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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第十六話 声が三つ聞こえたら

 レオニードが錠を外し、戸を外へ開けた。

 廊下の油皿の光を背に、灰色の外套が立っていた。右足をかばって、杖にもたれている。ベネシュだった。

 私は帳面に目を落として、顔を伏せた。伏せたまま、視界の端だけで見た。

「副長官殿。お話が」

「聞こう」

 レオニードの声は、さっきまでの声と別人だった。薄くて、冷たくて、少しも急がない。

「ここで、ですか」

「何か問題でも」

「いや、その。荷運びの新顔が」

「入れ。新顔を見るのも、私の仕事のうちだ」

 ベネシュは、杖を突きながら中へ入ってきた。足を引きずる音が、石の床に湿って響く。

 アレクは樽の横に立っていた。帽子のつばを下げて、動かない。私は先生の机の脇で、帳面に墨の減りを書くふりを続けた。筆を持つ手が、ほんの少し汗でぬれた。

「で」

 レオニードは、机の端に片手を置いた。

「用件は」

「へい。まず、この荷運びの野郎が」

 ベネシュの杖の先が、アレクを指した。

「俺の足の前で、わざと樽を回しやがった」

「樽を廊下に置けと言ったのは、誰だ」

 ベネシュの口が、開いたまま止まった。

「……それは」

「置き場は台の上と、三年言わせてきた。廊下に置かせて、その樽を蹴ったのは、お前の足だ」

「ですが、箍が」

「蹴ったあとで、次から箍のないほうを向けておけ、と言ったそうだな。置かせて、蹴って、箍のせいにするのか」

 ベネシュを案内してきた衛士が、戸の外で身を縮めているはずだ。余計なことを、きれいに全部、言ってくれていた。

「足の指が折れていないなら、安い授業料だ」

 アレクの肩が、一度だけ、揺れた。私は帳面で顔を隠した。揺らすな、と心の中で自分に言った。

 ベネシュは、咳払いをした。

「それより、本題で。運河の件です」

「聞こう」

「先生が運河に落としたと言った原紙。話を聞いてすぐ、下働きを六人走らせて、橋の下から船着き場まで、さらわせました。さっき、その報せが来たところで」

 ベネシュは、先生のほうを、ゆっくり見た。

「紙の切れ端ひとつ、出ねえ」

 先生の筆が、止まった。止まったのは、ほんの一瞬だった。すぐに、次の字へ移った。

「出ないものは、出ない」

 先生は、顔を上げずに言った。

「夜道で、風にさらわれたのです。申し上げました」

「風はな、先生。紙は運んでも、俺の六人の目は運ばねえ」

 ベネシュは、杖の先でこつんと床を叩いた。

「嘘をついてると思うんで。副長官殿、ミラの寝床を別に移しちゃどうです。先生の筆が、もう少し素直になる」

 部屋の空気が、凍った。

 先生の肩が、はっきり震えた。奥の布の向こうの歌が、ぴたりと止まった。

 私は、息を止めた。アレクの手が、樽の縁を握りしめるのが、見えなくても分かった。

 レオニードは、動かなかった。

 三つ数えるくらいの、長い間があった。

「ベネシュ」

「へい」

「娘に触るな」

 低い声だった。怒鳴ってはいない。けれど、石の壁に染みるように、重かった。

「娘がここにいるから、先生は逃げない。動かせば、先生の筆が鈍る。今も、六枚目は一行目で止まっている」

 レオニードは、先生の机の上の紙を、指の背で叩いた。

「遅れの理由を、お前はまた私に言わせる気か。毎朝毎朝、書く前に先生の戸を叩いて、怒鳴り込んでくるのは誰だ」

「それは、急がせないと」

「怒鳴られた筆は、速くならない。曲がるだけだ」

 ベネシュの顔が、赤くなって、それから灰色になった。

「六人も運河に入れて、目立つ真似をした。誰の許しだ」

「いや、あの、先生が嘘を」

「嘘かどうかを決めるのはお前ではない」

 レオニードは、ゆっくりと言った。

「運河へ戻れ。橋の下を、もう一度。紙が出るまで帰ってくるな」

「え」

