第二章 真っ赤な口唇 ~その弐~
ふくまでん……?
小学生だった僕には、その言葉の意味などわかるはずもなかった。だが今なら、はっきりと理解できる。
――魑魅魍魎が跋扈する魔殿。
PS3のホラーアドベンチャーに置き換えるなら、間違いなくそんなタイトルになるだろう。
その“魔殿”へ、母と僕は乗り込んできたのだ。
標高の高い場所にあるせいか、学生服の上に何も羽織っていない僕は、さっきから震えが止まらない。だが、それは寒さだけが理由ではなかった。
「本来なら、上にお泊まりになっていただくところなのですが、報告をしていないので、申し訳ありません」
藤田が宿舎を示しながら、母に頭を下げた。
「ぜんぜん。そんな気はないし、この子もいるから、気にしないで」
母はあっさりと返し、さっさと宿舎へ向かって歩き出す。
三階建ての建物は、駐車場側に廊下が面しているため、廊下の照明がすべて点いていて、夜の山中にぽっかりと浮かぶように明るかった。
観音開きのガラス戸の前で母は立ち止まり、ふいに振り返る。
暗闇の向こう、巨大な影のようにそびえる大神殿を見上げた。
「あの石段を上って、神殿へ行くのでしょう?」
母の表情は、いつになく厳しかった。
「違う。普段は、この建物の裏手から登っていくの」
「え? じゃあ、あの石段は?」
「例祭の時だけ」
「来たことあるの?」
あまりに詳しいので、僕は訝しんで尋ねた。
「いいえ、一度もありません」
母はきびすを返し、ガラス戸を押さえている藤田に軽く頭を下げてロビーへ入っていった。
僕も靴を脱ぎ、用意されたスリッパに履き替えてロビーへ上がる。
左手には管理室。正面には階上と地下へ続く階段が口を開けている。
「こんばんは、よく来て下さいました」
母がロビーに上がると、右側の廊下から白い作務衣の初老の婦人と、割烹着姿の中年の婦人が現れた。
「おせわになります」
母は少し驚いたようにしながらも、丁寧に挨拶を返す。
「羽根敦子さんと砂畑則子さんです」
藤田が二人を紹介したが、母の名前は紹介しなかった。
「教嗣さん、ですか?」
割烹着の婦人が僕を指し、母に尋ねた。痩せて眼鏡をかけた、神経質そうな目をしている。
「ええ、不肖の息子です」
母の言葉に、僕は胸の奥がざわついた。僕のことまで知られていることにも驚いたが、“不肖”という言い方が、妙に引っかかった。
「そうですか……大きくなられて……」
羽根敦子と紹介された婦人は、まぶしいものを見るように細い目をさらに細め、僕を見つめた。
「私は、北陸研修所を任されています」
小柄な砂畑が胸を張って言い、「東海研修所は、なかなか活動が盛んなのですものね」と羨ましそうに付け加えた。
母は薄く微笑むだけだった。
「お部屋に浴衣が用意してありますから、よろしかったらお使いください」
羽根が説明し、二人は廊下の奥へ戻っていった。
その背中が見えなくなった瞬間、母はフーッと長く息を吐いた。
緊張を悟られないようにしていたのだとわかった。
「誰にも話していなかったのですが……」
藤田はハンチング帽を脱ぎ、薄い髪を撫でながら弁解した。
「行きましょう」
母は振り切るように階段へ向かった。
廊下の奥からは、若い人たちの賑やかな声が漏れてくる。広い部屋がいくつもあり、そこに大勢が集まっているらしい。
藤田に促され、母と僕は階段を上った。二階には同じような部屋が並び、家族や個人が宿泊する階だと説明を受ける。
「私は管理室にいますので。遠慮なく声をかけてください」
藤田は鍵を母に渡し、階下へ降りていった。
鉄製のドアを開けると、十二畳の和室が広がっていた。
厚手のカーテンが閉じられた大きな窓、小さな床の間――そして、僕を凍りつかせたのは、そこに掲げられた教祖の大きな写真だった。
畳に上がり、その写真と向き合う。
