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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第十九話 燃やさなかった箱

 夜の鐘が三つ鳴ったあとで、ラドミル騎士長が客間に来た。

 外套の肩に、白い粉がついている。水車小屋の粉だった。

「ダヴィドは、無事でした」

 私は、手にしていた帳面を卓に置いた。

「お怪我は」

「ありません。痩せてはおりますが、自分の足で歩きました。姉の部屋の隣で寝かせております。皇太后陛下のお言いつけで」

 息が、やっと深く入った。

「見張りは」

「二人おりました。一人は捕らえました。もう一人は、こちらが着く前に、馬で北へ」

「北」

 アレクが、顎を上げた。

「副長官殿の妹君の手紙を運ぶ使いも、北から来ると、調べがついております」

 ラドミルは、それだけ言った。

 誰も、続きを言わなかった。副長官の妹と、ダヴィド。二人の人質が、同じ北の方角にいるのかもしれない。

「ベネシュは」

「牢で口を閉じております。運んだだけ、の一点張りで。誰から、と聞けば『上の方から』としか」

「顔は」

「見たことがないと。あの男は、嘘をつくとき、指で膝を叩く癖があります。今夜は、一度も叩きませんでした」

 ラドミルは、少し間を置いた。

「宰相閣下は、ベネシュの件をお聞きになって、お茶を二杯、水を三杯召し上がりました。胃のためだそうです」

「そうか」

 アレクは立ち上がった。

「皇太后のところへ行く」


   ◇


 夜の廊下は、昼より長かった。

 燭台の火が、等間隔で壁を照らしている。肖像画の目が、橙色に光って見えた。

 昼は、扉の三歩手前で足が止まった人だ。

 今夜は、止まらなかった。

 歩幅は小さくならなかった。むしろ、少し速かった。私が追いつくのに、半歩ぶん、急がなければいけなかった。

「三歩、数えませんでしたわ」

「数えた」

 アレクは、前を見たまま言った。

「歩いているうちに、終わった」

「今夜は、扉の前で、お待ちにならないのですね」

「中にいる」

 アレクは、少しだけ間を置いた。

「……お前の、隣に」

 黒檀の扉の前に、侍従はいなかった。

 アレクは、取っ手に手をかけなかった。拳を作って、扉を叩いた。二度。

「入りなさい」

 中から、声がした。


 部屋は、昼より明るかった。燭台が四本に増えている。

 刺繍台の前に、皇太后はいなかった。卓の前の椅子に座っていた。膝の上で手を組んで。

 卓の上に、黒い漆の箱があった。

 私は、息を止めた。

 壁際に、ソーニャが膝をついていた。手首に、赤い痕が残っている。ベネシュの指の痕だった。

 アレクの目が、箱の上を一度通って、皇太后に戻った。

「座りなさい。二人とも」

「立っています」

「では、立ったまま聞きなさい」

 皇太后は、壁際を見た。

「ソーニャ。さっきの話を、もう一度。この子にも聞かせなさい」

 ソーニャの肩が、びくりと跳ねた。

「は、はい」

 声が、細かった。

「ベネシュ様から、言いつかっておりました。お茶を召し上がって、皇太后陛下がお休みになったら」

 ソーニャは、そこで一度、唾を飲んだ。

「あの棚の、黒い箱の中の、一番上の一枚を、持ち出せと」

 アレクの眉が動いた。

「箱」

「はい」

「何の箱だ」

 誰も答えなかった。

 皇太后が、ゆっくり口を開いた。

「陛下の書き損じです」

 部屋の温度が、ひとつ下がった。

「あなたが、毎年、書いて捨てた紙です。十年分」

 アレクは、動かなかった。

 動かないのに、何かが崩れかけているのが分かった。耳の先が、赤くなっていく。

「……燃やした、はずです」

「暖炉に入れる前に、拾わせました」

「拾わせた」

「ここにいるソーニャは、三年。その前は、別の者が七年。あなたの部屋を掃いて、暖炉のそばの丸めた紙を、わたくしのところへ持ってきました」

「…………」

「盗みです。十年の」

 皇太后は、はっきり言った。

「ソーニャは、そのことをベネシュに話しました。三月前に。陛下が毎年、書いては捨てる紙がある、と。ベネシュの主は、それを知って、一番新しい一枚を欲しがった」

 アレクの視線が、ゆっくり動いた。

 箱から、私へ。

「お前は」

 喉が、鳴った。

「知っておりました」

「いつから」

「皇太后陛下のお召しをいただいた日に、見せていただきました」

「そのときから」

「はい。お約束をしておりました。アレクには、言わないと」

 言い訳は、しなかった。

 アレクは、私の顔をしばらく見ていた。昼に客間で見せた、あの長い見方だった。

「……約束を、守ったのか」

「はい」

「昼に聞いたとき、お前は『御物のことです』と言った」

「嘘は、つきたくありませんでしたので」

 アレクは、目を閉じた。

 それから、開けた。灰色の目の底が、揺れていた。

「そうか」

 それだけだった。

 皇太后が、箱の蓋に手をかけた。

「開けますよ」

「……」

「燃やしたければ、燃やしなさい。あなたのものです」

 蓋が、持ち上がった。


 箱の中は、前に見たときと同じだった。擦り切れた角。二つ折りの紙が、十枚。灰の匂い。

 皇太后は、いちばん下の一枚を取り出した。

「一枚目です」

 アレクの前に、差し出した。

 アレクの手が出た。指が紙の端をつまんで、持ち上げた。

 それから、そのまま、燭台のほうへ動いた。

 私は、息をのんだ。止められなかった。止めてはいけないと思った。

 炎の手前で、手が止まった。

 紙の端が、熱で少し揺れていた。

 アレクは、長いこと、そのままでいた。指が、白くなっていた。

 やがて、手が、ゆっくり戻ってきた。

 紙を開いた。

『シャル。迎えに行く。いつになるか分からないけど、必ず』

 その上に引かれた太い線。何本も。紙が破れそうなほど。

 その下の一行。

『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』

「……こんな字だったか」

 低い声だった。

「十四のときの字です」

「下手だな」

「ええ」

 皇太后が言った。

「わたくしも、そう思いました」

 アレクの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうか、分からなかった。

 アレクは、二枚目を取った。三枚目も取った。立ったまま読んでいたのに、いつの間にか、椅子に腰を下ろしていた。皇太后は何も言わなかった。私は、隣の椅子を引いて、座った。肩が、触れるほど近くに。

