第二章 真っ赤な口唇 ~その壱~
列車のドアが開いた瞬間、冷たい空気が頬を刺した。
僕は母に置いていかれまいと、バックパックを揺らしながらホームを駆け上がる。名古屋駅と比べれば人影もまばらで、一段飛ばしで階段を上がれるほどだ。
母はというと、僕がついてくるのが当然だと言わんばかりに、グレーのスーツ姿でキャリーバッグをゴロゴロと転がし、連絡通路を迷いなく進んでいく。背筋は伸び、隙がない。まるで仕事の戦場に向かう将軍だ。
その背中を追いながら、ふと気づく。――こうして母とどこかへ出かけるのは、いつ以来だろう。
いや、そもそも物心ついてから「家族旅行」というものをした記憶がない。
小学校低学年の頃、友達が遊園地へ連れて行ってもらった話をするたび、羨ましくて仕方なかった。
父は休日になると東海研修所に籠もり、母は買い物以外ほとんど外出しない。高学年になる頃には、家族でどこかへ行くという願いは自然と消え、寂しさすら感じなくなっていた。
ただ――ディズニーランドだけは別だ。行ったことがないからこそ夢が膨らみ、高校生になったらショウノスケとタケと一緒に行こうと約束している。
改札を抜けると、母は迷いなく「アルプス口」と書かれた出口へ向かった。
僕は重いバックパックのベルトを握りしめ、階段を下りる。
そして駅西へ出た瞬間、思わず声が漏れた。
「……何もない」
繁華街を想像していた僕の目に映ったのは、暗く沈んだロータリーと、低い屋根の家々だけだった。
「東口の方は賑わっているけどね」
母は周囲を探るように視線を走らせる。街路灯の光が弱々しく、寒さがじわりと迫ってくる。
そのとき――
「サキちゃん……」
囁くような声が闇から流れてきた。僕がそちらへ顔を向けようとした瞬間、
「おっちゃん……」
母が応えた。
え? サキちゃん? おっちゃん? 思わず母の横顔を凝視する。
母は表情を崩し、声の主へ駆け寄った。あの母が、だ。
10歩ほど先、二つある降り口の中央に、ずんぐりした男が立っていた。
丸顔で、夜なのにハンチング帽を斜めにかぶり、厚手のブレザーで首が埋もれている。おっちゃんというより、おじいちゃんに近い。
母はその男の肩を軽く叩き、弾む声で言った。
「元気だった?」
僕は耳を疑った。母の声に、こんな柔らかさがあったなんて。
「おかげさまで。サキちゃんも元気そうで、嬉しいです」
男は低く囁くように答えた。その声音に、母を大切に思っている気配が滲む。
「教嗣、おいで」
母が僕を手招きする。僕はバックパックを背負い直し、二人に近づいた。
「わたしの息子、のりつぐ」
母は真顔で紹介する。
「中学生ですか……」
男――藤田博は、なぜか僕の顔を見ずに母へ尋ねた。
その態度に、胸の奥がざらつく。
藤田は宿舎の管理を任されているという。母は眉間に皺を寄せたが、その仕草が妙に美しく見えた。家ではほとんど表情を見せないからだ。
藤田に促され、僕と母はタクシーの後部座席へ滑り込んだ。
ドアが閉まると同時に、外の冷気が遮断され、車内のわずかな暖かさがじんわりと身体にまとわりつく。
フロントガラス越しに見えるロータリーの街灯は弱々しく、まるで僕らを送り出すのをためらっているようだった。
エンジンが低く唸り、タクシーはゆっくりとロータリーを抜け、片側二車線の道路へ出た。街の灯りはすぐに途切れ、窓の外は黒い幕のような闇に変わる。
車内の天井灯が消えると、僕の顔が窓にぼんやり映り、見慣れたはずの自分がどこか遠くの他人のように見えた。
「いまはどこにお勤めですか?」
助手席に座る藤田が、首をゆっくり回して母に尋ねた。声は控えめだが、母の返事を待つ姿勢には、どこか畏まった気配がある。
「的場の名古屋支店」
「的場に、ですか……」
藤田は小さくうなずき、何かを飲み込むように「……はい、はい」と繰り返した。
母が「所長の紹介で」と付け加えると、藤田はさらに深くうなずく。
母が“岩村”という名前を出さなかったことに、僕はすぐ気づいた。母は感謝しているが、信用はしていない――そんな複雑な感情が、短い言葉の裏に透けて見える。
タクシーは町の外れへ差しかかり、街灯がぽつり、ぽつりとオレンジ色の光を落とす。光の間隔が広がるほど、闇は濃く、深くなっていく。
僕は窓の外を見つめながら、胸の奥にじわりと不安が広がるのを感じた。
――いったいどこへ連れて行かれるんだ。
「どのくらいかかるのですか?」
