第三十話 茶会の支度
朝、扉を開けると、廊下の床にアレクがいた。
外套にくるまって、壁に背をもたせている。膝の上に盆。盆の上に、パンがひとつ。
「おはようございます」
「おはよう」
目の下に、薄い影があった。眠れなかったのだと、一目で分かった。私も浅かった。目を閉じるたびに、ガブリエル老の喉の奥の、息をのむ音が聞こえた。
けれど、あの名は、口にしない。壁にも耳はある。アレクも、何も言わなかった。
代わりに、盆を差し出した。
「塗らせた」
パンの断面が、琥珀色に光っている。蜂蜜だ。
アレクは、パンを割って、大きいほうを私に渡した。
「半分だ」
「それは、昨日の私の台詞ですわ」
「返す」
かじると、甘さが舌に広がった。向かいで、アレクも同じようにかじっている。口の端が、ほんの少し緩んでいた。昨日の夕暮れの顔より、ずっと生きた顔だった。
アレクが、空いた手で、私の袖口を一度だけつまんで、すぐ離した。昨夜は言えなかった分だと、分かった。
「アレク。お話しすることが、ございます」
「聞く」
「先に言え、と仰いましたので」
アレクの手が止まった。
「カミラ様を、お確かめします。今日の午後、お茶にお招きして」
「花の主か」
「まだ、主と決まったわけではございません。ですから、お茶です。疑うのではなく、見るだけです」
「見るだけ」
「はい。お茶の席は、育ちの癖が出ますもの。手も口も、出しません」
アレクは、パンを飲みこんで、しばらく黙った。
「夕刻の使いは」
「それまでに終えます」
「分かった。……私も行く」
「男子禁制ですわ」
「いつからだ」
「今日からです」
真顔で言ったら、アレクが本気で考えこんだ。
「……では、隣の部屋にいる」
「給湯室の戸の向こうなら」
「扉の前が私の場所だと、言ったな」
「今日は、扉の向こうでございます」
アレクの口の端が、ぴくりと上がった。
「まだか」
「八枚目に、かかっております」
「……あと二枚か」
「書き損じが入りますので、もう少し」
アレクが、こほんと喉を鳴らした。耳が赤い。
午前のうちに、支度を済ませた。
台所の菓子司は、私が頼んだ「北から来た砂糖」の壺を、うさんくさそうに抱えてきた。
「黒砂糖ですぜ。癖が強くて、帝都のお方は誰も使わねえ。昔いた北出の爺さんだけが、あれを。茶を淹れる前に、必ず砂糖を先に杯へ入れる変わり者で」
「先に」
「帝都の者は、茶を注いでから溶かすでしょう。北の者は、逆で」
北の作法。紙は、北方産の麻。
「白と黒、二つ並べてくださいな」
「なんのまじないで」
「辺境のお茶会の作法ですわ」
廊下では、ラドミル騎士長が、後ろ手に帳面を隠して壁を向いていた。
「陛下が給湯室の床にお座りになるのは、帝国始まって以来かと存じます。これを賭けずして、何を賭けると」
「今日の席で、賭けはなりません」
「……夕刻のあとなら」
「構いません」
茶室の鍵を預かる筆頭女官は、私の顔を見ても鍵を出さなかった。
「候補の方々のお名前でなければ」
「では、わたくしの名で」
イリーナ様だった。りんどうの指輪を、女官の目の高さに掲げる。鍵が出てきた。
「借りは、取り立てるわ。十三年分のお話を、ひとつ。陛下から聞き出して」
「ご自分で、お聞きになれば」
「あの人は、話さないもの」
私は声を落として、カミラ様もお招きしてほしいと頼んだ。
「理由は聞かないわ。ただし、わたくしの席では、誰も傷つけないで」
「見るだけです。約束いたします」
◇
昼下がり、茶室の長卓に、白い壺と黒い壺が並んだ。
給湯室との境の戸が、指一本ぶん開いている。向こうで、床に座った人の気配がした。湯の沸く音の合間に、咳をひとつ我慢するのが分かる。ラドミル騎士長の囁きまで、聞こえた。
「陛下、湯呑みは、握るものではありません」
令嬢たちが、ひとり、またひとりと入ってきた。衣擦れと、白粉の香り。皆、私の顔を見ては、目をそらす。
カミラ様は、三番目だった。例の扇を、半ばまで開いて持っている。親骨の根もとの花は、ここからは見えない。それでも、私の目は、そこへ行った。
茶が注がれて、少しした頃だった。
「辺境では」
向かいの席から、甘い声がした。ブラジェク侯爵家の、ミレナ様だった。
「お茶は、雪を溶かして、泥ごと召し上がるのだとか」
くすくすと、笑いが広がった。
「泥は、沈めますわ。上澄みを頂きます」
「まあ、作法がおありなのね」
ミレナ様は、扇の陰で笑った。
「でも、陛下もお気の毒に。珍しいお菓子には、飽きるのも早いものですのに。辺境の娘など、半月ももつかしら」
そのときだった。
給湯室で、ガシャン、と陶器の割れる音がした。
茶室が、凍った。
数瞬のあと、戸の向こうから、小さな声がした。
「……ちゅう」
ラドミル騎士長の声だった。小声で何か囁く気配があり、間をおいて、ずっと低い声が、ひどく嫌そうに続いた。
「……ちゅう」
誰も動かなかった。私も動けなかった。笑いを嚙み殺しすぎて、肩だけが震えた。
「あら」
イリーナ様が、杯を置いた。
「鼠ですわ」
「宮殿に、鼠が」
「ええ。とても耳のよい、大きな鼠が。……ミレナ様、今のお話、もう一度、聞かせて差し上げたら?」
ミレナ様の顔から、血の気が引いた。扇が、がたがたと鳴った。
「わ、わたくしは、その」
それきり、ミレナ様は、杯に手を伸ばさなかった。
空気を戻したのは、戸口のざわめきだった。
「ズザナ様が、まだお見えになりませんわ」
イリーナ様が、囁いた。
戸口に立ったのは、令嬢ではなかった。黒い外套の、若い男だった。
「ズザナ様のお家の使いの者にございます。お嬢様は、病にて伏せっております。お詫びの品を、お届けに」
深く頭を下げて、小さな包みを掲げる。イリーナ様の目が、私のほうへ動いた。私は、小さくうなずいた。
「ご丁寧に。せっかくですもの、一杯、召し上がっていらして」
女官が、卓の端に空の杯を一客置いた。男は、その前に立った。
白い壺と、黒い壺。
男の手は、迷わなかった。黒い壺の蓋を取る。匙で砂糖をすくう。そして、まだ茶の入っていない杯の底へ、ためらいもなく、落とした。
茶より、先に。
菓子司の声が、耳の奥で鳴った。北の者は、逆で。
女官が茶瓶を傾けるより早く、カミラ様の扇が、ぱちりと閉じた。握る指の関節が、白かった。男は、そちらを見なかった。見ないようにしている、と分かる見かただった。
戸の向こうで、湯の音が止まった。息をする音も、聞こえなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、砂糖を先に入れた男の正体に迫ります。扇を閉じたカミラは、何を知っているのでしょうか。
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