第五話 十年ぶりの橋
黒い帽子の男は、国境を越えて帰っていったらしい。
日暮れに、笹の抜け道を追っていった若い騎士二人が、泥だらけで戻ってきた。
「抜け道は、国境の沢の浅瀬に出ておりました。足跡は、渡った先の、帝国側の岩場で消えております」
騎士長ラドミルが、短くうなずいて、二人を下がらせた。
◇
その夜、砦の書斎の机に、裏山で拾った紙が広げられた。
蝋燭が四本。父と、アレクと、宰相ヴォイチェフと、私。騎士長ラドミルは扉の脇に立って、壁のように動かなかった。
父が、書棚の奥から、古い羊皮紙を引っぱり出した。砦の本物の見取り図だった。
「並べて見ろ」
私は、二枚を机に並べて、線を一本ずつ、指でなぞって比べた。
本丸。見張り台。地下の通路。縮尺まで、どれも恐ろしいほど正確だった。
指が、一か所で止まった。
「……一本だけ、余っています」
「どれだ」
「ここです。本丸の北の古い井戸から、裏山へ抜ける道」
帝国の紙にだけ、その細い線が走っていた。父の羊皮紙には、なかった。
「この道は、もうありません。私が九つの冬に、父上が崩して塞いだはずです」
父は、短くうなずいた。
「井戸の底から水がしみ出して、危なくなったのでな。塞いでからは、誰にも教えていない」
「ということは」
宰相の声が、かすれた。
「この図を描いたのは……井戸道が塞がれる前の砦を、見た人間ですか」
「ええ。ただし、描かれたのは昔ではありません」
私は、紙を蝋燭の光にかざした。
「この紙は、今の書記局のものです。昔の図を、最近、新しい紙に写したのでしょう」
宰相が、無言で懐から胃薬の包みを出して、湯のみに溶かしはじめた。
「それと、もう一つ」
私は、紙の折り目を指でなぞった。
「落とし物なら、風に飛ばされて、茨の枝にひっかかるものです。この紙は、折り目をそろえて、枝のいちばん見えやすいところに掛けてありました。……落としたのではありません。私たちに見つけさせるために、置いていったのです」
炎が、揺れた。
「本丸の奥へは、俺の許しなしには入れなかった」
父が、低く言った。
「あの井戸道まで見られた帝国の人間は、そう多くない」
「十人だ」
アレクが言った。
誰も、口を開かなかった。
「十年前の秋、私を迎えに来た騎士は、十人いた。内乱を生き延びたのは、半分もいない」
声は平らだった。けれど、机の上の左手が、白くなるほど握られていた。
「陛下。まさか、あの騎士たちの中に……」
「まだ何も分からん」
アレクは、宰相の言葉を、静かに遮った。
「分からないものを疑うのは、嫌いだ。あの十人は、内乱のあいだ、私を守って戦った。命を落とした者も、いる」
蝋燭の芯が、ぱちりと鳴った。
疑いたくない人を、疑わなければならない顔。そんな顔を、私は初めて見た。
父と宰相が、明日の支度のために部屋を出ていき、騎士長も扉の外へ下がった。
書斎には、アレクと私だけが残った。
「……シャル」
アレクは、机の紙から目を上げなかった。
「お前を、帝国へ連れて帰るのが、怖くなった」
「そうですの」
「帝都には、この図を描いた誰かがいる。お前の父上の砦を、背比べの木を、知っている誰かが。連れていけば、お前が狙われる」
私は、少し黙った。
それから、机の向こうに回って、握りしめられたアレクの左手を、両手で包んだ。
指の下に、古い傷の痕があった。
「アレク。帝国を自分の目で見ると決めたのは、私です」
「だが」
「怖いのは、あなたが一人で帝都へ帰って、一人で、全部を疑うことのほうですわ」
アレクが、はっとして顔を上げた。
「十年、『元気です』としか書けなかった私が、言います。……一人で抱えないでくださいませ。もう、お互いに」
長い沈黙のあと、アレクは、小さく息をついた。
「……敵わないな」
「木登りで、十年前から」
「それは、もう分かっている」
左手が、ゆっくりとほどけて、私の手を握り返した。
扉の外で、床板が、きし、と鳴った。聞き耳を立てていたらしい宰相が、あわてて廊下の壁に額をつける気配がした。
◇
翌朝、砦の門の前に、兵士たちが整列した。
夜明けの空気は、冷たく澄んでいた。黒い馬車と、荷を積んだ辺境伯家の馬車。栗毛のミエルと、黒いシュトルム。
「おはよう、シャル。まだか」
「まだです」
砦の兵士たちが、全員、いっせいに目を伏せた。見張りの古参が、そっと銅貨を袋にしまうのが見えた。
父が、咳ばらいをした。
「……賭けは、禁じてあるはずだが」
兵士たちが、さらに深く目を伏せた。
父は、懐から小さな革袋を出して、私の手に押しこんだ。