「二度言わせるな」

「しかし、足が」

「冷やしながらでも歩ける。杖は、折れた足のために突くものだ。お前の足は、折れていないのだろう」

 アレクの口の端が、帽子の影で、ぴくりと動いたのが見えた。

 ベネシュは、ぎりぎりと歯を鳴らしてから、最後に、こちらを睨んだ。

「……荷運びの夫婦者か」

 私は顔を伏せたまま、帳面の端を握った。

「妙に背の高い亭主だ」

 喉の奥が、きゅっとなった。

 レオニードの声が、横から落ちた。

「背が高いと、疑うのか」

「いや、そういう」

「ならば書記局の衛士は全員、牢に入れろ。背の高い者から順に」

 ベネシュは、口を閉じた。

「用が済んだら、行け」

「……へい」

 杖の音が、遠ざかった。突き当たりの階段の、石を叩く音。上へ、上へ。

 誰も、動かなかった。

 音がすっかり消えてから、レオニードが、長く息を吐いた。

 左手の指が、机の端で、細かく震えていた。

「……あれでは、私が悪役でございますね」

 先生が、顔を上げた。唇の端がゆるんでいた。笑ってはいなかった。涙の通り道を、笑いで塞いでいた。

「お上手でしたわ」

 私が言うと、レオニードは、弱く首を振った。

「十三年、やっておりますので」

 アレクが、帽子を少し押し上げた。

「お前は、役者にも向いている」

「陛下には、どうぞご内密に」

「私が、その陛下だ」

「……失礼いたしました」

 麻の布の向こうで、歌が、また始まった。今度は、さっきより少しだけ、はずんでいた。


   ◇


「さて」

 私は帳面を閉じた。

「時間がありません。決めることを、順番に」

 レオニードが、うなずいた。先生も筆を置いた。アレクは樽の縁から手を離して、私のほうへ向き直った。

「ひとつめ。六枚目と、七枚目」

 机の上の紙を、指さした。

「六枚目は『本日夕刻』の一行目で止まっています。これを今日のうちに出さなければ、相手は別の口実を作ります。もっと乱暴な」

「出さなければ、東屋の件は、違う形に変わるだけです」

 レオニードが言った。

「七枚目も、出さないわけにはいきません。明朝の朝議で発表する紙は、私が読み上げる手はずになっております」

「あなたが」

「書記局の副長官の役目です。皇太后陛下が薨去なさったと、私が、広間で読むのです」

 アレクの目が、一瞬、氷より冷えた。

「その紙を、私の前で、読ませるつもりか」

「読み上げなければ、私が疑われます。疑われれば、イダの手紙が止まるでしょう」

 言い切った声は、静かだった。静かなぶんだけ、どれほど眠っていないかが分かった。

「だから、出します」

 私は言った。

「相手の筋書きのとおりに、出させてください。出して、受けて立ちます」

「シャル」

「出さない、は一番危ない手です。相手は紙が出ないことで、こちらが気づいたと知ります。出して、その先を押さえます」

 アレクは、黙って私を見ていた。

「先生。六枚目は、日が傾く前に、仕上げていただけますか」

「……はい」

 先生は、筆を取り直した。握り直した指は、もう震えていなかった。

「ふたつめ。封を置く手」

 レオニードの顔を見た。

「今夜、あなたの引き出しの前に、ラドミル様の人を隠してください。あなたが鍵をかけて帰ったあと、誰が来て、どうやって封を入れるのか。見るのは、その瞬間だけでいいのです」

「部屋の中に」

「あなたのお部屋に、隠れられる場所は」

「天井の修繕の職人として、入れましょう。梁の上なら、人が隠れられます」

「みっつめ」

 私は、息を吸った。

「夕刻の東屋には、私が参ります」

「許さない」

 アレクの声が、間をおかずに飛んだ。

「お聞きください」

「聞かない」

「お聞きください、アレク」

 彼の眉間が、深く寄った。

「六枚目の紙で、私は東屋へ呼ばれます。私が行かなければ、相手は『呼んだのに来なかった』という別の筋書きを作るでしょう。行けば、少なくとも、誰が来るかが見えます。庭の木と生垣には、ラドミル様の人を」

