第七話 盗られるための一枚
夜が明ける前に、目が覚めた。
窓の外は、まだ青い。屋敷は静まり返っていて、廊下から、衣擦れの音ひとつしない。
(……まさか)
そっと扉を開けた。
アレクは、同じ場所に座っていた。外套にくるまって、膝に剣を乗せて、壁に頭をあずけている。その手の中に、空になった椀があった。
一晩じゅう、持っていたらしい。
目が合うと、アレクは、少しも迷わなかった。
「おはよう、シャル。まだか」
「……窓の外が、まだ暗いですわ」
「いちばんに聞くと言った」
「一番鐘よりも、早いですのに」
「一番鐘を待っていたら、二番目になる」
氷の皇帝は、大まじめだった。
廊下の端で、ラドミル騎士長が、咳ばらいに見せかけて顔をそむけた。
「……まだです」
その横で、若い騎士が二人、そろって銅貨を一枚ずつ、ラドミル騎士長の掌に置いた。騎士長は、無言で懐にしまった。
「そうか」
アレクは、満足そうにうなずいた。
「では、明日の朝も、いちばんに聞く」
「寝ていらっしゃいませんね」
「座ったまま、少し寝た」
「それは、寝たとは言いません」
「お前の扉の前では、よく眠れた」
不意打ちは、ずるい。
私は、ずり落ちかけた毛布を、アレクの肩まで引き上げてから、扉を閉めた。閉めた扉の向こうで、アレクが小さく笑った気配がした。
◇
朝食は、ミロスラフの屋敷では取らなかった。
騎士たちの焚き火のそばで、固いパンと、湯気の立つ麦の汁をすすった。宰相ヴォイチェフは、昨夜のことで目の下に濃いくまを作っていたけれど、筆と紙の箱だけは、膝の上から離さなかった。
「陛下。国境の通達も、昨夜の書状も、陛下のお名前を騙りながら、御印がございません。ですが、地方の者には、書記局の発行印だけで、十分に重いのです。誰も、確かめようとしません」
「そうだな」
「ですから、先に出します。御印のある紙を」
宰相は、胃薬の包みを一つ開けて、湯に溶かした。
「……紙には、紙で、ですのね」
「はい。紙を使う相手には、紙で」
宰相は、ものすごい速さで筆を走らせた。同じ文を、三枚。
『これより帝都までの宿場、関所、渡し場のすべてに告ぐ。皇帝陛下ご一行に関わる通達で、陛下の御印のないものは、一切無効とする。御印のない書記局の文書を携えた者は、その場に留め置き、速やかにご一行へ報せよ』
アレクが、右手の青い石の指輪を外した。三枚に垂らした赤い蝋の上へ、順に押していく。帝国の鷲の紋が、三つ、くっきりと沈んだ。
「この指輪は、寝るときも外さない。書記局が、どれほど器用でも、これだけは写せない」
「これを、早馬で、街道沿いの全部の宿場へ」
宰相は、騎士を三人呼んで、一枚ずつ布告を渡した。
「帝都へは、出さないのですか」
私が聞くと、宰相は、悔しそうに唇を結んだ。
「帝都へ入る文書は、すべて書記局を通ります。……街道は、これで守れます。帝都の門と宮殿の中だけは、乗りこむしかありません」
「もう一枚、書く」
騎士たちが出ていくと、アレクが言った。
「布告は、街道を守る。だが、お前を守る紙が、もう一枚要る」
「招待状が、ございますわ」
「昨夜、盗られかけた。紙は、盗られる」
アレクは、宰相の手から、新しい紙と筆を取った。
それなのに、筆の先は、紙の上で止まったまま、動かなかった。
「……十年、お前を、『シャル』としか書けなかった」
低い声だった。
「名前を、最後まで書くのは、初めてだ」
息をするのを、忘れた。
毎年届いた、あの短い手紙。『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』呼びかけは、いつも愛称ひとつで、『シャルロット』と、最後まで書かれたことは、一度もなかった。
書けなかったのだと、今なら分かる。きちんと書いたら、あふれてしまうから。
アレクは、ゆっくりと、一字ずつ、書いた。
