第一章 クールビューティー ~その弐~
ついでに言えば、僕の家族というのは、どこか他人行儀な空気に満ちていた。
父と母は互いを「美咲さん」「敬太さん」と呼び合い、母は父に笑顔を向けることすらなかった。
寝室も別で、父は一人で寝て、僕は母と同じ部屋で寝ていた。父が亡くなる、その日まで。
だからこそ、ショウノスケの家に遊びに行ったときの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
狭い茶の間に家族全員がぎゅうぎゅうに集まり、兄弟たちは好き勝手に大声で喋り、笑い、騒いでいる。あの喧騒の渦に放り込まれた瞬間、僕は完全に面食らった。
ショウノスケの母などは、初対面の僕にタメ口で、「彼女はおらんのか!」と豪快に訊いてきて、すぐさまガハハハと笑い飛ばした。
――なんでこんなにテンションが高いんだ?
僕は本気でこの家族はどこか変なのではないかと疑ったが、同時に、羨ましくもあった。
そんなことを思い返しながら退屈しのぎに色々考えているうちに、胸の奥がざわつき、気持ちが高ぶってきた。
――これはヤバい。
そう感じた瞬間、咳が連続して迸った。
僕は時々、咳の発作に襲われる。医者には「喘息息」と診断されている。
「薬は飲んできた?」
母は表情を変えずに尋ねてきた。僕の顔を見ることはない。
「慌てていたから、飲まなかった」
「今、飲んでおきなさい」
僕は棚に上げたバックパックから粉末薬の袋を取り出し、ペットボトルの水で流し込んだ。
『鎮咳粉』――的場製薬の咳止め薬。4年前から飲んでいる。
あるとき、空咳の発作で医者に行ったが「喘息ではない」と診断され、まともな薬を処方してもらえなかった。
心配した父が、教団の相談役である的場製薬の社長、的場章に相談し、薬を大きな箱いっぱいに詰めて、送ってもらったのだ。
薬を飲むと、まず気管がスウッと冷えて息がしやすくなる。次に、鼻から額の奥へ冷気が通り抜けるような感覚が走る。
その瞬間、なぜか毎回、頭がふわりと膨らんでいくような気がする。不快ではなく、むしろ楽しくなっていくような奇妙な感覚だ。
ただ一つ問題がある。咳の最中に飲むと、粉薬が口に入った瞬間に吹き出してしまうことがあるのだ。笑ってしまい、余計に苦しくなるのだが……。
「大丈夫ですか、息子さん?」
ついに、隣のオヤジが話しかけてきた。待ちに待った“話すキッカケ”を得たのだろう。
「はい。おかげさまで」
母は丁寧に答えた。男の顔へしっかりと向いて。
僕はチラッと男を見た。赤ら顔で、目尻が下がっている。
「どちらへ、出張ですか?」
緊張したのか、オヤジは間抜けな質問をした。子供を連れて出張はないだろうに。
「はい。かやま町へいきます」
「松本でなくって?」
「はい。家津羅会の教祖様が天へ還られて7年が経ちました。家津羅会の太陽殿で聖天祭が執り行われますので、それに出席いたします。私は教祖、彰様にお仕えしていた者ですから」
母は、今まで聞いたことのない涼しげな声で、淀みなく答えた。
「あ、あ、そうですか……」
男はそれだけ言うと、そっぽを向いてしまった。不気味に感じたのだろう。結果、関わらない方がいいと判断したのかもしれない。
「あれっ……違う席だったのかな……」
間抜けついでに男はそう呟き、席を立って行ってしまった。
――母の美しさには、中年男が冷静さを失ってしまう妖しさがあるのかもしれない。
僕はそんなふうに同情めいた分析をした。
すると、2年前の六月の夜が、胸の底からどす黒い憤りとともに蘇ってきた。鼻血の匂いを伴って。
母の勤め先の上司――厚かましい顔に、ポマードで撫でつけた髪をテカテカ光らせた中年男が、夜の10時頃に家を訪ねてきた。酒臭さが玄関いっぱいに広がった。
「明日の会議に必要な資料を渡すのを忘れていてね」
男はそう言い訳した。緊急なのだと。
僕は母を呼びに行き、自室に戻った。
玄関では押し問答が続いていた。早く帰ってくれと祈るような気持ちで耳を澄ませていた。
そして――
ドン!
