第五章 変性意識 ~その弐~
「ここはヴュッフェなの。わかる」
羽根に話しかけられ、ハッとして顔を上げる。
トレイに朝食セットを載せ戻ってきた羽根は、向かいに腰かけた。
「始めてだから、かーちゃんが気を利かせて持ってきたのだけど、次からは取りにいくんだよ」
羽根は面倒くさそうに説明すると、合掌して食べ始めた。
僕はガツガツ食い始めた。空腹は限界まできていたのだ。多少舌を焼いたりしたが、そんなことを気にすることなく食べていった。なんて美味しいのだろうと、感動していた。
僕にとって、ご飯を食べて感激するなんてことは今までなかったことだ。美味しいというのは、味付けがいいとかいうのではなく、空腹が極まっていたから美味しいのだと理解した。「空腹は最高の料理人」、学校の芸術鑑賞で、区の文化ホールで観た演劇のセリフを思い出し、実感する。
「俺は、はやく青年部に入りたい」
クチャクチャと口を動かしながら、羽根は話し始める。その話なら何度も聴いたけれど、と思ったが、食べながら耳を傾ける。
「ここでこうして君と二人だけで食事をしているのが、情けないのだ」
その割には美味しそうに食べているけど、とツッコミを入れたかったが、口には出さなかった。
「高校に入ったら、部活は遣らず、休日はここで奉仕をすると決めているのだ」
「なんで?」
「なんでっ、て……?」
その気持ちが理解できない僕は素直に尋ねたのだが、羽根はそう返されるのが意外だと、動かしていた口を止めて、僕を見つめた。少し考えてから顔を近づけてくる。
「これは、誰にも話してはいけないことなのだが……」
そう言われ、箸を置いて、羽根に顔を向ける。
「昨日の勉強会で話が出たのだけど……」
「なに?」
「3年後の、聖天10周年祭で、妃那之様が正式に二代目教祖になられるのだよ」
「……え?」
「気がついたか?」
「うん。確か……昨日の話しでは……」
「そう。僕は、2年後の教団設立20周年祭で、と言ったよね」
昨夜の会話がすばやく再生される。
「……うん」
「そういう話だったのだが……一年先に延ばされたんだと」
「そうなんだ……」
と、頷いたものの、今一ピンと来るものがない。
「どうもすんなりとは進みそうにないのだ」
「そう……?」
それこそ伏魔殿たる所以じゃないかと、話の続きを待ってみる。
「それにはね、一つの事実として……教団の世代交代が一気に進む、ということも含まれているのだよ……」
「どういうこと?」
ここで羽根はより顔を近づけ、小声になった。
「妃那之様が二代目教祖になられたら、西条さんが、副代表になられるかもしれない」
脳裏にタヌキオヤジの顔が閃いた。妖怪のように笑う福森の姿が。同時に、その隣で、狡そうに控えているキツネオヤジ、山根の姿も。
そういう話なら僕にも理解できる。大変なことだと。反乱みたいなものじゃないかと。
「だから、青年部を中心にした若い人たちは、団結しないとダメなんだよ。そんな大事なときなのに、僕は青年部じゃないのだ」
箸でみそ汁をかき混ぜながら、残念そうに羽根は語った。
「ああ、そして……そう! 西条さんから話が出たのだけど」
羽根はふと身体を反らして、不思議そうな顔をする。
「2012年、再来年だね……12月に、なにか大変なことが起きるんだと」
「え? なに? 世界が滅ぶの?」
ノストラダムスの預言が復活したのかと懸念し、僕は思わず上体をテーブルに乗り出してしまった。
「そうではないんだよね……。よく理解できなかったのだけど……世界が変わることは、間違いないようなんだ」
「どう変わるの?」
「魂が、上昇するとか……」
「死ぬの?」
「死ぬのではないのだよ。次元が上がるとか何とか……」
「なに、それ?」
思わず眉を顰めてしまう。教団の教義よりも難解だ。羽根もよく理解できていないようなので、これ以上質問しても無駄だと黙る。
「ああ、そうだ。それでさっき、駒塚さんにお願いしたのだけど……午後から青年部の会議があるので、僕も出席することにしたんだよ」
「何の会議?」
「明日の式典で何をするかを決めて、作業の分担をするのだよ。それで、僕も手伝いたいから……青年部でないから手伝いしかできないけど、会議に出て、指示を受けようと思ったのさ」
「そう……」
「君はどう? 一緒に行かないか? 手伝いはできるから」
気が進まなかったが、あの綺麗な人に会えると閃いたら、俄然やる気が湧いてきた。
「わかった。僕も行く!」
「じゃあ、そう伝えてくるよ」
羽根はそう言い、合掌をして、食事を片づけだした。
僕もおおかた食べ終えていたため、そろそろ片づけしようとしたら、ふと、いま聴いた、〃何かが変わる〃というフレーズが引っかかって、手を動かすのを止めてしまった。
僕がたまに墜ちる不思議な感覚と関連があるのだろうかと。突然、体が軽く感じられて、足元が遠くに見えてしまう感覚。上に引っ張られるように、空が飛べるんじゃないかと、気持ちが膨らんでいく感覚だ。
昨年の夏、市の大会へ出場したときの体験が蘇ってくる……。
200メートルの予選で、僕はコンディションが良かったこともあり、巧く飛び出すことができ、4レーンであったこともあり、勢いに乗れて直線に入ることができた。
