第5話 憎悪と愛
「森川円は黒だったか」
星奈さんは今朝と同じようにタバコを吸っていた。廃ビルへと戻った僕らは今日の成果を報告した。
15メートル以上離れていたにもかかわらず、尾行していた僕らの存在に気付いたこと。さらに、10秒もしないうちに周辺から完全に消え去り、逃げたこと。
榛の見立てでは、熊野よりも重度の異形者、とのことだった。
「となると、実力行使しかないな。子供を殺す前に早く殺さないと」
「明日もう一回学校へ行く…明日、必ず殺す」
榛は悔しそうにそう言った。
彼女にとっても、尾行している異形者を見失うことは滅多にないことだったのかもしれない。
「悔やんでも仕方がない。明日中に森川円が子供を殺すとも限らないしな」
星奈さんはタバコを灰皿にぐりぐりと押し付けて火を消した。
隣の部屋に戻る。
疲れから、ベッドに倒れ込む。
「森川円は必ず人を殺す。今殺してたっておかしくない」
榛はベッドに座ってそう言った。
ベッドのシーツには、彼女の右拳を起点にしたしわができていた。
僕は何もしていない。何もできない。
だから彼女を慰める権利はない。
何も言えないのだ。
僕はただの無力な人間なんだ。
それが悔しくてたまらなかった。
「結城が悔しがる必要はないよ。
それに、人を殺せないことを悔しがるなんて変だ。そんなこと考えちゃダメだ」
彼女は昔の自分に言っているかのような口調だった。
「人を殺すことが、結果的に人を救うなんて、そんなの人助けでもなんでもない。
でも、それが一番合理的で、楽で、確実なんだ」
その言葉の裏には、異形者も殺したくない、救えることなら救いたい、そんな意味が込められているのだ。
でも、彼女は異形者は人間じゃない別の生き物だと言った。
そう解釈することで、殺しを正当化していた。
「…もう寝よう。明日のために」
彼女はそれ以上は何も言わず、横になった。
僕は部屋の電気を消して、横になった。
『異形者は別の生き物だ』
『人を殺す前に殺す』
『人助けでもなんでもない』
その言葉がぐるぐると頭の中を回遊する。
もし父親が異形者になったら。
もし星奈さんが異形者になったら。
もし、榛が異形者になったら。
僕は本当に、彼女を殺せるだろうか。
◆
午前11時50分。
すでにここへ来てから4時間が経った。
僕らは昨日と同じように校門の前にいた。
朝から校門の前にいる理由は、彼女がいつ人を殺してもおかしくないこと、そして万が一の場合に備えてだ。
万が一の場合というのは、彼女が誰かに危害を加えた場合だ。
「彼女が人を殺しそうになったらって、そんなの分かるの?」
当たり前だが、ここから校舎の中は見えない。声も聞こえない。聞こえるのは鐘の音だけだ。
「異形者の殺人衝動は尋常じゃない。そんな殺意が漏れ出れば、私には分かる」
分かるのか。
榛は一体何者なのだ。
ただの女子高生とは思えない。
熊野のときもそうだった。
大柄な男を捩じ伏せ、あの大きな両腕すら右腕一本で受け止めていた。それに、昨日の俊敏さ。
僕にとっては彼女も十分人外の域に達している。
だが彼女は人間だ。
「ん」
急に榛の表情がこわばった。
そしてジッと、校舎を見つめていた。
「くっそっ…!!」
初めて聞く声だった。怒りと後悔、その両方を孕んだ声だった。
彼女は校門を乗り越えて、校舎の中へと姿を消した。5秒もかかっていなかった。
僕は全てを察した。
校門を乗り越えて、校舎へと駆け出す。
警備員らしき人に大声で何かを言われたが、無視して校舎の中へと入る。
教師らしき男性がいた。
「今すぐ救急車を呼んで!早く!」
その男性は面食らっていたが、すぐに携帯を取り出した。
すると、叫び声が聞こえた。
叫び声は手前の部屋から漏れ出ていた。
ドアには職員室と書かれた札が貼ってあった。
急いで中に入ると、返り血で真っ赤に染まった森川円と、榛の姿があった。
周りの教師達は怯え切っていた。何人かは携帯を耳に当てていた。警察だろう。
「何よ!!みんな私の悪口ばっかり!!」
森川円は泣いていた。
「みんな嘘ばっかり!!