『この者、シャルロット・フォンテーヌは、私の客人である。
この者を止める者は、私が止める。 アレクセイ』
書き慣れた、まっすぐな字だった。昨夜見た、あの右上へ跳ね上げる癖の手とは、まるで違う手だった。
ただ、「シャルロット」の最後の「ト」だけが、ほんの少し、震えていた。
最後に指輪を押す。差し出された紙を、私は両手で受け取った。インクが乾くまで、指が動かなかった。
宰相の目が、また潤みはじめた。
「陛下、せめて『客人』ではなく、『将来、皇后となられる方』と……」
「まだだ」
「まだですわ」
私とアレクの声が、同時に重なった。
宰相は、持っていた筆を落とした。
その紙は、アンヌの手で、父にもらった革袋の底に、縫いこまれることになった。
針に糸を通すのは、なぜか宰相の仕事だった。
「宰相様、手元が震えていらっしゃいます」
「胃のせいです」
「糸の先を、もう少し舐めて」
「帝国の宰相が、侍女殿に糸の先を舐めろと言われる日が来るとは……」
アンヌは、眉ひとつ動かさずに、薬草の袋の底へ、紙を一枚、薄く畳んで縫いつけた。
◇
それから二日、街道は穏やかだった。
水車のまわる小川。石の橋。赤い屋根の村。手を振る子どもたちが三つの村にいて、そのたびに、アレクは馬を止めかけて、宰相に叱られた。騎士団の荷馬車には、青い顔のミロスラフが揺られていて、振り返るたびに、ひっ、と首をすくめた。
最初の晩に泊まった宿場町ヴェシュナの、いちばん大きな宿の扉には、また、あの文字が貼られていた。
『本日、貸切』
宰相が、馬車を降りるより早く、宿の主人が飛び出してきた。そして、貼り紙を、びりっ、と破いた。
「布告を拝読いたしました! 御印のない紙は、一切、無効でございます!」
主人は、誇らしげに、胸を張った。
「こちらの貼り紙にも、御印はございません。よって、本日は、どなたでもお泊まりいただけます! ついでに、お品書きにも御印がございませんので、無効でございます!」
「羊は、有効にしてくれ」
アレクが、真顔で言った。
宰相は、その場で、少しだけ泣いた。
「……効いておりますな、陛下」
「ああ。効いている」
アレクは、破られた貼り紙を、おもしろそうに見下ろしていた。
「紙は、紙で返すものだな」
「はい。書記局の紙は、これで一枚、ただの紙くずです」
私は、思わず声を立てて笑った。胸の奥がすっとした。
二つ目の晩は、リプカという宿場町だった。
宿の主人は、青い顔で出迎えて、馬車が止まるなり、アレクの前にひざまずいた。
「陛下! 昨日の夕方、布告のとおり、留め置きました! 書記局の使いを名乗る男です。御印のない書状を持っておりまして」
裏庭の物置に、縄をかけられた若い男が、転がされていた。書記局の制服の袖口が、インクで黒く汚れている。その背中の上に、宿の女将が、どっかりと座っていた。
「昨日の夕方から、ずっとでございます」
女将は、誇らしげに言った。
「布告に、『その場に留め置き』とございましたので」
アレクの口もとが、ひくりと動いた。
「こ、この男です!」
荷馬車から降ろされたミロスラフが、男を指さして叫んだ。
「私の屋敷に来て、『陛下のためだ』と言った使いは、この男です! 御一行をお迎えに出ているあいだに、いつのまにか姿を消して……!」
男は、顔をそむけた。
ラドミルが、男の荷を探って、封をされた書状を一通、取り出した。蝋に押されているのは、書記局の発行印だけだった。
宛名は、『帝都南門守備隊長ゴラズド殿』。
「開けろ」
アレクが、短く言った。
宰相が、封を切って、読み上げた。
「『先便のとおり。皇帝陛下ご一行が南門に至りしとき、同行の令嬢が示す招待状は、偽造の疑いありとして没収せよ。令嬢は取調所へ送り、宮殿へ上げてはならぬ。陛下が制止されても、書記局の命が先に立つと答えよ』」
誰も、何も言わなかった。
