第二十二話 今朝も朝食を
「ヴォイチェフ」
皇太后が、宰相の名を呼んだ。
床に膝をついた宰相の背中が、跳ねた。
「は、はいッ」
声が裏返った。胃を押さえようとしたのか、両手が宙で迷っている。
「顔色が悪いですね」
「め、滅相もございません」
「今朝は、何を召し上がりました」
広間じゅうが、息を止めた。死んだはずの人の第一声が、宰相の朝食の話だとは、誰も思わなかっただろう。
「は。茶を、二、いえ、四杯ほど」
「それは、朝食とは言いません」
「は」
「わたくしは、今朝も朝食を残さず頂きました」
皇太后は、広間の端まで届く声で言った。
「黒パンと、卵と、りんごの煮たものを。皿は、空にしてまいりました」
誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
皿を空にした人の死を、今朝、この広間は読み上げようとしていたのだ。
それから、気づいた。最初に宰相の朝食を聞いたのは、凍りついた広間の恐れをほどくためだ。この人は、いちばんつまらない話から始めたのだ。
「陛下」
皇太后が、隣の玉座を見た。
「皆を、立たせておやりなさい。膝が痛みます」
アレクの喉が、ひとつ動いた。
「……立て」
低い声だった。衣擦れが、波のように戻ってくる。私も立った。膝を折っていたせいで、足の裏がしびれている。そっと体重を移した。
その拍子に、少し離れた席で、ぱきり、と音がした。
カミラだった。立つときに、落としたままの扇を踏んだのだ。骨が、きれいに折れていた。本人は前を向いたまま、動かない。動けば足元を見られると、分かっているのだ。
そのとき、宰相ヴォイチェフが、膝をついたまま、ぼろぼろと泣きだした。
「お、お生きで、おいでで、ようございました。私は、今朝からずっと、胃が」
「ヴォイチェフ」
アレクの声が、頭の上から降った。
「泣くのは、あとにしろ」
「は、はい。あとで、いくらでも」
鼻をすすりながら、宰相は立った。
「それから」
皇太后が、右手の大臣席へ目をやった。
「先ほど、幽霊は靴を履かん、と仰ったのは、どなたです」
大臣席の端で、赤ら顔の老大臣が、中腰のまま固まった。
「わ、私でございます」
「よく通る、お声でした」
「恐れ入ります」
「確かに、わたくしは靴を履いております。——幽霊を、ご覧になったことがおありですか」
「い、いえ」
「では、なぜお分かりになったのです」
返事はなかった。赤い顔が、胸の上までうつむいて、震えていた。
笑ってはいけない、と思うほど、肩が揺れた。
「その耳の良さは、予算の数字にもお使いなさい」
「は、はいっ」
老大臣は、膝から崩れるように座りこんだ。
ふと、皇太后の右手が目に入った。肘掛けを、握りしめている。指の関節が、白かった。声があれほど静かなのに、手だけは、まだ戻っていない。
壇の上で、アレクの左手が、自分の肘掛けの上をすべった。皇太后の手のほうへ、指の幅ひとつぶんだけ。触れる前に、止まった。
それでも、動いたのだ。氷の皇帝の手が、人のほうへ。
皇太后は、隣の玉座へ目を戻した。
「陛下」
「はい」
「襟が、まっすぐですね」
アレクの肩が、ぴくりと跳ねた。右手が襟元へ上がりかけて、止まった。触れたら、直したところが消える。今朝も、そう思っているのだ。
「……はい」
氷の皇帝が、叱られた子どものような声で言った。
「よろしい。その襟のまま、朝議をなさい」
令嬢方の列で、ぱたん、ぱたん、と扇が二つ鳴った。イリーナ様の扇だけは、動かなかった。藍色の袖口の陰から、目だけがこちらを向いた。目が合った。すぐに、逸らされた。
顔が熱い。私は、手の甲で頬を隠した。
視線を感じて、そっと顔を上げた。
壇の上で、アレクの唇が動きかけていた。
ま、
私は先に、首を振った。
ま、だ、で、す。
聞かれる前に、答えた。アレクの口が、開いたまま止まった。それから、わざとらしい咳払いに変わった。
「陛下が、むせた」
大臣席のどこかで、誰かが囁いた。
氷の皇帝がむせるところなど、初めて見たのだろう。耳まで赤いのを知っているのは、私と、玉座の隣に座る人だけだ。
「陛下。お風邪ですか」
「……いえ」
「ならば、結構」
皇太后の口の端が、わずかに動いた。
「副長官」
皇太后の声が、一段、低くなった。
広間の空気が、また締まった。
レオニードが、顔を上げた。左手に、巻いた紙を持ったまま。
「は」
「その紙の続きを、読みなさい」
「……皇太后陛下の、薨去の件を、でございますか」
「ええ。最後まで」
皇太后は、膝の上で手を組み直した。
「わたくしが、聞いておきましょう。自分の死が、この広間でどんな声で読まれるのかを」
ざわめきが、止まった。
アレクが、わずかに目を細めた。宰相が、また胃のあたりを探した。
書記局の席の老人の目が、ゆっくり開いた。唇が、また動いた。今度の言葉も、読めない。後ろの下役の白いほうの顔が、紙より白くなった。
あの紙に何と書いてあるかは、私も知っている。けれど、レオニードがこの先をどう読むつもりなのかは、まだ知らない。
レオニードは、左手で紙を持ち直した。
深く息を吸う音が、ここまで聞こえた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、七枚目の紙の続きです。副長官は、どう読むのでしょうか。
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