第八話 皇太后の召し
ミエルから降りて、書状を差し出した私の手から、守備隊長ゴラズドは、それを両手で受け取った。
大きな手だった。封蝋の鷲の紋に、太い親指がかかる。広場じゅうが静まりかえって、遠くの噴水の音まで聞こえた。
ゴラズドは、封蝋を見て、紙の質を見て、文面を見た。ゆっくり、ゆっくりと。時間をかけるほど、人垣の期待がふくらんでいくのが、背中で分かった。
やがて、顔を上げた。
「……令嬢。この招待状は、偽物です」
声が、広場のすみまで届いた。届くように、張り上げたのだ。
どよめきが走った。十二人のご令嬢の列から、くすくすと、笑いがもれた。イリーナの扇が、ゆっくりと開く。
(……来ましたわ。書いてあったとおり)
私は、顔に出さないように、ほんの少し首をかしげた。
「偽物、ですの」
「御印の鷲の羽は、十二枚と決まっております。この封蝋は、一枚、足りません」
足りないわけがなかった。この封蝋は、アレクが自分の指輪で押したのだから。
「私には、十二枚あるように見えますけれど」
「写しの出来がよいほど、疑わしいのです。取調所で、改めさせていただく」
ゴラズドは、招待状を自分の帯にはさもうとした。
そのとき、馬の降りる音がした。
アレクだった。シュトルムの手綱を騎士に投げて、石畳の上を、まっすぐ歩いてくる。一歩ごとに、広場の温度が下がっていくようだった。
「その書状は、私が書いた」
氷の声が、広場に落ちた。
「私の手で書いて、私の指輪で押した。……私の言葉を、偽物と呼んだか」
ゴラズドは、さっと膝をついた。けれど、招待状は、手から離さなかった。
「恐れながら、陛下。これは書記局の命にございます。書記局の命は、何人の命にも先立ちます。陛下が制止されても、従えませぬ」
一字一句、昨夜の物置で読んだ書状のとおりだった。
広場が、凍りついた。
「……今、なんて」
人垣のどこかで、野菜かごを抱えた老婆が、つぶやいた。
「皇帝陛下より、書記局のほうが、上だって……?」
ざわめきが、波のように後ろへ広がっていく。
アレクは、動かなかった。ただ、右手の青い指輪が、夕日の中で、静かに光っていた。ラドミル騎士長の手が、剣の柄にかかる。
私は、一歩前へ出た。
「陛下。お怒りは、あとで。まず、拝見いたしましょう」
それから、ゴラズドに向かって、にっこり笑った。
「守備隊長さま。その『書記局の命』、皆さまにも聞こえるように、お読みくださいませ。陛下のお言葉より先に立つほどの命でしたら、隠す理由は、ございませんでしょう?」
「そ、それは……内々の……」
「読め」
アレクの一言で、ゴラズドの額に、汗が浮いた。
ゴラズドは、招待状を小脇に抱えて、腰に挟んだ書状を、震える指でほどいた。
「……『南門守備隊長ゴラズド殿。皇帝陛下ご一行が南門に至りしとき、同行の令嬢が示す招待状は、偽造と見なし、没収せよ。令嬢は取調所へ送り、宮殿へ上げてはならぬ』」
声が、だんだん小さくなっていった。
「『この命は、書記局の命として、何人の命にも先立つ。皇帝陛下の御言葉あるとも、従うな』」
読み終えたとき、広場に、風の音しかなかった。
十二人のご令嬢の列が、乱れた。笑っていた誰かの扇が、ぱたりと閉じた。
「陛下の御言葉に、従うな、と」
老婆の声が、今度は、はっきりと響いた。
「あたしらの陛下に、従うなって、書いてあるのかい」
「陛下」
淡い金の髪の令嬢が、静かに歩み出た。イリーナだった。
「長旅のあとです。守備隊長の落ち度は、宮殿で、ゆっくりお調べになれば。民の前で、陛下のお顔に傷をつけるのは、いかがなものでしょう」
耳に心地よい声だった。もっともな言い分だった。
けれど、それが、ほんの一拍、早かった気がした。
アレクは、イリーナを見なかった。
「傷がついたのは、私の名だ。民の前で、直す」
イリーナは、ゆっくりと膝を折った。
