第十七話 扉は、自分で開ける
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次話は、日暮れの北の庭の東屋です。
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船宿の裏の井戸で、アレクは顔を洗った。
頬の墨は、袖が真っ黒になるまで擦ると、ほとんど落ちた。顎の線だけが、薄く灰色に残った。
「取れていないか」
「顎が、少し」
「少しとは」
「宰相様がご覧になったら、胃を押さえる程度に」
アレクは黙って、もう一度、顎を擦った。取れなかった。
井戸の石の陰で、ラドミル騎士長が肩を揺らしていた。顔は真面目なまま、肩だけが揺れている。
「報告を」
アレクが言うと、ラドミルは背筋を伸ばした。
「梁の上に二名。副長官室の天井の修繕の職人として、午後の鐘から入ります。北の庭の木と生垣には四名。庭師の身なりで、すでに入りました」
「ベネシュは」
「通用門に入ったきり、出てきておりません」
「出てこない」
「はい。まだ中におります」
日暮れまで、あと半日足らず。
アレクは、荷運びの手袋を外し、外套をたたんで、船宿の女将に返した。外套の下から、銀糸の縫い取りのある上着が出てきた。そのとたん、背筋がすっと伸びて、人の顔が変わった。皇帝の顔だった。顎だけが、灰色だった。
「陛下。昼の『まだ』は、数えておりませんので」
ラドミルが、真面目な顔のまま言った。
「分かっている」
「胴元として、念のため」
「分かっていると言った」
私は、袖で口もとを隠した。
宮殿の門では、宰相ヴォイチェフが待っていた。両手を腹に当てて。
「陛下! ご無事で、ご無事で、……そのお顔は」
「荷運びだ」
「荷運び」
「ああ」
「…………存じません。私は何も存じません。何も聞いておりません」
宰相は、目をつぶって首を振った。胃が痛いときの顔だった。
「宰相。皇太后のところへ行く」
アレクが言った。
宰相の手が、腹から離れた。
「今、なんと」
「今から、皇太后の部屋へ行く」
「陛下が。自ら。皇太后陛下の」
宰相の目に、みるみる水が溜まった。胃の代わりに、目頭を押さえた。
「ヴォイチェフ。泣くのは、あとにしろ」
「は。あとで、いくらでも」
あとで泣くつもりでいる声だった。
◇
廊下の白い大理石は、前に歩いたときと同じだった。
違うのは、隣にアレクがいることだ。
歩幅が、少しずつ小さくなっていく。気づかないふりで、私も合わせた。壁の肖像画が、どれも静かにこちらを見ていた。
黒檀の扉が見えた。扉の脇には、銀糸の外套の侍従が立っている。前に私を案内した人だった。
アレクの足が、扉の三歩手前で止まった。
「……ここだ」
「はい」
「前は、あの壁際に座った」
扉から少し離れた、廊下の壁を見た。床に外套の跡がついているわけでもないのに、そこに誰かが座っていた気配がした。
「扉の前は、私の場所だ」
アレクは、低く言った。
「だが、この先は、私の場所では、ない」
指が、握ったり、ほどけたりしていた。
私は、何も言わなかった。言わないほうが、いいと思った。
しばらくして、アレクが、扉を見たまま言った。
「……シャル。まだか」
いつもの声ではなかった。
私は、少しだけ考えてから答えた。
「まだです。あと、三歩ありますもの」
アレクの肩から、力がひとつ、抜けた。
「三歩」
「一、二、三。そうしたら、扉です」
「数えるのか」
「数えますとも。あなたが、数えさせたのですから」
アレクは、鼻から短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
一歩、二歩、三歩。
侍従が、扉に手をかけた。
「陛下のお越しを」