 彼は、嫌がらなかった。

 四枚目。

『帝都の庭に、お前の好きだった木を植えた。見に来い』

「植えた」

「はい」

「枯れた。二年目に」

「……そうでしたの」

「冬が、強かった」

 五枚目。六枚目。

『背比べの木は、まだあるか』

「ありますわ」

 私は言った。

「三日月の刃が×をつけた木も。その上に、二人で新しい傷をつけましたわ」

「……ああ」

 七枚目で、紙をめくる指が止まった。

『婚約したと聞いた。おめでとうとは、書けない』

 黒い塗りつぶしの下に、いつもの一行。

「……これは」

「私が、婚約した年ですわ」

「ジュリアンの」

「ええ」

「祝いを書こうとして、書けなかった」

「はい」

「あのとき私は、お前の幸せを、願ってはいなかった」

 乾いた声だった。

「願えなかった。一行も」

「アレク」

「だから燃やした」

「燃やされませんでした」

 私は言った。

「拾われて、今、ここにあります」

 アレクは、黙った。

 八枚目、九枚目。

 そのあいだに、気づいたことがあった。

「アレク」

「何だ」

「『気』の字を、見てください」

 彼は、手元の紙に目を落とした。

 『元気か』の、『気』。最後の曲がりのところだけ、墨が濃く溜まっていた。

 どの紙も。九枚とも、同じ場所が。

「……ここで、止まっていたのか」

「ええ」

「気づかなかった」

「私も、同じところで止まります」

 アレクが、顔を上げた。

「元気か、の先が、書けなくて。私の『気』も、最後の曲がりのところで、毎年」

「お前もか」

「ええ」

 アレクは、手元の紙を、見つめた。

「十年」

「十年です」

「二人で、同じところで、止まっていたのか」

「そのようですわ」

 向かい側で、皇太后が目を伏せた。肩が、細く揺れた。

 ソーニャの嗚咽が、壁際で聞こえた。

 最後の一枚を、皇太后が差し出した。

「十枚目です。今年の」

 アレクは、受け取った。

 『会いたい』が、三回。三回とも、黒く潰されている。

 その下の、潰されていない一行。

『お前の返事を、一度でいい。一行でなく、読みたい』

 アレクは、それを、読んだ。

 読み終わっても、紙から目を上げなかった。

「……これは、今年のだ」

「はい」

「お前は、返事を書いた」

「一行だけ」

「『今年は、あなたに会いたい』」

「ええ」

「一行だった」

「一行しか、書けませんでしたの」

 私は言った。

「でも、これからは」

 途中で、言葉が出なくなった。

 アレクが、紙を持つ手を下ろした。

 部屋に、燭台の芯の音だけが残った。

「……燃やしません」

 やっと出た声は、掠れていた。

 皇太后が、顔を上げた。

「燃やしません。十枚とも」

 アレクは、手の中の紙を、一度、ていねいに折った。折り目をなぞって、箱の中へ戻した。ほかの九枚も、順に戻した。最後に、自分の手で、蓋を閉めた。

 かち、と音がした。

「これは、ここに置いてください」

「あなたのものですよ」

「私が書いたものです。拾ってくださったのは、あなたです」

 アレクは、蓋の上に手を置いた。

「私の部屋に置いたら、また燃やしたくなる」

「それは、困りますね」

「困ります」

 アレクが、皇太后を見た。

「拾って、くださったのですね」

「……ええ」

「十年」

