第二十三話 墨の点
レオニードの声は、揺れなかった。
「皇太后陛下には、御病にて薨去あそばされ、昨夜、お眠りのうちにお隠れになりました。国中、三日の喪に服すべし。葬儀の次第は、追って書記局より達する。書記局発行」
「陛」の字も「薨」の字も、一度も割れなかった。さっきまで声を揺らしていた人と、同じ喉とは思えない。広間は、井戸の底のように静まっていた。
読み終えたレオニードが、口を閉じる。
「なるほど」
皇太后が、膝の上で組んだ手を、軽く持ち上げた。
「よく通る声でした。わたくしの死は、立派な布告になりますね」
宰相が、悲鳴のような息を吸った。
「ただ、もう少し悲しんでくださっても、よろしかったのに」
「申し訳ございません」
レオニードは、深く頭を下げた。上げたときには、冷たい副長官の顔は、もうそこになかった。
「以上が、書記局の名で、私に読ませようとした紙でございます」
紙を、胸の高さに掲げる。
「この紙は、偽造です」
広間の空気が、縦に裂けた。
椅子が鳴り、扇が鳴った。偽造、と誰かが言い、偽造、と別の誰かが繰り返す。
「待て」
大臣席の前列で、痩せた大臣が立った。
「書記局発行の紙を、副長官ひとりの口で偽と断ずるのか。証は」
よく響く声だった。さっき幽霊と言った赤ら顔の老大臣は膝が笑っていたのに、この人の膝は、少しも震えていない。
「証がなければ、朝議を乱した罪、副長官の首ひとつでは済まぬぞ」
「ございます」
レオニードは短く答えて、紙を左の脇に挟んだ。空いた左手で、右手の革の手袋の指先をつまむ。
一本、また一本。革が、手に貼りついているらしい。十三年、人前で外したことがないのだと、その手つきで分かった。
ずるり、と手袋が抜けた。
広間のどこかで、息をのむ音がした。
現れた右手は、指が内側へ曲がったまま固まっていた。甲に、白く引きつれた傷が、手首まで走っている。物を握れる形ではなかった。
壇の上で、アレクの肩が、わずかに沈んだ。
私は、そっと令嬢方の列を見た。扇で口を覆う人。目を逸らす人。顔を伏せた三人の名を、私は胸の中に置いた。扇の折れたカミラは、空の手を膝の上で握りしめている。イリーナ様だけが、あの手を、逸らさずに見ていた。
「十三年、手袋の下に隠してまいりました」
レオニードは、脇の紙を左手に取り直し、曲がった指の背に、下の端をのせた。
「これが、書記局副長官の手でございます。——紙を、ご覧ください。まず、御印がございません」
ざわめきが、ひとつ、引いた。
「皇太后陛下のご逝去を告げる布告に、皇帝陛下の御印がない。書記局が、そのような布告を出すことはございません。そして、もうひとつ。右下を、ご覧ください」
遠くて、見えるはずもなかった。それでも広間じゅうが、首を伸ばした。
「『書記局発行』の、『局』の字。下の小さな四角の中に、墨の点がひとつございます。米粒より、小さな点です」
点。
私は、そんな話は聞いていなかった。いつ、地下で先生が点を足したのか、知らない。けれど、あの筆が、震えずに点を打つところは、見える気がした。
「書記局の古い掟でございます」
声が、低くなった。
「写字生は、中身に疑いのある紙を命じられて書くとき、字のどこかに点をひとつ打つ。逃げ道ではございません。のちに誰かが気づくための、目印です。点のある紙は、偽りの紙。先帝陛下の代に書き残された掟で、いまは、年寄りしか覚えておりません」
書記局の席の老人の、膝の上で組まれた指が、ひとつだけ跳ねた。
「この一枚は、私が命じられて、書かせたものです。命じた者の顔は、見たことがございません。ですから、掟に倣い、書かせた者に点を打たせました。書いた者の名は、のちほど」
「それは」
痩せた大臣が言いかけた。
レオニードは、その先を待たなかった。
右手の甲で、下の端を押さえる。握れない指が、小さく震えた。左手で、紙の上半分をつかむ。
びり、と音がした。
裂け目は、文面を真横に走った。上半分が、ひらりと床へ落ちる。点のある下半分だけが、曲がった指の背に残った。
「紙を破るのに、十三年かかりました」
その声は、初めて割れた。「陛」のときとは違う。わざとではなかった。
「ラドミル殿」
壇の下に控えていたラドミル騎士長が、音もなく進み出た。点のある紙を両手で受け取り、懐紙に包む。胴元の顔は、どこにもなかった。
皇太后が、床の上半分に目をやった。
「ヴォイチェフ。拾っておやりなさい」
「は、はいッ」
「わたくしの死です。粗末にしては、罰が当たります」
宰相は、這うように進んで、薄い紙を両手で拾い上げた。涙が一滴、「薨」の字に落ちて、にじんだ。
「……老人の迷信だ」
痩せた大臣が、低く言った。
「点が何だ。そのようなもの、あとから誰にでも打てる。それよりも」
声に、粘りが混じった。
「偽造と、前もって分かっていたなら、なぜ今朝まで黙っていた。誰かと通じていたのではないか。たとえば」
目が、まっすぐ、私の席へ来た。
「昨夜のうちに、何かを吹きこんだ者と」
来た、と思った。胸は、不思議なほど静かだった。膝の上で組んだ手に、力を入れる。立ってはいけない。言い返してもいけない。今ここで言い返せば、あの人の思う壺だ。
「座れ」
壇の上から、降ってきた。
アレクが、立っていた。今朝、皇帝が立つのを見るのは、二度目だった。
氷の皇帝の声は、広間の端の壁まで、冷たく届いた。
「その問いは、宛先が違う」
「陛下、私は」
「昨日のうちにこの紙のことを知り、今朝の段取りを決めたのは、私と皇太后陛下だ。吹きこんだと言うなら、我々二人に言え」
痩せた大臣の口が、開いて、閉じた。
「言えるか」
返事は、なかった。
段取りを決めたのは、私なのに。この人は、それを知っていて、自分の名を先に出したのだ。
「客人の名を出す前に、私に聞け。順番を、間違えるな」
大臣は、何か言いかけて、座った。座ったというより、膝が落ちた。落ちた膝が、ようやく震えているのが、ここからも見えた。
アレクは、腰を戻す前に、一度だけ私を見た。唇が動きかけて、止まった。今は朝議だと、思い直したのだろう。
代わりに、肘掛けに置いた手の指が、動いた。
とん、とん、とん。
ま、だ、か、の拍だった。広間じゅうが皇帝の顔を見ているのに、指を見ているのは、私だけだ。
私は、膝の上の指を、四度、動かした。
ま、だ、で、す。
アレクの肩が、ほんの少し下がって、玉座に腰が戻った。
「副長官。もうひとつだけ」
皇太后が、静かに言った。
「は」
「書記局の紙は、長官の名で出るものでしたね」
「はい。この紙を命じた封の末尾にも、長官の御名がございました」
書記局の席の、いちばん奥。空の椅子へ、広間じゅうの目が移った。
「長官が筆を持てなくなったのは、いつ」
「去年の冬の初めと、聞いております。匙も、持てぬと」
「では、その冬から」
皇太后は、空の椅子から目を離さずに言った。
「誰の手が、長官の名を書いていたのです」
誰も、答えなかった。
答えないことが、答えの形をして、広間に座りこんだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、朝議のあと。イリーナ様が、シャルに茶を淹れます。
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