思わず身を乗り出して藤田に尋ねた。だが藤田は、またしても僕ではなく母の方へ向き直り、
「あと十五分ほどかかると思います」
と答えた。
僕の胸に、針のような小さな苛立ちが刺さる。なぜ僕を見ないのか。理由はわからないが、無視されているようで落ち着かない。
母は窓の外を眺めながら、何気ない調子で尋ねた。
「トモヨさんは、いらっしゃるの?」
「お泊まりになっていません。明後日の式典の朝、おみえになると思います」
「でしょうね……」
母の声は、普段の家では聞いたことのない柔らかさや、逆に鋭さを含んでいて、まるで別人のようだ。
僕はその変化に戸惑いながらも、耳を澄ませてしまう。
「トモヨって?」
母は答えないだろうと思い、藤田に向けて尋ねた。
「教主様でございます」
藤田は頭をひとつ下げた。
その瞬間、背中に電流が走った。
母が教主を「トモヨさん」と呼んだこと。藤田がそれを当然のように受け止めたこと。そして僕自身が、教主を呼び捨てにしてしまったこと。
車内の空気が一瞬だけ張りつめたように感じた。
「この時期は、家津羅さんのおかげですよ……」
運転手がバックミラー越しに母の顔を盗み見しながら話し始めた。声には妙な高揚がある。
「宿も一杯ですしね、明日以降は土産屋さんも弁当屋さんも賑わいますでしょうし、ありがたいことですね……。大型バスも百台くらい来るでしょう」
「それは大袈裟でしょう」
母が鼻で笑うと、運転手は「盛っちゃいましたね、すいません」と照れたように言い、また何度もうなずいた。母に話を聞いてもらえたのが嬉しいのだろう。
「まとばって……お母さんが勤めている?」
僕は母の横顔を窺う。
「あなたが飲んでいる薬を作っている工場があるの」
「同じ町にあるの……」
「前も話したでしょう。的場の社長とアキラさんは義兄弟なのよ」
アキラさん――教祖のことだ。
教祖であり、家津羅会の始祖だ。
母が“さん付け”で呼ぶのを聞くたび、僕は胸の奥がざわつく。父でさえ「彰様」と呼んでいたのに。
運転手はその呼び方を聞いた瞬間、背筋を伸ばし、シートに深く座り直した。まるで突然、VIPを乗せていると気づいたかのように。
「的場製薬の社長も、アキラさんと申します」
藤田が補足する。
「字は違うけどね」
母が静かに言うと、藤田は「そのアキラさんも、明後日の式典には出席なさるそうです」と続けた。
「そうなの?」
母はわずかに身を乗り出し、確認するように尋ねた。
「はい」
藤田は畏まったまま答えた。そのやり取りを見て、僕は胸の奥に何か大きなものが刻まれるのを感じた。
――これはただの“式典”じゃない。
タクシーは国道から右折し、小川を渡り、山道へ入った。
二車線の道路は驚くほど整備され、街路灯が狭い間隔で並び、国道よりも明るいほどだ。
山の壁面に沿ってうねる道を登るにつれ、外の闇は深く、星は鋭く輝き始めた。
僕は窓の外に目を向けた。星がこんなに多く、こんなに鮮明に瞬くのを見たのは初めてだ。一つ一つが目に突き刺さるように澄んでいる。名古屋の自宅からは絶対に見えない夜空だ。
――その瞬間、身体がふわりと浮いた。
タクシーの窓をすり抜け、夜空へ吸い上げられていくような感覚。
肉体は後部座席にあるのに、意識だけが夜空に漂い、山の稜線や遠くの町の灯りを見下ろしている。
大きなカーブで遠心力がかかり、身体がドアに押しつけられた瞬間、現実へ引き戻された。
――いまのは何だったんだ。
戸惑いが胸に渦巻く。
そのとき、フロントガラスの向こうに、巨大な金色の屋根が現れた。
下からの強烈な照明に照らされ、切妻の先端が船の帆先のように反り返っている。
光は交差し、夜空へ突き刺さるように伸びていた。
家津羅会の大神殿――。
タクシーは最後のカーブを曲がり、広大な駐車場へ滑り込んだ。
山の中腹に造られた平地で、バス用の白線が何本も走っている。
校舎のような三階建ての建物の前で車が停まると、運転手は名刺を差し出し、深々と頭を下げた。
僕はタクシーを降り、石段の前に立つ。
30段ほどの幅広い階段。その両側には宝生塔が立ち、紫色の光を放っている。
塔の向こう、暗い空の奥に、大神殿の光が漏れている。
母はその光を見上げ、低く呟いた。
「来てしまった……」
父が「伏魔殿」と呼んだ場所。 魑魅魍魎が跋扈する魔殿――。
僕と母は、ついにその中心へ足を踏み入れたのだ。
第二章 真っ赤な口唇 ~その弐~ に続く




