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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第十七話 扉は、自分で開ける

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話は、日暮れの北の庭の東屋です。

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 船宿の裏の井戸で、アレクは顔を洗った。

 頬の墨は、袖が真っ黒になるまで擦ると、ほとんど落ちた。顎の線だけが、薄く灰色に残った。

「取れていないか」

「顎が、少し」

「少しとは」

「宰相様がご覧になったら、胃を押さえる程度に」

 アレクは黙って、もう一度、顎を擦った。取れなかった。

 井戸の石の陰で、ラドミル騎士長が肩を揺らしていた。顔は真面目なまま、肩だけが揺れている。

「報告を」

 アレクが言うと、ラドミルは背筋を伸ばした。

「梁の上に二名。副長官室の天井の修繕の職人として、午後の鐘から入ります。北の庭の木と生垣には四名。庭師の身なりで、すでに入りました」

「ベネシュは」

「通用門に入ったきり、出てきておりません」

「出てこない」

「はい。まだ中におります」

 日暮れまで、あと半日足らず。

 アレクは、荷運びの手袋を外し、外套をたたんで、船宿の女将に返した。外套の下から、銀糸の縫い取りのある上着が出てきた。そのとたん、背筋がすっと伸びて、人の顔が変わった。皇帝の顔だった。顎だけが、灰色だった。

