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第四話 三日月の刃

 【いつも高評価ありがとうございます!5話明日元気あれば更新します】


砦の朝は、王都よりずっと早い。

 夜明けの鐘で見張りが交代し、厨房から麦の粥の匂いが上がってくる。子どものころと、何も変わっていなかった。

 食堂の長い卓で、父とアレクと私は、粥の椀を前に並んでいた。宰相ヴォイチェフは、旅の疲れで、まだ起きてこなかった。

「おはよう、シャル。まだか」

 アレクが、粥の匙を置いて言った。

 父が、薬草のお茶を、盛大にむせた。

「……何の話だ」

「求婚の話です、辺境伯」

 アレクは、まじめな顔で答えた。父は、口元を拭いながら、私のほうを見た。

「まだです」

 私が答えると、父は少し黙ってから、アレクの肩を、ぽんと一度叩いた。

「……そうか。まだか」

「はい。まだです」

「そうか」

 二人とも、それ以上は何も言わなかった。父の目が、少しだけ、気の毒そうだった。


   ◇


 朝食のあと、裏山へ登った。

 父とアレクと私。帝国の騎士が四人。先頭は、近衛の騎士長ラドミルだった。王都からの旅のあいだ、ずっと皇帝のそばを守ってきた、無口で背の高い人だ。

 いちばんうしろから、起きたばかりの宰相ヴォイチェフが、寝ぐせのまま追いかけてきた。

「陛下、山に登られるなら、せめて前の晩に……」

「言ったら、お前は止める」

「止めますとも!」

 宰相の抗議は、最初の坂で、ぜいぜいという息に変わった。

 坂の途中で、うしろの若い騎士二人が、帝国の言葉で、声をひそめて話しているのが聞こえた。

「陛下も、物好きだ」

「辺境の田舎娘が、皇后?」

 帝国の言葉なら、分からないと思っているのだろう。砦には、帝国から流れてきた兵士も何人かいた。子どもが他の国の言葉でいちばん先に覚えるのは、悪口だ。

 アレクの肩が、ぴくりと動いた。私は、その袖を、そっと引いた。

 先頭を歩く騎士長の背中も、一瞬だけ止まって、また何事もなかったように進んだ。

 裏山の北側の道は、一日じゅう日が当たらず、いつもやわらかく湿っている。木のまわりには、父の命令で縄が張られ、誰も踏みこまないようにしてあった。昨日の見張りたちも、縄の外を回って足跡を追ったらしい。

 樫の木は、三年前に王都へ発つ朝に見たときと、同じ場所に立っていた。

 幹に、古い傷がいくつも並んでいた。下のほうに、小さな傷が四本。六歳から九歳までの私。その上に、もう四本。十歳から十三歳までのアレク。

 いちばん高い傷は、十三歳のアレクが、別れの前の日に刻んだものだった。

 その傷の上に、深い×が刻まれていた。

 アレクが、幹の前で足を止めた。

 しばらく、何も言わずに、×の刻み目に、指先で触れた。

 顔から、表情が消えていた。王都の大広間で見た、氷の皇帝の顔だった。


「足跡は、こちらに」

 ラドミル騎士長が、木の根元から斜面を下る足跡を指した。ぬかるみに、大人の靴の跡が、はっきりと続いている。

「麓の村へ下りております。すぐに追わせます」

「昨日、うちの見張りが麓まで追った。村の手前で、消えた」

 父が、短く言った。

「お待ちくださいませ」

 私は、思わず声をかけていた。

 騎士長が、振り返った。表情は変わらなかったけれど、ご令嬢はお下がりを、という目をしていた。

「足跡のことは、我らが見ます。帝国の近衛は、追跡を」

「その足跡は、人が歩いた跡ではありません」

 騎士長の言葉が、止まった。

 私は、足跡のそばにしゃがんで、指でさした。

「一つも、滑っていません。ぬかるんだ下り坂を歩けば、どこかで必ず、踵が滑ります。それに、深さが全部同じです。靴を手に持って、道の脇の草の上から、泥に押しつけていった跡です」

