第四章 三種の神器 ~その壱~
二〇一〇年三月二十八日。
夜の名残がまだ空気の底に沈んでいる早朝、ランドリーの奥で、甲高い笑い声が跳ねるように響いた。
その音が、薄い眠りの膜を破り、僕の意識をゆっくりと水面へ押し上げた。
硬いベンチの上で寝ていたらしい。背中に残る鈍い痛みと、金属の冷たさが皮膚に貼りついている。
ぼんやりと目を開けると、蛍光灯の白い光が天井に滲んでいた。
その視界の端で、男女二人の影がこちらへ近づいてくるのが見えた。
――やばい。
その瞬間、眠気は一気に吹き飛んだ。
僕は跳ね起きるように上体を起こしたが、下半身にまとわりつく冷気が、さらに別の恐怖を呼び覚ます。
Tシャツの裾に隠れているとはいえ、無防備なままの“ソレ”が、だらりと垂れ下がり、微かに揺れているのが分かったからだ。
自分の体の一部なのに、まるで他人のもののように感じられるほど、無様で、無防備で、危うい。
――見られたら終わる。
心臓が喉元までせり上がり、頭の中が真っ白になる。
僕は半ば反射的に、ドラム式洗濯機の蓋を乱暴に開けた。
男女の楽しげな声が、もうすぐそこまで迫っている。
僕は震える指でブリーフを掴み、足を通し、引き上げた。 床に落ちていたスウェットパンツを拾い上げ、右足を突っ込む。
焦りすぎて、左足が裾に引っかかった。 体勢を崩し、僕は派手に床へ転がった。
寝転がったままパンツを引き上げた、その瞬間だった。
ランドリーの扉が開き、高校生くらいの男女が、大きな駕籠を抱えて入ってきた。
二人は互いを見つめ合っていたが、床に転がる僕を見て、目を丸くして固まった。
その表情は、まるで野生動物を見つけたかのような驚きと警戒が入り混じっていた。
「何をしている?」
男が呆れたような、しかし警戒を含んだ声で問いかけてきた。
その声は、ランドリーの白い壁に反響し、僕の胸を刺す。
僕は跳ね起きるように立ち上がった。
「せ、洗濯です!」
声が裏返った。
女の方が僕の顔を見て、目を瞠った。
「……だれ?」
「な、中野といいます!」
不審者扱いされては困る。 僕は必死に、はっきりと名乗った。
「なかの、くん……」
女は記憶を探るように、僕の名前をゆっくりと繰り返した。 その声音には、どこか引っかかりがある。
「失礼します!」
深々と頭を下げ、二人の横をすり抜けて階段へ駆け出した。
背後で女の声が聞こえた。
「知っている?」
階段を上がり、一階に出ると、廊下は若い人たちで溢れていた。
みんな奥の洗面所へ向かっているようで、ざわざわとした熱気が廊下に満ちている。
僕は視線をそらし、二階へ駆け上がった。
二階の廊下には誰もいない。 ようやく静寂が戻り、呼吸が整う。
部屋に戻ると、母が敷き布団の上に座り、ブラジャーのホックを閉めているところだった。 腋下の肉をブラジャーの中へ押し込む、その仕草が妙に生々しく、僕は思わず目を逸らした。
母は背中越しに振り向き、
「どこに行っていたの?」
と訊いた。
「トイレに行こうとして……」
とっさに嘘をつく。
「トイレは、この階の一番奥にあるから」
母は淡々と言い、立ち上がった。 下着姿のまま衣紋掛けからスーツを外す。
僕は改めて母の姿を見て、息を呑んだ。
下着姿を平然と晒す母。 突き出た胸、ふっくらした尻。 その肉体の存在感が、僕の胸に奇妙な羞恥と苛立ちを呼び起こす。
――なんでこんなに平気なんだよ。
自分が裸を見られているような羞恥が込み上げ、僕は逃げるように部屋を出ようとした。
「これ」
母がスカートだけを身につけた姿で、バッグから洗面セットを取り出し、僕に差し出した。
しゃがんで受け取ろうとした瞬間、母の胸の谷間が視界に入り、腹立たしさが込み上げた。
僕はサッと奪い取るように受け取り、部屋を飛び出した。
トイレに入り、便器の前でソレを摘まみ出す。
オシッコをしようとした瞬間、少し痛みが走った。
――あ、そうだ。 今朝、僕は人生で初めて射精したんだ。
ぶら下がったソレは、オシッコだけじゃなく、別の使い方もできる。 その事実を思い出したら、可笑しくて笑いがこみ上げてきた。
笑いで体が震え、飛沫があちこちに跳ねる。 断続的にオシッコが止まり、また出て、また止まる。
まともにできない自分が可笑しくて、僕はトイレの中で大笑いした。
洗面所で歯を磨き、顔を洗い、鏡を見る。 何か変わっているかと思ったが、映る顔は昨日と同じだった。
鏡を見つめているうちに、暗かった頃の記憶が蘇る。
