第二章 真っ赤な口唇 ~その参~
廊下の窓から外を見下ろすと、夜の駐車場が水銀灯の光に照らされ、白く浮かび上がっていた。
光は冷たく、まるで地面そのものが氷に変わったかのようだ。
明後日には、ここが人と車で埋め尽くされる――その未来のざわめきが、まだ静まり返った空間に逆に不気味な影を落としているように思えた。
「拝む対象を必要としないのは、『救い』がその人の中にあるからだ、と彰様はおっしゃった」
父の声が、ふいに耳の奥で蘇る。
水銀灯の光を眺めていると、どうしても父の姿が浮かんでしまう。
父の言葉でありながら、その源が教祖であることを、僕は知っていた。
「大切なのは心の平安。教義はそのための方便にすぎない。だから、掌充であろうが、念仏であろうが、踊りであろうが、いっこうにかまわない。……わかるか、のりつぐ。なんと懐の深い宗教なのだ」
熱を帯びた父の語り口。
しかし家の中の父は、いつも冷たく、どこか遠い。
だからこそ、研修所での父は別人のようで、僕はその父といる時間が好きだった。
――その父が、3年前の七月。
雨の朝、研修所を出た直後、ダンプに轢かれて死んだ。
その前夜、家の中で初めて、父と母が激しく言い争う声を聞いた。
布団に入っていた僕の耳に、怒鳴り声と泣き声が突き刺さるように響いた。
父が怒鳴り、母が泣いている。
そんな光景を想像しただけで、胸が締めつけられた。
僕は布団を被り、耳を塞いだ。
何が起きているのか、どうなってしまうのか。
不安が押し寄せたが、それ以上に恐怖が勝り、ただ丸くなって震えていた。
気づけば、隣の布団に母が寝ていた。
静かな寝息。しかし頬には涙の跡が残っている。
僕はそっと布団を抜け出し、廊下へ出た。
父の部屋の戸に耳を寄せるが、気配はない。
そっと戸を開けると、乱れた布団だけが残されていた。
――父は家を出た。
だが、行き先はわかっていた。研修所だ。
だから心配はしなかった。
翌朝、研修所へ向かおうとした僕を、母が呼び止めた。
「これを、お父さんに渡してほしい」
差し出された封筒。
手紙だとすぐにわかった。
内容を聞くのが怖くて、僕は黙って受け取った。
研修所の引き戸を開け、靴を脱ぎ、大広間の戸を開ける。
父は祭壇に向かい、背筋を伸ばして正座していた。
その背中は、いつもよりずっと遠く感じられた。
「教嗣か?」
振り返らずに父が言う。
僕は緊張しながら、棒のような足取りで父の背中へ近づいた。
「母さんが、これを」
手紙を差し出すと、父はゆっくりと振り返り、僕と向き合った。
僕も正座し、手紙を差し出す。
だが父は受け取らず、微笑んだ。
その笑顔は、どこか悟りきったようで、僕には恐ろしく見えた。
何かを決意した者の顔。
その決意が“訣別”を意味していると、直感した。
父は傍らの朱色の冊子――『眞・心』を開いた。
「 男と女。
身体のつくりも心のあり方も違う。
ひとつとなり、喜びが生ずる。
なぜ、喜びが生ずるか。
それが〃愛〃だからだ。
愛は、あるものではなく、生まれるものだ。形作るものだ。
人はカタワで生まれてくる。
愛を通じて、完全になるよう、学ぶわけだ。 」
読み終えると、父は冊子を閉じ、しばらく顔を伏せた。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
「ご飯は食べたか?」
顔を上げ、僕に微笑む。
その笑顔は、どこか別れを告げる人のようだった。
僕が食べたと答えると、「遊びに行ってこい」と言い、再び祭壇へ向き直った。
出口へ向かいかけた僕は、突然こみ上げる感情に足を止めた。
胸の奥から涙が滲み出すような、どうしようもない衝動。
父に駆け寄り、抱きつきたい。
離れたくない。
今日で家族が終わってしまう――そんな予感がした。
「お父さん!」
叫びたかった。
拳を握りしめ、震えながら耐えた。
父はため息をつき、封筒から手紙を取り出した。
便箋を開いた瞬間、父の背中がビクッと震えた。
勢いよく振り返り、僕を見つめる。
驚いた顔が、次第に笑顔へ変わっていく。
「のりつぐ、いたのか……」
その笑顔に、僕の胸のざわめきも静まっていった。
父は笑いながら手紙をヒラヒラさせ、「こっちへこい」と手招いた。
畳の上に置かれた便箋には、短い言葉が綴られていた。
『縁を繋ぐ』
「えん……を……?」
「えにし、とよぶ。えにしをつなぐ」
「えにし……どういう意味?」
父は腕を組み、しばらく考え込んだ。
だが機嫌は良さそうだった。
「そうだ」
父は再び『眞・心』を開いた。
「 なぜに人は生きるか。
それは、縁を結ぶ(えにしをむすぶ)。
縁を築く(えにしをきづく)。
そのために人は生きているのだ。 」
「教祖様はそうおっしゃった。縁が理解できれば、人生の意義も理解できる、ということだ……ね」
父は自分の言い方に笑い、僕もつられて笑った。
「縁のことだから、人と人との関わりだよ。頭ではわかるが、ここでわかっていない」
父は自分の胸を指した。
「教祖様は、お前の名前も考えてくださったんだぞ」
僕は驚いた。
「のりつぐ。教えを承けつぐ、という意味だ。これこそ縁だよな」
僕は嬉しいような、少し寂しいような気持ちになった。
「よし、家に帰るぞ。一緒に帰るか」
父の言葉に胸が弾んだ。
玄関から飛び出し、門を抜けて道路へ出る。
父が笑顔で出てきて、僕に手を差し伸べた――その瞬間。
ガシャン! ガシャン!