「……仰せのままに」
扇の陰で、その唇が、わずかに結ばれたのが見えた。
(今は、何も決めつけないでおきましょう)
私は、ゴラズドの手の中の書状に、目を戻した。
「守備隊長さま。その書状を、高く、掲げていただけますか。皆さまにも、見えるように」
ゴラズドは、言われるまま、両手で書状を頭の上に掲げた。小脇の招待状が、ずるりと落ちかけた。
夕日が、紙を透かした。
末尾に、書記局の発行印が、ひとつ。御印は、どこにもなかった。
墨の線が、くっきりと浮かんだ。右上へ、すっと跳ね上げる、あの癖。「速」でも「送」でもなく、今度は、文中の「従」と「先」の最後の一画が、同じ角度で跳ねていた。
やっぱり、同じ手だった。
私は、もう一枚、宰相の持つリプカの書状を受け取って、ゴラズドの書状の横に並べた。
リプカの夜は、跳ねの癖ばかり見ていて、気づかなかった。読み比べているうちに、別のことに見えてきた。
昨夜の石段で、アレクが言った。字は隠せない。あの手の持ち主も、必ず、どこかで止まっている、と。
「……アレク」
「何だ」
「『陛下』の字を、見てください」
二枚の書状には、どちらにも「陛下」が、何度も出てくる。
私は、「陛」の右側の、いちばん最後の線を、指でさした。
「ここだけ、墨が、濃くなっています。筆が止まると、墨が紙に溜まるのです。ほかの字の払いは、どれも墨がかすれて抜けているのに」
ゴラズドの書状にも、リプカの書状にも。何か所あっても、「陛」の最後の線だけは、必ず、そうだった。
アレクが、息をのんだ。
「あの手の持ち主は、『陛下』と書くときだけ、必ず、ためらうのですわ。ほかの字は、ためらいなく書くのに」
「……私を、陛下と呼びたくないのか」
「いいえ」
私は、首を横に振った。
「書きたくない人は、一度で書き飛ばします。止まるのは、書いてはいけないと、分かっている人です。陛下に背く紙を、書きながら」
アレクは、しばらく、何も言わなかった。
灰色の目が、紙の上の濃い一点を、じっと見ていた。何かを思い出そうとして、思い出さないようにしているような目だった。
「……まだ、分からん」
それだけ言って、アレクは、顔を上げた。
誰かの顔が、一瞬だけ、浮かんだのかもしれない。けれど、それを口にしない人だということも、私は知っていた。
「ゴラズド」
アレクが、静かに呼んだ。
「お前が従うのは、誰だ」
「……へ、陛下で、ございます」
「では、陛下の御言葉に先立つ命は、何だ」
「…………ございません」
ゴラズドは、書状を持ったまま、石畳に、額をこすりつけた。
「命じた者の顔は、見ておりません! 先日の夜中に、書記局の使いの者が、これを置いていっただけで……従わなければ、私の名を、守備隊の名簿から消すと、使いの者が、口で言ったのです。家族もいます。私は、ただ……」
「顔を知らぬ者の、御印もない紙で、私の客人を止めたのか」
アレクは、騎士長に、短く顎をしゃくった。
「三日前に布告を出した。御印のない書記局の文書を持つ者は、その場に留め置く、と。……連れていけ。書記局の命が届かぬ牢で、よく考えろ」
ラドミルが、ゴラズドの両腕を取って、立たせた。引きずられていく大きな背中が、ひどく小さく見えた。
書状は、ゴラズドの手から、宰相の手に渡った。私の招待状も、宰相が拾って、私の掌に戻してくれた。宰相は、二枚の書状を胸に抱えて、ほとんど祈るような顔をした。
「……民の皆の前で、読まれましたな」
「ああ」
「これで、もう、握りつぶせません」
静まりかえっていた広場に、誰かの声が、ぽつりと上がった。
「……皇帝陛下、ばんざい」
野菜かごの老婆だった。
一人が言うと、次の一人が続いた。声が重なって、広場じゅうが、わあっと膨らんだ。帽子が空に舞った。子どもが肩車の上で、旗を振った。
氷の皇帝は、その声の中で、ほんの少しだけ、目を細めた。