家庭の冷え切った空気。 感情を表さないようにしていた幼少期。 父が目の前でダンプに轢かれた、小六の夏。
その後の失語症。 スクールカウンセラーでも戻らなかった感情。
母の呟き―― 「神様なんて……いない」
その言葉が家に住みつき、僕らの生活を沈ませた。
中学に入り、陸上部に入り、ショウノスケとタケに出会い、マイに世話を焼かれ、僕はようやく自分を取り戻した。
母は相変わらずだったが、家津羅会の本部に来てから、明らかに変わった。 表情が豊かになり、心が開いたように見える。
――なんて生意気なことを考えてるんだ、僕は。
そんなことを思っていたら、急に腹が鳴った。 昨日の夕方、名古屋駅でパスタを食べて以来、何も口にしていない。そりゃ腹も減る。
部屋に戻ると、母はスーツ姿で正座していた。
「食事は八時からとなっているから、その時間に下へ行くのよ。昨日会ったおばさんたちに頼んでおくから」
「お母さんは行かないの?」
「お母さんは上に行かなければならないから、あなたと一緒にはいられない」
時間を訊くと、七時過ぎだという。
「ええぇー! まだ一時間もあるじゃなぁーい」
僕はへたり込んだ。
母は不思議そうに僕を見下ろす。 僕がこんな駄々をこねるのは初めてだからだ。
バツが悪くなり、僕は立ち上がった。
「ちょっと見てくる」
階段を下りかけたところで、廊下から甲高い声が響いた。
「ねぇー、ねぇー! メッチャかわいい子がいるんだけどぉー! 誰か知っているぅー!」
続けて、
「誰! 誰!」
「中野っていうんだって、誰かの弟?」
「知っている! 昨日会ったよ。女の子みたいな子でしょう」
「それ! それ!」
僕は逃げ出した。 階段を駆け上がり、踏み外しそうになりながら二階へ戻る。
胸がドキドキして息苦しい。 でも、胸の内側をくすぐるような快感があった。
――僕のことが話題になっている。
初めての経験だった。
“女の子みたい”は嫌だが、嬉しさが勝ってしまう。 ニヤけた顔が戻らず、廊下を行ったり来たりした。
ふと、母はどう思うのだろう、と気になった。 母もいつも男たちから好奇の目で見られている。 その時、母はどう感じるのか。
部屋に戻ると、母がドアの近くに立っていて、僕が急に入ったので驚いた顔をした。
「なに?」
僕を部屋に入れ、母は畳に横座りになった。 僕も座る。
「昨日の列車……」
「列車?」
「隣に、きもいオヤジが乗っていたでしょう」
「きもい……? ああ……」
「怖くなかった?」
「何が?」
「ずうっと、こっちを見ていたから」
「ぜんぜん」
「そうなんだ……」
母は強い。 僕はそう思った。
「母親は、子供を守るためなら、怖くない」
……えっ?
胸の奥がざわついた。
「どういう……こと?」
「あの男の人は、ずうっと、あなたのことを見ていたでしょう」
「僕を!」
衝撃が走る。
「そういう趣味の人は多いから……」
母は無表情で僕を見つめた。
頭から血の気が引く。
あのオヤジは母ではなく、僕を見ていたのだ。 嫌らしい目で。
吐き気が込み上げ、目眩がした。
世界がぐらりと揺れ、隠されていた世界が一気に姿を現したようだった。
母が両手を伸ばし、僕の肩に触れた。
「いい、教嗣」
母の瞳は緑がかっていて、悲しげで、それでも強い意志が宿っていた。
「あなたをここへ連れてきたのは……」
僕は息を呑む。
「闘うためなの、私が」
「……何と?」
「あなたを守るためよ」
「何が起きるの?」
「それはわからない」
母は頷いた。
「お父さんも、お母さんも、関わるつもりはなかった……」
「……うん」
「だけど、そういうわけにはいかなくなった」
「……うん」
「だから、私は、あなたを守る」
その言葉が胸に響いた。
不安が押し寄せる一方で、暖かい力が湧き上がる。
「ごはんをしっかり食べておくのよ」
母は立ち上がり、部屋を出ていった。
僕はしばらく正座したまま、父のいない世界、神のいない世界で、母だけが僕を守ると言ったその言葉を反芻した。
――しっかりしなければ。
ここは伏魔殿だ。 浮かれている場合じゃない。
立ち上がると立ち眩みがし、喉がゼロゼロと鳴った。 咳の発作の前兆だ。
鞄から鎮咳粉を取り出し、水で飲む。 すぐに咳は治まり、頭が冴えた。
ジャージに着替え、気合を入れて部屋を出た。
階段に向かうと、階下から魚を焼く匂いが漂ってきた。 腹が鳴り、またへたり込みそうになる。
「おはよう」