頑張ってるとか、大丈夫とか言うくせに、そんなこと一ミリも思ってないじゃない!」
森川円の足元には、すでに息絶えているであろう女性がいた。
よく見ると、森川円の爪は獣のように大きく、鋭かった。
(殺したのか…)
「そうよ!殺したのよ!
……誰か私を助けてよ…!」
彼女はその場で泣き崩れた。
異様な光景だった。
人を殺したはずなのに、助けてと懇願している。
「ほら!今だって!!
どうして私を助けてくれないの!?」
彼女は周りにいる教師たちに訴えているかのようだった。
「っ…!!しゃがんで!!」
榛が叫んだ。
僕は反射的に身を屈める。
ヒュン、と何かが頭上を通り過ぎる音がした。
顔を上げると、周りの教師たちの首がなかった。
榛の声に反応した教師たちは無事だったが、その光景を見て腰を抜かし、声にもならない声をあげていた。
彼女がやったのか。
「っ…」
榛は森川円に向かってナイフを投げて、走り出した。
森川は紙一重でそのナイフを避ける。
体勢が崩れたところに叩き込まれる、榛の強烈な右ストレート
しかし、森川は後ろに寄った重心を利用して、右腕を鞭のようにしならせ、反撃する。
右ストレートが当たらないことがわかると、榛はすぐさま防御の態勢を取った。
左手を前に突き出し、森川の右腕を掴む。
そしてそのまま窓の外へと投げ飛ばした。
放り出した森川を追いかけて、榛も窓の外へと飛び出す。
窓へと走り、外を見ると、二人はいなかった。
すぐそこにゴミ集積所があった。
そして、ゴミ収集車が出入りする門扉がわずかに開いていた。
窓枠に足をかけて乗り越える。
着地した際、両脚にビリビリと電流が流れる感覚がした。
すぐに走り出して、門扉から道路へ飛び出す。
右か左の二択。
左は大通りに繋がっていて開けていた。
森川円が逃げたなら、入り組んでいそうな右を選ぶはずだ。右は住宅街になっていて、路地も多い。
走り出す。
一本道を道なりに走った。
300メートルくらい走ると、小さな公園があった。
そこに二人はいた。
榛は怪我を負っていて、右膝から流血していた。
森川円は返り血が酷くて、怪我をしているのかすらわからない。
しかし肩で息をしていて、表情は辛そうだった。
「昨日、私をつけてた二人ね」
「やっぱり、あのとき殺しておくべきだった」
「…私は悪くない。
悪いのは全部聞こえるこの耳よ!
急にこんなものが聞こえるようにならなければ!悪いのはこの耳よ!」
(耳…?地獄耳か何かか?)
「地獄耳?そんな可愛いものじゃないわ」
まただ。
まるで僕の心を読んでいるみたいに…。
そうか。
そういうことか。
「心の声が聞こえるのか」
「そうよ!聞きたくて聞こえるようになったわけじゃないわ!
ある日突然!なんの前触れもなく聞こえるようになった!
分かったことは、みんな嘘つきだってこと!
私を励ましてくれた斎藤先生も、私に寄り添ってくれた雄二も!
みんな嘘つきだった…!」
彼女は自分の両手を見た。
「この爪が生えてきたのも、人の心の声が聞こえるようになったのと同時だった
もうどうしていいか分からなくなったの…!」
彼女は両手で顔を覆った。
「どうしようもなくて…どうしようもなくて…」
「人を殺した」
榛がつぶやいた。
「違う!悪いのはあいつらだ!
殺されて当然だったのよ!
斎藤先生は笑顔で『辛いことばかりだけど、頑張ってて偉いね』って言ってきた!