「……ザレスクでしくじった場合の、二の矢でしょう」
宰相が、かすれた声で言った。
皇帝の御前で、皇帝の命令を、書記局の紙の下に置け、と書いてある。
「……私の前で、書記局が先だと」
アレクの声は、静かだった。静かすぎて、物置の空気が凍った。
「ゴラズドを、今すぐ捕らえろ」
「お待ちください」
私は、書状の端を指でおさえた。
「『先便のとおり』とあります。守備隊長さまは、もう命令を受け取っていますわ。今、ここで捕らえても、命令を出した人は、顔を出しません。守備隊長さまが、勘違いをしただけ、で終わってしまいます」
「では、どうする」
「命令書を、帝都の皆さまの前で、読み上げていただきましょう」
アレクが、眉を寄せた。
「門の前で、守備隊長さまが、私の招待状を『偽物だ』と言いきる。陛下が止めれば、守備隊長さまは、命令書を出すしかなくなります。そこまで、やらせます。紙の上の悪事は、紙を見せるのがいちばん早いですもの」
「あれは、私の名で出した招待状だ。お前の招待状を、盗らせるのか」
「盗られても、困らない紙に、してくださったではありませんか。それに、陛下のお名前の招待状を破り捨てた人は、その場で罪人になりますわ」
私は、父の革袋を軽く叩いた。底に、縫いこまれた紙が、かさ、と鳴った。
「あの一枚は、囮です。本物は、こちらに」
しばらくの沈黙のあと、アレクは、ぽつりと言った。
「……お前は、時々、私より怖い」
「砦で、罠を張るのは私の係でしたもの」
アレクは、私をじっと見てから、長く息を吐いた。
「……お前に、任せる」
「陛下ぁ……心臓にも、胃にも、悪うございます……」
宰相が、壁に額をつけた。
私は、縛られた若い男の前にしゃがんだ。
「どなたに、頼まれましたの」
「し、知りません。書記局の、若い書記官としか……顔も見ておりません」
男は、かすれた声で言った。
「私は、運び屋です。仕事は、いつも、机の上に置かれているだけで。書状の字は、いつも同じ方で……」
私は、書状の文字を見た。『送』の字。しんにょうの最後が、すっと右上へ跳ねていた。
やっぱり、同じ手だ。
顔のない誰かは、顔を見せないまま、紙の上で、私を待っている。
◇
その夜、宿の裏口の石段に、アレクが座っていた。
扉の前ではなかった。月明かりの下で、上着の内側から、紐でくくった紙の束を取り出して、膝の上に広げている。
「何ですの?」
「お前の返事だ」
十二枚あった。どれも折り目が白くすり切れて、角が丸くなっている。見覚えのある、小さな丸い字。
一枚目から十枚目までは、同じ一行だった。
『元気です。――シャル』
「……持ち歩いていらしたの」
「砦を出るときも、帝都を出るときも。これだけは、必ず」
アレクは、一枚を月に透かした。
「十年、読んだ。毎年、一行だけ」
「一行しか、書けませんでしたの」
「分かっている」
アレクは、いちばん古い一枚を、指でなぞった。
「お前の字は、『元気です』の『気』の最後の曲がりが、いつも少しだけ濃い。書いている途中で、一度、筆が止まった跡だ」
胸の奥を、掴まれたようだった。
自分でも、知らなかった。誰にも、気づかれたことがなかった。
「十枚とも、同じところで止まっていた。毎年、そこで何を書きたかったのか、考えた。答えは、分からなかった」
アレクは、十一枚目を広げた。ひときわ折り目のほどけかけた、一枚だった。
『今年は、あなたに会いたい』
どこにも、筆の止まったところがなかった。最初から最後まで、まっすぐな字だった。
「これだけは、一度も止まっていない」
声を出す前に、涙が落ちた。
「……止まるはずが、ありませんわ」
やっと、それだけ言えた。
「十年分、書きたかったんですもの」
アレクは、何も言わなかった。外套を脱いで、私の肩にかけた。
それから、十二枚目を、私の手に乗せた。
