第二話 求婚は、まだです
返事の封筒を持って玄関へ下りると、門の内側で、帝国の騎士が待っていた。黒い外套の肩が、夜露でしっとりと濡れていた。
「お返事を、お預かりいたします」
「朝早くから、ご苦労さまです。迎賓館まで、お気をつけて」
騎士は、なぜか少し困った顔をした。
「いえ。遠くは、ございませんので」
騎士は封筒を胸にしまって馬にまたがり、門を出た。そして、通りを二十歩ほど進んだところで、馬を止めた。
通りの向かい側、菩提樹の並木の下に、背の高い男が立っていた。そのうしろに、紋章を外した黒い馬車が一台、止まっていた。
騎士が馬を下りて、封筒を差し出した。男はそれを受け取り、その場で封を切って、一行きりの返事を読んだ。
それから、手紙を胸に押し当てて、空を仰いだ。
黒い外套。うしろに流した銀の髪。昨夜、王宮の大広間で国じゅうの貴族を黙らせた人が、朝の通りの真ん中で、空を仰いでいた。
(……あの人、迎賓館に泊まっていたのでは、なかったの?)
「お、お嬢様!」
侍女のアンヌが、裏口のほうから転がるように駆けてきた。
「門の外に、昨夜の、こ、皇帝陛下が! パン屋の小僧が申しますには、まだ真っ暗なうちから、ずっとあそこにいらっしゃると!」
私は、肩掛けを一枚はおっただけで、門の外へ出た。
近づくと、菩提樹の根元に、もう一人いた。
帝国の宰相ヴォイチェフが、馬車の踏み台に腰を下ろし、白いハンカチを目に当てていた。通りの角には、帝国の騎士が四人、目立たないように立っていた。
「アレク」
呼ぶと、アレクは手紙を胸に当てたまま、こちらを向いた。灰色の目が、私を見たとたんに、ふわりと溶けた。
「おはよう、シャル」
「おはようございます。……いつから、ここに」
「夜中からだ」
「迎賓館は」
「寝台は、見た」
「見ただけですか」
「眠れなかった。十年ぶりに会えた夜に、眠れる男がいるなら、会ってみたい」
皇帝陛下は、真顔だった。
踏み台の上で、宰相が鼻をすすった。
「陛下は……舞踏会のあと迎賓館にお戻りになって、半刻もたたずに、馬車を出せと……。夜中に令嬢のお屋敷の門を叩くなど非礼です、と申し上げましたら……」
「だから、叩いていない」
「門の外で、夜が明けるまで、お待ちになっていたのです……。一国の皇帝が……外国の通りで……」
宰相は、ハンカチに顔を埋めてしまった。
「では、なぜ早馬を。二十歩しかありませんのに」
「手紙は、早馬で届けるものだ」
「そんな決まり、聞いたことがありませんわ」
「私が決めた」
アレクは、少しだけ目をそらした。
「……門を叩いたら、お前は返事を書かずに、そのまま出てきてしまうだろう。私は、お前の今年の返事を、いちばん先に読みたかった」
手紙を持つ左手の甲に、古い傷の痕が白く浮いていた。
「十年、一年に一度、一行の返事を待ってきた。今朝のは、二十歩で届いた。いちばんいい返事だった」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
外套の肩に触れると、冷たく湿っていた。秋の夜明けの露を、一晩ぶん吸いこんでいた。
「アレク。昨夜は私に、寒くないか、風邪をひかないかと、あれほどおっしゃったのに。ご自分は、一晩じゅう外で」
「平気だ。門の外で待つのには、慣れている」
「慣れて、いる?」
「十年、国境の外で待った」
アレクは、なんでもないことのように言った。
「それに比べたら、一晩くらい、何でもない」
宰相が、ハンカチから顔を上げた。
「……フォンテーヌ嬢。陛下は毎年、お誕生日の手紙を送り出す前の晩に、夜通しお書きになるのです。何十枚も。夜が明けると、全部、暖炉にくべてしまわれる。残るのは、いつも短い一枚だけでした」
「余計なことを言うな」
「おめでとう、と。元気か、と。それだけの一枚です」
言葉が、出てこなかった。
