第二十九話 ゼノン様
夕日が窓を橙に染める頃になっても、アレクは寝台の脇から動かなかった。
ラドミル騎士長が、二度、呼びに来た。二度とも、アレクは「ここにいる」と答えた。三度目は何も言わず、毛布と夕食の盆を置いて出ていった。盆の上のパンは、ちゃんと二人分あった。部屋の隅の椅子では、ガブリエル老が、膝に手を置いたまま眠っていた。
アレクは、床に腰を下ろして、寝台の縁に背をもたせていた。片手は、掛け布の上の大きな手を握ったままだ。扉の前に座る人の座りかたと、同じだった。
「寝台の脇も、私の場所になったな」
小声だった。
「扉の前から、寝台の脇へ。ご出世ですわ」
「うるさい」
アレクの口の端が、ほんの少し上がった。
私は、自分のパンを割った。大きいほうを差し出す。
「半分です」
「お前の分だ」
「半分です」
アレクは、困った顔で受け取って、かじった。
「……蜂蜜がない」
「ありませんわね」
「次は、塗らせる」
それから、長官の寝顔を見た。
「六つのときに、習い始めた。剣は叔父上に、字はヴォルコフに」
独り言のようだった。
「ヴォルコフは、毎朝、書記局の机の端に私を座らせた。膝の上に紙を置いて」
私は、黙って聞いた。
「最後の曲がりで止まると、叱られた。叱ったあとで、必ず言われた」
アレクは、握った手を見下ろした。
「止まってよい。止まったところから、また書けばよい、と」
胸の奥で、何かが、ことりと鳴った。
十年、同じところで止まった二人の筆。止まっては、また書いた。止まったところから、続きを。
「アレク」
「何だ」
「私の返事は、今、七枚目です」
アレクが、顔を上げた。
「……まだか、と聞こうとしていた」
「存じております」
「七枚目か」
「止まったところから、書いております」
灰色の目が、ゆっくり瞬いた。それから、外の夕日のほうを向いて、小さく息を吐いた。耳が、夕日より赤かった。
「……十枚で、足りるのか」
「書き損じも入れて、でございます。拾ってくださる方がいらっしゃいますもの」
「拾う」
「ええ」
寝台の上で、掛け布が動いた。
ガブリエル老が、はっと目を覚まして、立ち上がった。アレクと私も、息を止めた。
長官の目が、開いていた。
さっきと違う。濁りが薄れている。天井を見て、それから、ゆっくり、傍らのアレクを見た。
「……殿下」
はっきりした声だった。
「ヴォルコフ」
「お変わりなく……いえ、お変わりに、なられました。先帝陛下に、よく似て」
皺だらけの顔が、かすかに緩んだ。
「……そちらの、お嬢さんは」
視線が、私に来た。
「シャルロットだ」
アレクが答えた。
「辺境の、娘だ。……私の、客人だ」
「客人」
長官は、ゆっくり繰り返した。目が、細くなった。笑ったのだと、分かった。
「殿下が……お客人と、お呼びになる、方なら……」
老人の指が、私のほうへ、わずかに伸びた。私は、その手をそっと取った。紙のように乾いた、大きな手だった。
「殿下を……よろしく……お願い、いたします」
「はい」
声が震えそうになるのを、こらえた。
「お側に、おります」
長官は、満足そうに目を閉じかけた。それから、急に、目を見開いた。
「殿下」
アレクの手を、強く握り返した。さっきまでのどの力とも、違った。
「鍵は……ゼノン様の、お使いに……お預け、いたしました……」
部屋が、止まった。
「三年前……殿下を、お守りするには……大公殿下の、お力が……と……」
「ヴォルコフ」
「私が……間違って、おりました……か……」
声が、そこで、ほどけた。目が閉じ、手の力が抜けた。胸が、ゆっくり上下する。眠っていた。
誰も、動かなかった。
「間違っていない」
アレクが、眠る老人に、低く言った。
「お前は、私を守ろうとした。それは、私が、知っている」
ガブリエル老の肩が、小さく震えた。
やがて、その喉の奥から、小さく息をのむ音がもれた。
「ゼノン……大公殿下」
「叔父上だ」
アレクが、低く言った。
「先帝の、弟君だ。私に、最初の木剣をくださった方だ」
アレクは、続けた。
「北の領地で、病を養っておられる。この十年、私は、一度もお顔を見ていない」
「十年も」
「こちらから見舞いを送れば、年に一度、返事が来る。体を悪くして、人と会えぬ、と」
病を養う大公。病床の長官。
ガブリエル老が、震える声で言った。
「三年前の春……長官は、一度だけ、北へ早馬を出されました。お戻りになった返書をご覧になって、顔色を、お変えに」
三年前の春。
北の庭の鍵が皇太后の手を離れた、あの書付と、同じ春だ。
「何が書いてあった」
「存じません。ただ、そのあと、長官は、胸の奥に何かをしまわれたように」
老人の言葉が、途切れた。
アレクは、長官の手を握ったまま、動かなかった。灰色の目が、何も映していなかった。
「叔父上が」
つぶやいた。
「そんなはずは、ない。病で、床を離れられぬ方が」
言葉と裏腹に、握った指が、白くなっていた。
ガブリエル老が、袖口から、擦り切れた小さな手帳を出した。
「陛下。お見せするものが、ございます」
アレクが受け取って、開いた。細かい字が、びっしりと並んでいる。日付と、番号と、紙の種類。
「長官のお名前で出た紙の、控えでございます」
「三年分、か」
「最初の一枚の字が、長官のものではないと気づいた日から、取り始めました。写字生の習いで、控えがないと、落ち着かぬものですから」
老人は、少し恥ずかしそうに言った。
アレクは、頁をめくる手を止めて、私に差し出した。
「シャル。見てくれ。紙のことは、お前のほうが早い」
私は、頁に目を走らせた。日付の脇に、小さな書きつけがある。『字、整いすぎ』『跳ね、なし』『紙、北方産の麻』。三年のあいだ、この老人は、顔の見えない手の癖を、一枚ずつ書き留めていたのだ。
「北からの返書が、届いたのは」
「最初の一枚が出た、前の日でございます」
返書が届いた、翌日。長官の名で、最初の紙が出た。
私は、手帳をそっと閉じて、老人の手に戻した。
「……五十年、書記だったな」
アレクが言った。
「はい。書くことしか、できませんので」
「それで足りる」
アレクは、老人の手の中の手帳を見た。
「この一冊は、私の軍より役に立つ」
ガブリエル老の顔が、くしゃりと崩れた。
「確かめる。明日の使いのあとで」
アレクは、静かに言った。
「それまで、誰にも、この名は言うな。手帳は、お前が持っていろ。シャルにだけは、見せていい」
「はい」
窓の外で、夕日が沈んでいく。
鍵と、印と、使いと。糸は、この寝台から、遠い北の寝台へ、伸びていた。
床にいる人と、床にいるはずの人。二つの寝台のあいだに、顔の見えない手が、確かにあった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、長官を見舞う使いがやってきます。
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