第六話 本物のお茶
帝国の街道は、王国のものより、ずっと広かった。
石を敷いた道が、まっすぐ南へ延びている。荷馬車が二台すれちがってもまだ余るほどで、道の両側には、刈り入れを終えた畑と、赤い屋根の農家が、ずっと続いていた。
私は、ミエルの背で、きょろきょろしていた。
「……珍しいか」
隣にシュトルムを並べたアレクが言った。
「ええ。砦から見える帝国は、山と霧ばかりでしたもの。こんなに、人が住んでいるなんて」
「お前の国と、あまり変わらない」
「畑の畝の向きが、逆ですわ」
「……そこを見るのか」
アレクは、笑いをこらえる顔をした。
街道沿いの村々では、人々が、道ばたに出てきた。
皇帝の旗を見つけると、畑仕事の手を止めて、帽子を取り、深く頭を下げる。誰も、声をあげない。氷のように静かな出迎えだった。
アレクは、馬の上から、一度も表情を動かさなかった。
(……こういう顔で、この人は国を見てきたのね)
そう思って横顔を見ていると、小さな女の子が、母親の手をふりほどいて、道のまんなかへ走り出てきた。
「こうていへいか、おひめさまは?」
母親が、青ざめて追いかけてくる。
アレクの馬が止まった。氷の皇帝が、子どもを見下ろした。
「……お姫様、とは」
「となりのひと!」
女の子は、まっすぐ私を指さした。
アレクの耳が、みるみる赤くなった。
「……まだ、そうではない」
「まだ?」
女の子が、首をかしげた。私は、吹き出すのをこらえきれずに、馬の上から手を振った。
「こんにちは」
女の子は、ぱっと笑って、母親の腕の中へ駆けこんでいった。
うしろの馬車の窓から、鼻をすする音が聞こえた。
◇
日暮れ前に、最初の宿場町ザレスクに着いた。
石の門をくぐると、通りの両側に、同じ形の三階建てが並んでいた。宰相ヴォイチェフが、馬車から身を乗り出した。
「陛下、本日のお宿は『金の鷲亭』です。私が、早馬で手配を」
ところが、金の鷲亭の扉には、大きな紙が貼られていた。
『本日、貸切』
「……貸切? どなたが」
宰相の声が、裏返った。
そのとき、通りの向こうから、立派な外套を着た丸顔の男が、小走りにやってきた。うしろに、従者が四人。
「皇帝陛下! ようこそ、ザレスクへ! 代官のミロスラフにございます!」
男は、アレクの馬の前で、これ以上ないほど深く腰を折った。
「陛下のご宿泊は、手前の屋敷にて、と、書記局より御達しがございました。金の鷲亭には、別のお客を入れるようにと」
宰相が、馬車を降りてきて、ミロスラフの顔をのぞきこんだ。
「その御達し、現物を見せていただこう」
「はっ、こちらに」
ミロスラフが差し出した書状には、たしかに、書記局の発行印が押されていた。
宰相が末尾を見て、小さく唸った。宿の割り当てなら、御印がなくても通る決まりだった。
アレクが何か言う前に、私は、そっと袖を引いた。
「アレク」
「何だ」
「お受けしましょう」
アレクが、目だけで私を見た。
「罠かもしれない」
「ええ。罠でしたら、外から眺めるより、中に入ったほうが、よく見えますわ」
私は、にっこり笑った。
「砦育ちですもの。罠は、見るのも、外すのも、慣れております」
アレクは、しばらく黙っていたけれど、やがて、小さく息を吐いた。
「……お前に任せる」
「陛下ぁ……」
宰相が、胃のあたりを押さえた。
「騎士は、全員、屋敷のまわりに置く」
「お側には、せめて、ラドミル様だけでも」
「承知いたしました」
騎士長ラドミルが、短く答えた。
◇
ミロスラフ代官の屋敷は、町でいちばん大きかった。
食堂には、白い布をかけた長い卓。銀の燭台。壁には、帝国の鷲の旗。皇帝を迎えるための支度は、どれも念が入っていた。念が入りすぎているくらい、と思った。
卓についたのは、アレクと私と、宰相。上座の隣にミロスラフ。扉の脇には、ラドミル。
皿は、どれも、おいしそうだった。ミロスラフが、満面の笑みで言った。
「陛下は、辺境の薬草のお茶を、ずっとお探しと伺いまして。ザレスクで手に入る、いちばんよい茶葉を、取り寄せました」
アレクの手が、ぴたりと止まった。
給仕の女中が、銀の盆を持って進み出た。白い杯が、四つ。湯気が、ふわりと立った。
杯が私の前に置かれた瞬間、鼻に、匂いが届いた。
甘い。蜂蜜のような、やわらかい香り。けれど、その奥に、かすかに、湿った土の匂いが混じっていた。
(……この匂い)