毎年、誕生日に届いた短い手紙。私はそれを引き出しにしまって、「元気です」とだけ返してきた。書けないことを全部、その一行の向こうに隠して。
この人も、同じだったのだ。燃やした何十枚の向こうで、十年、ずっと国境の外に立っていた。
私は、自分の肩掛けを外して、アレクの肩にかけた。
昨夜、露台で彼がしてくれたのと、同じように。
「……今度は、私の番です」
「……お前が、寒くなる」
「辺境育ちですもの。このくらい、平気ですわ」
アレクは、肩掛けの端を、そっと指でつまんだ。氷の皇帝の耳が、朝日のせいだけではなく、赤くなっていた。
踏み台の上で、宰相が声をあげて泣いた。
◇
「求婚ではない」
アレクは、最初にそう言った。
外套の内側から取り出したのは、帝国の紋章の封蝋を押した書状と、紐でくくった分厚い紙の束だった。
「昨夜、お前は、自分の目で見てから決めると言った。だから、これは招待状だ。ヴァルグラード帝国皇帝として、フォンテーヌ辺境伯令嬢を、帝国へ招く」
「……正しい形で、ですのね」
「正しい形で、だ」
「では、謹んでお受けいたします」
「それで、こちらの紙の束は」
「お前に見せたいものの、一覧だ」
「陛下は、夜明けまでのあいだに、ランプひとつで、それをお書きになったのです……馬車の踏み台で……」
宰相が、涙声で付け足した。
紐をほどいて、一枚目をめくった。
『一、帝都の朝市。北の薬草が三十種、売っている』
『二、宮殿の厩舎。お前より速い馬がいる。たぶん』
『三、北の塔から見る雪原。冬至の朝がいちばんいい』
一枚に一つずつ、少しも崩れない、きちんとした字で書いてあった。めくってもめくっても、終わらなかった。凍った湖、宮殿の図書館、古い城壁の上の道。帝国でいちばん大きな樫の木、というのもあった。
最後の一枚には、こうあった。
『百、私。十年のあいだに変わったところと、変わっていないところ』
顔を上げると、アレクは菩提樹の幹のほうを見ていた。
「……百も見ていたら、一年かかりますわ」
「一年でも、十年でも」
「陛下、政務が……」
宰相が、か細い声を出した。
「一覧に入れておく。百一、宰相の胃」
「入れないでください!」
私は、こらえきれずに吹き出した。
「シャル」
アレクが、私の前に立った。
「求婚は、お前が決めた日にする。それまでは、毎朝、聞く」
「何を、ですか」
「まだか、と」
「……毎朝、ですか」
「毎朝だ。十年、年に一度しか聞けなかった。これからは、毎朝聞く」
氷の皇帝は、大まじめな顔をしていた。
私は少し考えてから、笑って答えた。
「まだです」
「そうか」
アレクは、少しもがっかりしなかった。それどころか、うれしそうに笑った。
「では、明日の朝も聞く」
◇
ちょうどそのとき、通りの向こうから、古びた辻馬車がやってきた。
マルセル侯爵家の紋章のついた馬車では、なかった。それでも、扉が開いて転がり出てきたのが誰なのかは、すぐに分かった。
「シャルロット!」
ジュリアン様だった。昨夜の夜会服のまま、襟元がよれて、髪も乱れていた。私に向かって駆けてきかけて、隣に立つアレクに気づき、その場で足を止めた。かと思うと、ぎこちなく深々と頭を下げた。
「こ、皇帝陛下には、ご機嫌うるわしく……」
アレクは、何も答えなかった。私の肩掛けをはおったまま、ただ、ジュリアン様を見た。
ジュリアン様は、私に向き直った。
「シャルロット。昨夜のことは、誤解なんだ。僕はリリアーヌに騙されていた。君なら分かるだろう、僕だって被害者なんだ。父上も、君が許すと言えば、廃嫡を考え直してくださるはずだ。だから一言でいい、父上に――」
アレクが、一歩前に出かけた。
私は、そっと手を上げた。アレクは、それだけで止まってくれた。昨夜と同じように。
「ジュリアン様。三年も騙されていらしたのは、お気の毒ですわ」
「そうだろう! だから――」
「でも」
