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『幼馴染を優先して何が悪い』と婚約者が言うので、私も幼馴染を優先することにしました。――私の幼馴染、隣国の皇帝なんですけど【連載版】  作者: ゆちこんす。
第四章 帝都の十二人

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第二十九話 ゼノン様

 夕日が窓を橙に染める頃になっても、アレクは寝台の脇から動かなかった。

 ラドミル騎士長が、二度、呼びに来た。二度とも、アレクは「ここにいる」と答えた。三度目は何も言わず、毛布と夕食の盆を置いて出ていった。盆の上のパンは、ちゃんと二人分あった。部屋の隅の椅子では、ガブリエル老が、膝に手を置いたまま眠っていた。

 アレクは、床に腰を下ろして、寝台の縁に背をもたせていた。片手は、掛け布の上の大きな手を握ったままだ。扉の前に座る人の座りかたと、同じだった。

「寝台の脇も、私の場所になったな」

 小声だった。

「扉の前から、寝台の脇へ。ご出世ですわ」

「うるさい」

 アレクの口の端が、ほんの少し上がった。

 私は、自分のパンを割った。大きいほうを差し出す。

「半分です」

「お前の分だ」

「半分です」

 アレクは、困った顔で受け取って、かじった。

「……蜂蜜がない」

「ありませんわね」

「次は、塗らせる」

 それから、長官の寝顔を見た。

「六つのときに、習い始めた。剣は叔父上に、字はヴォルコフに」

 独り言のようだった。

「ヴォルコフは、毎朝、書記局の机の端に私を座らせた。膝の上に紙を置いて」

 私は、黙って聞いた。

「最後の曲がりで止まると、叱られた。叱ったあとで、必ず言われた」

 アレクは、握った手を見下ろした。

「止まってよい。止まったところから、また書けばよい、と」

 胸の奥で、何かが、ことりと鳴った。

 十年、同じところで止まった二人の筆。止まっては、また書いた。止まったところから、続きを。

「アレク」

「何だ」

「私の返事は、今、七枚目です」

 アレクが、顔を上げた。

「……まだか、と聞こうとしていた」

「存じております」

「七枚目か」

「止まったところから、書いております」

 灰色の目が、ゆっくり瞬いた。それから、外の夕日のほうを向いて、小さく息を吐いた。耳が、夕日より赤かった。

「……十枚で、足りるのか」

「書き損じも入れて、でございます。拾ってくださる方がいらっしゃいますもの」

「拾う」

「ええ」

 寝台の上で、掛け布が動いた。

 ガブリエル老が、はっと目を覚まして、立ち上がった。アレクと私も、息を止めた。

 長官の目が、開いていた。

 さっきと違う。濁りが薄れている。天井を見て、それから、ゆっくり、傍らのアレクを見た。

「……殿下」

 はっきりした声だった。

「ヴォルコフ」

「お変わりなく……いえ、お変わりに、なられました。先帝陛下に、よく似て」

 皺だらけの顔が、かすかに緩んだ。

「……そちらの、お嬢さんは」

 視線が、私に来た。

「シャルロットだ」

 アレクが答えた。

「辺境の、娘だ。……私の、客人だ」

「客人」

 長官は、ゆっくり繰り返した。目が、細くなった。笑ったのだと、分かった。

「殿下が……お客人と、お呼びになる、方なら……」

 老人の指が、私のほうへ、わずかに伸びた。私は、その手をそっと取った。紙のように乾いた、大きな手だった。

「殿下を……よろしく……お願い、いたします」

「はい」

 声が震えそうになるのを、こらえた。

「お側に、おります」

 長官は、満足そうに目を閉じかけた。それから、急に、目を見開いた。

「殿下」

 アレクの手を、強く握り返した。さっきまでのどの力とも、違った。

「鍵は……ゼノン様の、お使いに……お預け、いたしました……」

 部屋が、止まった。

「三年前……殿下を、お守りするには……大公殿下の、お力が……と……」

「ヴォルコフ」

「私が……間違って、おりました……か……」

 声が、そこで、ほどけた。目が閉じ、手の力が抜けた。胸が、ゆっくり上下する。眠っていた。

 誰も、動かなかった。

「間違っていない」

 アレクが、眠る老人に、低く言った。

「お前は、私を守ろうとした。それは、私が、知っている」

 ガブリエル老の肩が、小さく震えた。

 やがて、その喉の奥から、小さく息をのむ音がもれた。

「ゼノン……大公殿下」

「叔父上だ」

 アレクが、低く言った。

「先帝の、弟君だ。私に、最初の木剣をくださった方だ」

 アレクは、続けた。

「北の領地で、病を養っておられる。この十年、私は、一度もお顔を見ていない」

「十年も」

「こちらから見舞いを送れば、年に一度、返事が来る。体を悪くして、人と会えぬ、と」

 病を養う大公。病床の長官。

 ガブリエル老が、震える声で言った。

「三年前の春……長官は、一度だけ、北へ早馬を出されました。お戻りになった返書をご覧になって、顔色を、お変えに」

 三年前の春。

 北の庭の鍵が皇太后の手を離れた、あの書付と、同じ春だ。

「何が書いてあった」

「存じません。ただ、そのあと、長官は、胸の奥に何かをしまわれたように」

 老人の言葉が、途切れた。

 アレクは、長官の手を握ったまま、動かなかった。灰色の目が、何も映していなかった。

「叔父上が」

 つぶやいた。

「そんなはずは、ない。病で、床を離れられぬ方が」

 言葉と裏腹に、握った指が、白くなっていた。

 ガブリエル老が、袖口から、擦り切れた小さな手帳を出した。

「陛下。お見せするものが、ございます」

 アレクが受け取って、開いた。細かい字が、びっしりと並んでいる。日付と、番号と、紙の種類。

「長官のお名前で出た紙の、控えでございます」

「三年分、か」

「最初の一枚の字が、長官のものではないと気づいた日から、取り始めました。写字生の習いで、控えがないと、落ち着かぬものですから」

 老人は、少し恥ずかしそうに言った。

 アレクは、頁をめくる手を止めて、私に差し出した。

「シャル。見てくれ。紙のことは、お前のほうが早い」

 私は、頁に目を走らせた。日付の脇に、小さな書きつけがある。『字、整いすぎ』『跳ね、なし』『紙、北方産の麻』。三年のあいだ、この老人は、顔の見えない手の癖を、一枚ずつ書き留めていたのだ。

「北からの返書が、届いたのは」

「最初の一枚が出た、前の日でございます」

 返書が届いた、翌日。長官の名で、最初の紙が出た。

 私は、手帳をそっと閉じて、老人の手に戻した。

「……五十年、書記だったな」

 アレクが言った。

「はい。書くことしか、できませんので」

「それで足りる」

 アレクは、老人の手の中の手帳を見た。

「この一冊は、私の軍より役に立つ」

 ガブリエル老の顔が、くしゃりと崩れた。

「確かめる。明日の使いのあとで」

 アレクは、静かに言った。

「それまで、誰にも、この名は言うな。手帳は、お前が持っていろ。シャルにだけは、見せていい」

「はい」

 窓の外で、夕日が沈んでいく。

 鍵と、印と、使いと。糸は、この寝台から、遠い北の寝台へ、伸びていた。

 床にいる人と、床にいるはずの人。二つの寝台のあいだに、顔の見えない手が、確かにあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


次話は、長官を見舞う使いがやってきます。


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