第二十話 襟を直す
朝議の鐘まで、四半刻あった。
夜明けから今までのあいだに、アンヌに髪を結わせ、湯を使い、礼装に着替えた。眠ったのは、椅子に座ったまま目を閉じた、ほんの少しだけだった。白粉でも隠せない隈があるのは、分かっている。
広間の脇の廊下には、高い窓が並んでいた。夜明けの青はすっかり抜けて、床に白い光の四角が落ちている。庭の石榴の葉が、窓の外を一枚、横切っていった。
アレクは、玉座のほうへ通じる小さな扉の前に立っていた。銀糸の縫い取りの礼装。背筋は伸びていて、目の下だけが黒かった。
そこで、気づいた。
左の襟が、内側に折れこんでいる。
ひとりで、急いで着替えたのだ、と思った。侍従の手を待つ間も、惜しかったのだろう。
「アレク」
「何だ」
「襟が」
「襟」
アレクの手が上がった。見えないところを探って、折れていないほうの襟をつまんだ。
「そちらは、合っています」
「どちらだ」
「左ですわ。あなたの」
鏡のない廊下で、氷の皇帝は、困った顔をした。
「失礼いたします」
一歩、近づいた。
アレクの背が、板になった。
「息は、してくださいませ。倒れられては、朝議が流れます」
「している」
「していません」
アレクは、浅く息をした。
指先で折れた布をつまんで、そっと引き出した。銀糸が爪に引っかかる。顎の下に、指の背が触れた。熱かった。眠っていない人の熱だ、と自分に言った。それだけのことだ。
襟を折り返して、形を整える。首の後ろの留め具が外れかけていたので、ついでに留めた。
首筋が、見ているうちに赤くなった。襟の内側から耳のほうへ、ゆっくりと。氷の皇帝の首は、思ったより素直だった。
少し離れたところで、ラドミル騎士長が窓のほうを向いていた。窓の外には、石榴の木しかない。肩だけが揺れていた。
「見るな」
アレクが、前を向いたまま言った。
「見ておりません。石榴を」
「石榴も見るな」
一歩下がって、確かめた。左右の襟が、鏡に映したように揃っている。
「直りました」
「……そうか」
アレクは手を上げかけて、襟には触れなかった。触れたら、直したところが消える気がしたのだろう。
「シャル。……まだか」
いつもより、ひとまわり低い声だった。
「襟の話でしたら、直りました」
「襟の話では、ない」
「存じております」
銀の縫い取りの上を、指で払った。糸くずなど、ついていない。
「まだです。長くなりそうだと、申しました」
「何枚になった」
「一枚、増えました。襟の件を、書き足しましたので」
「書くな」
「書きます」
アレクの口の端が、動いた。
小さな扉の取っ手に、光が細く当たっていた。扉の向こうが、広間だった。
「今日は、中で待つのですね」
「中」
「扉が開くのを。広間の中で」
アレクは、取っ手を見た。
「十年、外にいた」
低い声だった。
「閉じた扉の前で待つのは、いつも私だった。今日は、あの方が来るのを、中で待つのか」
「はい。あの方は、ご自分の手で開けますもの」
「そうだな」
アレクは、襟に触れないまま、長く息を吐いた。
「いい日になるといい」
「なりますわ。襟も、まっすぐですもの」
返事は、なかった。耳が赤かった。
鐘が鳴った。侍従が、小さな扉を内側から引いた。アレクは一度も振り返らずに、光のほうへ歩いていった。
◇
私の席は、令嬢方の列のいちばん端だった。入口に近い、末席。またですのね、と思ってから、気がついた。
ここからなら、扉が見えるし、扉の向こうの音も聞こえる。特等席ですわ。
広間は、冷たい光に満ちていた。壇の上に玉座。その左に、背の高い椅子がもう一脚。玉座と同じ彫りのその椅子が、皇太后陛下のものだと、すぐに分かった。座布には埃ひとつなく、きちんと整えられていた。座る人のいない椅子を、十年、誰かが毎朝磨いてきたのだ。
右手には大臣たちの席。その手前に、書記局の席が並ぶ。いちばん奥の長官の椅子は、空だった。その脇の小さな椅子に、白髪の老人が座って、骨ばった手を膝の上で組んでいる。
その前に、レオニード副長官が立っていた。紺の上着。右手には革の手袋。左手に、細く巻いた紙。
顔色は、地下で会ったときより白かった。私と目は合わせなかった。合わせないほうがいいと、互いに分かっていた。
宰相ヴォイチェフは、壇の脇で胃を押さえていた。茶を何杯飲んだのか、顔が土の色をしている。
令嬢方は、十脚の椅子に静かに座っていた。イリーナ様は、背筋を伸ばして、扇を膝に置いたまま。カミラは、扇の骨が鳴るほど握りしめ、私と目が合うと、あわてて下を向いた。
「皇帝陛下、御成り」
侍従の声で、広間じゅうが立った。衣擦れが、波のように床を渡った。
アレクが壇に登って、玉座に座った。灰色の目が、広間を一度撫でて、私の上で止まった。
襟は、まっすぐだった。
十人のうち二人が、それに気づいて、私を見た。扇が、ぱたん、と二つ鳴った。
(見ないでくださいまし)
私は、膝の上の手を組み直した。右の袖の内側で、留め金が小さく重かった。
「朝議を、始める」
宰相が言った。声がうわずっている。
「その前に、書記局より、お報せがあると」
レオニードが、一歩出た。深く一礼して、巻いた紙の紐を、左手でほどく。
七枚目だ。
広間が静まった。窓の外で、鳥が鳴いた。
「書記局より、お報せを申し上げます」
冷たくて、薄い声だった。地下で、ベネシュを黙らせた声。
「皇太后陛——」
割れた。
ざわ、と空気が動いた。大臣のひとりが、息をのんだ。書記局の席の老人の顔が、深く下がる。
レオニードは、紙を持つ左手を見つめたまま、黙った。いち、に、さん。私は数えた。
「……下には」
声が、戻ってきた。
皆には、悪い報せの前触れに聞こえたはずだ。十三年、冷たい顔を守ってきた人の声が、初めて乱れたのだから。
けれど、私は地下の声を知っている。杖は折れた足のために突くものだ、と言ったとき、あの人の声は、一度も揺れなかった。声を揺らさずに人を黙らせるのが、あの人だ。
(わざとだ)
割れたのは「陛」だった。先生の筆が止まる、あの字で。偶然のはずがない。
(待っているのですわ)
皇太后は、自分の足で歩いてくる。十年ぶりに、この広間へ。部屋から、ゆっくりした足で。
だから、声を割って、時間を作ったのだ。
私は、扉の向こうに耳を澄ませた。
遠かった。石の廊下の、ずっと向こう。
杖の音は、しなかった。
乱れのない足音が、一定の歩幅で近づいてくる。十年、毎日、同じ道を歩いた人の歩き方だった。
壇の上で、アレクは動かなかった。灰色の目が、一度だけ扉を見た。聞こえているのだ。
レオニードが、息を吸った。紙の次の行へ、目を落とす。
「御病にて——」
また、割れた。同じ高さで。
足音が、近づく。私の席の、すぐ後ろの、扉へ。
一歩。また一歩。
そして、扉の前で、止まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、扉が開きます。皇太后が、自分の足で入ってきます。
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