「危険だ」

「危険です。ですから」

 私は、まっすぐ彼の灰色の目を見た。

「あなたは、東屋の見えるところにいてください。柱の影でも、生垣でも。私の見えるところに」

「……見えるところ」

「私の扉の前は、あなたの場所でしょう?」

 アレクが、はっとした顔をした。

「東屋に、扉はない」

「では、柱の前に」

 沈黙が落ちた。

 氷の皇帝が、地下の写字室の隅で、荷運びの帽子をかぶったまま、本気で悩んでいた。

「……生垣は、虫が出る」

「我慢なさってください」

「分かった」

 観念した声だった。

「そのかわり、お前の声が三つ聞こえたら、出ていく。理由は聞かない」

「三つ」

「悲鳴でも、名前でも、息でも。三つだ」

 私は、笑ってしまった。

「承知いたしました」

「笑うな」

「笑っていません」

「笑っている」

 レオニードが、咳払いをするふりをして、顔を背けた。先生は机に向かって、肩を震わせていた。

「それから、よっつめ」

 私は、笑いを引っこめた。

「皇太后陛下に、今日のうちに、お会いします」

 アレクの笑いの名残が、すっと消えた。

「七枚目のことを、ご本人にお伝えしないまま、朝を迎えるわけにはいきません。それに、あの方は」

 箱のことは、言えない。約束した。けれど、約束の外側なら、言える。

「あの方は、私より先に、この紙の意味をご存じなのではないかと思うのです。筆の止まる手の持ち主は、いつか自分で紙を破る、と、仰ったのですから」

「……あの夜は、茶だけだと言った」

「お茶のあとに、お話を少し。言えないことも、ございます」

「そうか」

 アレクは、それ以上は聞かなかった。顔を伏せた。帽子のつばの影が、表情を隠した。

「……あの部屋には、子どものころ以来、入っていない」

「存じております」

「あのとき、一度、茶を飲まされたきりだ」

「渋かった、と仰っていましたわね」

「渋かった」

 かすかに、口の端が動いた。笑ったのか、苦しかったのか、見分けがつかなかった。

「今日は、入ってください」

 私は、静かに言った。

「命がかかっているのです。あの方の」

「……扉の前までなら」

「中までです」

「シャル」

「アレク」

 彼の肩が、大きく落ちた。長い、長い息が、帽子の下から抜けていった。

「……中までだ」

 先生が、顔を上げた。何かを言いかけて、やめた。代わりに、小さくうなずいた。

 長いこと開けられずにいた扉の内側へ、この人は、入ろうとしている。

 私は、そっと、彼の手袋の袖を引いた。

「私も、中までお供いたします」

「……ああ」


   ◇


 別れ際、麻の布が、さらりと動いた。

「おじさん、もう、かえるの?」

 ミラが、顔を出していた。髪の片方は、結び直されていた。老女の手だろう。

「ああ」

 アレクの声は、ぎこちなかった。

「また、くる?」

「……来る」

「いつ?」

「近いうちに。必ず」

 ミラは、じっとアレクを見た。それから、後ろ手に隠していたものを、ぐい、と差し出した。

 紙だった。

 『おじさん またきて』。ひらがなが、八つ。『き』の向きだけ、逆さだった。

「これ、おじさんに、あげる」

「私に」

「さっき、ちゃんとかけたの。ぎゃくの字もあるけど、よめるから。おじさんが、よんで」

 アレクは、しばらく動かなかった。

 やがて、荷運びの手袋の指で、その紙を、そっと受け取った。四つに折って、胸の内側にしまった。ゆっくり、ていねいに、息を止めないように。

「読む」

 それだけ言った声が、少し震えていた。

「毎晩、読む」

 ミラは、満足そうにうなずいた。

「おねえさんも、また、きてね」

「ええ。きっと」

 私は膝をついて、ミラの目の高さで言った。

「そのときは、先生と三人で、お茶を飲みましょう。渋くないお茶を」