金属が暴れるような轟音。
反射的に振り向くと、ダンプがこちらへ突っ込んできていた。
恐怖で体が凍りつく。
次の瞬間、強烈な衝撃。
僕は弾き飛ばされ、視界が回転した。
地面に叩きつけられた僕の目に、父の姿が映った。
父が僕を突き飛ばしてくれたのだ!
必死の形相で僕を見つめ――そして、ダンプに呑み込まれた。
鉄の塊が悲鳴を上げるようにブレーキを引きずり、辺りは静寂に包まれた。
僕の目は、上半身だけになった父の姿を捉えていた。
胸から下が引きちぎられていて、ダンプのタイヤから夥しい血が流れ落ちている。
どす黒くなった臓腑が辺りに散らばっていて、捻れている腸が伸びようとするようにうねっていた。
運転席が開き、厳つい男が降りてきた。僕を認めると、携帯電話を取り出し、なにやら話しだした。その冷静さが奇妙に映った。
雨が降り始め、父の体を濡らし、血を洗い流していく。
人々が集まり、声をかけてくるが、何も聞こえなかった。
――僕が道路に飛び出したからだ。
胸が押し潰されそうだった。
婦人警察官が名前を尋ねてきた。
その肩越しに、雨に濡れた母が立ち尽くしていた。
僕は駆け出し、母の胸に飛び込んだ。
母は抱きしめてくれたが、その腕には力がなかった。
「神様なんて……いない」
母の呟きが、僕の心に深く刻まれた。
葬儀の日。
控え室に入ってきた祖母・朝子は、母を罵倒した。
「あなたなんかと一緒にされたため、こんなことに……!」
涙を流しながら叫ぶ祖母。
僕は怒りで震えた。
母は何も言い返さず、ただ耐えていた。
ただし、朝子も、夫、繁昭を二年前に亡くしており、僕の父、敬太が、家津羅会にのめり込んでからは絶縁状態だったため、辛かったのだと、後に知った。
その後、母は笑わなくなった。
葬儀場を出たとき、黒服の大柄な男が僕を呼び止め、紙を渡した。
「困ったことがあれば、私を呼んで下さい」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
――回想が終わり、僕は涙を拭いた。
三階へ上がるが、二階と同じ造りでつまらない。
気分が沈み、一階まで駆け下りた。
食堂を覗き、さらに進むと、大部屋の前で、オレンジ色に白のストライプの入ったジャージを着た若者たちがたむろしていた。
その中の一人、長い髪の美しい女性が僕に気づき、声をかけた。
「青年部?」
僕はドギマギしながら首を振った。
彼女の目が美しく、吸い込まれそうだった。
「いま来たの?」
「は、はい……」
声が上ずり、彼女と連れの女性が顔を見合わせて笑った。
恥ずかしくて、僕は頭を下げて部屋へ戻った。
――あんな綺麗な人もいるんだ。
落ち込んでいた気分が一気に晴れた。
部屋に母はいない。
僕は学生服を脱ぎ、ジャージに着替え、風呂へ向かった。
階段から廊下を覗くが、先ほどの女性はいない。
地下へ降りようとしたとき、管理室から母の声が聞こえた。
藤田と話している。
気になって耳を近づける。
「あのとき……絞め殺していればと、いまでも思います」
あまりに物騒な言葉に、僕は思わず身を離した。
「破門されて当然ですよ。よく決断されたと思います」
誰の話だろう。
わからないが、気になった。
「まだ未練が残っているのですね。色々と企んでいるじゃないですか。手下はいますし」
「誰?」
「サワダです」
「ああ……」
サワダ。
知らない名前だが、覚えておこうと思った。
「風呂へ行くの?」
突然声をかけられ、飛び上がるほど驚いた。
振り向くと、さっきの女性二人が立っていた。
「は、はい……」
タオルを掲げて答えると、綺麗な人が笑った。
「ついてきて」
階段を降りながら、彼女は振り返る。
「一緒には入らないけどね」
二人は爆笑した。
「いいんじゃない。女の子みたいだし」
連れの女性が言い、僕は真っ赤になった。
「ルージュを曳いている?」
綺麗な人が僕の顔を覗き込むように言った。
意味がわからず固まる。
「ここよ」
彼女は男風呂の入口を指さし、笑いながら奥へ消えていった。
残された僕は、ようやく言葉の意味を理解し、慌てて否定しようとしたが、もう二人の姿は見えなかった。
僕はうなだれ、風呂場へ向かった。
第三章 夢精 に続く




