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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第二十話 襟を直す

 朝議の鐘まで、四半刻あった。

 夜明けから今までのあいだに、アンヌに髪を結わせ、湯を使い、礼装に着替えた。眠ったのは、椅子に座ったまま目を閉じた、ほんの少しだけだった。白粉でも隠せない隈があるのは、分かっている。

 広間の脇の廊下には、高い窓が並んでいた。夜明けの青はすっかり抜けて、床に白い光の四角が落ちている。庭の石榴の葉が、窓の外を一枚、横切っていった。

 アレクは、玉座のほうへ通じる小さな扉の前に立っていた。銀糸の縫い取りの礼装。背筋は伸びていて、目の下だけが黒かった。

 そこで、気づいた。

 左の襟が、内側に折れこんでいる。

 ひとりで、急いで着替えたのだ、と思った。侍従の手を待つ間も、惜しかったのだろう。

「アレク」

「何だ」

「襟が」

「襟」

 アレクの手が上がった。見えないところを探って、折れていないほうの襟をつまんだ。

「そちらは、合っています」

「どちらだ」

「左ですわ。あなたの」

 鏡のない廊下で、氷の皇帝は、困った顔をした。

「失礼いたします」

 一歩、近づいた。

 アレクの背が、板になった。

「息は、してくださいませ。倒れられては、朝議が流れます」

「している」

「していません」

 アレクは、浅く息をした。

 指先で折れた布をつまんで、そっと引き出した。銀糸が爪に引っかかる。顎の下に、指の背が触れた。熱かった。眠っていない人の熱だ、と自分に言った。それだけのことだ。

 襟を折り返して、形を整える。首の後ろの留め具が外れかけていたので、ついでに留めた。

 首筋が、見ているうちに赤くなった。襟の内側から耳のほうへ、ゆっくりと。氷の皇帝の首は、思ったより素直だった。

 少し離れたところで、ラドミル騎士長が窓のほうを向いていた。窓の外には、石榴の木しかない。肩だけが揺れていた。

「見るな」

 アレクが、前を向いたまま言った。

「見ておりません。石榴を」

「石榴も見るな」

 一歩下がって、確かめた。左右の襟が、鏡に映したように揃っている。

「直りました」

「……そうか」

 アレクは手を上げかけて、襟には触れなかった。触れたら、直したところが消える気がしたのだろう。

「シャル。……まだか」

 いつもより、ひとまわり低い声だった。

「襟の話でしたら、直りました」

「襟の話では、ない」

「存じております」

 銀の縫い取りの上を、指で払った。糸くずなど、ついていない。

「まだです。長くなりそうだと、申しました」

「何枚になった」

「一枚、増えました。襟の件を、書き足しましたので」

「書くな」

「書きます」

 アレクの口の端が、動いた。

 小さな扉の取っ手に、光が細く当たっていた。扉の向こうが、広間だった。

「今日は、中で待つのですね」

「中」

「扉が開くのを。広間の中で」

 アレクは、取っ手を見た。

「十年、外にいた」

 低い声だった。

「閉じた扉の前で待つのは、いつも私だった。今日は、あの方が来るのを、中で待つのか」

「はい。あの方は、ご自分の手で開けますもの」

「そうだな」

 アレクは、襟に触れないまま、長く息を吐いた。

「いい日になるといい」

「なりますわ。襟も、まっすぐですもの」

 返事は、なかった。耳が赤かった。

 鐘が鳴った。侍従が、小さな扉を内側から引いた。アレクは一度も振り返らずに、光のほうへ歩いていった。

   ◇

 私の席は、令嬢方の列のいちばん端だった。入口に近い、末席。またですのね、と思ってから、気がついた。

 ここからなら、扉が見えるし、扉の向こうの音も聞こえる。特等席ですわ。

 広間は、冷たい光に満ちていた。壇の上に玉座。その左に、背の高い椅子がもう一脚。玉座と同じ彫りのその椅子が、皇太后陛下のものだと、すぐに分かった。座布には埃ひとつなく、きちんと整えられていた。座る人のいない椅子を、十年、誰かが毎朝磨いてきたのだ。

 右手には大臣たちの席。その手前に、書記局の席が並ぶ。いちばん奥の長官の椅子は、空だった。その脇の小さな椅子に、白髪の老人が座って、骨ばった手を膝の上で組んでいる。

 その前に、レオニード副長官が立っていた。紺の上着。右手には革の手袋。左手に、細く巻いた紙。

 顔色は、地下で会ったときより白かった。私と目は合わせなかった。合わせないほうがいいと、互いに分かっていた。

 宰相ヴォイチェフは、壇の脇で胃を押さえていた。茶を何杯飲んだのか、顔が土の色をしている。

 令嬢方は、十脚の椅子に静かに座っていた。イリーナ様は、背筋を伸ばして、扇を膝に置いたまま。カミラは、扇の骨が鳴るほど握りしめ、私と目が合うと、あわてて下を向いた。

「皇帝陛下、御成り」

 侍従の声で、広間じゅうが立った。衣擦れが、波のように床を渡った。

 アレクが壇に登って、玉座に座った。灰色の目が、広間を一度撫でて、私の上で止まった。

 襟は、まっすぐだった。

 十人のうち二人が、それに気づいて、私を見た。扇が、ぱたん、と二つ鳴った。

(見ないでくださいまし)

 私は、膝の上の手を組み直した。右の袖の内側で、留め金が小さく重かった。

「朝議を、始める」

 宰相が言った。声がうわずっている。

「その前に、書記局より、お報せがあると」

 レオニードが、一歩出た。深く一礼して、巻いた紙の紐を、左手でほどく。

 七枚目だ。

 広間が静まった。窓の外で、鳥が鳴いた。

「書記局より、お報せを申し上げます」

 冷たくて、薄い声だった。地下で、ベネシュを黙らせた声。

「皇太后陛——」

 割れた。

 ざわ、と空気が動いた。大臣のひとりが、息をのんだ。書記局の席の老人の顔が、深く下がる。

 レオニードは、紙を持つ左手を見つめたまま、黙った。いち、に、さん。私は数えた。

「……下には」

 声が、戻ってきた。

 皆には、悪い報せの前触れに聞こえたはずだ。十三年、冷たい顔を守ってきた人の声が、初めて乱れたのだから。

 けれど、私は地下の声を知っている。杖は折れた足のために突くものだ、と言ったとき、あの人の声は、一度も揺れなかった。声を揺らさずに人を黙らせるのが、あの人だ。

(わざとだ)

 割れたのは「陛」だった。先生の筆が止まる、あの字で。偶然のはずがない。

(待っているのですわ)

 皇太后は、自分の足で歩いてくる。十年ぶりに、この広間へ。部屋から、ゆっくりした足で。

 だから、声を割って、時間を作ったのだ。

 私は、扉の向こうに耳を澄ませた。

 遠かった。石の廊下の、ずっと向こう。

 杖の音は、しなかった。

 乱れのない足音が、一定の歩幅で近づいてくる。十年、毎日、同じ道を歩いた人の歩き方だった。

 壇の上で、アレクは動かなかった。灰色の目が、一度だけ扉を見た。聞こえているのだ。

 レオニードが、息を吸った。紙の次の行へ、目を落とす。

「御病にて——」

 また、割れた。同じ高さで。

 足音が、近づく。私の席の、すぐ後ろの、扉へ。

 一歩。また一歩。

 そして、扉の前で、止まった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


次話は、扉が開きます。皇太后が、自分の足で入ってきます。


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