第十九話 燃やさなかった箱
夜の鐘が三つ鳴ったあとで、ラドミル騎士長が客間に来た。
外套の肩に、白い粉がついている。水車小屋の粉だった。
「ダヴィドは、無事でした」
私は、手にしていた帳面を卓に置いた。
「お怪我は」
「ありません。痩せてはおりますが、自分の足で歩きました。姉の部屋の隣で寝かせております。皇太后陛下のお言いつけで」
息が、やっと深く入った。
「見張りは」
「二人おりました。一人は捕らえました。もう一人は、こちらが着く前に、馬で北へ」
「北」
アレクが、顎を上げた。
「副長官殿の妹君の手紙を運ぶ使いも、北から来ると、調べがついております」
ラドミルは、それだけ言った。
誰も、続きを言わなかった。副長官の妹と、ダヴィド。二人の人質が、同じ北の方角にいるのかもしれない。
「ベネシュは」
「牢で口を閉じております。運んだだけ、の一点張りで。誰から、と聞けば『上の方から』としか」
「顔は」
「見たことがないと。あの男は、嘘をつくとき、指で膝を叩く癖があります。今夜は、一度も叩きませんでした」
ラドミルは、少し間を置いた。
「宰相閣下は、ベネシュの件をお聞きになって、お茶を二杯、水を三杯召し上がりました。胃のためだそうです」
「そうか」
アレクは立ち上がった。
「皇太后のところへ行く」
◇
夜の廊下は、昼より長かった。
燭台の火が、等間隔で壁を照らしている。肖像画の目が、橙色に光って見えた。
昼は、扉の三歩手前で足が止まった人だ。
今夜は、止まらなかった。
歩幅は小さくならなかった。むしろ、少し速かった。私が追いつくのに、半歩ぶん、急がなければいけなかった。
「三歩、数えませんでしたわ」
「数えた」
アレクは、前を見たまま言った。
「歩いているうちに、終わった」
「今夜は、扉の前で、お待ちにならないのですね」
「中にいる」
アレクは、少しだけ間を置いた。
「……お前の、隣に」
黒檀の扉の前に、侍従はいなかった。
アレクは、取っ手に手をかけなかった。拳を作って、扉を叩いた。二度。
「入りなさい」
中から、声がした。
部屋は、昼より明るかった。燭台が四本に増えている。
刺繍台の前に、皇太后はいなかった。卓の前の椅子に座っていた。膝の上で手を組んで。
卓の上に、黒い漆の箱があった。
私は、息を止めた。
壁際に、ソーニャが膝をついていた。手首に、赤い痕が残っている。ベネシュの指の痕だった。
アレクの目が、箱の上を一度通って、皇太后に戻った。
「座りなさい。二人とも」
「立っています」
「では、立ったまま聞きなさい」
皇太后は、壁際を見た。
「ソーニャ。さっきの話を、もう一度。この子にも聞かせなさい」
ソーニャの肩が、びくりと跳ねた。
「は、はい」
声が、細かった。
「ベネシュ様から、言いつかっておりました。お茶を召し上がって、皇太后陛下がお休みになったら」
ソーニャは、そこで一度、唾を飲んだ。
「あの棚の、黒い箱の中の、一番上の一枚を、持ち出せと」
アレクの眉が動いた。
「箱」
「はい」
「何の箱だ」
誰も答えなかった。
皇太后が、ゆっくり口を開いた。
「陛下の書き損じです」
部屋の温度が、ひとつ下がった。
「あなたが、毎年、書いて捨てた紙です。十年分」
アレクは、動かなかった。
動かないのに、何かが崩れかけているのが分かった。耳の先が、赤くなっていく。
「……燃やした、はずです」
「暖炉に入れる前に、拾わせました」
「拾わせた」
「ここにいるソーニャは、三年。その前は、別の者が七年。あなたの部屋を掃いて、暖炉のそばの丸めた紙を、わたくしのところへ持ってきました」
「…………」
「盗みです。十年の」
皇太后は、はっきり言った。
「ソーニャは、そのことをベネシュに話しました。三月前に。陛下が毎年、書いては捨てる紙がある、と。ベネシュの主は、それを知って、一番新しい一枚を欲しがった」
アレクの視線が、ゆっくり動いた。
箱から、私へ。
「お前は」
喉が、鳴った。
「知っておりました」
「いつから」
「皇太后陛下のお召しをいただいた日に、見せていただきました」
「そのときから」