気がつけば誰も隣に走っていなく、一番で駆けている自分を自覚した。風が後ろに滑らかに流れていき、自分の体が押し出されるように進んでいるのを感じていた。
スッと、景色が後ろに下がったのがわかった。SF映画でよく見る、ワープする映像のように。とたん、周りが広がった。背景である競技場がどんどん離れていくのだ。
気がつくと、隣が見えた。自分は前を向いているのに、両側が見えるのだ。苦しい顔をして、頭を振りながら汗を飛ばし走る両側の選手が見えていたのだ。
走る苦しさは消えていた。というより、走っているという感覚も消えていた。滑るように、滑らかな空気の中を進んでいるような気になった。足は地を離れ、そう! 自分は飛べるのだと。
……。
気がつくと、空が見えていた。体が揺すぶられ、移動しているのがわかった。
頭がはっきりすると、担架で運ばれているのを自覚した。部活顧問の斉藤先生が隣に寄り添って歩いてくれているのが見えた。身体がとても重く感じられ、それでも自分で歩けますと先生に訴えようとしたら、手も足も動かないことに気がついた。
救護室のベッドに寝かせられ、動かない身体に、徐々に恐怖を感じ始めていた。
そこへ、マイが現れた。「うふふふ」と笑いながら。何しにきたのだ、こいつ、と悪態をつきたかった。
マイは、僕の額にアイスノンを貼り、タオルで顔の汗を拭いてくれた。そして、
「コンピューターはする?」
と尋ねてきた。何のことかわからない僕は、ただうなずいた。
「メールはできる?」
母のコンピューターだけど、自分専用のメールアドレスはあるよ、と答えた。
頭を少し傾げたマイは、「じゃあ、メールしよう」と笑顔で誘ってきた。こんな状態だし、断ることもないので、僕はオッケーと応えた。
……。
「部活はするのか?」
「……えっ? 部活?」
羽根から話しかけられ、僕は回想から醒める。気がつくと、片づけ終わった羽根は、廊下へ出ようとしている。
「高校に入ったら、部活は続ける気? ……まだ早いか」
僕は立ち上がり、トレイを持った。
「たぶん……陸部を続けると思うけど……」
そう、と応え、羽根は食堂から出て行く。僕はトレイを抱えて厨房のカウンターへ向かった。
食堂から出て、昼飯もここで食べるのかと羽根に質問したら、食堂は夕食時まで休みだと答えられた。
昼食は各自取るようで、青年部はいくつかのグループに分かれ、山を下り、町まで食べに行くのだということだった。
「羽根君はどうするの?」
「俺は青年部じゃないから」
と、羽根は前置きし、
「かーちゃんが作った弁当を食べる」
と答えた。
「どこで?」
「どっかで」
付いてこられると鬱陶しいと思ったのか、羽根は素っ気なく答えて、行ってしまった。
僕は不安に襲われた。このままでは昼食抜きだと。そのうえ、大変な事に気がついた。ここの施設には、自動販売機が一台も置かれていないことに。もちろんコンビニもない。
パニックに陥りそうになってしまった。喉が渇いても飲み物がないのだ。食事は、自分たちで用意しなければ、朝と夕方しか食べられないのだ。車のない自分たちは町へ降りることもできないし、夕方まで何も口にできないということになる。
母も始めて訪れたわけだから、知らなかったのだ。いったいどうするつもりなのか訊こうと、母を探すことにした。急いで宿舎から外へ出る。
まずは太陽殿へ行ってみようと。死活問題だから細かいことは気にせず、広い石段を駆け上がっていく。大神殿の前の広場に来ると、誰もいなかった。
僕は誰かに尋ねようと、一人突っ立って周りを見わたした。
雲が大きく開け、春の日差しが広場に当たっている。風もなく、何の音もしないことに、僕は気がついた。広場の真ん中に立って耳を澄ませてみても、何も聞こえてこないのだ。それはとても新鮮なことだった。
熱くもなく寒くもなく、とても長閑な場所だ。普段の生活では得られない経験だと理解する。
どうでも良くなってしまった。昼食べられようが空腹のままであろうが、そんなことはどうでもいいことなのだといえるのだ。
部屋に戻って勉強でもしようと。そのために問題集を持ってきたのだからと思い直し、僕は母を捜すのを止めて、石段をゆっくり降りだした。
誰もいない駐車場に、一台の赤い軽自動車が入ってくるのが目に映った。その車は、律儀にも広い駐車場の端を通って、直角に曲がり、宿舎の前にきて停まった。
宿舎に入ろうとすると、運転席から小柄な婦人が降りてきて、僕を呼び止める。
「ちょうど良かった……」
昨夜宿舎のロビーで挨拶した、砂畑であることに気がつく。
「これを持っていって」
軽自動車の後ろからレジ袋を取り出し、僕に手渡そうとする。
「あなたとお母さんのぶんよ」
レジ袋の中を覗くと、コンビニ弁当が二つとペットボトルのお茶が入っていた。
「お金は?」
「教団からでているから、要らないの」
そう言い、砂畑はいくつかのレジ袋を車の後ろから出そうとする。
「手伝います」
僕は彼女が抱えていた袋を全部持った。
「気が利くのね」
褒められて気分が良くなり、僕は宿舎まで荷物を運んでいった。
第六章 告白 ~その壱~ に続く