三階から羽根が降りてきた。 オレンジ色のジャージの襟に顎を埋めている。
「おはよう」
「どうした? 眠れなかったのか」
「なんで?」
「目が真っ赤だから」
「ああ……こすったから」
羽根は細い目を寄せ、僕を探るように見つめた。
「食事まで時間があるから、神明山に登らないか」
僕が頷くと、羽根は先に階下へ降りた。
一階に降りると、食堂から食器の音と話し声が聞こえる。
「俺も四月からは青年部だから、こういう時は朝早く起きなくてはならない」
「青年部って……高校生になったら入るの?」
「そう。だから、君は、あと一年は無理だよ」
羽根は僕の肩を軽く叩き、玄関へ向かった。
外に出ると、張りつめた空気が肌を刺した。
「山の上だからね」
羽根は裏手へ回り、畑の脇の小道を進む。
トマト畑の後ろに深い森が広がっていた。
「こっちから上がるのだよ」
丸太の階段を登ると、三十メートルほど先に大神殿が姿を現した。
金色の切妻屋根。 体育館のような巨大な建物。
正面には広い階段と回廊。 屋根の両端は五メートルほど突き出し、反り返っている。
「船の形なのだよ。ノアの箱船なのだ」
「ええ! 船になるの?」
「ならないさ。意味合いだよ」
羽根は右側から裏へ回り込む。
裏手には頂上へ続く道があった。
草が伸び放題で、クマザサやヨモギが生い茂っている。
僕は天狗の扇子のような葉を引き抜こうとした。
「逮捕されるよ」
「なんで!」
「この山は的場製薬の山なのだよ。教団が借りて本部を造ったの。それで、ここは薬草畑なのだ」
「使ってないのでしょう」
「今はね」
「それなら逮捕はされないよ」
羽根は皮肉っぽく笑った。それには嘲りが混ざっているように見えて、ムッとしてしまう。
その時、山に反響する声が響いた。
「羽根くん!」
羽根は反射的に振り返り、僕を押しのけて駆けていった。
「なんだよ!」
僕が叫ぶと、回廊から黒いスーツの青年が顔を出した。
「時間はあるか?」
「大丈夫です!」
「君にお願いがある。正面階段を上ってきてくれ」
青年はイケメンだった。 華流ドラマに出てきそうな顔立ち。
羽根は誇らしげに、
「西条さんに、呼ばれてしまった」
と言い、駆けていった。
――西条。
羽根が湯船で話していた、若きカリスマ。
一人にされると、お腹がとても空いていると訴えてくる。
戻ろうとした時、父の言葉が蘇った。
『三種の神器』
研修所で、父が祭壇にある棚の中の金庫から、桐の箱を取り出した。
正座している僕の前で、箱を開けてみせると、中から、黄色い布に包まれたものを取り出した。それを開いて、見せてくれた。
二十センチくらいの金色の勾玉だ。
「こちらへ来るとき、彰様が私に託してくださった」
「金?」
その時の僕の興味は、教祖が三種の神器の一つを父に託したという事実よりも、本物の金なのかどうかの方だった。
「もちろん、メッキだよ。大井さんが、神具などを作っている工房で作らせた物だ」
そこで思い出した。〃オオイ〃、という名前は聴いていたのだ。
その時は、「大井さん、誰?」 と質問しなかったので印象が残っていなかったのだが、教団の重要人物だったのだと、判明した。
「安いものさ。そういうのを作らせることはうまかったからね。紛い物だよ」
父は、紛い物だと言い切った勾玉に向かって、一礼してみせた。
「だがな、教嗣。大切に扱うと、物にも魂が宿るのだぞ」
そう語り、父は勾玉を布に包み直し、桐箱に収めた。
「彰様のお言葉だけど」
父は祭壇に向かって頭を下げてみせた。
僕にしてみれば、教祖の言葉なのかと落胆した。父は自分で考えることをしないのかと。
「そうだ」
と、父は振り返り、いい機会だからと、三種の神器の説明を始めた。
「三種の神器とは、鏡・刀・勾玉のことで、それぞれ、真・善・美、を顕す」
鏡(真の姿が映る)
刀(善を創る)
勾玉(美を司る)
「それぞれ、三カ所に納められているのだ。勾玉はここだけど。鏡は、『太陽殿』の舞台奥に神棚があり、その中に納められている。刀は、たしか……的場製薬の社長室のどこかに納められているはずだ。見たことはないけどな……」
それでだな、と父は悪戯っぽく微笑み、
「三つ合わせると、秘密が解けるのだぞ」
と、語った。
僕が「何の秘密?」と訊くと、
「誰にもわからないから、秘密なのだよ」
と笑った。
そして―― 秘密を解く鍵は、神明山の祠にある、と。
その言葉が、今、鮮やかに蘇った。
第四章 三種の神器 ~その弐~ に続く




