第二十七話 花の型
朝の光が差しこむ執務室で、ラドミル騎士長は、紋章帳を胸に抱えて仁王立ちになっていた。
「お座りください。お二人とも」
「紋章帳を」
「お座りください」
アレクが長椅子に腰を下ろした。私も隣に座らされた。向かいに立つラドミル騎士長の目の下に、うっすらと影がある。この人も、寝ていないのだ。
「一昨日の夜は、朝議の前夜で、皇太后陛下のお部屋。昨夜は、ズザナ様の裏路地。そして今朝は、夜明け前の廊下」
ラドミル騎士長が、指を折った。
「二晩、お休みになっておりません」
「椅子では寝た」
「それは、一昨日の話です。しかも座っておられただけです」
「寝た」
「陛下」
声が、低く震えていた。
「宰相閣下は、今朝、お薬を湯にではなく、水で飲まれました。湯を沸かす暇もなかったそうです。私の首も、この三日で、すでに三度、洗い直しました」
「首は洗うものではない」
「洗い直す覚悟をした、という意味です」
私は、堪えきれずに笑ってしまった。
「ご令嬢」
ラドミル騎士長の目が、こちらに来た。
「笑い事ではございません。ご令嬢も、同じです」
「申し訳ございません」
「陛下を柱の陰にお連れになったのは、どなたですか」
「……私です」
「陛下が薪の陰にしゃがまれたのは」
「それも、私が」
「ですが、お止めしなかったのは私です。胴元として、陛下の寝不足は、賭けの成立にも差し支えます」
真顔だった。賭けの話をしているときだけ、この人の顔は一層真面目になる。
「条件を申し上げます」
ラドミル騎士長は、紋章帳を、胸の前でぎゅっと抱え直した。
「この帳面は、お二人が一刻、この長椅子でお休みになるまで、お開きになりません」
「ラドミル」
「ご覧になりたければ、お休みを」
「……お前は、いつからそんなに強くなった」
「十年前からです。陛下が、お気づきでなかっただけで」
アレクは、黙った。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「見てから、寝る」
「順番が逆です」
「見てから寝る。それ以外は、聞かない」
折れない顔だった。ラドミル騎士長は、しばらく睨み合っていたけれど、やがて、深いため息をついて、紋章帳を卓に置いた。
「一刻。必ずです」
「約束する」
「ご令嬢も」
「はい」
◇
紋章帳は、革の背表紙が擦り切れた、分厚い一冊だった。
ラドミル騎士長が頁をめくっていく。公爵家、侯爵家、伯爵家。どの頁にも、色のついた小さな紋が、びっしりと並んでいる。
アレクが、鍵の型の蝋を卓に置いた。私は、花の紋を、横から見た。
五枚の花びら。鐘のように丸く開いた花ではなかった。花びらは平たく開いて、先がほんの少しだけ、窪んでいる。
「先が、割れています」
「割れている?」
「花びらの先に、浅い切れ込みが。ほんの少しですが」
アレクが顔を寄せた。
「五弁の花を紋にしている家は」
ラドミル騎士長が、指で頁を追った。
「三家です。りんどうのヴェルスキー公爵家。梅のコヴァーチ子爵家。桜草のノヴァーク伯爵家」
りんどう。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。窓辺に挿してあった、藍色の花。袖口の藍色。
ラドミル騎士長が、りんどうの頁を開いて、蝋の隣に置いた。
鐘のように丸く開いた花びら。先は、尖っている。
違う。
息が、ゆっくり抜けていった。気づかないうちに、息を止めていたらしい。
「違いますわ」
「ああ。りんどうは、先が尖る」
アレクが言った。私の顔を、ちらりと見た。
「あの部屋で何を聞いたのかは、知らない」
前を向いたまま、続けた。
「だが、信じたい話だったことは、顔を見れば分かる」
疑ってしまった。あの人の部屋で、あの人の話を聞いたばかりなのに。そう思ったら、指の先が冷たくなった。
「梅は」
ラドミル騎士長が頁をめくった。丸い花びらが、五枚。先は、どれも丸い。
「これも、違います」
「では」