でも本当は『面倒臭い人ね、いつ辞めるのかしら』って言ってきた!」
「だから殺したのか」
森川円は榛を睨んだ。
その瞳は憎悪と殺意で溢れ返っていた。
「あなたも私と同じよ!
心の中じゃ私を殺すことしか頭にないじゃない!私よりもよっぽど人殺しだわ!」
榛は森川円のもとに駆け出した。
「私は誰かを救うために、お前を殺す!
殺すために殺すお前とは違う!」
森川も迎撃の態勢を取った。
僕は眺めていることしかできないのか。
僕はどうしてここにいるんだ。
僕はなぜ彼女と一緒にいるんだ。
人を助けるため…そうならば、森川円は人じゃないのか。
僕には森川円が人間に思えて仕方がなかった。それは榛もそうなのかもしれない。
彼女も異形者は人外だと割り切ってはいるが、本当は人間だと思っているんじゃないか。
ならば、救うべきはまず異形者じゃないのか。
「待ってくれ!!」
気付くと僕は叫んでいた。
急な叫び声に二人は打ち合いをやめ、距離をとって僕を見た。
何を言えば良いのか分からなかった。
『森川円を救うべきだ』なんて事は言えない。
少なくとも彼女は人を殺した。
いかなる理由があったとしても、それだけは言えない。
でも、人を殺したのは榛も同じだ。
人を殺す前に人を殺す。
異形者は無関係の人を殺す、殺戮機械だ。
止めるためには、殺すしかない。
でも同じ人殺しと言う点においては、榛真白も森川円も同じだ。
「っ…待て!!」
榛が僕に意識を向けた、その一瞬の気の緩み。
森川円はそれを見逃さず、その場から姿を消した。
「………」
榛は僕の方を見つめていた。
「もし彼女がまた人を殺したら、それはあなたが殺したのよ」
何も言わずに頷く。
「その責任をどう取るの。
今ここでアイツを殺せば、その人は死ななかった」
「でもそしたら、あの人が死ぬ」
「まだ分からないの?
アイツは人間じゃない。もう人間の敵なの」
彼女の声は静かだった。
でもその声は燻っている火種のように燃えていて、今にでも爆発しそうだった。
「同情して止めたのかは知らないけど、勝手な事はしないで」
彼女は僕の横を通り過ぎて、いなくなった。
叫んだ理由。
彼女に同情してしまったことを、僕は認めたくなかった。
◆
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
日も暮れ始め、空も赤くなっていた。
僕はベンチに座っていた。
彼女はきっと僕を置いて廃ビルに帰った。
僕はそのことをなんとも思っていなかった。
彼女の言っていることは、正しかった。
無実の人を救うために、悪人を殺す。
森川円を殺す理由はそれだけで十分だし、事実彼女は多くの人間を殺した。
彼女が…異形者が紛れもない悪だということは身をもって実感している。
はずだった。
はずだったのに。
僕は外灯の明かりをじっと見つめていた。
異形者は本当に悪なのか、信じられずにいた。でも人を殺す、絶対的な悪だということも、分かっていた。
「私は悪だよ」
後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声、それは森川円の声だった。
僕を殺しにきたのだろう。
だが、そうではないとすぐにわかる。
「着いてきて欲しいところがある」
彼女はそう言った。
僕は立ち上がって振り返る。
血の臭いが鼻の奥を突き抜ける。
血で髪がベタベタになっていた。
両腕には渇いた血のせいで茶色に変色していた。
でも、彼女の瞳はどこか寂しげだった。
彼女は何も言わずに歩き出す。
僕は着いていく。
会話はない。
すれ違う人もいない。
異様な時間が流れた。
少し歩くと、彼女は右に曲がった。
そこには小さなアパートがあった。
「私の家」
短く言って、再び歩き出す。
玄関を開けて、中に入る。
生活感溢れる、一人暮らしの家だった。
シンクにはお皿やフライパンがあったし、机の上には空になったティッシュ箱もあった。
そして壁。