「あまいの?」

「あまいのを」

 ミラが、にっこり笑った。

 先生が、机から立ち上がらずに、深く頭を下げた。娘を抱きしめたい手を、机の端に押しつけたまま。

「どうか、お気をつけて」

「必ず、お迎えに参ります」

 私は、そう答えた。これが、嘘にならないように。


   ◇


 レオニードは、自分で荷車を押して、倉庫の階段まで送ってくれた。一番の戸の前で、ふと声を低くした。

「陛下」

「何だ」

「二番の戸の鍵は、一本きりです。今お渡しすれば、私が戸を開けられなくなります。写しを作って、明朝までにお渡しします」

「受け取ろう」

「それと、お客人」

 彼は、私を見た。

「南門の守備隊長の書状は、私の手の跡です。お許しいただけるとは思っておりません。ただ、もう二度と、あの手は使いません」

「許すとは、申せません」

「承知しております」

「ですから、これからの手を、見ております」

 レオニードの目が、わずかに見開かれた。

 それから、深く頭を下げた。握った左の拳が、かすかに震えていた。

 倉庫を抜けた。居眠りの老書記の前を通りすぎる。老書記は、目を閉じたまま、受領の判を空に押していた。

 荷揚げ口の門で、ヘンリクが顎を撫でた。

「もう戻るのか。新婚さんは、早えな」

「親方に、帳簿を見せなければなりませんので」

「そうか。気をつけてな。……靴は、ほどほどに磨けよ」

 アレクが、背中で小さく咳をした。

 鉄の格子の戸の向こうで、ペタが待ちくたびれた顔で、石段に座っていた。

「どうだった? うまくいった?」

「ええ。荷運びには向いていないと、地下の方に言われました」

「だろ」

 ペタは、きっぱりうなずいた。

「やったことないって、最初から言ったじゃんか」

 アレクが、帽子の下で、黙っていた。なぜか、嬉しそうだった。

 石段を登って、路地の曲がり角に入ったとき、荷船の船頭の格好をした男が、すっと横に並んだ。ラドミル騎士長の部下だ。

「ご報告です」

 声は低かった。

「尾けていた灰色の外套の男は、書記局の裏手の階段から出て、運河の橋の下へは向かいませんでした」

「向かわなかった」

「橋の手前で道を折れ、宮殿の外堀沿いを北へ。そのまま、北の庭の通用門へ入りました。門番は、顔を見ただけで通しました」

 足が、止まった。

 北の庭。

 夕刻、東屋のある、あの庭。

 部下は、声を落とした。

「通用門を通れるのは、宮殿の者だけです」

「ベネシュは、書記局の下役のはずでしょう」

「はい。それが、あの男の、もうひとつの顔のようです」

 運河へ戻れ、と言われた男が、運河へは行かなかった。副長官の命令より先に、あの男が足を向ける場所がある。

 行った先は、私が夕刻、ひとりで呼ばれる庭だった。

 アレクが、静かに言った。

「……支度は、もう始まっているのか」

「そのようですわ」

 私は、帳面を抱え直した。

「おはようございます、アレク」

「昼だ」

「あら。では、お昼のご挨拶を」

 アレクは、帽子のつばを押し上げた。灰色の目が、まっすぐ私を見た。

「シャル。まだか」

「まだです」

「そうか」

「ただ」

 私は、歩き出しながら言った。

「東屋の柱の前で待っていただく分は、数えておきます。胴元には、内緒で」

 アレクの足が、石畳の上で、ぴたりと止まった。

 耳の先が、帽子の下から、赤くのぞいていた。

「……数えるのか」

「数えます」

 それから、ゆっくり、私の隣に並んだ。

読んでいただき、ありがとうございます!


悪役を演じる副長官の背中と、ミラの小さな手紙。書いていて、いちばん胸に残った二つです。


次回、アレクが皇太后の部屋の扉の内側へ入ります。


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