口を開けると、乾いた薬草の、懐かしい匂いがした。
「六つの夜に、お前がすりつぶしたやつだ。帝国の薬草は、種類が違う。お前の手が覚えているのを、持っていけ」
喉が、ぎゅっと詰まった。
「父上は、砦を」
「空けられん。十年、ここを守ってきた」
父は、ぶっきらぼうに言った。
「送ってやれんのが、癪だがな」
私は、何も言えずに、父の分厚い胸に額をつけた。父の手が、一度だけ、私の頭を乱暴に撫でた。三年前、王都へ発つ朝と、同じ手だった。
それから、父はアレクのほうを向いた。
「娘を頼む、とは言わん」
「はい」
「こいつは自分で決める。お前は、待て」
「はい。待ちます。毎朝」
「毎朝は、やりすぎだ」
アレクは、まじめな顔で首を横に振った。
「やめません」
父は、天を仰いだ。その肩が、ほんの少し、笑っていた。
侍女のアンヌは、宰相と三日間乗った馬車に、すっかり慣れたらしい。自分から先に乗りこんで、宰相のぶんの膝かけまで、きちんと畳んで待っていた。宰相は、観念した顔で、あとに続いた。
◇
国境の橋は、砦から半刻ほど下った、谷の底にあった。
古い石造りの、馬車一台がやっと通れる細い橋だ。真ん中に白い境界石が立っていて、手前の面に王国の紋、向こうの面に帝国の紋が彫ってある。その先が、ヴァルグラード帝国だった。
橋の手前で、アレクが馬を止めた。
手綱を握る手が、こわばっていた。
「……十年前も、ここだった」
アレクは、橋を見たまま言った。
「迎えの騎士たちに囲まれて、私は、この橋を渡った。お前は、橋の手前に立っていた」
「ええ。覚えていますわ」
九つの私は、泣かないと決めていた。だから、笑って手を振った。口の端が、ずっと震えていた。
「あの日、橋の真ん中まで来て、振り返りそうになった。……振り返ったら、二度と前へ進めない気がした。だから、一度も、振り返らなかった」
十年。
この人は、十年、ここから振り返ることができなかったのだ。
「先月、王都へ向かったときは、街道の大関所を通った」
アレクは、橋から目を離さずに続けた。
「正しい形で、使節団と一緒に。この橋は、避けた」
「……遠回りを、なさいましたのね」
「お前の隣でなければ、渡りたくなかった」
橋を見たまま、そんなことを言うのは、ずるい。
うしろの馬車の窓から、宰相が遠い目をした。
「おかげで、三日余計にかかりました……」
「では、今日は、振り返ってくださいませ」
「……シャル」
「私が、隣におります。一緒に渡って、真ん中で、振り返りましょう」
アレクは、ゆっくりと息を吐いた。
それから、馬を降りた。私も降りた。二頭の手綱を騎士に預けて、石の橋に、二人で足をかけた。
「陛下、橋の上で立ち止まらないでくださいませ。うしろが詰まっております」
馬車を降りた宰相が、うしろから声をひそめて言った。
「詰まらせておけ」
「陛下ぁ……」
橋の、ちょうど真ん中。白い境界石の前で、アレクは足を止めた。
長いあいだ、動かなかった。
やがて、ゆっくりと、うしろを振り返った。
谷の上に、灰色の砦が、朝日を浴びて立っていた。
見張り台の上に、小さな人影があった。父だった。右腕を、まっすぐ空へ上げていた。
その下の城壁にも、兵士たちが、一人残らず並んでいた。槍を立てて、こちらへ向かって、礼をしていた。
父の口が、何かを叫んだ。風に流されて、声は届かない。けれど、唇の形は、読めた。
――いってこい。
アレクの肩が、震えた。
「……十年分、まとめて振り返った」
かすれた声だった。灰色の目から、一筋、涙が落ちた。
私は、その手を握った。
「おかえりなさいませ、アレク」
「……お前と、渡れた」
うしろで、宰相ヴォイチェフが、誰よりも先に声をあげて泣いた。騎士長ラドミルが、黙って懐からハンカチを出して、宰相に渡した。
私も、笑いながら泣いていた。九つの私が、やっと追いついた気がした。
境界石の向こうへ、最初の一歩を踏み出したとき、アレクが、小さく言った。
「シャル。……まだか」
「今朝は、門でお聞きになりましたわ」
「……二度目は、だめか」
「『毎朝』のお約束では」
「聞きたい。今、どうしても」
氷の皇帝が、真顔で食い下がっていた。
私は、少しだけ考えてから、答えた。
「まだです。でも、さっき橋の真ん中で、ほんの少しだけ、近づきましたわ」
皇帝は、その場で動かなくなった。
うしろの騎士たちは、揃って空を見上げた。
◇
橋を渡りきったところが、帝国の国境の関所だった。
