの?」
「あまいのを」
ミラが、にっこり笑った。
先生が、机から立ち上がらずに、深く頭を下げた。娘を抱きしめたい手を、机の端に押しつけたまま。
「どうか、お気をつけて」
「必ず、お迎えに参ります」
私は、そう答えた。これが、嘘にならないように。
◇
レオニードは、自分で荷車を押して、倉庫の階段まで送ってくれた。一番の戸の前で、ふと声を低くした。
「陛下」
「何だ」
「二番の戸の鍵は、一本きりです。今お渡しすれば、私が戸を開けられなくなります。写しを作って、明朝までにお渡しします」
「受け取ろう」
「それと、お客人」
彼は、私を見た。
「南門の守備隊長の書状は、私の手の跡です。お許しいただけるとは思っておりません。ただ、もう二度と、あの手は使いません」
「許すとは、申せません」
「承知しております」
「ですから、これからの手を、見ております」
レオニードの目が、わずかに見開かれた。
それから、深く頭を下げた。握った左の拳が、かすかに震えていた。
倉庫を抜けた。居眠りの老書記の前を通りすぎる。老書記は、目を閉じたまま、受領の判を空に押していた。
荷揚げ口の門で、ヘンリクが顎を撫でた。
「もう戻るのか。新婚さんは、早えな」
「親方に、帳簿を見せなければなりませんので」
「そうか。気をつけてな。……靴は、ほどほどに磨けよ」
アレクが、背中で小さく咳をした。
鉄の格子の戸の向こうで、ペタが待ちくたびれた顔で、石段に座っていた。
「どうだった? うまくいった?」
「ええ。荷運びには向いていないと、地下の方に言われました」
「だろ」
ペタは、きっぱりうなずいた。
「やったことないって、最初から言ったじゃんか」
アレクが、帽子の下で、黙っていた。なぜか、嬉しそうだった。
石段を登って、路地の曲がり角に入ったとき、荷船の船頭の格好をした男が、すっと横に並んだ。ラドミル騎士長の部下だ。
「ご報告です」
声は低かった。
「尾けていた灰色の外套の男は、書記局の裏手の階段から出て、運河の橋の下へは向かいませんでした」
「向かわなかった」
「橋の手前で道を折れ、宮殿の外堀沿いを北へ。そのまま、北の庭の通用門へ入りました。門番は、顔を見ただけで通しました」
足が、止まった。
北の庭。
夕刻、東屋のある、あの庭。
部下は、声を落とした。
「通用門を通れるのは、宮殿の者だけです」
「ベネシュは、書記局の下役のはずでしょう」
「はい。それが、あの男の、もうひとつの顔のようです」
運河へ戻れ、と言われた男が、運河へは行かなかった。副長官の命令より先に、あの男が足を向ける場所がある。
行った先は、私が夕刻、ひとりで呼ばれる庭だった。
アレクが、静かに言った。
「……支度は、もう始まっているのか」
「そのようですわ」
私は、帳面を抱え直した。
「おはようございます、アレク」
「昼だ」
「あら。では、お昼のご挨拶を」
アレクは、帽子のつばを押し上げた。灰色の目が、まっすぐ私を見た。
「シャル。まだか」
「まだです」
「そうか」
「ただ」
私は、歩き出しながら言った。
「東屋の柱の前で待っていただく分は、数えておきます。胴元には、内緒で」
アレクの足が、石畳の上で、ぴたりと止まった。
耳の先が、帽子の下から、赤くのぞいていた。
「……数えるのか」
「数えます」
それから、ゆっくり、私の隣に並んだ。
読んでいただき、ありがとうございます!
悪役を演じる副長官の背中と、ミラの小さな手紙。書いていて、いちばん胸に残った二つです。
次回、アレクが皇太后の部屋の扉の内側へ入ります。
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