砦の薬草小屋で、何度も嗅いだ。矢を受けた兵に、痛みを忘れさせるために飲ませる草。
眠り草だった。
毒ではない。けれど、茶に煎じて飲めば、半刻とたたないうちに、石のように眠りこんで、朝まで起きない。
宰相が、懐から銀の匙を取り出して、杯に差し入れた。毒見の習いだった。
匙は、少しも黒くならなかった。
「ご心配には及びません、宰相閣下。ただのお茶でございます」
ミロスラフが、笑った。
私は、杯を、ゆっくりと持ち上げた。
「銀の匙は、薬草には、反応しませんの」
「……は?」
「毒でなければ、黒くなりませんもの。毒ではないものが、入っていても」
ミロスラフの笑顔が、わずかに、固まった。
私は、気づかないふりをして、微笑んだ。
「代官さま。辺境の砦には、客人をもてなすときの作法がございますの」
「作法、でございますか」
「主人と客人が、杯を取り替えて、飲み干すのです。互いに、何も隠していない、という印に」
アレクが、静かに言った。
「許す。私も十年前、この人の父上と、その作法で杯を交わした」
ミロスラフの顔から、血の気が引いていくのが、はっきりと見えた。
「い、いえ、それは、辺境の……帝国の作法では……」
「ここは、陛下の領地ですわ。陛下が、お許しになりました」
私は、自分の杯を、ミロスラフの前に、そっと滑らせた。
「どうぞ。ザレスクでいちばんよい茶葉なのでしょう?」
ミロスラフは、杯を見つめたまま、動かなかった。
食堂が、しんとなった。燭台の炎が、ぱち、と鳴った。
額に、汗が浮かんでいた。
「どうなさいました? 甘い、いい香りですのに」
「き、急に、気分が……失礼」
「眠り草は、お口に合いませんか」
ミロスラフの肩が、びくりと跳ねた。
その背後に、いつのまにか、ラドミル騎士長が立っていた。無言で、代官の肩に、大きな手を置いた。
ミロスラフは、椅子から、ずるずると滑り落ちた。
◇
ミロスラフは、床にひれ伏して、すべてを白状した。
「わ、私は、書状に従っただけです! 書記局の正式な書状で、陛下のためだと……ひと晩、陛下にゆっくりお休みいただくための、薬だと!」
「陛下のため?」
宰相の声が、地の底から響いた。
ラドミルが、代官の懐から、折りたたまれた書状を取り出して、宰相に渡した。
宰相は、目を走らせて、顔色を失った。
「……読み上げます」
声が、かすれていた。
「『皇帝陛下ご一行が貴殿の屋敷に泊まる際、辺境の薬草茶を供し、ご一行を眠らせるべし。眠ったのち、同行の令嬢が携える書状を、すべて回収し、速やかに帝都へ送ること』」
食堂が、凍りついた。
「『陛下のため』とは、どこに書いてある」
アレクが言った。
「……どこにも、ございません。使いの者が、そう申しただけで……」
ミロスラフは、床に額をこすりつけた。
宰相が、書状の末尾を指でなぞった。
「御印がございません。宿の割り当てならともかく、陛下を眠らせよという書状が、書記局の発行印だけとは」
私は、自分の胸元に、手を当てた。
懐の中の、あの招待状。
(……狙いは、私の、招待状だったの)
関所で、許可状を持たない私を止めようとして、あの通達は破れた。だから今度は、私の手から、招待状そのものを取り上げようとしたのだ。
招待状がなければ、私は、ただの外国の令嬢だ。帝都の門で、止められてしまう。
紙で、私を、締め出そうとしている。
「日付は」
「……五日前です」
「私たちが、国境を越える前か」
「はい」
誰かが、五日も前から、この道筋を読んで、紙を動かしていたのだ。
私は、懐から、あの図を取り出した。
それから、宰相の手の書状を、横に並べた。
蝋燭の光の下で、二枚を、じっと見比べた。
地図は、昔から得意だった。線の癖は、人の癖だ。誰が引いた線かは、半分は、見れば分かる。
「……アレク」
「何だ」
「ここを、見てください」
私は、図の井戸道の線の終わりを、指さした。
「線を引き終えるとき、ほんの少し、右上へ跳ねています。書き慣れた人の、癖です」
図の隅には、小さな文字で『地下通路』と書き添えてあった。その「通」の字の、しんにょうの終わりを指でなぞる。
「しんにょうの最後も、同じ方向へ、すっと跳ね上げています」
それから、書状の「速やかに」の「速」と、「送ること」の「送」を、順に指でさした。
「どちらも、しんにょうの終わりが、同じ角度で、跳ねています。三つとも、です」
食堂が、静まり返った。