灰色の石の門の上で、銀の鷲の旗がはためいている。門の前には、帝国の兵が二列に並んでいた。その中央から、顎の張った中年の男が進み出て、皇帝の前に膝をついた。
「国境守備長、ボリスにございます。陛下のご帰還を、お待ち申し上げておりました」
「出迎え、大儀だ」
「は。……恐れながら」
男は、顔を上げて、アレクのうしろに立つ私を、ちらりと見た。
「皇太后陛下の御意により、外国から入る貴族の令嬢は、帝都発行の許可状がなければ、国境を越えられぬことになっております。そちらのご令嬢は、お持ちでしょうか」
男の口もとに、薄い笑みが浮かんでいた。門の前に並んだ兵たちが、ざわ、と顔を見合わせた。
宰相の顔色が、変わった。
「そのような通達、私は聞いておりません」
「先週、内廷より回ってまいりました」
アレクが、何か言いかけた。
皇帝が「通せ」と一言いえば、それで済む。けれど、それでは、この人の威光で通ったことになってしまう。
私は、その袖を、そっと引いた。
それから、懐から、一通の書状を取り出した。帝国の紋章の封蝋が押された、あの招待状だった。
「許可状は、持っておりませんの。代わりに、こちらを」
国境守備長の目が、封蝋に吸い寄せられた。
「正しい形で、お招きいただきましたわ。ヴァルグラード帝国皇帝の名で、フォンテーヌ辺境伯令嬢を、帝国へ招く、と。……許可状より、上の書状だと思うのですけれど」
男の顔が、みるみる白くなった。薄い笑みは、きれいに消えていた。
「し、失礼いたしました! 皇帝陛下直々のご招待とは、存じませず」
横目で見ると、アレクが、必死に口の端を押さえていた。うれしそうに。
「その通達」
アレクが、静かに言った。
「皇太后陛下の御意、と言ったな。その通達に、皇太后陛下の御印はあるのか」
「そ、それは……内廷から回ってきたものを、疑うなど……」
「疑わずに、私の客人を、止めかけたのか」
守備長の額から、汗が一筋、流れた。
男は、ひどく慌てて、懐から折りたたんだ書類を取り出した。宰相がひったくるように受け取って、広げた。
しばらくして、宰相の顔から、表情が消えた。
「……御印が、ございません」
「何だと」
「書記局の発行印だけです。皇太后陛下の御意と書いてありながら、御印は、どこにも」
「国境守備長殿」
宰相の声が、低くなった。胃薬を溶かしていた人の声ではなかった。帝国の宰相の声だった。
「陛下の御前で、御印のない紙を、御意と呼びましたな」
門の前に並んだ兵たちが、守備長から、そっと半歩ずつ離れていった。
守備長が、膝から崩れそうになった。
私は、そっと声をかけた。
「守備長さまは、お勤めを果たされただけですわ。……ただ、次からは、御印を確かめてくださいませ」
男は、がくがくと何度もうなずいた。優しい声のほうが、よほど怖かったらしい。
アレクの目が、すっと冷えた。
「ボリス。国境の通行の記録帳を持ってこい。ひと月あまり前から、すべてだ」
記録帳は、すぐに運ばれてきた。
アレクの指が、日付をたどって止まったのは、ひと月と少し前の、ある一行だった。
『商人一名。黒い帽子。王国へ入国。通行証、宮殿書記局発行』
日付は、私の手紙が帝都に着いた日から、三日後だった。
「……陛下」
宰相の声が、震えていた。
「陛下が、玉座の間で、王国へ使節を出すとお決めになった日の、三日後です。あの日、玉座の間にいたのは、陛下と、私と、大臣たちだけでございます」
私は、懐の古い図と、記録帳と、御印のない通達を、順番に見た。
どれも、紙だった。そして、どれも、宮殿の書記局の紙だった。
帝国のどこかで、私の知らない誰かが、紙の上で、先回りをしている。
アレクが、記録帳を、静かに閉じた。
「帝都で、書記局を洗う」
それから、私のほうを向いた。灰色の目が、少しだけ溶けて、少しだけ、不安そうだった。
「……シャル。ここから先は、お前の知らない国だ」
「はい。だから、自分の目で見に参りましたの」
私は、にっこり笑って、革袋の薬草を握りしめた。
その誰かは、もう、帝都で私を待っているのだろう。
読んでいただき、ありがとうございます!
十年前、橋の真ん中で振り返れなかった皇帝が、今日やっと振り返りました。見送る辺境伯の右腕は、書いていて一番好きな場面です。
けれど、帝国には、書記局の紙の上で先回りしている誰かがいます。
次回、いよいよ帝国の街道へ。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。毎朝「まだか」と聞かれるシャルロットを、見守ってください。