「いい」
アレクが、手で制した。
「自分で開ける」
銀の取っ手に、指がかかった。一度、離れて、また、かかった。
私は、そっと、彼の袖の端をつまんだ。何も言わずに、ただ、つまんだ。
扉が、開いた。
◇
部屋は、暗かった。
窓際の燭台が二本。黒い装いの人が刺繍台の前にいて、針を持つ手が止まらない。前に見たときと、同じ光景だった。
壁に、肖像画が一枚。
アレクの足が、敷居の手前で止まった。
「入口で止まるのなら、扉を閉めなさい。冷えます」
こちらを見ないまま、皇太后エレオノーラが言った。
アレクは、一歩、中へ入った。それから、後ろ手に、扉を閉めた。
かちり、と音がした。
針が、止まった。
皇太后は、顔を上げた。燭台の火が、銀の髪を細く光らせた。
「大きくなりましたね」
「……皇太后陛下」
「ええ。そう呼びなさい。それでいい」
皇太后は、針を刺繍台に刺した。
「こうして向かい合うのは、いつ以来でしょう」
「陛下が、私をお呼びにならなかったので」
「呼べば、来ましたか」
アレクは、少し黙った。
「……来なかったと、思います」
「でしょうね」
皇太后の口の端が、わずかに動いた。笑ったというより、昔の癖が出たようだった。
アレクの視線が、壁に流れた。若い男の肖像画で止まった。
「兄上」
息だけの声だった。
「ええ。わたくしの息子です」
皇太后は、言った。
「あなたの敵でした」
「……兄でも、ありました」
部屋が、静かになった。
燭台の火が、ひとつ、ゆれた。
皇太后は、何も言わなかった。針も取らなかった。ただ、膝の上で、指を一本ずつ組み直した。その指が、少し震えているのが見えた。
「皇太后陛下」
私は、半歩、前へ出た。
「ご無沙汰をいたしております。シャルロット・フォンテーヌでございます」
「先日お会いしたばかりでしょう」
「はい。ですが、あれから、いろいろございまして」
「その顔は、何です」
皇太后が、アレクの顎を見た。
「荷運びだ」
アレクが言った。
「何も、聞かないことにしましょう」
皇太后は、目を細めた。ほんのわずか、ほぐれた目だった。
「それで、二人揃って、何の用です」
「お命のことで」
アレクが、言った。
「皇太后陛下のお命が、狙われています」
皇太后は、動かなかった。
「命、ですか。穏やかではありませんね」
針を抜いて、指で転がした。
「根拠は」
私は、袖から、帳面を取り出した。
「地下の紙の書き手のもとで、見たものを写して参りました」
開いて、差し出した。
『七枚目。皇太后陛下、御病にて薨去。明朝の朝議にて発表のこと。書記局発行』
皇太后は、受け取らなかった。目だけで読んだ。
長いあいだ、読んでいた。字数は、少ないのに。
「……ずいぶん、気の早いこと」
やっと出た声は、乾いていた。
「わたくしは、昨日も今朝も、朝餉をいただきました」
「はい。存じております」
「病の兆しも、ありません」
「はい」
「では、これは」
「生きている方の死を、明日の朝に発表せよ、という命令です」
私は言った。
「それだけでは、ございません。もう一枚、あります」
帳面の次の頁をめくった。六枚目は、まだ一行目しか書かれていなかった。
『本日夕刻』
「皇太后陛下の御意として、私が、北の庭の東屋へ呼ばれます。夕刻に」
皇太后の目が、すっと細くなった。
「北の庭」
「はい」
「東屋」
「はい」
「わたくしは」
皇太后は、ゆっくり言った。
「毎日、日暮れに、東屋まで歩きます。十年、欠かしたことがありません」
背筋が、冷えた。
「……毎日、ですか」
「雨でも」
私は、帳面を持つ手に力を入れた。
日暮れ。東屋。皇太后が毎日歩く道。
七枚目は、嘘の訃報の予告ではなかった。本物の訃報の、下書きだ。
「それで、日暮れなのですね」