その声が、少し落ち着いたころ。
アレクが、私の前に立った。
そして、広場じゅうに聞こえる声で、言った。
「皆に、告げる」
人垣が、また静まった。
「この者は、私の客人だ。名は、シャルロット・フォンテーヌ。辺境伯の娘だ」
一音ずつ、噛みしめるように。名前を、最後まで。
「……私が、十年、返事を待った人だ」
膝が、がくりと抜けそうになった。
広場が、一瞬、完全に音を失った。そのあと、さっきの何倍もの声が、爆発した。
十二人のご令嬢が、列のまま、凍りついていた。扇を取り落とした人がいた。ただ一人、扇を握りしめたまま、少しも表情を変えなかった人がいたけれど。
うしろで、宰相ヴォイチェフが、声をあげて泣いていた。ラドミルが戻ってきて、黙って、ハンカチを差し出した。橋のときと同じ、ハンカチだった。
「……陛下」
私は、アレクの袖を、そっと引いた。耳まで赤くなっているのが、近くで見ると、よく分かった。
「広場の真ん中で、あれは、ずるいですわ」
「事実を言った」
「心臓に、悪いのです」
「そうか」
アレクは、真顔で、小さくうなずいた。
「……シャル。まだか」
「夜は、朝ではありません」
「また言われた」
「明日の朝まで、お待ちください。でも」
私は、袖を引いた指に、もう少しだけ力をこめた。
「今のは、ほんの少し、近づきましたわ」
アレクの肩が、すっと落ちた。口の端を押さえる手が、間に合っていなかった。
懐の革袋の底の、縫いこまれた一枚に、私は、そっと指で触れた。
これは、まだ、要らない。
取っておきましょう。もっと、大きな門のために。
そのとき、人垣の左右が割れて、銀糸の外套の侍従が、静かに進み出た。
宮殿からの使いだった。侍従は、アレクに一礼し、それから、まっすぐ私の前に立った。
「シャルロット・フォンテーヌ様」
名前を、一音も間違えなかった。
「皇太后陛下が、お待ちでございます。ご令嬢、お一人で、と」
アレクの手が、ぴくりと動いた。
「私が、同行する」
「いいえ、陛下には、お召しがございません」
侍従は、にこりともしなかった。
私は、アレクの手の甲に、もう一度、そっと自分の手を重ねた。さっき剣を止めたときと、同じ重さで。
「一人で、参りますわ」
「シャル」
「砦育ちですもの。紙の次は、人の罠でしょう? ……顔のあるぶん、こちらのほうが、ずっと分かりやすいですわ」
アレクは、歯を食いしばった。皇帝なら、侍従など一言で退けられる。それをしないのは、私が自分で選ぶと言ったからだ。
「……お前が、決めることだ」
それから、自分の外套の肩から、鷲の紋の銀の留め金を外した。私の掌に、そっと握らせる。
アレクの肩の熱が、まだ残っていた。
「宮殿の者なら、誰でも知っている。これを持つ者に手を出す者は、私に手を出すことになる」
「……求婚では、ありませんわね」
「預けるだけだ。……まだ」
最後の一言は、小さすぎて、風にまぎれた。
「必ず、返しに戻れ。自分の足で」
アレクの声が、かすれていた。
私は、その留め金を握りしめて、白い城門を見上げた。
(皇太后陛下の御意を名乗る紙が、私を国境で止めようとした。宮殿へ上げてはならぬ、という紙もあった。そして今、私を宮殿へ召すお方)
どちらが、本心なのだろう。
夕日が、帝都の塔の先を、金に染めていた。
読んでいただき、ありがとうございます!
「陛下」の字だけ、筆が止まる。顔のない書き手の、いちばん小さな手がかりです。
そして、広場の真ん中で、十年ぶりに名前を最後まで呼んだ皇帝。書いていて、いちばん楽しかった場面です。
次回、シャルロットが一人で、皇太后のもとへ向かいます。預かった留め金の重さと一緒に。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。毎朝「まだか」と聞かれるシャルロットを、見守ってください。