そこには子供の写真があった。
集合写真だったり、子供が楽しそうに肩を組む写真。
更には彼女が壇上で喋っている写真もあった。
「私は先生だった」
彼女は醜く変形した右手で、写真の一枚に触れる。
その写真は運動会のクラス写真だった。
右端に森川円の姿が写っている。
「私は、この子達の先生だったの」
彼女の頬に涙が伝う。
彼女も一人の人間だった。
子供を想い、真剣に向き合う教師だったのだ。
「私は子供が大好きだった。
良い先生でありたかった。
誰一人として、悲しませたくなかったし、一人一人と真剣に向き合いたかった。
だから一人一人の心の声すら聞き逃したくなかった。
泣かない子供の泣き声を、聞きたかった」
彼女は両耳に手を当てる。
「そしたら、聞こえてきたの。
心の声が。
最初はすごく嬉しかった。
でもすぐに後悔した。
聞こえてきたのは子供の泣き声じゃなかった。
大人の醜い本音と、子供の純粋無垢な、言葉の刃だった。
私は子供を信じられなくなった。
子供を…愛せなくなった」
彼女はきっと、子供を愛していた。
なのに、異形者になってしまった。
「…私はまた人を殺すわ。
自分でも分かる。私は人を殺す生き物なんだって」
彼女の爪がギラリと光った気がした。
「殺すしかない、殺したい。
そういうことしか、考えられなくなった」
「私を殺して」
彼女は右手を大きく振り被る。
「あなたを殺してしまう前に」
間一髪で、彼女の攻撃をかわす。
すぐに走り出す。
彼女の二撃目が、背中を掠める。
ヒリヒリと焼ける感覚が、すぐに背中を燃やした。
痛い。
どうする。
台所へ行って、包丁を探すか。
それまで彼女は待ってくれるか。
包丁があったとしても、彼女と五分五分の戦いが出来るか。答えは否。
ならば外へ出るしかない。
出てどうする。
榛と同じスピードで走る森川からどうやって逃げる?
無理だ。
僕は彼女を心のどこかで被害者だと思っていた。
いいや、被害者なんだ。
彼女は良い先生だった。
善人だった。
でも異形者となってしまった。
そして、人を殺した。
『人を殺す生き物』になってしまった。
悲しかった。
彼女はどうしようもない悪になってしまった。
そのことが悲しかった。
玄関を飛び出す。
脚がもつれて、地面を転がる。
すぐ目の前には、爪。
そして、不気味に笑う森川円の顔。
あの時と同じ。
今度こそ確実に死ぬ。
それでも、目は閉じなかった。
だから。
刃渡り数十センチのナイフが、森川円の脳天に突き刺さる瞬間が、見えた。
轟音を鳴らして、森川円は地面に激突した。
榛は、森川円の頭から突き刺さったナイフから手を離す。
「………」
頬に電撃が走った。
引っ叩かれたのだ。
「何してんの!!!」
怒鳴り声。
それだけだった。
僕は泣いていた。
何故泣いているのだろう。
自分でも分からない。
いや、分かりたくなかっただけだ。
森川円を救いたくても救えなかったこと。
榛が助けてくれたこと。
全てが滑らかに溶け合い、僕の心に流れ込んでくる。
榛は僕の手を取って歩き出した。
「森川先生ー!!!」
突然、そんな無邪気な声がした。
振り返ると、黄色の帽子に茶色のランドセル。
そこには、小学生がいた。
森川円はその声に反応したのか、ナイフの刺さった頭がわずかに動く。
体はもう半分消え去っていた。
「たく……ま……」
彼女の声がかすかに聞こえた。
「森川先生!!
どこ行ってたの??」
返答はない。
「先生がいなかったから、オレ寂しかったよ」
「…あぁ…」
「明日はいっぱい遊んでね!!」
「…うん…うん…」
「またね!!お母さんに叱られちゃう!」
「……うん…うん…」
小学生は走ってどこかへ行ってしまった。
それでも彼女は、頷くことをやめなかった。
そして、消えた。
彼女は最後に、何を聞いたのだろう。
再会を願う、無邪気な子供の声だったのか。
嘘偽りない、子供の心の声だったのか。
彼女は愛していたものを、もう一度愛せたのだろうか。