「はい。お約束をしておりました。アレクには、言わないと」
言い訳は、しなかった。
アレクは、私の顔をしばらく見ていた。昼に客間で見せた、あの長い見方だった。
「……約束を、守ったのか」
「はい」
「昼に聞いたとき、お前は『御物のことです』と言った」
「嘘は、つきたくありませんでしたので」
アレクは、目を閉じた。
それから、開けた。灰色の目の底が、揺れていた。
「そうか」
それだけだった。
皇太后が、箱の蓋に手をかけた。
「開けますよ」
「……」
「燃やしたければ、燃やしなさい。あなたのものです」
蓋が、持ち上がった。
箱の中は、前に見たときと同じだった。擦り切れた角。二つ折りの紙が、十枚。灰の匂い。
皇太后は、いちばん下の一枚を取り出した。
「一枚目です」
アレクの前に、差し出した。
アレクの手が出た。指が紙の端をつまんで、持ち上げた。
それから、そのまま、燭台のほうへ動いた。
私は、息をのんだ。止められなかった。止めてはいけないと思った。
炎の手前で、手が止まった。
紙の端が、熱で少し揺れていた。
アレクは、長いこと、そのままでいた。指が、白くなっていた。
やがて、手が、ゆっくり戻ってきた。
紙を開いた。
『シャル。迎えに行く。いつになるか分からないけど、必ず』
その上に引かれた太い線。何本も。紙が破れそうなほど。
その下の一行。
『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』
「……こんな字だったか」
低い声だった。
「十四のときの字です」
「下手だな」
「ええ」
皇太后が言った。
「わたくしも、そう思いました」
アレクの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうか、分からなかった。
アレクは、二枚目を取った。三枚目も取った。立ったまま読んでいたのに、いつの間にか、椅子に腰を下ろしていた。皇太后は何も言わなかった。私は、隣の椅子を引いて、座った。肩が、触れるほど近くに。
彼は、嫌がらなかった。
四枚目。
『帝都の庭に、お前の好きだった木を植えた。見に来い』
「植えた」
「はい」
「枯れた。二年目に」
「……そうでしたの」
「冬が、強かった」
五枚目。六枚目。
『背比べの木は、まだあるか』
「ありますわ」
私は言った。
「三日月の刃が×をつけた木も。その上に、二人で新しい傷をつけましたわ」
「……ああ」
七枚目で、紙をめくる指が止まった。
『婚約したと聞いた。おめでとうとは、書けない』
黒い塗りつぶしの下に、いつもの一行。
「……これは」
「私が、婚約した年ですわ」
「ジュリアンの」
「ええ」
「祝いを書こうとして、書けなかった」
「はい」
「あのとき私は、お前の幸せを、願ってはいなかった」
乾いた声だった。
「願えなかった。一行も」
「アレク」
「だから燃やした」
「燃やされませんでした」
私は言った。
「拾われて、今、ここにあります」
アレクは、黙った。
八枚目、九枚目。
そのあいだに、気づいたことがあった。
「アレク」
「何だ」
「『気』の字を、見てください」
彼は、手元の紙に目を落とした。
『元気か』の、『気』。最後の曲がりのところだけ、墨が濃く溜まっていた。
どの紙も。九枚とも、同じ場所が。
「……ここで、止まっていたのか」
「ええ」
「気づかなかった」
「私も、同じところで止まります」
アレクが、顔を上げた。
「元気か、の先が、書けなくて。私の『気』も、最後の曲がりのところで、毎年」
「お前もか」
「ええ」
アレクは、手元の紙を、見つめた。
「十年」
「十年です」
「二人で、同じところで、止まっていたのか」
「そのようですわ」
向かい側で、皇太后が目を伏せた。肩が、細く揺れた。
ソーニャの嗚咽が、壁際で聞こえた。
最後の一枚を、皇太后が差し出した。
「十枚目です。今年の」
アレクは、受け取った。
『会いたい』が、三回。三回とも、黒く潰されている。
その下の、潰されていない一行。
『お前の返事を、一度でいい。一行でなく、読みたい』
アレクは、それを、読んだ。
