第二十一話 薨去あそばされ
「薨去あそばされ——」
その一語が天井に届くより先に、すぐ脇で音がした。
蝶番の、低く鳴る音だった。
樫の大扉が、外から押されている。扉脇の侍従が手を出しかけて、扉の向こうから短く何か言われたように、引っこめた。
あの方は、扉の向こうで聞いていたのだ。自分の死が、読み上げられるのを。
扉は重い。侍従が二人がかりで開ける扉だ。隙間から見えた手は、痩せて骨ばっていた。二枚の扉に掌を当てて、同じ力で、静かに押している。
途中で、一度止まった。
細い手首が震えた。掌が、白くなった。
立って、手を貸したかった。足が、半分動いた。私は膝の上で、自分の手を押さえつけた。
あの方は、ご自分の手で開けると言った。
扉が、また動いた。ゆっくりと、開ききった。
朝の光の中に、黒い装いの人が立っていた。銀の髪をきっちりまとめて、杖はない。背筋が伸びている。供は、ひとりもいなかった。侍従は、御成りの声を上げるのを忘れていた。
レオニードの口が、開いたまま止まった。目を見開いている。本物の驚きにしか見えなかった。演技のうまい人だ。
紙が、左手の中で動かなくなった。
誰も、息をしなかった。
がたん、と椅子の倒れる音がした。大臣のひとりが、立とうとして足をもつれさせたのだ。誰もそちらを見なかった。
「皇太后、陛下」
誰かが、かすれた声で言った。
「お亡くなりに、と」
「いま、確かに」
「お生きで、いらっしゃる」
「ゆ、幽霊では」
「靴音がした」
「幽霊は、靴を履かん」
ざわめきが広がりきる前に、皇太后が一歩、踏み入った。
靴音が、石の床をひとつ打った。
広間は、また静まった。
皇太后は扉の内側で止まって、広間を端から端まで見渡した。壁も、柱も、天井の紋章も。十年ぶりの広間だった。最後に、壇の上の空の椅子を見た。
壇の上のアレクは、動かなかった。分かっていたのに、立つのを忘れた顔で、扉の光を見ていた。
宰相ヴォイチェフが、胃を押さえていた手を離した。離したまま、膝から崩れるように椅子へ座り、座ってから立とうとして、また座った。
書記局の席の老人は、扉を見なかった。目を閉じていた。安堵のようにも、諦めのようにも見えた。唇が、短い言葉の形に動いた。読み取れなかった。その後ろで、若い下役が二人、顔を見合わせている。ひとりは紙のように白く、もうひとりは唇を噛んでいた。
令嬢方の席で、ぱたり、と扇が落ちた。カミラだった。拾おうともしない。イリーナ様の扇は動かなかった。驚いた顔ではなかった。ほっとした顔でもない。何と呼べばいいのか、分からなかった。膝の上で、指の関節だけが白かった。
皇太后が、歩きだした。
靴音が、一定の間をおいて続く。私の席の前を通る。手を伸ばせば、裾に届く近さだった。
袖の中で、握った指が震えていた。この人も、怖いのだ。
立って礼をしようとした私に、皇太后は前を向いたまま、低く言った。
「そのまま。礼は、あとで」
それから、声を落とした。
「襟を直したのは、あなたですね」
心臓が、一度、大きく鳴った。
「……お分かりに、なりますか」
「遠くからでも。あの子は、左だけ内側に折れる子でした。茶を飲ませた日も、そうでした」
足は止まらなかった。
「今朝は、まっすぐでした」
「はい」
「あの日、わたくしは直してやりませんでした。そのまま、大きくなりました」
喉の奥が、きゅっとなった。たった一度、茶を飲ませただけの子の襟を、ずっと覚えていた人だ。
「これからは、あなたが」
「皇太后陛下、私は」
「直してやりなさい。毎朝」
それだけ言って、皇太后は私の前を通りすぎた。黒い裾が床をすべって、遠ざかっていく。
壇の上から、灰色の目がこちらを見ていた。聞こえたはずはない。けれど、何かを察した顔だった。
唇が動いた。
ま、だ、か。
広間じゅうが死人を見たような顔をしているときに、この人は何を聞いているのだ。
私は、小さく首を振った。
ま、だ、で、す。
アレクの口の端が、ほんの少しだけ上がった。耳が赤い。
皇太后は、広間の真ん中を、まっすぐ進んでいく。
膝を折る音が、後ろの席から前へ、波のように広がった。大臣たちが次々に床へ膝をつき、座っていた宰相も慌てて床へ降りた。令嬢方の衣擦れが重なる。倒れた椅子の脇で、さっきの大臣が這うように頭を下げた。私も、言われたとおり、皇太后が通りすぎたあとで膝を折った。
レオニードは、紙を左手に持ったまま、深く頭を下げた。肩が、一度だけ震えた。
壇の上で、アレクが立った。
皇帝が誰かのために立つのを、見たことのない顔が、いくつもあった。アレクは壇の縁で止まって、降りなかった。言ったとおり、中で待っていた。
皇太后が、壇の下に着いた。
アレクが、右手を差し出した。
皇太后は、その手を見た。いち、に、さん。私は数えた。
「要りません」
静かな声だった。
「自分で、登れます」
アレクは、手を引いた。引いた手の指が、少しだけ、握りこまれた。
皇太后は、階段を登った。一段、また一段。裾を持ち上げもせず、手すりにも触れなかった。登りきったところで、息をひとつ吐いた。
それから、背の高い椅子の前に立った。座布には、埃ひとつない。
十年、空だった椅子に、皇太后は腰を下ろした。
アレクも、玉座に座った。肩が触れそうな近さで。二人とも、前を向いたままだった。
アレクの唇が動いた。ぎ、ぼ、う、え。
皇太后の唇も、動いた。せ、す、じ。
アレクの背が、本当に、伸びた。
広間が、息を吸った。
皇太后は、膝の上で手を組んだ。それから、跪いた大臣たちを、令嬢方を、青ざめた書記局の席を、順に見渡した。
最後に、宰相の顔の上で、目を止めた。
口が、開いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、皇太后が広間で最初に口にする言葉から。宰相の胃は、もつでしょうか。
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