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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第二十七話 花の型

 朝の光が差しこむ執務室で、ラドミル騎士長は、紋章帳を胸に抱えて仁王立ちになっていた。

「お座りください。お二人とも」

「紋章帳を」

「お座りください」

 アレクが長椅子に腰を下ろした。私も隣に座らされた。向かいに立つラドミル騎士長の目の下に、うっすらと影がある。この人も、寝ていないのだ。

「一昨日の夜は、朝議の前夜で、皇太后陛下のお部屋。昨夜は、ズザナ様の裏路地。そして今朝は、夜明け前の廊下」

 ラドミル騎士長が、指を折った。

「二晩、お休みになっておりません」

「椅子では寝た」

「それは、一昨日の話です。しかも座っておられただけです」

「寝た」

「陛下」

 声が、低く震えていた。

「宰相閣下は、今朝、お薬を湯にではなく、水で飲まれました。湯を沸かす暇もなかったそうです。私の首も、この三日で、すでに三度、洗い直しました」

「首は洗うものではない」

「洗い直す覚悟をした、という意味です」

 私は、堪えきれずに笑ってしまった。

「ご令嬢」

 ラドミル騎士長の目が、こちらに来た。

「笑い事ではございません。ご令嬢も、同じです」

「申し訳ございません」

「陛下を柱の陰にお連れになったのは、どなたですか」

「……私です」

「陛下が薪の陰にしゃがまれたのは」

「それも、私が」

「ですが、お止めしなかったのは私です。胴元として、陛下の寝不足は、賭けの成立にも差し支えます」

 真顔だった。賭けの話をしているときだけ、この人の顔は一層真面目になる。

「条件を申し上げます」

 ラドミル騎士長は、紋章帳を、胸の前でぎゅっと抱え直した。

「この帳面は、お二人が一刻、この長椅子でお休みになるまで、お開きになりません」

「ラドミル」

「ご覧になりたければ、お休みを」

「……お前は、いつからそんなに強くなった」

「十年前からです。陛下が、お気づきでなかっただけで」

 アレクは、黙った。それから、ゆっくりと息を吐いた。

「見てから、寝る」

「順番が逆です」

「見てから寝る。それ以外は、聞かない」

 折れない顔だった。ラドミル騎士長は、しばらく睨み合っていたけれど、やがて、深いため息をついて、紋章帳を卓に置いた。

「一刻。必ずです」

「約束する」

「ご令嬢も」

「はい」

   ◇

 紋章帳は、革の背表紙が擦り切れた、分厚い一冊だった。

 ラドミル騎士長が頁をめくっていく。公爵家、侯爵家、伯爵家。どの頁にも、色のついた小さな紋が、びっしりと並んでいる。

 アレクが、鍵の型の蝋を卓に置いた。私は、花の紋を、横から見た。

 五枚の花びら。鐘のように丸く開いた花ではなかった。花びらは平たく開いて、先がほんの少しだけ、窪んでいる。

「先が、割れています」

「割れている?」

「花びらの先に、浅い切れ込みが。ほんの少しですが」

 アレクが顔を寄せた。

「五弁の花を紋にしている家は」

 ラドミル騎士長が、指で頁を追った。

「三家です。りんどうのヴェルスキー公爵家。梅のコヴァーチ子爵家。桜草のノヴァーク伯爵家」

 りんどう。

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。窓辺に挿してあった、藍色の花。袖口の藍色。

 ラドミル騎士長が、りんどうの頁を開いて、蝋の隣に置いた。

 鐘のように丸く開いた花びら。先は、尖っている。

 違う。

 息が、ゆっくり抜けていった。気づかないうちに、息を止めていたらしい。

「違いますわ」

「ああ。りんどうは、先が尖る」

 アレクが言った。私の顔を、ちらりと見た。

「あの部屋で何を聞いたのかは、知らない」

 前を向いたまま、続けた。

「だが、信じたい話だったことは、顔を見れば分かる」

 疑ってしまった。あの人の部屋で、あの人の話を聞いたばかりなのに。そう思ったら、指の先が冷たくなった。

「梅は」