最後に開いた頁に、桜草があった。
平たく開いた五枚の花びら。先に、ほんの少しだけ、浅い切れ込み。
蝋の花と、並べるまでもなかった。
「ノヴァーク伯爵家」
ラドミル騎士長が、低く言った。
どこかで見た花。やっと、思い出した。
「カミラ様の扇です」
折れた扇の骨。親骨の根もとに、小さな花が彫りこんであった。朝議の初め、あの人が骨の鳴るほど握りしめていた。
「そうか」
アレクの声は、静かだった。
「型を取ったのは、ノヴァーク家の者か」
「そう決めるのは、まだ早うございます」
私は言った。
「家の印は、家の者なら誰でも使えます。ご本人たちとは、限りません。カミラ様は、あの席のことを、わたくしの考えではないと」
「庇うのか」
「疑う前に、確かめたいだけです」
アレクは、しばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「お前が決めることだ」
「ありがとうございます」
「ただし」
灰色の目が、私を見た。
「確かめるときは、私に先に言え」
廊下で私に言った言葉を、そっくり返された。私は、うなずくしかなかった。
ラドミル騎士長が、手を挙げた。
「ご報告がふたつ」
いつのまにか、懐から小さな帳面を出している。賭けの帳面ではなかった。
「ひとつ。夜明けのうちに、ガブリエル殿に確かめさせました。お見舞いの小箱の封蝋は、無地の赤で、紋はなかったそうです」
「無地」
私は、蝋の花を見つめた。
「では、この紋は、小箱のものではありません。型を頼んだ方が、ご自分の指輪を押したのです。鍵屋に、本物の注文だと示すために」
アレクが、顎を引いた。
「鍵屋か」
「はい。この型から鍵を作った職人が、帝都のどこかにおります」
「帝都の鍵屋は、貴族の注文には、必ず家の指輪を押させます」
ラドミル騎士長が言った。
「偽の注文で、罰せられぬように。押印のない注文書は、一枚もないはずです」
「ただ」
私は、蝋の花を見つめたまま言った。
「本当に企む方が、証拠の残る型に、自分の家の指輪を押すでしょうか」
「押さねば、鍵屋は動かない」
「ええ。ですから、押せる方が押したのです。ご本人か、指輪を使える誰かが」
アレクが、小さくうなずいた。
「ふたつめ」
ラドミル騎士長が、帳面をめくった。
「見舞いの使いの出入りを、門の記録から洗いました。馬車は黒塗りで、紋のないもの。月に一度、日暮れ前に北の門から入り、半刻で出ております」
「次は」
「明日の夕刻です」
部屋の空気が、ぴんと張った。
花の主の使いが、また来る。長官の枕もとに、小箱を携えて。
誰も、口をきかなかった。
「さて」
ラドミル騎士長が、帳面をぱたんと閉じた。
「帳面は、お見せしました。お約束の、一刻です」
「……ああ」
アレクが長椅子の背にもたれた。私もそうした。目を閉じる前に、隣を見ると、灰色の目が、もう半分閉じていた。
「シャル」
眠そうな声だった。
「ま、だ」
その先は、聞こえなかった。
寝息になっていた。
私は、小さく笑って、囁いた。
「まだです。……おやすみなさいませ」
衣擦れの音がした。薄く目を開けると、ラドミル騎士長が、自分の外套を、アレクの肩に掛けているところだった。
「陛下がご自分から眠られるのを、私は、十年、見たことがありません」
囁き声だった。
「いつも、扉の前か、床か、椅子の上で。夜を明かすことしか、なさらない方が」
騎士長は、隣に座る私を、ちらりと見た。
「ご令嬢の隣では、眠れるのですね」
返事をしようとして、できなかった。瞼は、もう開かなかった。
明日の夕刻までに、花の主を確かめなければならない。そう思いながら、意識が、ゆっくり沈んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、長官の病床です。明日の夕刻に来る使いを、待ちます。
ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