「ええ」

「義母上」

 皇太后の手が、止まった。

 部屋が、止まった。

 燭台の火だけが、動いていた。

「……今、なんと」

「義母上、と」

 アレクの声は、揺れなかった。

 皇太后は、口を開いた。何も出てこなかった。

 それから、手巾を取り出した。顔の前で広げて、そのまま、動かなくなった。

 背中が、震えていた。

 声は、出ていなかった。

 私は、窓の外を見た。見てはいけない、と思った。窓の外には、真っ暗な庭があって、東屋の松明が、遠く、小さく燃えていた。

 しばらくして、手巾の向こうから、声がした。

「……お茶を、淹れさせましょう」

「はい」

「渋いのを」

「はい」

「飲めますか」

「飲めます」

 アレクは、少し考えてから、付け足した。

「もう一杯、いただけますか」

 手巾が、ゆっくり下りた。

 目が真っ赤だった。口の端が、わずかに上がっていた。

「ええ。何杯でも」


   ◇


 ソーニャが淹れた茶を、皇太后は、自分で卓に並べた。

 ソーニャの手は、もう震えていなかった。杯の縁に、水差しが当たる音もしなかった。

「毒は」

 私が聞くと、ソーニャは、首を横に振った。

「ございません。今夜は、何も」

「確かめます」

 湯気の匂いを嗅いだ。茶葉の匂いだけだった。

「辺境の作法は」

 皇太后が、まじめな顔で言った。

「ええ。ございます」

 私は答えた。

「でも今夜は、略してよろしいかと」

「略す」

「お互いに、何も隠していないと、分かっておりますので」

 皇太后は、少しだけ笑った。

 三人で、茶を飲んだ。渋かった。アレクは、二杯目を飲み干してから、顔をしかめた。

「やはり、渋い」

「昔から、変えておりません」

「変えてください」

「嫌です」

 皇太后が、きっぱりと言った。

 アレクは、黙ってから、笑った。

 声を出して笑った。

 十年前に聞いた笑い声より、ずっと低かった。

 皇太后は、杯を置いた。

「陛下。朝議は、あと数刻です」

「あの訃報は、副長官が広間で読む手はずになっています。……読ませません」

「読ませなさい」

 アレクの手が、杯を持ったまま止まった。

「生きているわたくしの死を、広間で読み上げさせる。その最中に、わたくしが入ります。自分の足で」

「義母上」

「扉は、自分で開けます。あなたが昼に、開けたように」

 アレクは、しばらく黙っていた。

「……では、私は広間で、扉が開くのを待ちます」

「ええ。待たされるのには、慣れているでしょう」

 アレクが、咳払いをした。


 それから、アレクは、壁際のソーニャを見た。

「ソーニャ」

「は、はい」

「一番上の一枚と、言ったか」

「はい」

「一番新しいもの、と」

「そのように」

「理由は」

「存じません」

 ソーニャは、深く頭を下げた。

「ベネシュ様も、ご存じなかったのだと思います。私に伝えるとき、紙に書いてあったのを、そのまま読んでおりました」

「紙」

「黒い蝋で、封がしてございました」

 アレクと私は、顔を見合わせた。

 印のない、黒い蝋。

 副長官の引き出しに、夜のうちに入る封と、同じだった。

「ソーニャ。その紙は、いま」

「ベネシュ様は、その紙を、外套の内側にしまっておられました」

 ラドミルが、牢で調べているはずだ。

(一番新しい一枚)