読み終わっても、紙から目を上げなかった。
「……これは、今年のだ」
「はい」
「お前は、返事を書いた」
「一行だけ」
「『今年は、あなたに会いたい』」
「ええ」
「一行だった」
「一行しか、書けませんでしたの」
私は言った。
「でも、これからは」
途中で、言葉が出なくなった。
アレクが、紙を持つ手を下ろした。
部屋に、燭台の芯の音だけが残った。
「……燃やしません」
やっと出た声は、掠れていた。
皇太后が、顔を上げた。
「燃やしません。十枚とも」
アレクは、手の中の紙を、一度、ていねいに折った。折り目をなぞって、箱の中へ戻した。ほかの九枚も、順に戻した。最後に、自分の手で、蓋を閉めた。
かち、と音がした。
「これは、ここに置いてください」
「あなたのものですよ」
「私が書いたものです。拾ってくださったのは、あなたです」
アレクは、蓋の上に手を置いた。
「私の部屋に置いたら、また燃やしたくなる」
「それは、困りますね」
「困ります」
アレクが、皇太后を見た。
「拾って、くださったのですね」
「……ええ」
「十年」
「ええ」
「義母上」
皇太后の手が、止まった。
部屋が、止まった。
燭台の火だけが、動いていた。
「……今、なんと」
「義母上、と」
アレクの声は、揺れなかった。
皇太后は、口を開いた。何も出てこなかった。
それから、手巾を取り出した。顔の前で広げて、そのまま、動かなくなった。
背中が、震えていた。
声は、出ていなかった。
私は、窓の外を見た。見てはいけない、と思った。窓の外には、真っ暗な庭があって、東屋の松明が、遠く、小さく燃えていた。
しばらくして、手巾の向こうから、声がした。
「……お茶を、淹れさせましょう」
「はい」
「渋いのを」
「はい」
「飲めますか」
「飲めます」
アレクは、少し考えてから、付け足した。
「もう一杯、いただけますか」
手巾が、ゆっくり下りた。
目が真っ赤だった。口の端が、わずかに上がっていた。
「ええ。何杯でも」
◇
ソーニャが淹れた茶を、皇太后は、自分で卓に並べた。
ソーニャの手は、もう震えていなかった。杯の縁に、水差しが当たる音もしなかった。
「毒は」
私が聞くと、ソーニャは、首を横に振った。
「ございません。今夜は、何も」
「確かめます」
湯気の匂いを嗅いだ。茶葉の匂いだけだった。
「辺境の作法は」
皇太后が、まじめな顔で言った。
「ええ。ございます」
私は答えた。
「でも今夜は、略してよろしいかと」
「略す」
「お互いに、何も隠していないと、分かっておりますので」
皇太后は、少しだけ笑った。
三人で、茶を飲んだ。渋かった。アレクは、二杯目を飲み干してから、顔をしかめた。
「やはり、渋い」
「昔から、変えておりません」
「変えてください」
「嫌です」
皇太后が、きっぱりと言った。
アレクは、黙ってから、笑った。
声を出して笑った。
十年前に聞いた笑い声より、ずっと低かった。
皇太后は、杯を置いた。
「陛下。朝議は、あと数刻です」
「あの訃報は、副長官が広間で読む手はずになっています。……読ませません」
「読ませなさい」
アレクの手が、杯を持ったまま止まった。
「生きているわたくしの死を、広間で読み上げさせる。その最中に、わたくしが入ります。自分の足で」
「義母上」
「扉は、自分で開けます。あなたが昼に、開けたように」
アレクは、しばらく黙っていた。
「……では、私は広間で、扉が開くのを待ちます」
「ええ。待たされるのには、慣れているでしょう」
アレクが、咳払いをした。
それから、アレクは、壁際のソーニャを見た。
「ソーニャ」
「は、はい」
「一番上の一枚と、言ったか」
「はい」
「一番新しいもの、と」
「そのように」
「理由は」
「存じません」
ソーニャは、深く頭を下げた。
「ベネシュ様も、ご存じなかったのだと思います。私に伝えるとき、紙に書いてあったのを、そのまま読んでおりました」
「紙」
「黒い蝋で、封がしてございました」
アレクと私は、顔を見合わせた。
印のない、黒い蝋。
副長官の引き出しに、夜のうちに入る封と、同じだった。
