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9話

 



 ◇



「──ここ」


 そう言ってようやく彼女の足が止まったのは、繁華街から路地一本跨いだところにある、地下へと伸びる階段の手前。

 外に居ると言うのに場所が裏手なだけに、室外機やダクトから垂れ流される淀んだ空気に眩暈がしそうである。


 社会の休業日たる日曜だからか、駅も繫華街も大層な混み具合を見せている。ここに来るまで何度も無言で先導する揚羽さんとはぐれそうになった事か。だと言うのにこの近辺だけはまるっきり人気が無く、ビル群を跨いで薄らとだが聞こえてくる繫華街の喧騒がまるで異界に迷い込んだような感覚に陥りそうになる。


 対する揚羽さんは堂々と直立不動の状態でこの場の空気をものともしておらず、空気への耐性から、僕は温室育ちだと言うことをむざむざと突き付けられているようであった。


「お、降りるの?」

「当たり前でしょ。ここで降りなかったら何のために来たって言うの」

「死に場所探しのはずでは……」

「そう。だから、ここが、一つ目の、死に場所」

「こ、ここって……」


 看板も無い、あるのは地下への入り口だけ。まさに地獄へと伸びる階段のように思えるそれを、揚羽さんはさも当然のように降りていく。当たり前だろう。彼女はこの場所に目的をもって遥々やって来たのだから。


 しかし、対する僕はどうだ。

 これより立ち入るのは、恐らく僕の潔癖と言える人生で触れることが無かった場所である。そこに踏み入れるには、緊張を上回る相応の覚悟と言うものが必要で。

 雰囲気も相俟って、震え上がるような恐怖と縮み込むような焦燥に炙られているせいかいつも以上に脳内に言葉が溢れ返る。そんな状態を言葉を尽くす必要がないのであれば、もっと短く言えるだろう。


 僕は、そう。大いにビビっていたのだ。


「──ビビってんの?」

「……そう言う揚羽さんは、落ち着いて見えるけど」

「見えるも何も、落ち着いているのは事実だし。でも……、本当はちょっと、興奮してる」

「興奮?」


 図星を突かれた僕が嫌味を含んで言うものの、揚羽さんは意に介するどころか、吐息を荒げた笑みをこちらに向ける。


「だって、ずっと来たかったところだもの」


 いろ姉や陽人君が浮かべるような、頭上に広がる雲一つない青空の如き爛漫な陽光の輝きとは違って、揚羽さんが湛えた笑みはまるで未来への希望と言った輝きの一切を宿さない暗闇に閉ざされているようなものだった。

 神話に登場する、見た者を石に変えるゴルゴーンの如き悍ましさを放つその笑みはしかして妖艶であり、「早く行こう」と引かれた手を、僕は拒むことが出来なかった。

 そうして彼女に手を引かれるがまま、外界を阻むように取り付けられた最中アイスに挟まれる板チョコみたいに分厚い扉を潜っていく。


「チケット確認します」

「持ってないの。飛び入り。できる?」

「代金さえ支払ってもらえば、いくらでも。ワンドリンク制になります」

「お酒は?」

「ダイナーの方で注文できますが、昼間はやってなくて」

「そう。じゃあ、コーラ二つ」

「かしこまりました。二名で四千円になります」

「カードで」

「うち現金だけなんですよ」

「…………」


 分厚い扉の内側へと踏み入れた途端、ズムズム、と聞こえてくる重低音に戦々恐々とする横で、受付の女性と睨み合う揚羽さん。


 未だにこのお店がなんの店なのか分からない僕は、彼女に手を引かれたままの状態で辺りを見回す。

 どうやら、巷で言うところのライブハウスというものらしい。

 壁に張られたポスター……、場所から考えるに、フライヤーと呼ぶべきものに書かれたバンドの名前はどれも聞いたことが無いものばかり。揚羽さんってば、意外とコアなバンドミュージックを聞いたりするのだろうか。

 そんなことを考えていると、受付との会話を終えた揚羽さんが振り向いて、「あたし、現金持ってない」と悔し気に告げるのだった。


「……今度、返してよ?」

「財布の中、あと二百円しか入ってないから、無理」

「それって……」


 受け取ったコーラに口を付ける揚羽さんに、僕は言いかけた言葉を途中で止める。言いたくても言わない。それが円滑なコミュニケーションを支える思い遣りなのだと知っているから。


「あ、あった」


 そんな僕の気遣いも素通りして、彼女はパフォーマンス最中のアイドル達に見向きもせず、一直線にカウンターに足を向ける。ステージにかじりついて「オイ! オイ!」と叫んだり、なんて言っているのか分からない呪文のような掛け声を上げる観客とは違って、どうやら彼女は色気より食い気のよう。

 ……もしかしてだけど、その分まで僕が出すわけじゃないよね?


