第三十一話 砂糖を取る順番
男は、空の杯の前に立ったまま動かなかった。
女官が、茶瓶を傾けた。琥珀色の茶が、砂糖の上へ落ちていく。黒い粒が、ゆっくりほどけた。
私は、男の指を見た。荒れていた。荷を扱う手だ。筆を握る手ではない。
「お国は、どちら?」
イリーナ様が、世間話の声で聞いた。
「帝都の生まれにございます」
早すぎる答えだった。聞かれる前から、用意してあった声だった。
帝都の者は、茶を先に注ぐのに。
男は杯を取って、熱いはずの茶を、一息に飲み干した。
「ごちそうさまにございます」
頭を下げたとき、がたん、と椅子が鳴った。
カミラ様が、立ち上がっていた。
「失礼いたします。急に、頭が」
裾をつまむために、扇を椅子の上へ放り出した。そのまま戸口へ向かう。足がもつれていた。誰も、引き止めなかった。
「わたくしも」
誰より先に戸口へ走ったのは、ミレナ様だった。
令嬢たちが、ひとり、またひとりと席を立つ。使いの男は、卓の端に小さな包みを置いて、もう一度頭を下げ、振り返らずに出ていった。
あっというまに、茶室は、イリーナ様と私だけになった。
「わたくしは、何も見ていないわ」
イリーナ様は、空いたカミラ様の席を見たまま言った。
「鼠の声のほかは」
「イリーナ様」
「約束は守ったわね。誰も、傷つけなかった」
まだ、傷つけてはいない。けれど、あの扇の音は、傷つく前の音に聞こえた。
「あの扇、預かって差し上げたら? お返しするのも、あなたの仕事でしょう」
イリーナ様は、片目をつぶって出ていった。
卓の端に、男の置いていった包みが残っていた。お詫びの品、と言っていた。
ほどいてみた。黒砂糖の飴が、数粒。あの壺と同じ、癖のある匂いがした。
飴を包んでいた紙を、指でこすった。ざらりと、繊維が立つ。
麻だった。厚くて、目の粗い。
(紙、北方産の麻)
ガブリエル老の手帳の、小さな字が頭をよぎった。
そのとき、給湯室の戸が開いた。
出てきたアレクは、右手を左手で押さえていた。指のあいだから、赤いものが一筋、袖口へつたっている。
後ろで、ラドミル騎士長が、割れた陶器を盆に乗せて、天井を見ていた。
「湯呑みは、握るものではないと、申し上げました」
「割る気は、なかった」
「割る気のない方の手は、そうはなりません」
私は、アレクの手首をつかんで、卓の前に座らせた。手巾を出す。
「かすり傷だ」
「血が出ています」
「ミレナ嬢の言葉よりは、浅い」
「それは、比べるものではありません」
布を巻く指が、少し震えた。腹が立っていた。この人にではなく、血が出るまで握らせた言葉に。
結び目を作って、きゅっと締める。
「痛い」
「我慢してください」
「痛い、と言った」
「我慢してください、と言いました」
アレクは、結び目を見下ろした。小さな、きちんとした結び目だった。
「……半月、と言ったな」
「ええ」
「半月ももつか、と」
「ええ。それが」
「もたないのは、お前のいない私のほうだ」
ラドミル騎士長が、盆を持ったまま、梁の数を数え始めた。
私は、結び目を持ったまま、顔を上げられなかった。
「……そういうことは、手当てが終わってから、仰ってください」
「終わっている」
「終わっておりません。まだ、端を切っていません」
切る糸など、なかったのに。アレクの口の端が、ぴくりと上がった。
「それから」
アレクが、咳払いをした。
「あの声は、忘れろ」
「ちゅう、ですか」
「言うな」
「お上手でしたわ。特に、二度目が」
「ラドミル」
「は。鼠が一匹では、不自然と存じまして」
「私が鳴く必要は、なかった」
「ミレナ様のお顔の色が変わりましたので、効果は絶大かと」
梁を見上げたまま、ラドミル騎士長の肩が揺れていた。
アレクは、結び目を見下ろしたまま、小さな声で付け足した。
「……お前が笑ったから、いい」
「なお」
ラドミル騎士長が、盆を抱え直した。
「ミレナ様のご退場は、予想の三倍の速さでございました。賭けではなく、個人的な観測です」
「聞いていない」
「夕刻のあとの精算に、含めておきます」
◇
卓の端に座り直して、私は話した。先に言う、と約束したから。
男が黒い壺から砂糖を取ったこと。茶より先に落としたこと。帝都の生まれだと、早すぎる声で答えたこと。包みの紙が、北方産の麻らしいこと。そして、カミラ様の扇が閉じたこと。
「北か」
アレクは、その名を言わなかった。言わないまま、灰色の目だけが暗くなった。
「カミラ様が、あの男をご存じなのかどうかは、まだ分かりません。ご存じないのに、顔色が変わっただけかもしれません」
「お前が決めることだ」
「ええ。ですから、まだ決めません」
「使いの男には、茶室を出たところから、影をつけてあります」
ラドミル騎士長が言った。
「トマシュを」
四半刻ののち、トマシュが戻ってきた。給仕の服ではなく、騎士の装束で、息が切れていた。
「使いの男は、貴族街の奥へ入りました。ズザナ様のお屋敷の、裏口に」
「表からではなく」
「裏口です。ただ、表の門番に確かめましたところ、今日、病のお嬢様に代わって使いを出した覚えはない、と」
ズザナ様の家の使いではなかった。ズザナ様の家に、裏口から出入りできる使いだ。
「兄上の使いでしょうか」
「妹の名を借りて、何を見に来た」
アレクが言った。
「お前の茶会を、見に来たのだろう」
背中が、冷えた。見るつもりが、見られていた。
窓の外が、橙に傾き始めていた。夕刻の使いまで、あと一刻。
アレクが立ち上がった。
「長官の部屋へ行く」
「はい。……少しだけ、お待ちを」
椅子の上に、扇が残っていた。預かったものを返す前に、骨に傷みがないか確かめるだけ。そう自分に言い訳をして、手に取った。
親骨の根もとに、小さな花が彫ってある。花びらの先が、浅く割れている。桜草。
閉じた骨を、そっと開いた。
骨と骨のあいだに、細く折った紙が、挟まっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は、カミラの扇に挟まっていた紙を開きます。夕刻の使いも、もうすぐです。
ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