 騎士長は、黙って足跡を見下ろした。

「だから、村の手前で、急に消えたんです。押しつけるのを、そこでやめただけですもの」

 私は、立ち上がった。

「本当の足跡は、あちらですわ」

 木の反対側の、笹の茂みを指した。笹の葉が、一列だけ、折れて垂れていた。

「あの奥に、細い道があります。砦の者しか知らない、昔の抜け道です」

 父が、低く唸った。

「……昨日は、見張りの話を聞いただけで、俺はまだ自分の目で見ていなかった。うちの者どもは、まんまと村まで歩かされたわけだ」

 それから、私を見た。

「よく見た。抜け道も、よく覚えていたな」

「アレクと、何度も通りましたもの」

 騎士長は、長いあいだ笹の茂みを見ていた。やがて、私のほうに向き直って、右の拳を胸に当てた。帝国の騎士の、礼だった。

「……ご無礼を、いたしました」

 騎士長は、続けて、うしろの若い騎士二人を振り返った。

「お前たちも、だ」

 坂の途中でささやいていた二人の顔が、耳まで赤くなった。

「……い、田舎娘などと申し上げ、ご無礼を」

「田舎娘ですもの」

 私は、にっこり笑った。

「だから、足跡が読めますの」

 二人は、もう一度深く頭を下げた。騎士長の目くばせで、その二人が、笹の茂みの奥へ走っていった。

 残った若い騎士が、目を丸くしていた。

 アレクが、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

「だから言っただろう、ラドミル。この人は、地面を読む」

「……陛下からは、木登りが上手い方だと、伺っておりました」

「それも本当だ」


   ◇


 父が、×の刻み目を、指でなぞっていた。

 長い指が、一本の線の、いちばん深いところで止まった。

「……この刃だ」

 父の声が、低くなった。

「刃が、まっすぐじゃない。三日月のように、反っている。だから、切り口の片側だけが、こうして丸く深くなる」

 父は、アレクのほうを見ないまま、言った。

「十三年前、お前の左手を切ったのと、同じ形の刃だ」

 アレクの左手が、外套の下で、ゆっくりと握られた。

 あの春の夜、私が薬草を塗った傷。

「国境の手前まで、お前を追ってきた男がいた。俺が追い返した。だが、仕留めてはいない」

「……内乱の、残党ですね」

「残党の中でも、三日月の刃を使う連中は、ひと握りだ。あれから十三年、一度も見なかった」

 父は、×から指を離した。

「それが、おととい、俺の砦の裏山に来た」

 風が、樫の枝を鳴らした。

 王都から先回りしていた、黒い帽子の男。一頭目の馬を捨てて、別の馬で消えた男。

 あの男は、ただの見張りではなかった。この木を知っていて、この傷が誰のものかを知っていて、わざわざ、ここに刻んでいったのだ。

 お前の居場所は、知っている、と。

 私は、×から目をそらさなかった。

 十年前、この人を国境の向こうへ送り出したとき、私は、この人がどれほど怖い場所へ帰っていくのか、知らなかった。手紙に「元気か」としか書かなかった十年のあいだ、この人のまわりには、ずっと、この三日月の刃があったのだ。


   ◇


「辺境伯」

 アレクが、静かに言った。

「この木は、十年前のままですね。傷が、少しもふさがっていない」

 私は、はっとして、幹を見た。

 木の傷は、何年もたつと、まわりの樹皮が盛り上がって、少しずつふさがっていく。砦の兵士が、よく言っていた。十年もたてば、子どもが刻んだ傷など、ほとんど消えてしまうはずだった。