声が、掠れた。
「六枚目は、皇太后陛下の御意を装って、私を東屋へ呼びます。同じ刻に、皇太后陛下は、いつもの道を東屋へ歩いておいでになる。そこに居合わせたのは、辺境から来た、素性の知れぬ令嬢と、お二人きり」
「そして、明朝の訃報」
皇太后は、淡々と継いだ。
「わたくしは病で亡くなったことになる。その場にいた辺境の娘が、何をしたことになるかは、紙には書いてありませんが」
「許さない」
アレクの声が、割れた。
「許さない。歩かせない。今日から、日暮れの散歩は取りやめだ」
皇太后は、目を逸らさずに言った。
「あなたに、止められる覚えは、ありません」
「止める」
アレクは、一歩、前へ出た。
「……皇太后陛下。止めさせてください」
膝が、折れそうな声だった。
皇太后は、じっとアレクを見た。それから、私を見た。
「あなたは、どうお考えです」
「歩いていただきます」
私は答えた。
「シャル」
「アレク。聞いてください」
「聞かない」
「お聞きください」
私は、彼の目を見た。
「皇太后陛下が歩かなければ、日暮れの東屋には、誰も来ません。誰も来なければ、相手は別の日に、別の形で、同じことをします。今日なら、こちらが先に庭にいます。木と生垣に、ラドミル様の人が」
アレクは、口を結んだ。
皇太后が、小さく、息を吐いた。
「同じことを、言いますね」
「え」
「わたくしも、そう言うつもりでした。歩かなければ、顔は見えないままです。わたくしを死なせたい者の顔を、わたくしは、この目で見ておきたい」
皇太后は、アレクを見た。
「陛下の前で、女が二人、同じ道理を言うのですから。勝ち目はありませんよ」
アレクが、顔を背けた。
「お前たちは、同じことを言う」
低い声だった。拗ねたように聞こえた。
皇太后の口の端が、また動いた。今度は、はっきり、笑っていた。
「あなたの婚約者は、頑固ですね」
「婚約者では」
アレクが言いかけた。
「まだ、ですわ」
私が先に言った。
「……まだ、だそうだ」
アレクが、ぼそりと言い添えた。
皇太后は、ゆっくり目を閉じて、開けた。
「そうですか。まだ、ですか」
その声は、少しだけ、柔らかかった。
「……条件がある」
アレクが言った。
「東屋の見えるところに、私がいる。お前の声が三つ聞こえたら、出ていく。皇太后陛下の声も、同じだ」
「声が、三つ」
皇太后が、私を見た。
「悲鳴でも、名前でも、息でも。三つだそうです」
「息でも」
皇太后は、目を細めた。
「ずいぶんと、耳の良い護衛ですこと」
「皇帝だ」
「存じています」
アレクの耳が、赤くなった。
「もうひとつ、お聞きしたいことがございます」
私は言った。
「北の庭の通用門です。今朝、ある男が、顔だけで通されました」
「誰です」
「申し上げられません。ただ、通用門を通れるのは、宮殿の者だけ、と」
皇太后は、ゆっくりうなずいた。
「あの庭は、わたくしの庭でした」
過去形だった。
「三年前までは。庭の鍵も、門番の人事も、わたくしが決めておりました」
「三年前、まで」
「親切な申し出があったのです。『お年を召されたのですから、庭の警護は、こちらでお引き受けします』と」
皇太后は、針を指で転がした。
「わたくしは、断りませんでした。もう、どうでもよかったのです。庭の鍵など」
「誰の取り計らいで」
アレクが聞いた。
「署名を、見もしませんでした。ですが、書付は残っているはずです。探させましょう」
皇太后は、呼び鈴を鳴らした。
間もなく、扉が叩かれて、若い侍女が入ってきた。
二十代の終わりくらいの、小柄な人だった。茶色の髪をきっちり結い、目を伏せたまま、深く頭を下げた。
「ソーニャ。茶を三つ。それから、三年前の庭の人事の書付を、文書係に探させなさい」
