第十八話 日暮れの東屋
最初の鐘から半刻ほど過ぎたころ、客間の戸が叩かれた。
入ってきたのは、袖口にインクの染みをつけた、若い文書係だった。薄い綴じ込みを、両腕で抱えている。
「皇太后陛下のお言いつけで、お持ちしました。三年前の、北の庭の人事の書付です。シャルロット様にお渡しするように、と」
アレクの手が先に出かけて、引っこんだ。綴じ込みは、私の手に渡った。
紙は、一枚。端が黄ばんでいる。
『北の庭の鍵、並びに門番の人事は、皇太后宮付より書記局警備掛へ移管する。書記局長官印』
日付は、三年前の春だった。朱の印は、紙になじんでくすんでいる。
「長官は」
アレクが聞いた。
「去年の冬から、床についておられます。三年前は、お元気でした」
「では、印は本物か」
「はい。長官ご自身のものと、思われます」
私は、紙の右下を見た。
『取次』と刷られた細い欄がある。取り次いだ人が、名を書くところだ。そこだけ、紙が薄かった。
光に透かした。
「削ってありますわ」
「削る?」
「小刀で。書いた名を、紙ごと」
文書係が、息をのんだ。
「保管していたあいだは、誰も、その」
「あなたではありません。黄ばみ方と、削り跡の色が同じですもの。三年前から、こうだったのですわ」
文書係の肩が、ほっと落ちた。
「あの、もう一枚ございます。皇太后陛下が、同じ日付の頁も付けておけと」
綴じ込みの下から、人事簿の写しが出てきた。
『皇太后宮付 侍女一名 着任 ソーニャ』
日付は、同じだった。
アレクが、私の肩越しに紙を覗いた。
「同じ日だ」
「はい」
「庭の鍵が皇太后の手を離れた日に、あの侍女が部屋に入った」
「はい。ですが」
私は、顔を上げた。
「決めつけるのは、早うございます。手が震えるのは、脅されている人も同じですもの」
「分かっている」
アレクは、文書係を下がらせた。戸が閉まってから、しばらく黙っていた。
「シャル」
「はい」
「皇太后の部屋で、お前が見ないようにしていたものがある」
背中が、固くなった。
「……お気づきでしたか」
「護衛だ」
「皇太后陛下の御物のことです。お約束をしておりまして、私の口からは申せません」
嘘は、つきたくなかった。ただ、約束を破ることも、できなかった。
アレクは、私の顔を見ていた。長く見ていた。
「お前が約束したなら、聞かない」
「アレク」
「皇太后に聞くべきことなら、いつか、あの方の口から聞く」
私は、うなずいた。うなずくだけで、精一杯だった。
「それより、日暮れだ。何刻ある」
「あと、二刻ほどでしょうか」
「それと、東屋の数え方だ。話し声は、数えない。数えるのは、悲鳴と、名前と、乱れた息だけだ」
「話し声は、生垣まで届きませんものね」
「乱れた息は、届く」
「……ずいぶんな耳ですわ」
「日暮れの前に、やっておくことがある」
アレクが、戸のほうを見た。
「皇太后に、ソーニャの話をするのだろう」
「はい」
「扉の前で待つ」
◇
黒檀の扉の前で、アレクは足を止めなかった。
止まる代わりに、壁際へ歩いて、黙って床に座った。膝に手を置いて。ずっとそこに座っていた人の、座り方だった。
「ここにいる」
「中まで、ご一緒でなくて」
「お前ひとりで話すことが、あるのだろう。扉の前は、私の場所だ」
さっきまでのような重さは、その言い方になかった。
私は、扉を叩いた。
皇太后は、また刺繍台の前にいた。針が、布を渡っていく。
「お願いがございます」
私は言った。
「今日の日暮れのお茶は、いつもどおり、ソーニャさんにお持たせください」
針が、止まった。
「あの子を、疑っているのですか」
「疑っております」
部屋に、燭台の火の音だけが残った。
「三年になります」
皇太后は、針を見たまま言った。
「わたくしの靴の紐を結ぶのが、上手な子です。冷たい手をしていました。寒がりなのだろうと」
「はい」
「弟がいると、聞きました。北の水車の近くにいて、三年のあいだ、一度も会いに行けずにいると。休みを願い出たことも、ありませんでした」
