第三話 扉の前は、私の場所だ
次の朝も、アレクは来た。
さすがに夜中からではなかった。宰相に「せめて一番鐘まではお待ちください」と泣きつかれたらしい。王都の一番鐘が鳴り終わったちょうどそのとき、門番が困った顔で私を呼びに来た。
「おはよう、シャル。まだか」
「まだです」
「そうか。では、明日も聞く」
それだけ言って、アレクは満足そうに帰っていった。
その次の朝も、同じだった。
そして出発の朝には、門の前に人だかりができていた。通りの窓という窓から、近所の奥方たちが身を乗り出している。パン屋の小僧が、「今日こそ『はい』に銅貨一枚」と言っているのが聞こえた。
「おはよう、シャル。まだか」
「まだです」
通りじゅうから、ああ、というため息がもれた。パン屋の小僧が、銅貨を一枚失った。
アレクは、少しも気にしていないようだった。
「では、明日も聞く。明日は、旅の宿でだ」
そのとき、人だかりをかき分けて、マルセル侯爵家のお仕着せを着た従僕がやってきた。手に、侯爵の封蝋を押した詫び状を持っていた。
「侯爵様より、お嬢様に重ねてお詫びを、と。それから……ジュリアン様からのお詫びは、ご本人が伺えませんで」
「お忙しいのですか」
「はい。今朝から、元ベルモン男爵家のお屋敷で、荷運びをしておいでです。爵位とともに、王家から賜ったお屋敷もお返しすることになりまして、明け渡しの期限が今日なのです。侯爵様が、『三年優先してきた幼馴染だろう。最後まで手伝ってこい』と」
通りのあちこちで、くすくすと笑いがもれた。隣で、アレクが口もとを押さえて、肩を震わせていた。
「まあ」
私は、にっこり笑った。
「幼馴染を、優先なさっているのですね。何も悪くありませんわ」
詫び状を受け取り、代わりに、アンヌに用意させておいた銀の手鏡を渡した。
「こちらは、リリアーヌ様に。お引っ越しのお荷物に、加えて差し上げてくださいませ」
別邸の前には、馬車が二台並んでいた。
一台は、あの紋章を外した黒い馬車。もう一台は、辺境伯家の馬車だった。
「私は、シャルと同じ馬車でいい」
「なりません」
宰相ヴォイチェフが、辺境伯家の馬車の扉の前で、両手を広げて立ちふさがった。どうやらこの人は、扉の前で両手を広げるのが仕事らしい。
「未婚のご令嬢と皇帝陛下が、三日も同じ馬車に乗っておられたら、帝都に着く前に、噂で国が二つ傾きます」
「傾かせておけ」
「陛下ぁ……」
皇帝と宰相が、にらみ合った。侍女のアンヌは、荷物を抱えたまま、おろおろしていた。
私は、厩のほうを振り返った。
「では、私は馬車には乗りません」
「は?」
二人が、同時にこちらを見た。
「馬で参ります。砦までの道なら、目をつぶっていても走れますもの」
厩番が、栗毛の牝馬を引いてきた。砦から連れてきた私の馬で、名前をミエルという。王都に来てからは乗る機会がなくて、ずっと別邸の厩で退屈していた。
私は、旅用の乗馬服の裾をさばいて、ミエルの背にまたがった。
門の前の人だかりが、どよめいた。王都の令嬢は、馬には横乗りしかしない。けれど砦の娘は、またがって乗る。
アレクは、一瞬ぽかんとして、すぐに顔じゅうで笑った。
「……変わっていないな」
「アレクは、どうなさいます」
「決まっている」
皇帝は、騎士の手から黒い軍馬の手綱を受けとると、ひと息で鞍に飛び乗った。
宰相は、空になった二台の馬車を見比べて、長いため息をついた。
「……では、私とアンヌ殿で、一台ずつ……」
「さ、宰相様。私、一人では心細くて……」
「……では、ご一緒に」
こうして辺境伯家の馬車には荷物だけが乗り、黒い馬車の中で、帝国の宰相と辺境伯家の侍女が、三日間、向かい合って座ることになった。
◇
王都を出ると、道はすぐに麦畑の中へ延びた。刈り入れの終わった畑の上を、秋の風が渡っていく。
私とアレクは、馬車の少し前を、並んで進んだ。
「一覧の二番を、覚えているか」
「お前より速い馬がいる。たぶん、でしたかしら」
「その馬は、宮殿で留守番をしている。こいつは、その弟だ」
アレクが、黒い軍馬の首を軽く叩いた。
