第二十五話 ズザナの家
夕暮れに部屋の前へ戻ると、廊下の床にアレクが座っていた。
外套にくるまって、膝に剣。朝議のあとの皇帝がすることではないのに、この人は、昨日までと同じ場所で、同じ格好で待っている。
「おかえり」
「ただいま戻りました。午後は」
「義母上と、書記局の記録を洗った。長官の名で出た紙が、去年の冬からどれだけあるか、数えさせている」
アレクは立ち上がって、外套の埃を払った。
「あの白髪の老人は、ガブリエルという。長官付きの秘書官だ。午後は、席にいなかった」
「お身体でも」
「長官の看病だそうだ」
看病。匙も持てない人の。
「それより」
灰色の目が、私の顔を見た。
「何を話した」
イリーナ様の部屋に呼ばれたことは、ラドミル騎士長の耳に入ったのだろう。
「秘密です」
言ってから、身構えた。この人は、聞くだろうか。
「……そうか」
アレクは、それだけだった。
「お前が約束したなら、聞かない」
前にも、同じ言葉を聞いた。胸の奥が、きゅっとなった。約束はしていない。けれど、あの人の十三年は、私の口から言うものではない。
「アレク。いつか、あの方の口から、お聞きになります」
「分かった」
短く言って、灰色の目が、少しだけ細くなった。
「シャル。まだか」
「まだです」
いつもの返事に、今日は、ほんの少し間が空いた。十年待った人の袖口が、頭をよぎったからだ。アレクは、間に気づいたらしい。何も言わず、耳だけが赤くなった。
「ひとつだけ、お話しできることが」
私は声を落とした。
「書記局の下役が、毎晩、ある令嬢のお屋敷の裏口に通っているそうです。ズザナ様の」
「ズザナ」
「朝議の列で、ずっと顔を伏せていた方です。帝都にお屋敷がありますので、夜はお家に戻られます。午後のうちに、ラドミル様の人に、裏の路地を見てきていただきました。勝手口の脇に、薪が積んであるそうです」
「ラドミルが午後から落ち着かなかったのは、それか」
「お叱りは、あとで」
「叱らない。……次は、私に先に言え」
「はい。今夜も、来るかもしれません」
「見に行く」
「私が参ります。陛下は」
「私も行く」
「アレク」
「扉の前が私の場所なら、裏口の前もだ」
理屈が、むちゃくちゃだった。けれど、この顔は、折れない顔だった。
「後ろで、薪の陰に座っていただきます」
「座る」
「声は、出さずに」
「出さない」
廊下の端で、ラドミル騎士長が、そっと天井を見上げた。
◇
月のない晩だった。
ズザナ様のお屋敷は、貴族の家が並ぶ通りの、いちばん奥にあった。表は門灯がともっていたけれど、裏の路地は暗い。勝手口の戸の脇に、薪が高く積んである。その陰に、暗い色の外套をかぶった二人が、並んでしゃがんだ。路地の両端には、ラドミル騎士長の人が、すでに潜んでいる。
肩が、触れた。
石畳から冷えが這い上がってくる。身じろぎしかけたとき、肩に、外套の端が掛けられた。無言だった。
「……あなたが冷えます」
囁くと、息だけで返事が来た。
「慣れている」
待つことには、と言いたいのだろう。私は、そのまま、外套の端を握った。
半刻ほど経った。
「来る」
アレクが、耳もとで言った。
私には、何も聞こえない。それでも少しして、路地の入口に、足音が現れた。ひそやかに急ぐ、革靴の音。
外套の襟を立てた男が、勝手口の前で止まった。左右を見て、戸を叩く。二つ、短く。一つ、長く。
戸が、内側から開いた。細い光がもれて、男の横顔を照らした。朝議の席で、唇を噛んでいた下役だった。
小さな角灯を持って立っていたのは、小柄な令嬢だった。おとなしい顔。朝議の列で、ずっと顔を伏せていた人。ズザナ様が、自分で、裏口の戸を開けている。
「遅いわ」
「申し訳ございません。朝議のあと、書記局は大騒ぎで」
下役は、懐から細い封書を出して差し出した。ズザナ様は受け取ったけれど、読もうとしなかった。
下役の声が、震えていた。
「副長官殿が、あの紙を、皇帝陛下の御前で」
「見ておりました。破られましたわね」
「はい。それで、お嬢様。私は、もう、ここへは」
「来られない、と言うの」
「書記局を、調べ始めた方々がおります。私は」
「あなたが来なくなったら」
ズザナ様の声も、細く震えていた。
「わたくしは、兄上に、何と申し上げればいいの」
下役は、答えなかった。
「兄上は、何も教えてくださらないのよ。わたくしは、お手紙の宛先なの。あなたが持ってくるものを兄上に渡して、兄上のお返事を、あなたに渡す。それだけ。中に何が書いてあるのかも、知らない」
角灯の光が、手の震えを拾っていた。
(……この人は、悪い人の顔を、していない)
怯えた人の顔だった。自分が何を運んでいるのかを、知らないまま、運ばされている人の。
「お嬢様。お耳に入れたいことが」
下役が、声を低くした。
「ガブリエル様のことです。このところ毎夜、長官の寝所に上がっておいでで。人払いをして、一刻も」
「看病でしょう」
「看病に、人払いは要りません」
ズザナ様は、息を止めた。
「何かを探しておいでのように、私には見えます。何を探しておいでなのかは」
「……分からないのね」
「はい」
ズザナ様は、長いこと黙っていた。それから、懐から油布の小さな包みを出した。
「兄上のお返事よ。持っていって」
下役が受け取る。包みは、掌に収まるほどだった。
「これが、最後になるかもしれないわ」
「お嬢様」
「お行きなさい。誰かに見られる前に」
戸が閉まった。下役は、包みを胸に押しこんで、足早に路地を戻っていく。薪の陰の二人には、気づかなかった。
アレクが、動いた。立ち上がりかけた肩を、私は押さえた。
「お待ちください。追わせるだけで、今夜は触らずに」
アレクは、しばらく黙って、それから腰を戻した。路地の端の影が、ひとつ、音もなく動いた。
屋敷の窓のひとつに、灯がともって、消えた。
「悪い者の顔ではなかった」
アレクが、低く言った。
「ええ。宛先、と仰いました。持たされているだけの方ですわ」
「兄」
「手紙の先は、兄上。そして、書記局の中の誰かが、この方々をつないでいます」
顔の見えない手は、紙の上だけではなかった。人の家の裏口にまで、伸びている。
「ガブリエル」
アレクが、つぶやいた。
「今夜も、長官の寝所にいるのか」
「人払いをして、一刻。……何を探しているのでしょう」
夜ごと副長官の引き出しに入っていた封と、夜ごと長官の寝所へ上がる老人。二つの夜が、どこかで結ばれている気がした。
外套の端が、また肩に掛け直された。
「確かめる」
アレクの声は、静かだった。
「明日、ガブリエルに会う」
私は、うなずいた。握っていた外套の端が、いつのまにか温かくなっていた。
路地を出ると、遠く宮殿の北の翼に、灯がひとつだけともっていた。長官の寝所の窓だと、アレクが言った。灯は、馬車が動き出しても、消えなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、ガブリエル老に会いに行きます。長官の寝所で、夜ごと何を探しているのでしょうか。
ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