顔が上がった。
「わたくしは、聞き流しました」
声は、平らだった。平らにしているのが、分かった。
「寒がりなのだと、思うことにしたのです。庭の鍵のときと同じに。見ないことには、慣れておりますから」
「陛下」
「持たせましょう。わたくしの茶です。飲むか、飲まないかは、あなたに任せます」
「お任せくださるのですか」
「三年、見る目がなかった人間です。今日は、あなたの目を借ります」
私は、深く頭を下げた。
扉の外に出たとき、アレクが顔を上げた。何も聞かなかった。立ち上がって、袖についた埃を払っただけだった。
◇
北の庭は、日が傾くと、色が変わった。
白い石畳が、橙に染まる。低い生垣が、長い影を伸ばしている。石榴の実が、赤黒く光っていた。
皇太后は、杖をつかなかった。背筋がまっすぐで、足だけが、少しゆっくりだった。十年、毎日、同じ道を歩いた人の歩き方だった。
私は、その半歩うしろを歩いた。
生垣の向こうが、がさ、と鳴った。
皇太后は、振り向かなかった。
「今のは、木ですか」
「風、でございましょう」
風は、なかった。
東屋は、庭のいちばん奥にあった。八角の屋根に、白い柱。卓がひとつ。椅子が二脚。その向こうの生垣の切れ間から、古い北の門が見えた。
皇太后は、椅子に腰を下ろした。私は、向かいに座った。
しばらく、何も起きなかった。
日が、傾いていく。
こほ、と皇太后が咳をした。
生垣が、がさがさ、と大きく鳴った。
「…………」
「…………」
皇太后は、口もとを手巾で隠した。
「今、動きましたね」
「動いておりません」
「動きました」
「陛下」
「今のは、声に数えられましたか」
「息でも、数えるそうですわ。一つ、と」
「では、あと二つ」
皇太后が、息を吸った。
「おやめくださいまし」
「冗談です」
手巾の陰で、口の端が上がっていた。
私は、自分が息を止めていたことに気づいた。止めすぎると、苦しくて、息が乱れる。乱れたら、二つ目になってしまう。
(人生でこれほど、息に気をつけた日はありません)
夕風が、石榴の葉を鳴らした。
「あの門ですが」
皇太后が、生垣の切れ間を見た。
「わたくしの息子が、出ていった門です。日暮れでした」
肖像画の、若い人のことだ。
「帰ってくるなら、日暮れだろうと思いました。それで、ここへ来るようになったのです。……そのうち、待っているものが、変わりました」
「何に」
「さあ」
皇太后は、遠くを見ていた。
「待つ人の歩き方を、十年、続けてきました。あなたも、そうなのでしょう」
喉の奥が、熱くなった。
「十年、返事を待たせてしまいました」
「待たせたのは、あの子です」
「いいえ。私も、待っておりました。お互いに、書けなかっただけで」
皇太后は、何も言わなかった。ただ、手巾を握る手に、少し力が入ったように見えた。
そのとき、石畳に、靴音がした。
細くて、急いでいる。
ソーニャだった。銀の盆に、細い水差しと、杯が二つ。茶色の髪が、一筋ほどけていた。
「お待たせいたしました、皇太后陛下」
声が、上ずっていた。
「ありがとう。いつもの時刻ですね」
皇太后の声は、穏やかだった。
ソーニャが、盆を卓に置いた。水差しの口から、湯気が立つ。杯に注ごうと、手を伸ばした。
その手が、揺れた。杯の縁に、水差しの口が、かちかちと当たった。
「ソーニャさん」
私は、声をかけた。
「お待ちくださいませ」
「は、はい」
「辺境では、お茶を注いだ人が、最初の一杯をいただく作法ですの」
ソーニャの顔から、血の気が引いた。
「そ、そんな」
「辺境の作法は、ずいぶん多いこと」
皇太后が、平らな声で言った。
「ええ。多いのです」
私は、ソーニャの目を見た。
「何も隠していない、という印です。さあ」
ソーニャは、水差しを持ったまま、動けなかった。
杯に、茶が、少しだけ落ちた。湯気が、私の顔にかかった。
甘い匂いがした。
ザレスクの宿で、嗅いだ匂いだった。
「…………っ」
水差しが、手から滑った。