「陛下。昼の『まだ』は、数えておりませんので」

 ラドミルが、真面目な顔のまま言った。

「分かっている」

「胴元として、念のため」

「分かっていると言った」

 私は、袖で口もとを隠した。


 宮殿の門では、宰相ヴォイチェフが待っていた。両手を腹に当てて。

「陛下! ご無事で、ご無事で、……そのお顔は」

「荷運びだ」

「荷運び」

「ああ」

「…………存じません。私は何も存じません。何も聞いておりません」

 宰相は、目をつぶって首を振った。胃が痛いときの顔だった。

「宰相。皇太后のところへ行く」

 アレクが言った。

 宰相の手が、腹から離れた。

「今、なんと」

「今から、皇太后の部屋へ行く」

「陛下が。自ら。皇太后陛下の」

 宰相の目に、みるみる水が溜まった。胃の代わりに、目頭を押さえた。

「ヴォイチェフ。泣くのは、あとにしろ」

「は。あとで、いくらでも」

 あとで泣くつもりでいる声だった。


   ◇


 廊下の白い大理石は、前に歩いたときと同じだった。

 違うのは、隣にアレクがいることだ。

 歩幅が、少しずつ小さくなっていく。気づかないふりで、私も合わせた。壁の肖像画が、どれも静かにこちらを見ていた。

 黒檀の扉が見えた。扉の脇には、銀糸の外套の侍従が立っている。前に私を案内した人だった。

 アレクの足が、扉の三歩手前で止まった。

「……ここだ」

「はい」

「前は、あの壁際に座った」

 扉から少し離れた、廊下の壁を見た。床に外套の跡がついているわけでもないのに、そこに誰かが座っていた気配がした。

「扉の前は、私の場所だ」

 アレクは、低く言った。

「だが、この先は、私の場所では、ない」

 指が、握ったり、ほどけたりしていた。

 私は、何も言わなかった。言わないほうが、いいと思った。

 しばらくして、アレクが、扉を見たまま言った。

「……シャル。まだか」

 いつもの声ではなかった。

 私は、少しだけ考えてから答えた。

「まだです。あと、三歩ありますもの」

 アレクの肩から、力がひとつ、抜けた。

「三歩」

「一、二、三。そうしたら、扉です」

「数えるのか」

「数えますとも。あなたが、数えさせたのですから」

 アレクは、鼻から短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。

 一歩、二歩、三歩。

 侍従が、扉に手をかけた。

「陛下のお越しを」

「いい」

 アレクが、手で制した。

「自分で開ける」

 銀の取っ手に、指がかかった。一度、離れて、また、かかった。

 私は、そっと、彼の袖の端をつまんだ。何も言わずに、ただ、つまんだ。

 扉が、開いた。


   ◇


 部屋は、暗かった。

 窓際の燭台が二本。黒い装いの人が刺繍台の前にいて、針を持つ手が止まらない。前に見たときと、同じ光景だった。

 壁に、肖像画が一枚。

 アレクの足が、敷居の手前で止まった。

「入口で止まるのなら、扉を閉めなさい。冷えます」

 こちらを見ないまま、皇太后エレオノーラが言った。

 アレクは、一歩、中へ入った。それから、後ろ手に、扉を閉めた。

 かちり、と音がした。

 針が、止まった。

 皇太后は、顔を上げた。燭台の火が、銀の髪を細く光らせた。

「大きくなりましたね」

「……皇太后陛下」

「ええ。そう呼びなさい。それでいい」

 皇太后は、針を刺繍台に刺した。

「こうして向かい合うのは、いつ以来でしょう」

「陛下が、私をお呼びにならなかったので」

「呼べば、来ましたか」

 アレクは、少し黙った。

「……来なかったと、思います」

「でしょうね」

 皇太后の口の端が、わずかに動いた。笑ったというより、昔の癖が出たようだった。

 アレクの視線が、壁に流れた。若い男の肖像画で止まった。

「兄上」

 息だけの声だった。

「ええ。わたくしの息子です」

 皇太后は、言った。

「あなたの敵でした」

「……兄でも、ありました」

 部屋が、静かになった。

 燭台の火が、ひとつ、ゆれた。

 皇太后は、何も言わなかった。針も取らなかった。ただ、膝の上で、指を一本ずつ組み直した。その指が、少し震えているのが見えた。


「皇太后陛下」

 私は、半歩、前へ出た。

「ご無沙汰をいたしております。シャルロット・フォンテーヌでございます」

「先日お会いしたばかりでしょう」

「はい。ですが、あれから、いろいろございまして」

「その顔は、何です」

 皇太后が、アレクの顎を見た。

「荷運びだ」

 アレクが言った。

「何も、聞かないことにしましょう」

 皇太后は、目を細めた。ほんのわずか、ほぐれた目だった。

「それで、二人揃って、何の用です」

「お命のことで」

 アレクが、言った。

「皇太后陛下のお命が、狙われています」

 皇太后は、動かなかった。

「命、ですか。穏やかではありませんね」

 針を抜いて、指で転がした。

「根拠は」

 私は、袖から、帳面を取り出した。

「地下の紙の書き手のもとで、見たものを写して参りました」

 開いて、差し出した。

『七枚目。皇太后陛下、御病にて薨去。明朝の朝議にて発表のこと。書記局発行』

 皇太后は、受け取らなかった。目だけで読んだ。

 長いあいだ、読んでいた。字数は、少ないのに。

「……ずいぶん、気の早いこと」

 やっと出た声は、乾いていた。

「わたくしは、昨日も今朝も、朝餉をいただきました」

「はい。存じております」

「病の兆しも、ありません」

「はい」

「では、これは」

「生きている方の死を、明日の朝に発表せよ、という命令です」

 私は言った。

「それだけでは、ございません。もう一枚、あります」

 帳面の次の頁をめくった。六枚目は、まだ一行目しか書かれていなかった。

『本日夕刻』

「皇太后陛下の御意として、私が、北の庭の東屋へ呼ばれます。夕刻に」

 皇太后の目が、すっと細くなった。

「北の庭」

「はい」

「東屋」

「はい」

「わたくしは」

 皇太后は、ゆっくり言った。

「毎日、日暮れに、東屋まで歩きます。十年、欠かしたことがありません」

 背筋が、冷えた。

「……毎日、ですか」

「雨でも」

 私は、帳面を持つ手に力を入れた。

 日暮れ。東屋。皇太后が毎日歩く道。

 七枚目は、嘘の訃報の予告ではなかった。本物の訃報の、下書きだ。

「それで、日暮れなのですね」

 声が、掠れた。

「六枚目は、皇太后陛下の御意を装って、私を東屋へ呼びます。同じ刻に、皇太后陛下は、いつもの道を東屋へ歩いておいでになる。そこに居合わせたのは、辺境から来た、素性の知れぬ令嬢と、お二人きり」