 なのに、私たちの傷は、あの頃と同じ深さのまま、くっきりと残っていた。

 父は、しばらく黙っていた。

 それから、そっぽを向いて、言った。

「……毎年、春にな。ふさがりかけた縁を、小刀で、薄く削っていた」

「毎年」

「お前の傷が、消えてしまわんように」

 アレクの肩が、小さく揺れた。

「シャルにも、黙っていた」

 父は、そう言って、私を見た。

「お前が王都へ行ってからは、毎年の手紙で、背比べの木はまだあるかと聞くのでな。ある、と書くからには、ちゃんと残しておかねばならんだろう」

 喉の奥が、熱くなった。

 毎年、父の手紙の最後に、一行だけあった。背比べの木は、元気だ。

 あれは、父が、毎年春に、自分の手で守っていた一行だったのだ。

 アレクは、何も言えないまま、父に深く頭を下げた。皇帝が、辺境伯に、頭を下げた。

 ラドミル騎士長が、そばに残っていた若い騎士の肩を叩いて、黙って背を向けさせた。


   ◇


「刻みましょう」

 私は、言った。

「約束しましたわ。新しい傷を刻むって」

 アレクが、顔を上げた。

「……×の上に、か」

「×の上に、です。消すのではなくて、その上へ」

 アレクは、黙って×を見ていた。

 そして、腰の短剣を抜いて私に渡し、幹に背中をつけた。

「シャル。頭のところに、印を」

 私は、アレクの頭の上に手をかざして、短剣の先で、樹皮に小さく印をつけた。×よりも、ずっと上だった。子どものころは、背伸びしても届かなかった高さだった。

 アレクは、短剣を受け取って、その印に沿って、まっすぐな傷を一本、刻んだ。

「次は、お前だ」

 私が幹に背中をつけると、アレクは、私の頭の上に、大きな手をそっと乗せた。

 測るだけなら、手のひらは要らないのに。

 短剣の先が、樹皮を削る音がした。

 幹から離れて、振り返った。

 私の新しい傷は、×のすぐ上にあった。十三歳のアレクの傷より、指二本ぶん、高い。

「……勝ちましたわ」

「十三の私に、だ」

「勝ちは、勝ちです」

 アレクは、悔しそうな顔をした。木登りで負けたときと、同じ顔だった。それから、顔じゅうで笑った。

 父が、咳ばらいをして、横を向いた。目のふちが、赤かった。

 ×の上に、新しい傷が二本、並んでいた。

 十年分、高いところに。

 アレクは、短剣を鞘に収めて、父のほうを向いた。

「辺境伯。来年の春は、私が削りに来ます。この傷が、ふさがらないように」

 父は、しばらくアレクを見ていた。

「……来年だけか」

「毎年です」

 父は、何も言わずに、アレクの頭を、もう一度だけ乱暴にかき混ぜた。


   ◇


 帰り道、笹の茂みの奥の抜け道を、私は一人で少しだけ下ってみた。

 騎士たちが追っていった先とは別の、細い枝道だ。

 茨の枝に、何かが引っかかっていた。

 小さく折りたたんだ、紙だった。

 広げると、線で描かれた図だった。砦の裏山と、本丸と、地下の通路。私とアレクが子どものころ駆け回った抜け道が、一本残らず、正確に描きこまれていた。

 砦の者しか、知らないはずの道だった。

 追いついてきた宰相ヴォイチェフが、息を切らしながら紙をのぞきこんで、そのまま、動かなくなった。

「……フォンテーヌ嬢。この紙は」

「何ですの」

「帝国の、宮廷で使う紙です。端の透かし模様が、宮殿の書記局のものです」

 宰相の顔から、血の気が引いていた。

 うしろで、アレクが、私の名を呼んだ。

 私は、紙をたたんで、手の中に握りこんだ。

 この砦の秘密を描いた図が、帝都の宮殿の紙に描かれている。

 私たちがこれから向かう場所に、この図を描いた誰かがいる。

読んでいただき、ありがとうございます!


十年間、娘にも言わずに、毎年春に背比べの傷を守ってきた辺境伯。

×の上に、二人で新しい傷を刻みました。


けれど、抜け道の図は、帝国の宮殿の紙に描かれていました。

次回、いよいよ国境を越えます。


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