石の床で、割れる音がした。茶が、東屋の床に広がっていく。甘い匂いが、一気に立ちのぼる。
ソーニャは、その場に膝をついた。
「申し訳ございません、申し訳、ございません」
「立ちなさい」
「弟が、……弟が、北の水車小屋に」
「ソーニャ」
「三年前に、お側に上がるように言われて、それから毎日、ベネシュ様に、お部屋のことを、全部、申し上げて」
皇太后は、動かなかった。
「何を召し上がるか、どなたがお見えになるか、何を、大切になさっているか、全部。そして今日は、これを、皇太后陛下に」
涙が、石の床に落ちた。
「眠り草の粉を、茶の十倍。朝になれば、お目覚めにならないと。……お許しくださいませ、お許しくださいませ」
「ソーニャ」
皇太后は、その名を呼んだ。叱る声ではなかった。
「手を貸しなさい。立てないでしょう」
ソーニャが、顔を上げた。
「気づいておりました。冷たい手に、気づいていたのです。気づかないことにしていたのは、わたくしです」
ソーニャの顔が、くしゃりと崩れた。
庭の向こうに、松明の火が見えた。
石畳を踏む足音が、いくつも近づいてくる。
「皇太后陛下!」
よく通る声だった。
「書記局のベネシュにございます! 皇太后陛下の御意により、参上いたしました!」
水差しの割れた音を、聞きつけたのだろう。灰色の外套の男が、杖をつきながら、東屋の階段に足をかけた。右足を、ひきずっている。ひきずり方が、前に見たときより、本物らしかった。うしろに、書記局の下役が三人。
ベネシュの目が、床を見た。割れた水差し。広がった茶。膝をついた侍女。
一瞬、顔が固まった。すぐに、整えた。
「これは、何事ですか。皇太后陛下の東屋で、辺境のご令嬢が、侍女を」
ベネシュは、卓の杯を指さした。
「皇太后陛下に何を召し上がらせたのです! その茶は!」
私は、立ち上がった。
ベネシュの目が、私を見た。
「御意と仰いましたが、どなたの御意ですか」
「皇太后陛下の」
「わたくしの御意は、わたくしの口から出ます」
皇太后が、座ったまま言った。
「ですが、紙には」
「その侍女を離しなさい」
ベネシュは、ソーニャの手首をつかんでいた。いつの間にか。ぎりぎりと、骨が鳴りそうな力で。
「この者は、私が引き取ります。罪人ゆえ」
「離して、」
ソーニャの顔が、ゆがんだ。
私は、ソーニャの手首から目を上げた。
「アレク」
声を張って、名前を呼んだ。二つ目。
生垣が、がさ、と鳴った。ベネシュの眉が動いた。
「アレクセイ」
皇太后が、座ったまま、言った。
私は、思わず皇太后を見た。
皇太后は、まっすぐ生垣の向こうを見ていた。声は、大きくなかった。けれど、震えていた。
(呼んだ。十年、呼ばなかった名前を)
三つ。
生垣が、割れた。
先に飛びこんできたのは、枝だった。次に、土の匂い。そのあと、アレクだった。
髪に葉っぱをつけて、上着の肩に、小枝が刺さっていた。花壇を、まっすぐ踏み抜いてくる。
「手を離せ」
ベネシュの手首を、アレクがつかんだ。
ベネシュの顔が、ゆっくり、白くなった。
「へ、……陛下」
「ベネシュ。足は、もういいのか」
「は?」
「樽を蹴った足だ」
ベネシュの口が、開いて、閉じた。
「御印のない御意で、皇太后の庭に踏み入ったか」
「いえ、これは、書記局の」
「皇太后陛下の御意と言うなら、皇太后陛下に伺う」
アレクは、皇太后のほうを見なかった。見られなかったのだと思う。背中が、固かった。
「わたくしは、お前たちを、呼んでおりません」
皇太后が、立ち上がった。
「呼ばれたのは、このお嬢さんだけです。それも、わたくしの御意ではなく、他人の筆で書かれた紙で」
ベネシュは、杖を振りあげた。
その杖は、戸を叩くためにしか使われたことのない杖だった。当たる前に、ラドミル騎士長の部下の手が、柄を握っていた。生垣から、庭師の身なりの男たちが、四人、出てきていた。庭師の身なりのまま、全員、剣を持っていた。
杖が、石畳に転がった。
ベネシュは、逃げようとして、右足を踏み外した。石畳に膝をついたとき、ひしゃげた声が出た。
