第二十四話 十年待った人
朝議は、そこで打ち切られた。
皇太后が「続きは、午後に」と言ったきり、異を唱える者はいなかった。痩せた大臣は、二人がかりで支えられて出ていった。アレクは宰相とラドミルに囲まれて、書記局の席へ向かった。
去り際に、一度だけ、こちらを見た。口は動かさず、耳だけが赤かった。
令嬢方の控えの間は、昼前なのに、夜のように静かだった。カミラは壁際で、折れた扇の骨を指でなぞっている。目が合いかけた人は、みな、先に目を伏せた。
「シャルロット様」
扉のそばに、淡い金の髪の人が立っていた。深い藍色の袖口。
「お茶を、差し上げたいのです。わたくしのお部屋で」
イリーナ様だった。あの手を、逸らさずに見ていた人だ。
断る理由は、なかった。聞きたいことも、あった。
◇
イリーナ様の部屋は、廊下のいちばん奥にあった。窓辺に、藍色の花が一輪、挿してある。窓の下は石畳の裏庭で、その向こうに、小さな門が見えた。
「どうぞ、お座りになって」
小さな丸い卓に、杯が二つ。イリーナ様は、自分で茶を注いだ。侍女は、扉の外に下げてある。
私は、いつもの癖で、湯気を手であおいだ。
「あら」
イリーナ様が、口もとを押さえた。
「噂は、本当でしたのね。お茶を、匂いで確かめる方だと」
茶葉の匂いだけだった。眠り草の甘い匂いは、しない。
「合格かしら」
「……はい」
「よかった。お話が、長くなりますので」
イリーナ様は、私より先に、自分の杯に口をつけた。
「先に、白状いたします。白百合の食堂の席のこと。わたくしが、早かったでしょう」
どきりとした。
「疑って当然ですわ。わたくしの家の者は、書記局に出入りしております。紙の流れだけは、見えますの。女官長の書付の写しを、前の晩に見ておりました」
「それで、あんなに早く」
「ええ。あなたが断ると思っておりました。断ってくださって、よかった。書付どおりの席で、笑って座れる方かどうか、見たかったのです。それと、あなたが給仕をなさった朝は、一拍、遅れましたでしょう。髪留めのことは、存じませんでした。あれは、紙に載っていなかったので」
「……見ておいででしたの」
「ええ。ずっと」
「それほど見えていて、なぜ陛下に、お知らせしなかったのです」
「証が、ございませんでした。それに、あの方に近づけば、書記局の目が、わたくしに向きますもの」
イリーナ様は、窓のほうを見た。
「南門でわたくしが申しました、『十年、お待ちしておりましたのよ』。あれは、お芝居ですの」
喉が鳴った。
「皇后候補のなかで、いちばん目立つ者が、いちばん疑われませんでしょう。あの方を『アレク』と呼ぶ、気位の高い、時代遅れの令嬢。そういう役を、わたくしが自分で選びました。書記局の方々が、わたくしを甘く見てくださるように」
「では、お待ちしていた、というのは」
「そちらは、本当です」
イリーナ様は、笑った。笑いかたが、少しだけ、苦かった。
「今朝、副長官殿が手袋を外されたとき、目が離せませんでした。十三年、隠してきた方の手でしょう。他人事とは、思えなくて」
「十三年前の夜のことを、お話ししても?」
「はい」
「わたくしは、十一でした。公爵家の者が泊まるお部屋は、昔から、ここですの。眠れなくて、この窓に立っておりました。肩に、藍色の羽織をかけて。真夜中に、人が走ってきました。十人ほど。そのうちの一人が、子どもを背負っておりました。銀色の髪が、月に光って」
息が、止まった。
「顔は、見えませんでした。背中に埋めておいででしたもの。それでも、分かりました。毎日、遊び相手を務めていた子ですから」
「アレクを」
「あの子は、一度も振り返りませんでした。わたくしの声は、出ませんでした。出したら、あの子が捕まる気がして」
十人が門を出て、闇に消えるまで、この人は窓に立っていたのだ。十一歳の足で。