「線の跳ねが一つ、しんにょうの跳ねが三つ。四つも同じ向きで揃うのは、偶然ではありません。図を写した人と、この書状を書いた人は、同じです」
宰相が、息をのんだ。
「同じ手……。つまり、書記局の中に……」
「ええ。井戸道が塞がれる前の砦を、見たことのある方が。そして、今も、紙を動かしている方が」
私は、二枚を重ねて、卓に置いた。
「隠す気が、ないのですわ。図も、見つけさせるために置いていった方ですもの。見つかっても構わない、と思っておいでなのです」
アレクは、書状を、静かに手に取った。
灰色の目が、底まで冷えていた。
「帝都で、その手を探す」
「はい」
「ミロスラフ」
床の代官が、ひっ、と喉を鳴らした。
「お前は、騎士団に預ける。帝都で、書記局の者の顔を、一人ずつ見て、答えろ」
「は、はい……はい……」
ラドミルが、代官を、引きずるようにして、連れていった。
◇
その夜、屋敷の客間の前の廊下に、アレクが座っていた。
「……また、ですの」
「扉の前は、私の場所だ」
壁にもたれて、外套にくるまっている。剣は、膝の上。ラドミルは、廊下の端で、気配を消していた。
私は、扉を少し開けて、廊下に出た。
「アレク。お茶は、お好きでしょう」
アレクの肩が、ぴくりと動いた。
「……今夜は、いらない」
「あのお茶は、偽物でしたもの」
「違う」
アレクは、膝の上の剣を見たまま、低く言った。
「味の話ではない。あの茶を、あんなことに使われたのが、許せない」
私は、廊下の床に、腰を下ろした。
「……あのお茶は」
アレクは、言いかけて、言葉を切った。
「あの茶は、お前が淹れてくれたもの以外、うまいと思ったことがない。十年、一度も」
息が、止まった。
十年。王宮の晩餐でも、帝国の宴でも、この人は、あの茶を探しては、違う、と杯を置き続けてきたのだ。
私は、立ち上がって、父にもらった革袋を取ってきた。
小さな燭台のそばで、乾いた葉を、指でほぐす。湯は、ラドミルが、屋敷の外の騎士たちの焚き火で沸かして、運んできてくれた。この屋敷のものは、水一滴、信用できない。
薬草の匂いが、狭い廊下に、ふわりと広がった。
六つの夜、すりつぶして、この人の傷に塗った草。熱で眠れない夜は、湯に溶いて、匙で飲ませた。傷にも、茶にもなる、砦の草。
小さな椀に、淡い緑の茶を注いで、アレクに差し出した。
「どうぞ。今度は、本物ですわ」
アレクは、しばらく、椀を見つめていた。
それから、両手で、そっと受け取って、ひと口、飲んだ。
目を、閉じた。
「……同じ味だ」
その声が、震えていた。
「十年前と、同じ味だ」
灰色の睫毛の先から、ぽとり、と涙が、椀の中へ落ちた。
「……泣いているのですか」
「泣いていない。茶が、熱いだけだ」
「もう、冷めていますわ」
「……冷めている茶が、熱い」
私は、笑いながら、毛布を持って、アレクの隣に座った。旅の宿の廊下と、同じように。
「アレク」
「何だ」
「今日は、もう、二回聞かれましたわ」
「……三回目は、だめか」
「『毎朝』のお約束です」
「夜は、朝ではないのか」
「明日の朝まで、お待ちください」
アレクは、椀の底を見つめたまま、うなずいた。
「……明日の朝は、いちばんに聞く」
「ええ。どうぞ」
廊下の端で、ラドミル騎士長が、そっと背を向けた。肩が、わずかに、震えていた。
部屋に戻ると、机の上に、書状が置かれていた。アレクが、私に預けるつもりで、置いていったのだろう。
もう一度、日付を見た。五日前。
王都を発つ、前の日だ。あの日にはもう、誰かが、この道の先で、紙を広げて、待っていたのだ。
私は、懐の招待状を、いちばん奥へ、しまいなおした。
帝都の門まで、あと三日。
その門の前で、この一枚が、私の通行証になる。
紙で締め出そうとする人には、紙で、お返事をして差し上げましょう。
読んでいただき、ありがとうございます!
「辺境の薬草のお茶」を罠に使われて、いちばん怒っていたのは皇帝でした。
十年ぶりの本物のお茶が、涙でぬるくなる場面が、今回いちばん書きたかったところです。
けれど、図を写した手と、書状を書いた手は同じ。
書記局の誰かが、紙の上で、帝都の門まで先回りしています。
次回、いよいよ帝都の門へ。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。毎朝「まだか」と聞かれるシャルロットを、見守ってください。




