第二十八話 病床
昼過ぎ、長官の寝所の扉の三歩手前で、アレクの足が止まった。
ガブリエル老が、取っ手に手をかけたまま、振り向いて待っている。
「シャル」
囁きが来た。
「まだか」
「まだです」
私は、小声で返した。
「ですが、扉まで、あと三歩ありますもの」
「数えるのか」
「数えますとも」
アレクの肩から、少し力が抜けた。一歩、二歩、三歩。ガブリエル老が、扉を開けた。
薬草と、古い紙の匂いがした。
窓際に、大きな寝台がある。白い掛け布の中に、小さな老人が埋まるようにして眠っていた。白い髭。こけた頬。手だけが、布の上でひどく大きかった。長い年月、筆を握り続けた手だった。
寝台の脇の小卓に、鍵束が置いてある。輪に通った鍵の、ちょうどひとつぶんだけ、隙間が空いていた。そこには、鍵のない小さな象牙の札だけが下がっている。墨で、『副』と書いてあった。
窓辺の椅子で、老女中が編み物をしていた。目を上げて、すぐ手元へ戻す。目も耳も遠いというのは、本当らしい。
「ヴォルコフ長官」
ガブリエル老が、寝台の脇に膝をついた。
「ガブリエルでございます。お客様が。……陛下が、お越しです」
返事はなかった。胸だけが、ゆっくり上下している。
アレクが、寝台の脇に立った。長いこと、見下ろしていた。それから、そっと膝を折って、掛け布の上の大きな手に、自分の手を重ねた。
「ヴォルコフ」
低い声だった。
「アレクセイだ」
睫毛が、動いた。
薄く開いた目は、濁っていた。焦点が合わない。乾いた唇が、かさりと音を立てた。
私は、枕もとの水差しで布を湿らせて、その唇に、そっと当てた。唇が、かすかに動いた。
「……でん、か」
殿下。
即位してから十年、その呼び方をする人は、いなかったはずだ。
「殿下……ご無事で……」
老人の目が、ゆっくり動いた。アレクの顔を探している。見えているのかは、分からない。けれど、重なった手を握り返そうとする指だけは、はっきり動いた。
「……お小さい殿下が……廊下を……走っておいでに……」
十三年前の廊下を、見ているのだ。
「裏門は……閉めました……閉めましたが……間に、合わず……」
涙が、目尻から皺をつたって、枕に落ちた。
「お守り、できませんでした……先帝陛下に、お誓いしたのに……」
「ヴォルコフ」
「印を……」
老人の唇が、震えた。
「印は、誰にも、渡してはならぬと……先帝陛下が……この手を、取って……」
老人の指が、わずかに握り返した。
「紙は……国の記憶だと……記憶を、誰のものにも、してはならぬと……」
ガブリエル老が、両手で顔を覆った。肩が震えている。
「ガブリエル様」
私は、小声で聞いた。
「印を最後にご覧になったのは、いつですか」
「去年の冬の終わりでございます」
指の間から、かすれた声がもれた。
「長官がお倒れになって、三月ほど経った頃。お見舞いの使いの方々がおいでになり、私は、お茶を取りに、半刻ほど席を外しました。戻りましたら」
老人は、声を絞った。
「長官のお手に、印を握らせておいででした。お手を上から押さえて、書付に、押させて。長官は、お目を開けておいででした。開けて、泣いておいででした。お声も、お出しになれず」
寝台の上の手が、アレクの手の下で、わずかに震えた。
「終わりますと、印は、使いの方が持ち帰られました。印が、長官のお手に戻ったことは、一度もございません。それからは、使いの方がおいでのあいだ、私は部屋の外に出されます。印を見たのは、あの一度きりでございます」
アレクの指が、白くなるほど握りしめられるのが見えた。
「私は、止められませんでした。五十年お仕えして、お手を押さえる手を、止められなかった」
「ガブリエル」
アレクが、顔を上げずに言った。
「止められなかったのは、私だ」
「陛下、それは」
「十三年、お前たちを置いて、逃げた。生きるために。そのあいだに、書記局が、こうなった」
声が、そこで切れた。
「陛下は、十一歳でございました」
ガブリエル老が、涙の顔のまま、言った。
「逃がされたのは、陛下のせいではございません。お守りしたのは、私どもの務めで、その務めを果たせなかったのも、私どもでございます」
アレクの喉が、鳴った。何か言おうとして、言葉が出ない。息を止めたまま、肩が固まっていた。
十三年前に、泣けなかった人だ。泣くと、息が止まる気がしたと、言っていた。
「アレク」
私は、囁いた。
「息を」
アレクの喉が、一度、大きく鳴った。それから、ゆっくり、長く、息を吐いた。吐いた息と一緒に、涙が一滴、重ねた手の上に落ちて、長官の指の間にしみた。
寝台の上で、老人の唇が動いた。
「……殿下は……泣かぬお子でした……」
ほとんど、聞こえない声だった。
「……お泣きに、なるのですね……よう、ございました……」
アレクの肩が、小さく震えた。声は、出なかった。
私は、アレクの袖を、そっとつまんだ。何も言わなかった。言わないほうがいいと、分かっていた。
老人の指が、アレクの掌の上で、ゆっくり動いた。何かを書いている。字の形を、なぞるように。
「……殿下の、字は……私が、お教え、しました……」
アレクが、はっと息を吸った。
「どの字も……最後の、曲がりで……一度、筆が、止まって……」
「……ヴォルコフ」
「直りましたか……あの、癖は……」
アレクは、泣いているのか笑っているのか分からない顔で、首を横に振った。
「直っていない。……今も、止まる」
隣で、私の指が、勝手に動いた。『気』の、最後の曲がり。十年、同じところで止まった筆。
この人は、十三年前の少年の筆の癖を、まだ覚えていたのだ。
しばらくして、老人の指が、またわずかに動いた。
「……お預け、した……」
「何を」
アレクの声は、掠れていた。
「鍵を……殿下を、お守りする、ためだと……あの、お方が……」
全員が、息を詰めた。
「あの方とは」
老人の唇が、動いた。声にならない。何度か、同じ形を作った。その唇の形は、「ぜ」で始まった。
けれど、そこで、瞼が落ちた。寝息に戻った。
私たちは、顔を見合わせた。
「長官は」
ガブリエル老が、袖で涙を拭った。
「三年前から、長官は、何かを胸に押しこめておいでの様子でした。そのお方のお名前は、一度も、口になさいませんでした」
「明日の夕刻、使いが来る」
アレクが、涙の跡の残る顔で、言った。声は、もう震えていなかった。
「お前は、いつもどおりにしていろ。私は、ここで待つ」
「陛下」
「今度は、手を押さえさせない」
ガブリエル老が、深く頭を下げた。肩が、さっきとは違う震えかたをしていた。
三年。
鍵と、印と、使いと。一本の糸が、三年前から、長官の枕もとに伸びていた。
小卓の鍵束が、窓の光を受けて、かすかに揺れた。空いたひとつぶんの隙間が、黒く見えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、長官の唇が、ある名前を結びます。
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