「はい、皇太后陛下」
侍女は一度下がり、しばらくして、盆を持って戻ってきた。
盆の上で、杯が小さく鳴った。
手が震えていた。注ぎ口から、茶が一滴、卓に落ちた。
「……失礼いたしました」
「風邪かしら」
「い、いえ。少し、冷えまして」
「無理をしないように」
皇太后の声は穏やかだった。
ソーニャは、杯を三つ並べて、また頭を下げた。下がる前に、その目が、ほんの一瞬、部屋の奥の飾り棚のほうへ動いた。
棚の奥には、黒い漆の箱がある。私は知っていた。
私は、棚を見なかった。見ないように、気をつけた。
皇太后も、見なかった。
ソーニャが下がり、扉が閉まった。
私は、湯気をあおぐふりで、三つの杯の匂いを順に確かめた。茶葉の匂いだけだった。ザレスクの宿で嗅いだ、眠り草の甘い匂いは、しない。
皇太后が、自分の杯を取って、すいと卓の上を滑らせた。アレクの前へ。
「作法とは、そういうものでしょう」
「作法」
「辺境では、杯を取り替えるのだそうです。何も隠していない、という印に」
アレクは、私を見た。
「ええ。そういう作法ですわ」
アレクは、杯を取った。皇太后は、アレクの杯を取った。
二人が、同時に飲んだ。
「……渋い」
アレクは、顔をしかめなかった。ゆっくり、飲み下した。
「昔と、同じだ」
「ええ。何も変えておりません」
「飲めます」
「そうですか」
「今日は、飲めます」
皇太后は、杯を口に当てたまま、顔を伏せた。肩が、少しだけ、揺れた。
私は、窓を見るふりをした。見てはいけない、と思った。
◇
廊下に出ると、扉が閉まる音が、背中で小さく鳴った。
アレクは、壁際に、少しよろけるように寄りかかった。
「入れた」
「はい」
「入って、……茶を飲んだ」
「はい」
「渋かった」
「ええ」
アレクは、顔を上げた。目が、少し赤かった。
「扉は、開けるより、閉めるほうが、難しかった」
「あとでまた、開けられますわ」
「いつ」
「今夜でも、明日でも。扉の前は、あなたの場所ですもの」
アレクは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「……あの、侍女」
「ソーニャ、と」
「手が震えていた」
「風邪、と仰っていました」
「そうか」
アレクは、それ以上は言わなかった。けれど、顎に手をやって、廊下の向こうを見る目が、護衛の目に戻っていた。
私も、同じ方向を見ていた。
茶は、一滴こぼれただけだった。けれど、あの一滴が、頭から離れなかった。
客間に戻ると、卓の上に、紙が一枚置かれていた。
封はない。折りたたまれてもいない。誰が置いたのかと、侍女に聞くと、小姓の少年が持ってきて、すぐ帰ったと言う。
私は、紙を手に取った。
『本日夕刻、北の庭の東屋にて待つ。供は連れぬこと。皇太后陛下の御意により』
印は、ない。
字を見た。右上へ、すっと跳ね上げる癖。手本どおりの、副長官の手の字だった。
けれど、写した人の癖までは、隠せない。
『陛』の、最後の線に、墨が溜まっていた。
先生の字だ。
書き上がったのだ。あの筆は、もう震えていなかった。
私は、紙を畳んだ。袖に入れた。
日暮れまで、あと数刻。
「アレク」
「何だ」
戸口から、彼が答えた。扉の前に立つのが、この人の癖になったらしい。
「六枚目が、届きましたわ」
「見せろ」
紙を渡した。アレクは、目を走らせて、顎を撫でた。
「供は連れるな、と書いてある」
「ええ。ですから、供は、生垣と柱の影におります」
「……虫が出る」
「我慢なさってくださいまし」
アレクは、窓の外を見た。
「……シャル。まだか」
「日暮れまで、まだです」
「数えておけ」
「数えておきます。胴元に、見つからないように」
窓の外で、鐘が鳴った。
午後の最初の鐘だった。