『鳴沢彰』
四角く厳つい顔。スポーツ刈り。彫りの深い、意志の強そうな顔。
だが、余裕の笑みを浮かべている。
そして何より――奥に沈んだ両目が、写真なのにこちらを射抜いてくる。
カッ!、と見開かれたその目に、僕は思わず息を呑んだ。
直に会わなくてよかった、と胸をなで下ろす。
「会ったことある?」
答えは知っていたが、確認したかった。
「もちろん。私は彰さんの下で、働いていたの」
「家津羅会を創った人なのでしょう」
母は少し考え、
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるけどね……」
「どういうこと?」
「彰さんは……柱」
母は自分の言葉に納得したようにうなずいた。
「はしら?」
「傍にいる人たちが、周りを作っていったのよ」
なんとなく、わかるような気がした。
「どんな人だった?」
幼稚な質問だと思いながらも、聞いてみた。
「明るくて、陽気で、声がでかい。地声が大きいうえに良く響くから、どこにいても聞こえてくるの。それと……周りにいると、みんなが楽しくなる、なった、ね」
母の表情はいつも通り無表情だったが、その声には微かな温度があった。
「目がね……」
「目?」
「目が、凄いというか……見つめられると……ふっと自分を忘れてしまうような強さがあった……」
「好きだった?」
「……え」
思い切って踏み込んだ。
「彰さんのこと」
母はフッと笑った。
「感情なんてない。それに……」
「なに?」
「太陽だから。好きになると、燃えちゃうでしょう」
そう言い切ると、母はバッグから着替えを取り出し始めた。
僕はなぜか遠慮する気になり、部屋を出た。
――「彰様は、とても大きな人なのだ……」
父・敬太の言葉が蘇る。
研修所の祭壇を背に正座し、僕と向き合っていた父。
「あまりに大きな人だから、誰もがその一部しか見ることができない」
広い畳敷きの大広間には、父と僕だけ。
「ある人は楽しい人だと言い、ある人は面白い人だと言い、ある人は怖い人だと言い、ある人は冷たい人だと言う。こういう人だと捉えることができない」
僕にとっては、父もそういう人だった。
「〃光〃を、見たのだ」
教祖にはその文句がついている。
「〃光りの世界〃なのかもしれないが……間違いなく、光を見たのだよ」
「父さんは見たことある?」
幼い僕にとって、父は教祖より大きな存在であってほしかった。
「見たことがない。たぶん、見ることはできない」
その答えは、幼い僕には残念だった。
父は祭壇から小さな朱色の冊子を取り上げ、一礼し、僕の前で開いた。
『眞・心』――家津羅会の教義、教祖・彰の言葉をまとめたもの。
父は読み始める。
「 すべては空である。
すなわち、生まれることも滅びることもなく、
きれいになることも汚れることもない。 」
朗々と響く声。
僕はいつも、この言葉を聞くと眠くなった。
「 我々の中に魂があるのではなく、魂の中に我々が在る。
つまり、魂こそ宇宙そのもの。大いなる神である。 」
「 宇宙は、存在しようとして存在するのではない。
無意識という意識で宇宙は存在している。 」
「 人は、自己という意識が消滅すれば、無意識の存在となる。
存在するという意識を持たない存在。 」
「 しかしそれは決して無ではない。それが空である。
すべての始まりが、空の空、それこそが神であり、魂である。 」
今でも意味はさっぱりわからない。
たぶん、父も理解していなかったと思う。
僕にとってはただの“眠くなる言葉”だった。
「彰様はこうもおっしゃっていた。私の教えは、『哲学』だと。『復活の哲学』だと」
――道理で眠くなるはずだ。
父は厳粛な面持ちで冊子を閉じた。
第二章 真っ赤な口唇 ~その参~ に続く