 私は、箱を見た。

 字が欲しいなら、十枚のどれでもいい。アレクの字は、十年分、ここにある。

 なぜ、今年のなのか。

 今年の、十枚目にしか書かれていない言葉は。

『お前の返事を、一度でいい。一行でなく、読みたい』

(……私への、返事)

 何かが、背中を這った。

 まだ、分からない。

 分からないけれど、顔の見えない手が、いま、アレクが書いた一番新しい言葉に、手を伸ばしていた。


   ◇


 東の空が、うすく青くなりはじめたころ、私たちは廊下に出た。

 扉が、背中で閉まった。かちり、と鳴る音が、昼よりも、静かだった。

 アレクは、壁にもたれなかった。まっすぐ立っていた。

 廊下の端で、ラドミルが待っていた。眠っていない顔だった。

「陛下。ベネシュの外套の裏地を裂いたら、黒い蝋の封が出ました」

「中は」

「『飾り棚の黒漆の小箱の、最上の一枚。皇太后の眠りのあとに』。それだけです」

「差出は」

「ございません」

「そうか」

「梁の上の二名は、夜明けまで見ておりましたが、副長官殿の引き出しに近づいた者は、おりません。今夜は、封が入っておりません」

「ベネシュが捕まったと、もう知られているのですわ」

 私が言うと、ラドミルは、重くうなずいた。

「副長官殿は、引き出しの鍵を手に、控えておられます。朝議は、二刻後です」

「分かった」

 アレクは、短くうなずいた。それから、思い出したように言った。

「ラドミル」

「は」

「今夜、私があの部屋にいた時間は、賭けにするな」

「すでに締めきっております」

 ラドミルは、真顔で言った。

「胴元以外の全員が、半刻以内に賭けておりましたので」

「……全員、外れたのか」

「はい。胴元の一人勝ちです」

 アレクは、何も言わなかった。耳が、また赤かった。

 ラドミルは一礼して、廊下の向こうへ下がっていった。

 二人になった。

 窓の外が、少しずつ明るくなっていく。庭の生垣が、黒から緑へ変わりはじめていた。

「アレク」

「何だ」

「おはようございます」

「まだ、夜だ」

「あら。では、おやすみなさいませ」

「寝ていない」

「では、おはようございます」

「……そうしておこう」

 アレクは、窓の外を見ながら言った。

「シャル。まだか」

 私は、ひとつ、息を吸った。

 袖から、折りたたんだ紙を出した。

 客間の机で、日暮れ前の少しの時間に、書きはじめたものだった。

「お返事を、書き始めましたの」

 アレクの目が、紙の上で止まった。

「十枚目の、お返事を」

「…………」

「一行ではありません」

 私は、紙をそっと胸に当てた。

「長くなりそうですので、まだです」

 アレクは、動かなかった。

 窓の外の空が、一段、明るくなった。

「……何枚になる」

「十枚では、足りないかもしれません」

「十枚」

「十年ぶんですもの」

 アレクの喉が、ひとつ、動いた。

「待つ」

 低い声だった。

「十年、待った。あと少しなら、待てる」

「ええ。あと少しで、済みますわ」

 アレクは、窓のほうを向いたまま、手を伸ばした。私の手首をつかんで、すぐ離した。つかむというより、確かめるような触れ方だった。

「……書き損じても、いい」

「え」

「拾ってくれる人が、いる」

 私は、笑ってしまった。

「では、遠慮なく」

「遠慮はするな」

 廊下の向こうで、ごほん、と咳が聞こえた。

 ラドミルだった。まだ、いた。

「胴元として」

「賭けるな」

「お返事の長さは、賭けの対象に」

「賭けるな」

 アレクが、廊下の向こうへ怒鳴った。

 怒鳴った声が、朝の廊下に、よく通った。

 その声で、庭の鳥が、いっせいに鳴きはじめた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


次話は、朝議の広間です。扉が開く朝です。


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