「では、帝国で二番目に速い馬ですのね」
「……二番目だ」
皇帝陛下は、不本意そうだった。
「名前は」
「シュトルム。帝国の言葉で、嵐という意味だ」
「ミエルは、蜂蜜という意味ですわ」
「……勝負になると思うか」
「なると思いますわ」
二人で、顔を見合わせた。
十年前と、同じだった。
「あの丘の上の、一本杉まで」
「受けて立つ」
次の瞬間、二頭が同時に地面を蹴った。
うしろで、宰相の悲鳴と、慌てて馬を出す騎士たちの声が聞こえた。
シュトルムは、本当に速かった。平らな麦畑の道では、みるみる差が開いた。黒い外套が風にはためいて、遠ざかっていく。
けれど、私はこの道を知っていた。
丘の手前で、街道は大きく右へ曲がって、ゆるやかな坂をのぼる。その左手に、小川がある。秋の今ごろなら、水は馬の膝までもない。
私はミエルの首を左へ向けた。
小川を斜めに突っ切って、羊の通る細い道を駆けあがる。ミエルは、砦の裏山で育った馬だ。坂なら、どんな軍馬にも負けない。
一本杉の下にたどり着いて振り返ると、ちょうど、アレクが街道の坂をのぼりきってきたところだった。
皇帝陛下は、馬を止めて、しばらく私を見ていた。
「……ずるいぞ」
「道を知っていただけですわ」
「十年前も、そう言った。枝の折れない場所を知っていただけだ、と」
「事実ですもの」
アレクは、悔しそうな顔をした。木登りで負けたときと、まったく同じ顔だった。それから、こらえきれないように笑いだした。
「負けた。十年ぶりに、負けた」
「うれしそうですわね」
「うれしい。お前に負けるのは、世界でいちばんうれしい」
氷の皇帝は、本気でそう言っていた。
頬が、熱くなった。走ったせいだ、ということにしておいた。
ミエルに水を飲ませようと、小川の岸へ下りたときだった。
ぬかるみに、蹄の跡があった。
ミエルの跡とは別に、もう一頭ぶん。私と同じ近道で川を渡って、街道へ戻っていく。跡の縁がまだ崩れていない。底には、しみ出したばかりの水が、うっすらとたまりはじめていた。
(ついさっき、ね)
この近道を知っているのは、このあたりの羊飼いくらいだ。でも、羊飼いの馬は蹄鉄をつけていない。この跡には、くっきりと鉄の縁がついていた。しかも、つま先の側が深くえぐれている。急がされて、前のめりに走っている馬の蹄だ。
跡の向かう先を、目で追った。街道の、私たちがこれから進む方角だった。
「シャル?」
坂の上から、アレクの声がした。
「……いいえ。何でもありませんわ」
まだ、言うほどのことではない。そのときは、そう思った。
◇
その夜は、街道沿いの宿場町に泊まった。
宿の厩でミエルの鞍を外していると、隣の仕切りに、一頭の鹿毛の馬がつながれていた。脚に、乾いた泥がこびりついている。あの小川の、白っぽい粘土の泥だった。
そっと脚を持ち上げて、蹄を見た。鉄の縁。深くえぐれた、つま先の跡。
「この馬の持ち主は」
厩番の少年に聞くと、少年は首をかしげた。
「昼すぎに着いた、旅の人です。黒い帽子の。夜明け前に発つから、飼い葉を多めにって」
「どちらへ行くと」
「北です。国境のほうへ」
私たちと、同じ方角だった。
私たちより半日早く、同じ道を、同じ近道まで使って、先を行っている人がいる。
(あの朝、通りの窓は、全部開いていた)
アレクが「砦に寄って、それから帝都へ」と言ったのを、王都の半分が聞いていたのだ。
私は厩を出て、まっすぐアレクのところへ行った。
話を聞き終えたアレクの顔から、すっと表情が消えた。
大広間で見た、氷の皇帝の顔だった。
「二人、今すぐ宿の中へ。黒い帽子の男を押さえろ」
「はっ」
騎士たちが走っていった。けれど、しばらくして戻ってきた騎士は、首を横に振った。
「部屋は、もぬけの殻でした。馬を置いたまま、裏の窓から」
「……私たちが着いたのを見て、逃げたか」
アレクは、低くつぶやいた。私のほうを向いたときには、その目の氷が、ほんの少しだけ溶けていた。
「よく気づいた。私の騎士は、誰も気づかなかった」
