第二十六話 ガブリエル
ズザナ様の路地から、そのまま北の翼へ回った。夜明け前の廊下は、石の匂いがした。
長官の寝所へ通じる廊下には、誰もいない。人払いがしてあるのだ。その廊下の柱の陰に、三人で並んでいた。アレクと私と、ラドミル騎士長。
「陛下ご自身が、待ち伏せなど」
ラドミル騎士長が、小声で言った。今夜だけで三度目だ。
「私の宮殿の廊下だ」
アレクは、前を向いたまま答えた。三度とも、同じ答えだった。
窓の外は、まだ暗い。廊下の突き当たりの、重そうな扉の下から、細い光が漏れている。あの向こうに、長官が寝ている。
「シャル。まだか」
耳もとで、囁きが来た。
「夜明けでしたら、まだです」
「夜明けではない」
「存じております」
アレクが、黙った。ラドミル騎士長が、咳払いをして柱のほうを向いた。肩が揺れている。
私は、小声で付け足した。
「……お答えは、朝になってから、あらためて」
「今朝のぶんは、もう聞いたことにする」
耳が、闇の中でも赤いのが分かった。
そのとき、扉の下の光が動いた。
蝶番が、低く鳴った。
出てきたのは、小さな老人だった。白い髪。曲がった背。片手に、覆いをかけた小さな灯。もう片方の手で、そっと扉を閉めている。その指が、ひどく震えていた。
朝議の席で、空の椅子の脇に座っていた人だ。
老人は、ほっと息をついて、灯を持ち上げた。
灯が、柱の陰の三人を照らした。
老人の足が、止まった。
灯が、がたがたと揺れた。次の瞬間、老人は、石の床に膝をついていた。額が、床に付くほど頭を下げている。
「陛下」
かすれた声だった。
「とうとう、おいでに」
「立て」
アレクが、一歩出た。老人は、立とうとして、膝が言うことをきかなかった。
アレクが、手を差し出した。
朝議で、皇太后に差し出して「要りません」と退けられた手だった。老人は、一瞬ためらってから、震える手でそれを取った。アレクは、骨の細い手を、そっと引き上げた。
「ガブリエルだな」
「はい。長官付き秘書官、ガブリエルにございます」
「責めに来たのではない。夜ごと、ここで何をしている」
「お側に。看病を」
「人払いをして、一刻も」
老人の肩が、びくりと揺れた。
「看病に、人払いは要らぬと聞いた」
私は、笑いそうになって、口を結んだ。ズザナ様の裏口で聞いた言葉を、そのまま返すなんて。
廊下が、しんとなった。老人は、うつむいたまま、動かなかった。
やがて、小さな声がした。
「……探しておりました」
「何を」
「鍵を。長官の、鍵束の」
老人は、顔を上げた。皺の中で、目が濡れていた。
「書記長官は、書記局のすべての机と引き出しの合鍵をお持ちになります。それが、長官の鍵束でございます」
「副長官の引き出しの鍵も」
私が聞いた。
「はい。去年の冬、長官がお倒れになった日、鍵束は枕もとに置かれました。三月前に数えましたら、一本、足りませんでした」
背筋が、冷えた。
副長官の引き出しの鍵は、副長官しか持たないはずだった。それなのに、朝には必ず、封が入っていた。
(もう一つの鍵。長官の鍵束にあった、合鍵)
「いつ、なくなった」
アレクの声は、低かった。
「分かりません。お倒れになってから、お部屋に入れましたのは、私と医師と、お見舞いの方々だけ。身の回りの老女中は、目も耳も遠うございます」
「見舞いの」
「月に一度、立派な馬車の使いの方が、お見舞いの品を。お名乗りは、ございません。去年の冬の終わりから、欠かさず」
アレクが、私を見た。私は、小さくうなずいた。
「ラドミル。見舞いの使いの出入りを、記録から洗え」
「は」
「長官は」
「ほとんど、眠っておいでです。目を覚まされても、半分は夢の中で。ただ、先帝陛下のお名前と、陛下のお名前にだけは、お返事をなさいます」
アレクの喉が、一度、動いた。
「なぜ、今まで申し上げなかった」
老人は、唇を噛んだ。
「長官のお名前で、書記局の紙が出ているのは、存じておりました。ですが、そのお名前を使う手が誰なのか、分からぬうちに申し上げれば、長官ご自身が罪に問われます。ご自分で筆も持てぬ方が」
声が、詰まった。
「五十年、お仕えいたしました。せめて、鍵の行方だけでも、見つけてからと」
「朝議で」
アレクが言った。
「副長官が、点の掟を口にしたとき、お前の指が跳ねた」
「ご覧に、なりましたか」
老人は、苦く笑った。
「あの掟を覚えている者は、もう私だけでございます。先帝陛下の代に、写字生をしておりました。あの点を書き残したのも、私どもの先輩でございます」
副長官が、年寄りしか覚えていないと言った、その年寄りが、目の前にいた。
「あの紙に点があると聞いたとき、これで、お話しする日が来たと思いました」
「話せ」
「はい。ですが、陛下」
老人は、袖口から、小さな布包みを出した。
「口で申し上げるより、まず、これを」
包みは、手のひらに載るほどだった。薄い布が、何重にも巻いてある。
「長官の枕の下に、これがございました。三月、毎夜探しましたが、枕だけは、長官のお頭が乗っておりまして。三日前、お身体を拭くためにお起こしした折に、初めて。医師にも、見せておりません」
アレクが受け取った。指が、慎重に布をほどいていく。灰色の目が、私のほうを向いた。私も、手元をのぞきこんだ。
最後の一枚がめくれた。
出てきたのは、小指ほどの、赤黒い蝋の塊だった。片側に、細長い凹みがある。鍵の形だった。蝋は冷えきって、爪も立たないほど固い。ずっと前に作られたものだ、と指が言った。
「型……」
つぶやいてから、気づいた。
「この蝋は、封蝋の色です。お見舞いの品に付いていた蝋では、ありませんか」
老人が、はっとして顔を上げた。
「……品の小箱の封蝋と、同じ色でございます」
「鍵を持ち去ったのなら、型は要りません。型は、これから作るために取るものです。この型を取ったとき、鍵は、まだここにありました」
「最初のお見舞いは」
「……去年の、冬の終わりでございます」
鍵が足りないと気づいた三月前より、ずっと前だ。
「型を取ったあと、持ち帰らずに枕の下へ隠したのは、なぜでしょう」
「……分かりません」
凹みの横の蝋に、小さな印が押してあった。
五枚の花びらの、花の紋。
どこかで見た花だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、蝋に押された花の紋をたどります。どこかで見た花は、誰の花でしょうか。
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