「ソーニャ。その紙は、いま」
「ベネシュ様は、その紙を、外套の内側にしまっておられました」
ラドミルが、牢で調べているはずだ。
(一番新しい一枚)
私は、箱を見た。
字が欲しいなら、十枚のどれでもいい。アレクの字は、十年分、ここにある。
なぜ、今年のなのか。
今年の、十枚目にしか書かれていない言葉は。
『お前の返事を、一度でいい。一行でなく、読みたい』
(……私への、返事)
何かが、背中を這った。
まだ、分からない。
分からないけれど、顔の見えない手が、いま、アレクが書いた一番新しい言葉に、手を伸ばしていた。
◇
東の空が、うすく青くなりはじめたころ、私たちは廊下に出た。
扉が、背中で閉まった。かちり、と鳴る音が、昼よりも、静かだった。
アレクは、壁にもたれなかった。まっすぐ立っていた。
廊下の端で、ラドミルが待っていた。眠っていない顔だった。
「陛下。ベネシュの外套の裏地を裂いたら、黒い蝋の封が出ました」
「中は」
「『飾り棚の黒漆の小箱の、最上の一枚。皇太后の眠りのあとに』。それだけです」
「差出は」
「ございません」
「そうか」
「梁の上の二名は、夜明けまで見ておりましたが、副長官殿の引き出しに近づいた者は、おりません。今夜は、封が入っておりません」
「ベネシュが捕まったと、もう知られているのですわ」
私が言うと、ラドミルは、重くうなずいた。
「副長官殿は、引き出しの鍵を手に、控えておられます。朝議は、二刻後です」
「分かった」
アレクは、短くうなずいた。それから、思い出したように言った。
「ラドミル」
「は」
「今夜、私があの部屋にいた時間は、賭けにするな」
「すでに締めきっております」
ラドミルは、真顔で言った。
「胴元以外の全員が、半刻以内に賭けておりましたので」
「……全員、外れたのか」
「はい。胴元の一人勝ちです」
アレクは、何も言わなかった。耳が、また赤かった。
ラドミルは一礼して、廊下の向こうへ下がっていった。
二人になった。
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。庭の生垣が、黒から緑へ変わりはじめていた。
「アレク」
「何だ」
「おはようございます」
「まだ、夜だ」
「あら。では、おやすみなさいませ」
「寝ていない」
「では、おはようございます」
「……そうしておこう」
アレクは、窓の外を見ながら言った。
「シャル。まだか」
私は、ひとつ、息を吸った。
袖から、折りたたんだ紙を出した。
客間の机で、日暮れ前の少しの時間に、書きはじめたものだった。
「お返事を、書き始めましたの」
アレクの目が、紙の上で止まった。
「十枚目の、お返事を」
「…………」
「一行ではありません」
私は、紙をそっと胸に当てた。
「長くなりそうですので、まだです」
アレクは、動かなかった。
窓の外の空が、一段、明るくなった。
「……何枚になる」
「十枚では、足りないかもしれません」
「十枚」
「十年ぶんですもの」
アレクの喉が、ひとつ、動いた。
「待つ」
低い声だった。
「十年、待った。あと少しなら、待てる」
「ええ。あと少しで、済みますわ」
アレクは、窓のほうを向いたまま、手を伸ばした。私の手首をつかんで、すぐ離した。つかむというより、確かめるような触れ方だった。
「……書き損じても、いい」
「え」
「拾ってくれる人が、いる」
私は、笑ってしまった。
「では、遠慮なく」
「遠慮はするな」
廊下の向こうで、ごほん、と咳が聞こえた。
ラドミルだった。まだ、いた。
「胴元として」
「賭けるな」
「お返事の長さは、賭けの対象に」
「賭けるな」
アレクが、廊下の向こうへ怒鳴った。
怒鳴った声が、朝の廊下に、よく通った。
その声で、庭の鳥が、いっせいに鳴きはじめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、朝議の広間です。扉が開く朝です。
ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