「そのあと、兵が来ました。裏庭に面した部屋の子どもを、ひとりずつ調べて。男の子を見なかったか、と」
イリーナ様は、杯の縁を、指でなぞった。
「『見ていません。寝ておりました』と、お答えしました。父が、うしろで、青い顔をしておりましたわ。十一の子が、兵の前で、嘘をつきましたの」
「……それを、十三年」
「誰にも。あの方にも」
喉の奥が、熱くなった。
私が砦で、あの子の熱を下げていたころ。この人は、ここで、ひとりで、嘘を抱えていたのだ。
「三年して、あの方が、戻っていらしたの」
声が、やわらいだ。
「背が伸びて、声が低くなって。わたくしを見て、会釈をなさいました。それだけ。……覚えておられなくて、当然です。ご自分が命がけの夜に、窓の下に誰がいたかなんて」
イリーナ様は、自分の袖口を、そっと持ち上げた。
「藍色は、あの夜、肩にかけていた羽織の色です。以来、どの衣服にも、袖口にだけ、付けておりますの。いつか気づいていただけたら、と。何に気づくのか、あの方は、ご存じないのに。滑稽でしょう、十年も」
「いいえ」
声が、勝手に出た。
「いいえ。滑稽では、ありません」
イリーナ様は、少しだけ目を丸くした。それから、袖口を、目元に押し当てた。藍色の布の陰で、肩が、一度だけ小さく揺れた。
しばらくして、イリーナ様の声が戻ってきた。
「……ところで」
「はい」
「お顔に、出ておりますわよ」
「何がですの」
「嫉妬」
茶を、吹きかけた。
「し、しておりません」
「あら。そう」
「……少し」
イリーナ様は、杯を持ったまま、肩を揺らして笑った。さっきの苦い笑いではなかった。
「十年ぶりに、誰かに妬まれましたわ。嬉しいこと」
「からかわないでくださいませ」
「からかっておりません。安心なさって、と申し上げたいの。毎年、同じ日になると、あの方は、お部屋の机に向かって、何かを書いては、捨てておいででした。庭から、窓越しに見えましたの。十年、毎年」
心臓が、跳ねた。
「その先に誰がいるのか、わたくしは知りませんでした。今は、知っております。あの方の目は、十年前から、ずっと同じ方向を向いておりました。わたくしの立つ窓ではなく、帝都の外を。ですから、あなたに負けたのだと、納得できましたの」
それから、少しだけ声を明るくした。
「毎朝、聞かれているのでしょう」
「何を、でしょう」
「『まだか』と。あの朝、食堂で、皆の前で仰いましたでしょう」
顔が、熱くなった。
「それで、お答えは」
「……まだです」
「まだ」
イリーナ様は、ゆっくり繰り返した。
「十年待った者より、ずっと意地がお悪いこと」
「ち、違います。まだ、お返事を書いている途中で」
「お返事」
「十枚には、なりそうなのです」
「まあ」
イリーナ様は、また笑った。笑って、目の端を、袖口でぬぐった。
「では、もう少し、あの方に待っていただきなさいな。待つのは、あの方の得意ですもの。ただ」
杯が、卓に置かれた。かたん、と小さな音がした。
「待たせすぎては、いけませんよ。十年待った者から、ひとつだけ」
イリーナ様の顔が、令嬢のそれに戻った。
「さて。お茶は、前置きですの。今朝の朝議。書記局の席の老人のうしろに、下役が二人おりましたでしょう」
「はい。ひとりは紙のように白く、ひとりは、唇を噛んでいました」
「唇を噛んでいたほうの方が、毎晩、ある令嬢のお屋敷の裏口に、通っております。家の者が、見ておりました」
背筋が、伸びた。
「どなたの」
イリーナ様は、藍色の袖口を、そっと直した。
「ズザナ様の」
顔を伏せていた三人のなかの、ひとりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、ズザナ様のお屋敷です。唇を噛んでいた下役の行き先を、シャルが確かめます。
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