『元気です。今年は、本当に。――シャル』
あの朝、二十歩で届いた、一行だった。
「字は、隠せない」
アレクが、低く言った。
「書いた人間の迷いも、焦りも、紙に残る。あの手の持ち主も、必ず、どこかで止まっている」
私は、涙を拭いて、うなずいた。
「見つけましょう。その、止まったところを」
「ああ。二人で」
アレクは、十二枚の紙をひとつに束ね直して、上着の内側へしまった。
その手つきは、宝物を扱う手だった。
◇
三日目の夕暮れ、街道の先に、白い城壁が見えてきた。
夕日を浴びた壁が、金色に染まっている。壁の上には、いくつもの塔。鐘の音が、遠くまで渡ってきた。
帝都だった。
「あれが、お前に見せたかった国だ」
アレクが、馬の上から、そう言った。
「一覧の、何番ですか」
「一番は朝市だ。二番は厩舎。……あれは、零番だ」
その声は、わずかに、かすれていた。
南門の前の広場には、人垣ができていた。皇帝の帰還を迎える民が、道の両側に、ずらりと並んでいる。
そして、門の真正面。
白と薄青のドレスを着た令嬢が、十二人、扇の形に並んで立っていた。
皇后候補、十二人。
そのうちの十一人が、糸でつられたように、同時に膝を折った。真ん中に立つ一人だけが、膝を折らず、ゆるやかに微笑んでいた。
淡い金の髪。深い藍色のドレス。扇を持つ手の、爪の先まで、完璧に整っていた。
ヴェルスキー公爵家の、イリーナ。
「おかえりなさいませ、アレク」
イリーナは、よく通る声で、そう言った。
人垣が、どよめいた。皇帝を、そう呼ぶ人は、この国に、ほとんどいない。
「十年、お待ちしておりましたのよ」
「……出迎えは、頼んでいない」
アレクの声は、氷より冷たかった。
イリーナは、少しも動じずに、微笑んだまま、視線をすべらせた。そして、私に、止まった。
「あなたが、お手紙の方ですのね。長いお旅で、お疲れでしょう。馬の埃を落とす間もなく、帝都へいらしたの」
やわらかな声だった。けれど、ドレスの色も、髪の艶も、埃にまみれた乗馬服の私と、あまりに違っていた。
十二人のうしろから、くすくすと、小さな笑い声がもれた。
「埃なら、私も被っている」
アレクの声が、広場に落ちた。笑い声が、ぴたりと止んだ。
「同じ道を、同じ馬で来た。……何がおかしい」
イリーナの扇が、止まった。
「辺境育ちですもの」
私は、にっこり笑って、答えた。
「埃には、慣れておりますわ」
そのとき、門の脇から、鎧の音がして、一人の男が進み出た。
眉の太い、大柄な男だった。腰に、巻かれた書状を挟んでいる。
「南門守備隊長、ゴラズドにございます」
男は、皇帝に膝をつき、それから、立ち上がって、私を見た。
「失礼ながら、令嬢。皇后候補のお方以外の外国のご令嬢は、書状の検めが必要となっております。ご招待の書状を、拝見したい」
広場じゅうの目が、私に集まった。
アレクの手が、剣の柄にかかりかけた。私は、その手の甲に、そっと自分の手を重ねた。
――まだ、です。
目だけで、そう伝えた。アレクは、歯を食いしばって、手を引いた。
私は、迷わず、懐に手を入れた。
盗られるための一枚を、守備隊長の前に、差し出した。
読んでいただき、ありがとうございます!
「紙には、紙で」。御印のある布告が、街道の宿場をひとつずつ守りました。
そして、十年ぶりに明かされた、アレクが読んでいた「元気です」の止まった筆跡。今回いちばん書きたかった場面です。
けれど、帝都の南門の前には、十二人のご令嬢と、「まことの幼馴染」と、守備隊長が待っています。
シャルロットが差し出した一枚は、本当にただの一枚なのでしょうか。
次回、南門の前の勝負です。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。毎朝「まだか」と聞かれるシャルロットを、見守ってください。