床に倒れる音。
「やめて!」
母の短い叫び。
僕は部屋を飛び出した。
玄関の廊下で、母が男に押し倒されていた。必死に抵抗しているが、男は母の両手を押さえつけ、シャツを引き裂こうとしていた。
ボタンが弾け飛び、ブラジャーが外されかけている。
「やめてください!」
僕は叫び、男に飛びかかった。しかし、男は片手で僕を突き飛ばした。
僕の体は壁に叩きつけられ、頭を打ち、軽い脳震とうを起こしてしまった。視界が揺れ、ただ呆然と眺めるしかなかった。
母のシャツは剥がれ、肩が丸出しになり、片方の乳房がさらけ出されていた。
男はその乳房を掴み、片手で自分のベルトを外そうとしていた。
そのとき、僕の頭に、父がダンプに轢かれ半身だけになって道路に晒されていた光景が飛来した。
そして、葬儀場で僕に近づき、「何かあったら私に連絡しなさい」と囁いた声が重なった。
僕は跳ね起き、居間へ駆け込み、受話器を取った。記憶していた番号を押す。
「母を、母を助けてください!」
必死に訴えた。
受話器を置いた瞬間だった。
玄関のドアが、バッ! と開いた。
大柄な男が影のように立っていた。太い腕を伸ばし、母に跨っていた男の襟首を掴み、まるで猫を運ぶように引き剥がした。
そのまま、吊り下げた男を連れて玄関から出て行った。
ドアがバタン! と閉まる。
「な、なにをする!」「助けて!」「離してくれぇぇぇぇ」
という男の怯えた声が遠ざかっていった。
母は肩で息をしながら鍵を掛け、振り返った。
乱れた髪、口元の血、破れたシャツ、外れたブラの紐、さらけ出された乳房――それを隠そうともせず、僕を睨みつけた。
「あなたが呼んだのか?」
「大丈夫?」
と尋ねようとした僕は、息を飲まれ、小さくうなずくしかできなかった。
「そう」
母はそれだけ言い、シャツを引き上げて部屋に入った。
しばらくして、すすり泣く声が聞こえてきた。
僕は廊下にへたり込み、心臓が喉から溢れ出そうな鼓動を必死に抑えた。空咳の発作が起きなければいいと祈りながら。
母の上司がその後どうなったかは知らない。”埋められた”、なんてことはないだろうが、母は会社を辞めたため、知る術もなかった。
翌日、学校の帰り道、僕は3年ぶりに『東海研修所』へ向かった。父が亡くなってから一度も訪れていない場所だ。元は公民館だった木造平屋の建物。
父はその前の道でダンプに轢かれた。
恐れていたが、実際に来てみると胸裏にあの場面が迫ってくることはなかった。ただ、お礼を言うために来たのに、研修所の中へは入れなかった。
石の門を過ぎ、両開きの引き戸の前で踏み段石に足を載せた瞬間、体が動かなくなったのだ。
背中を軽く叩かれた。
振り返ると、白い作務衣を纏った大きな身体が立っていた。
「あ、あの……」
圧倒され、挨拶ができなかった。
「入られますか?」
体躯に似合わず、岩村は丁寧に言った。
「いや……その……昨日は……」
「窓華が、会いたがっていまして。ぜひ、遊びに来て下さい」
僕の感謝の言葉に被せるように、岩村は娘の話を始めた。
「なかなかお邪魔できないようで……なんせ、娘の頼みなものでして……」
強面の男が恐縮して頼んでくるものだから、僕は当惑した。
「あ、はい……」
結局、お礼も言えず、頭を何度も下げてその場を去った。
門を出て道路を歩き出した瞬間、ふわりと体が浮き上がるような感覚があった。
足が軽くなり、地上を離れ、頭から空へ引き上げられるような――そんな奇妙な感覚。
周囲の景色が遠のいていく気配があるのに、自分はしっかり歩いている。それが不思議だった。
その感覚は、陸上のトラックで走っているときに起きた“あれ”と同じだと気づいた。
陸上部の200メートル走者である僕が、夏の地区大会の予選で感じた、あの浮遊感と。
そのとき、車内におなじみのJRのメロディーが流れた。
「まもなく~松本~、お降りの方は~」
僕は物思いから醒めた。
車窓の外には、暗闇の中に町の灯りが瞬いている。街に着いたのだ。
窓に映る母の横顔が目に入った。顎を引き、目を細め、唇を固く結んでいる。
――何かの決意を胸に秘めている。
振り返らずとも、そう感じられた。
第二章 真っ赤な口唇 ~その壱~ に続く