 ラドミル騎士長が頁をめくった。丸い花びらが、五枚。先は、どれも丸い。

「これも、違います」

「では」

 最後に開いた頁に、桜草があった。

 平たく開いた五枚の花びら。先に、ほんの少しだけ、浅い切れ込み。

 蝋の花と、並べるまでもなかった。

「ノヴァーク伯爵家」

 ラドミル騎士長が、低く言った。

 どこかで見た花。やっと、思い出した。

「カミラ様の扇です」

 折れた扇の骨。親骨の根もとに、小さな花が彫りこんであった。朝議の初め、あの人が骨の鳴るほど握りしめていた。

「そうか」

 アレクの声は、静かだった。

「型を取ったのは、ノヴァーク家の者か」

「そう決めるのは、まだ早うございます」

 私は言った。

「家の印は、家の者なら誰でも使えます。ご本人たちとは、限りません。カミラ様は、あの席のことを、わたくしの考えではないと」

「庇うのか」

「疑う前に、確かめたいだけです」

 アレクは、しばらく黙って、それから小さく息を吐いた。

「お前が決めることだ」

「ありがとうございます」

「ただし」

 灰色の目が、私を見た。

「確かめるときは、私に先に言え」

 廊下で私に言った言葉を、そっくり返された。私は、うなずくしかなかった。

 ラドミル騎士長が、手を挙げた。

「ご報告がふたつ」

 いつのまにか、懐から小さな帳面を出している。賭けの帳面ではなかった。

「ひとつ。夜明けのうちに、ガブリエル殿に確かめさせました。お見舞いの小箱の封蝋は、無地の赤で、紋はなかったそうです」

「無地」

 私は、蝋の花を見つめた。

「では、この紋は、小箱のものではありません。型を頼んだ方が、ご自分の指輪を押したのです。鍵屋に、本物の注文だと示すために」

 アレクが、顎を引いた。

「鍵屋か」

「はい。この型から鍵を作った職人が、帝都のどこかにおります」

「帝都の鍵屋は、貴族の注文には、必ず家の指輪を押させます」

 ラドミル騎士長が言った。

「偽の注文で、罰せられぬように。押印のない注文書は、一枚もないはずです」

「ただ」

 私は、蝋の花を見つめたまま言った。

「本当に企む方が、証拠の残る型に、自分の家の指輪を押すでしょうか」

「押さねば、鍵屋は動かない」

「ええ。ですから、押せる方が押したのです。ご本人か、指輪を使える誰かが」

 アレクが、小さくうなずいた。

「ふたつめ」

 ラドミル騎士長が、帳面をめくった。

「見舞いの使いの出入りを、門の記録から洗いました。馬車は黒塗りで、紋のないもの。月に一度、日暮れ前に北の門から入り、半刻で出ております」

「次は」

「明日の夕刻です」

 部屋の空気が、ぴんと張った。

 花の主の使いが、また来る。長官の枕もとに、小箱を携えて。

 誰も、口をきかなかった。

「さて」

 ラドミル騎士長が、帳面をぱたんと閉じた。

「帳面は、お見せしました。お約束の、一刻です」

「……ああ」

 アレクが長椅子の背にもたれた。私もそうした。目を閉じる前に、隣を見ると、灰色の目が、もう半分閉じていた。

「シャル」

 眠そうな声だった。

「ま、だ」

 その先は、聞こえなかった。

 寝息になっていた。

 私は、小さく笑って、囁いた。

「まだです。……おやすみなさいませ」

 衣擦れの音がした。薄く目を開けると、ラドミル騎士長が、自分の外套を、アレクの肩に掛けているところだった。

「陛下がご自分から眠られるのを、私は、十年、見たことがありません」

 囁き声だった。

「いつも、扉の前か、床か、椅子の上で。夜を明かすことしか、なさらない方が」

 騎士長は、隣に座る私を、ちらりと見た。

「ご令嬢の隣では、眠れるのですね」

 返事をしようとして、できなかった。瞼は、もう開かなかった。

 明日の夕刻までに、花の主を確かめなければならない。そう思いながら、意識が、ゆっくり沈んでいった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


次話は、長官の病床です。明日の夕刻に来る使いを、待ちます。


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