「そして、明朝の訃報」

 皇太后は、淡々と継いだ。

「わたくしは病で亡くなったことになる。その場にいた辺境の娘が、何をしたことになるかは、紙には書いてありませんが」

「許さない」

 アレクの声が、割れた。

「許さない。歩かせない。今日から、日暮れの散歩は取りやめだ」

 皇太后は、目を逸らさずに言った。

「あなたに、止められる覚えは、ありません」

「止める」

 アレクは、一歩、前へ出た。

「……皇太后陛下。止めさせてください」

 膝が、折れそうな声だった。

 皇太后は、じっとアレクを見た。それから、私を見た。

「あなたは、どうお考えです」

「歩いていただきます」

 私は答えた。

「シャル」

「アレク。聞いてください」

「聞かない」

「お聞きください」

 私は、彼の目を見た。

「皇太后陛下が歩かなければ、日暮れの東屋には、誰も来ません。誰も来なければ、相手は別の日に、別の形で、同じことをします。今日なら、こちらが先に庭にいます。木と生垣に、ラドミル様の人が」

 アレクは、口を結んだ。

 皇太后が、小さく、息を吐いた。

「同じことを、言いますね」

「え」

「わたくしも、そう言うつもりでした。歩かなければ、顔は見えないままです。わたくしを死なせたい者の顔を、わたくしは、この目で見ておきたい」

 皇太后は、アレクを見た。

「陛下の前で、女が二人、同じ道理を言うのですから。勝ち目はありませんよ」

 アレクが、顔を背けた。

「お前たちは、同じことを言う」

 低い声だった。拗ねたように聞こえた。

 皇太后の口の端が、また動いた。今度は、はっきり、笑っていた。

「あなたの婚約者は、頑固ですね」

「婚約者では」

 アレクが言いかけた。

「まだ、ですわ」

 私が先に言った。

「……まだ、だそうだ」

 アレクが、ぼそりと言い添えた。

 皇太后は、ゆっくり目を閉じて、開けた。

「そうですか。まだ、ですか」

 その声は、少しだけ、柔らかかった。

「……条件がある」

 アレクが言った。

「東屋の見えるところに、私がいる。お前の声が三つ聞こえたら、出ていく。皇太后陛下の声も、同じだ」

「声が、三つ」

 皇太后が、私を見た。

「悲鳴でも、名前でも、息でも。三つだそうです」

「息でも」

 皇太后は、目を細めた。

「ずいぶんと、耳の良い護衛ですこと」

「皇帝だ」

「存じています」

 アレクの耳が、赤くなった。


「もうひとつ、お聞きしたいことがございます」

 私は言った。

「北の庭の通用門です。今朝、ある男が、顔だけで通されました」

「誰です」

「申し上げられません。ただ、通用門を通れるのは、宮殿の者だけ、と」

 皇太后は、ゆっくりうなずいた。

「あの庭は、わたくしの庭でした」

 過去形だった。

「三年前までは。庭の鍵も、門番の人事も、わたくしが決めておりました」

「三年前、まで」

「親切な申し出があったのです。『お年を召されたのですから、庭の警護は、こちらでお引き受けします』と」

 皇太后は、針を指で転がした。

「わたくしは、断りませんでした。もう、どうでもよかったのです。庭の鍵など」

「誰の取り計らいで」

 アレクが聞いた。

「署名を、見もしませんでした。ですが、書付は残っているはずです。探させましょう」

 皇太后は、呼び鈴を鳴らした。

 間もなく、扉が叩かれて、若い侍女が入ってきた。

 二十代の終わりくらいの、小柄な人だった。茶色の髪をきっちり結い、目を伏せたまま、深く頭を下げた。

「ソーニャ。茶を三つ。それから、三年前の庭の人事の書付を、文書係に探させなさい」

「はい、皇太后陛下」

 侍女は一度下がり、しばらくして、盆を持って戻ってきた。

 盆の上で、杯が小さく鳴った。

 手が震えていた。注ぎ口から、茶が一滴、卓に落ちた。