私は、ジュリアン様の目をまっすぐに見た。
「誕生日の夕食にいらっしゃらなかったのも、去年の舞踏会で私の手を離したのも、騙されたからではありません。ジュリアン様が、そう選んだからです。熱を出したと言う幼馴染と、待っている婚約者と。毎回、選んでいらしたのはジュリアン様ですわ」
ジュリアン様の口が、開いたまま止まった。
「そ、それでも、僕は君に、贈り物だって――」
「ええ。三年で、一ついただきました。銀の手鏡を」
私は、にっこり笑った。
「先日、宝飾店のご主人が、悪気なく聞いてくださいましたの。ベルモン男爵令嬢がお選びになった手鏡は、お気に召しましたか、と」
ジュリアン様の顔から、血の気が引いた。
「後ほど、侯爵家へお返しいたします。リリアーヌ様のお見立てですもの。リリアーヌ様に差し上げてくださいませ」
「シャルロット、待ってくれ、僕は――」
「幼馴染を、優先なさってください」
私は、静かに言った。
「家の爵位を失った今のリリアーヌ様には、もう、ジュリアン様しかいらっしゃいませんわ。……幼馴染を優先して、何も悪くないのでしょう?」
ジュリアン様は、何も言い返せなかった。
代わりに、アレクが口を開いた。昨夜、大広間を凍らせたのと同じ声だった。
「まだ、何か用か」
ジュリアン様は、ひっ、と小さく息をのんで、辻馬車へ駆け戻った。扉に手をかけたところで、御者が手のひらを差し出した。
「旦那、お代を先に。ここまでの分も、まだいただいておりませんので」
ジュリアン様が懐を探る音が、静かな朝の通りに、やけに大きく響いた。
いつのまにか、通りの両側の窓という窓が、開いていた。
辻馬車が角を曲がって見えなくなると、アレクは私のほうを向いた。その目は、もう、すっかり溶けていた。
「……今の私は、怖かったか」
「いいえ。木登りで負けたときのアレクのほうが、ずっと怖い顔をしていましたわ」
「あれは、怖い顔ではない。悔しい顔だ」
「同じです」
アレクは、むっとして、それから笑った。
◇
「三日後に発つ」
門の前に戻りながら、アレクが言った。
「砦に寄って、お前の父上に挨拶をして、背比べの木を見て、それから帝都へ。父上には、昨夜のうちに早馬を出した」
「また早馬ですの」
「三頭だ」
「やっぱり」
アレクが騎士たちに馬車の支度を言いつけに行ったすきに、宰相ヴォイチェフが、そっと私のそばに寄ってきた。もう泣いてはいなかった。帝国の宰相の顔をしていた。
「フォンテーヌ嬢。帝都にお入りになる前に、お耳に入れておかねばならないことがございます」
「何でしょう」
「皇太后陛下のご意向で、帝都にはいま、皇后候補のご令嬢が十二人、集められております」
朝の風が、菩提樹の葉を鳴らした。
「陛下は、ご存じなのですか」
「名簿は、お読みにならずに暖炉へ。お一人にも、お会いになっておりません。ですが、皇太后陛下は、お諦めになっていない」
宰相は、声をいっそう低くした。
「そのうちのお一人、ヴェルスキー公爵家のイリーナ様は――陛下が砦へ逃れられる前、宮殿で共にお育ちになった方です。帝都では皆、こう申しております。陛下の、まことの幼馴染は、イリーナ様だと」
馬車の向こうで、アレクが振り返って、私に手を振った。大きな子どものような顔で。
幼馴染を優先して、何が悪い。
あの言葉が、今度は国境の向こうで、私を待っているのかもしれなかった。
私は、手を振り返した。
(いいえ。幼馴染なら、私にもおりますわ。――負けません)
読んでいただき、ありがとうございます!
毎朝「まだか」と聞く皇帝と、毎朝「まだです」と答える令嬢。
何回目の朝で、答えが変わるのでしょうか。
そして帝都には、皇帝の「まことの幼馴染」と呼ばれる人が――。
次回、国境の砦へ。背比べの木が待っています。
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