「騎士の方々は、うしろと左右を見ておられましたもの。私は、地面を見ていただけです。砦では、まず足跡を見ろと、父に教わりましたので」
「お前の父上らしい」
アレクは、かすかに笑った。けれど、その手が剣の柄から離れることは、その夜、一度もなかった。
夜更けに、部屋の扉の外で、誰かが座りこむ気配がした。
隣の寝台では、アンヌが寝息を立てている。私はそっと起きて、扉を少しだけ開けた。
廊下の床に、アレクが外套にくるまって座っていた。剣を、膝の上に置いて。
「……アレク。騎士の方々が、おりますでしょう」
「いる。廊下の両端に、一人ずつ」
「では、なぜ」
「扉の前は、私の場所だ」
アレクは、扉のほうを見ないで言った。
「砦に来て、まだ十日もたたないころだ。手の傷が膿んで、私は三日、熱にうなされた。お前は辺境伯に叱られても、枕もとを離れなかった。覚えているか」
覚えていた。夜中に何度も、熱い額に濡れた布をのせた。六歳の私には、それしかできなかった。
「あとで、辺境伯から聞いた。医者は、助からないかもしれないと言っていたそうだ」
「……そんなこと、一言も」
「言えば、お前が泣くと思ったんだろう」
アレクは、膝の上の剣に目を落とした。
「あのとき、決めた。いつか、お前の扉の前に、一晩じゅう座ってやると。十年かかった」
胸の奥が、熱くなった。
六歳の私が、ただ必死に濡らしていた布。あれが、この人の命をつないでいたのかもしれない。そして、この人はそれを、ずっと覚えていたのだ。
私は部屋から毛布を一枚持ってきて、廊下に出た。アレクの隣に、並んで座った。
「シャル、部屋に――」
「扉の前は、アレクの場所なのでしょう。でしたら、私の場所は、アレクの隣ですわ」
毛布を、二人の膝にかけた。
廊下の端で、騎士が一人、気まずそうに天井を見上げていた。
翌朝、目を覚ますと、私はアレクの肩にもたれて眠っていた。
目の前に、宰相ヴォイチェフが立っていた。顔が、真っ白だった。
「……同じ馬車にお乗りにならなかった意味が……」
アレクは、まばたきひとつせずに言った。
「おはよう、シャル。まだか」
「……まだです」
宰相が、廊下の壁に、そっと額をつけた。
◇
それからの道中、黒い帽子の男の跡は、二度と見つからなかった。騎士たちが先回りして探しても、街道にも、近道にも、あの蹄の跡はなかった。別の町で、別の馬を手に入れたのだろう。
三日目の夕暮れ、国境の山並みの手前に、灰色の石の砦が見えてきた。
門の前に、大きな人影が立っていた。
父だった。
ミエルを降りて駆け寄ると、父は、私を太い腕で一度だけ抱きしめた。腕をほどくと、私のうしろに立つアレクを見た。
帝国の騎士たちが、身を固くした。辺境伯が、皇帝陛下にどんな礼をとるのか、皆が息をのんでいた。
父は、何も言わずにアレクの前まで歩いていった。
そして、大きな手を、アレクの頭に置いた。
皇帝の、頭に。
「でかくなったな、アレク」
騎士たちが、凍りついた。宰相が、額をつける壁を探して目を泳がせた。
アレクは、しばらく動かなかった。
「……ただいま、戻りました」
その声が、わずかに震えていた。
氷の皇帝が、十三歳の少年の顔で、うつむいていた。
その夜、父は私だけを、そっと書斎に呼んだ。
「シャル。裏山の、背比べの木だがな」
「はい」
「昨夜、誰かが登っていった。今朝、見張りが足跡を見つけた」
父の声は、低かった。
「アレクの傷の上に、刃物で、×が刻まれていた」
背比べの木の、いちばん高い傷。十年前、別れの前の日に、十三歳のアレクが最後に刻んだ傷だった。
その上に、知らない誰かの刃が、×を残していった。
読んでいただき、ありがとうございます!
帝国で二番目に速い馬に勝った令嬢と、負けてうれしい皇帝。
そして十年かけて「扉の前」に戻ってきたアレク。辺境伯の「でかくなったな」は、書いていて一番好きな一言です。
けれど、背比べの木に刻まれた×。
王都から先回りしていた黒い帽子の男は、何を知っているのでしょうか。
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