「……失礼いたしました」

「風邪かしら」

「い、いえ。少し、冷えまして」

「無理をしないように」

 皇太后の声は穏やかだった。

 ソーニャは、杯を三つ並べて、また頭を下げた。下がる前に、その目が、ほんの一瞬、部屋の奥の飾り棚のほうへ動いた。

 棚の奥には、黒い漆の箱がある。私は知っていた。

 私は、棚を見なかった。見ないように、気をつけた。

 皇太后も、見なかった。

 ソーニャが下がり、扉が閉まった。

 私は、湯気をあおぐふりで、三つの杯の匂いを順に確かめた。茶葉の匂いだけだった。ザレスクの宿で嗅いだ、眠り草の甘い匂いは、しない。

 皇太后が、自分の杯を取って、すいと卓の上を滑らせた。アレクの前へ。

「作法とは、そういうものでしょう」

「作法」

「辺境では、杯を取り替えるのだそうです。何も隠していない、という印に」

 アレクは、私を見た。

「ええ。そういう作法ですわ」

 アレクは、杯を取った。皇太后は、アレクの杯を取った。

 二人が、同時に飲んだ。

「……渋い」

 アレクは、顔をしかめなかった。ゆっくり、飲み下した。

「昔と、同じだ」

「ええ。何も変えておりません」

「飲めます」

「そうですか」

「今日は、飲めます」

 皇太后は、杯を口に当てたまま、顔を伏せた。肩が、少しだけ、揺れた。

 私は、窓を見るふりをした。見てはいけない、と思った。


   ◇


 廊下に出ると、扉が閉まる音が、背中で小さく鳴った。

 アレクは、壁際に、少しよろけるように寄りかかった。

「入れた」

「はい」

「入って、……茶を飲んだ」

「はい」

「渋かった」

「ええ」

 アレクは、顔を上げた。目が、少し赤かった。

「扉は、開けるより、閉めるほうが、難しかった」

「あとでまた、開けられますわ」

「いつ」

「今夜でも、明日でも。扉の前は、あなたの場所ですもの」

 アレクは、しばらく黙っていた。それから、言った。

「……あの、侍女」

「ソーニャ、と」

「手が震えていた」

「風邪、と仰っていました」

「そうか」

 アレクは、それ以上は言わなかった。けれど、顎に手をやって、廊下の向こうを見る目が、護衛の目に戻っていた。

 私も、同じ方向を見ていた。

 茶は、一滴こぼれただけだった。けれど、あの一滴が、頭から離れなかった。

 客間に戻ると、卓の上に、紙が一枚置かれていた。

 封はない。折りたたまれてもいない。誰が置いたのかと、侍女に聞くと、小姓の少年が持ってきて、すぐ帰ったと言う。

 私は、紙を手に取った。

『本日夕刻、北の庭の東屋にて待つ。供は連れぬこと。皇太后陛下の御意により』

 印は、ない。

 字を見た。右上へ、すっと跳ね上げる癖。手本どおりの、副長官の手の字だった。

 けれど、写した人の癖までは、隠せない。

 『陛』の、最後の線に、墨が溜まっていた。

 先生の字だ。

 書き上がったのだ。あの筆は、もう震えていなかった。

 私は、紙を畳んだ。袖に入れた。

 日暮れまで、あと数刻。

「アレク」

「何だ」

 戸口から、彼が答えた。扉の前に立つのが、この人の癖になったらしい。

「六枚目が、届きましたわ」

「見せろ」

 紙を渡した。アレクは、目を走らせて、顎を撫でた。

「供は連れるな、と書いてある」

「ええ。ですから、供は、生垣と柱の影におります」

「……虫が出る」

「我慢なさってくださいまし」

 アレクは、窓の外を見た。

「……シャル。まだか」

「日暮れまで、まだです」

「数えておけ」

「数えておきます。胴元に、見つからないように」

 窓の外で、鐘が鳴った。

 午後の最初の鐘だった。

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