「あ、足が、」
「杖が、やっと本物になりましたな」
ラドミル騎士長が、ゆっくり歩いてきて、見下ろした。
「胴元として、申し上げます。陛下は、三つ目が終わる前に、出ていかれました」
「数えていたのか」
「『アレクセイ』の、『アレ』のところで、足が動かれました」
「…………」
「名は、最後まで聞いていただきませんと。賭けが成立いたしません」
「賭けるな」
アレクは、吐き捨てるように言った。耳が赤かった。
書記局の下役たちが、その場に膝をついた。ひとりが、床に頭を擦りつけた。
「わ、私どもは、ベネシュ様に、皇太后陛下の御意と」
「聞いた。ラドミル、連れていけ」
「は」
ベネシュは、引きずられながら、アレクを振り向いた。小さな目が、ぎらりと光った。
「私は、運んだだけです。この先は、私も存じません」
「そうか」
「陛下は、何も、ご存じない」
アレクは、答えなかった。ただ、見ていた。ベネシュの影が、生垣の向こうへ消えるまで。
ソーニャは、まだ膝をついていた。
皇太后が、その前にしゃがんだ。膝が、小さく鳴った。
「ソーニャ」
「はい」
「弟の名は」
「ダヴィド、と」
「ラドミル」
「北の水車小屋ですな。もう、人を出しております」
ラドミルが言った。
「先ほど、お話が聞こえましたので」
ソーニャが、口を押さえて泣きだした。肩が、揺れた。皇太后は、その背中に、手を置いた。
アレクが、皇太后の前に立った。
「お怪我は」
「ありません」
皇太后は、見上げた。
「あなたが来るのが、早すぎただけです」
「三つ、聞こえました。……名前は、途中までしか」
「最後まで聞かずに、出てくる子ですね」
皇太后が、笑った。声を出して笑った。
それから、笑いがすっと引いた。
「では、もう一度」
アレクの背中が、止まった。
「アレクセイ」
庭に、風が通った。
「最後まで、聞こえましたか」
「……はい」
「十年ぶりに、呼びました」
皇太后の声が、乾いて、割れた。
「呼んだら、本当に、来るのですね」
アレクの肩が、震えた。
返事は、なかった。返事の代わりに、アレクは、そっと息を吐いた。
皇太后は、続けた。
「今夜、わたくしの部屋へ、おいでなさい」
「……」
「ソーニャが話したのは、わたくしの部屋のことです。あなたには、わたくしの口から、話さなければならないものがあります」
アレクは、一度だけ、私のほうを見た。
私は、うなずいた。
アレクは、皇太后に向き直った。
「はい。参ります」
◇
日が、すっかり落ちていた。
東屋の柱に、松明が掛けられている。茶の甘い匂いは、風にまぎれて薄くなっていた。
アレクは、東屋の階段に腰をおろしていた。上着の肩の小枝は、まだ刺さったままだった。
「アレク。小枝が」
「知っている」
「抜いても」
「抜け」
近づいて、指でつまんだ。小枝は、思ったよりも、深く刺さっていた。
「動かないでくださいまし」
「動いていない」
「息が、うるさいです」
「息は、三つ目に入るのか」
「入りません」
小枝が、抜けた。
アレクは、肩をまわした。それから、言った。
「名前を、呼ばれた」
「はい」
「十年、一度も」
「はい」
「……来いとも、言われなかったのに、足が動いた」
私は、小枝を手の中で握った。
「アレク」
「何だ」
「扉は、開けたら、また閉められますわ」
「うん」
「今夜も、扉の前は、あなたの場所です」
アレクは、顔をあげた。松明の火が、目の中で揺れた。
「……シャル。まだか」
「まだです」
私は、答えた。
「ただ、今夜、皇太后陛下のお部屋の前でお待ちいただく分は、数えておきます。胴元には、内緒で」
アレクの口の端が、少しだけ、上がった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、夜の皇太后の部屋です。アレクが、あの扉の内側で話を聞きます。
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