「──注文は」


 薄暗いライブハウスの中、看板に掛かったネオンが光るこの場所は、こちらと向こうとで空間を分け隔てているかのように空気が違っていた。

 カウンターで待ち受けていたのは、退役軍人の如き風格にサングラスをかけた特徴的なマスターであった。こんな薄暗い室内でサングラスなんかかけていたら、何も見えないのではないだろうか。


「……モーニング・スーサイドの五番と、ボイラーメーカーの一番。グラスは三つ」

「…………ガキに出す酒は無ぇよ。帰んな」

「あるんでしょ。裏から入るの? それとも、あそこ?」


 揚羽さんが厳ついマスターに臆することなくメニューにない品物を注文したかと思うと、カウンターに身を乗り出してキッチンの内部を探るように見回す。マスターはサングラスの奥で揚羽さんを睨みつけるような眼光を光らせたのが分かって、僕は彼女を引き留める。


 僕も接客業をしているから分かるが、これはあれだ。面倒な客が来た、と呆れられているに違いない。そもそもメニューにない注文をされるなんて非常識も良い所だ。コーラもまだ一口しか飲んでいないし、ここは付き添いである僕が出しゃばるべきだと思い立ち、「揚羽さん」と声を掛けると同時に、マスターが動いた。


「……本気、なんだな?」

「遊びで来るわけ、無いでしょ」

「……二十年も三十年も前に流行った噂だ。潰えたはずだと思っていたんだがな。それを今更、まさかこんな小娘と小僧が唱えるとは思ってもみなかった」

「え、えぇ?」


 帰ろう、と一言口にする前に、何故か通じ合う二人を他所に、僕は困惑の表情を浮かべるばかり。

 三人で居る時の疎外感と言うものに対しては陽人君との間にある空気でとっくに慣れたものであったが、接客業を生業とする僕としてはむしろマスターに袖にされたショックの方が大きかった。揚羽さんは厄介な客のはずなのに、と肩を落としている横で、二人の会話は進んでいく。


「当時は同じ注文をする奴らばっかりだったぜ。それこそ、若い奴から中年まで、幅広くな。誰もが皆、最後の一歩が踏み出せなかったんだろう。背中を押してもらうためにここに来ていた。……当時は俺も馬鹿だった。ここを通し、道を拓くことが、あいつらの為になるんじゃないかって、本気で思っていたからな」

「あたしが聞きたいのは──」

「まあ待て、最後まで聞け。これは大人としてではなく、全てを見て来た俺の戯言(ざれごと)だと思って、耳を貸せ」

「……」

「……この先に、お前達が望むものは何も無い。全て忘れて、引き返せ」


 語気を強めて言ったマスター。

 その迫力は、僕に小学校の頃に遠足で言った動物園で見たチンパンジーを思い出させた。


 百獣の王たるライオンでも、見上げるほどに大きな象でも、貫禄あるシルバーバックのゴリラでもなく、僕はあの頃、森の賢人たるチンパンジーが怖くてたまらなかった。彼らの、知性ある眼差しであるにもかかわらず檻に入れられているという状況に、僕は酷く怯えたのを思い出す。

 それと同じものをマスターにも感じると言うのは失礼な話だろうが、僕は二人の会話に口を挟む余裕すら与えられぬまま、宙ぶらりんの状態でただただ会話が終わるのを待つことしかできない。


 一方で、恐らくだが要望を断られたであろう揚羽さんは不服さを滲ませながらも引く様子は見られない。傍から見れば堅気じゃなく見えるマスターの気迫にすら尻込みすることなく対峙しており、そのハートの強さに脱帽である。


 しかし、彼女の手に持ったコーラのカップは震えているように見えて。


「フンッ。所詮は戯言(たわごと)でしょ。あんたの後悔だとか、惨めな感情ってのを、あたしの選択に持ち込まないで。あたしは、覚悟して来てるの。もう、これ以上誰にも邪魔されるわけにはいかないの。だから、お願い。通してよ」

「…………分かった。だが、後悔するなよ」


 揚羽さんに折れたわけではなく、ただ説得を諦めたように思えるマスターはそう言うと、揚羽さんを自らのキッチンに招き入れる。

 マスターの案内に従って死角に入ってしばらくすると、戻って来たのはマスター一人だけだった。


「小僧は、どうするんだ?」

「え、え?」

「ただの付き添い、ってんなら、お前は帰った方が良い。こっから先は、刺激が強い。なんの覚悟も無い奴が踏み入れると、耐え難いだろうからな」


 結局、僕は彼女が何を求めてこのライブハウスの、それもこの一角のダイナーに執着していたのかを知らないままだ。

 彼女の目的である、死に場所探し。それがこの場所と何が関係しているのか僕は分からず、ここでどうするべきか、何も判断付かない状態にあった。


「悩んでいるのなら、あの嬢ちゃんにも言ったが全て忘れて、帰りな」


 マスターはきっと、悪い人じゃない。

 強面だが、声音から本気でこちらを心配しているのが伝わってくる。そんな人がここまでして止めるのだ。この先にある「何か」は、踏み入れるだけで危険だと言うことが良く分かる。だから、何があるか分からないのであればマスターの言う通り、引き返し、外で彼女が出てくるのを待つべきだろう。だけどそれは、彼女との約束を違えることになる。


 ──あたしが死ぬまで、付き合ってよ。


 ここで引き返せば、彼女との約束も果たせず、彼女のささやかな復讐とばかりに立てられた祈りすらも叶わずに終わる。


 僕と揚羽さんの関係は今まで、僕の一方的な認知しかなかった。

 それが今では、この「死に場所探し」という奇妙な関係値まで発展したとは言え、言ってしまえばたかがそれだけ。わざわざ僕が危険を冒す必要性はないと分かっている。

 あくまでも僕と彼女はただの知り合いに過ぎない。

 だけれども、僕がその関係を手放し難いと強く感じているのも、また事実であった。


 今この瞬間、中で何が行われるのかも知らずに引き返すことは、金曜の夜、諦念を湛えた彼女を引き留めないのと同じだ。

 僕はあの時、どうしたか。迷うより早く、彼女を引き留めていたではないか。であれば、僕がここで引き返すわけには、いかなかった。


「──お願いします。案内、してください」

「……青臭い目だ。だけども俺は……嫌いじゃない。……着いてきな、坊主」


 マスターはそう言って皺を刻んで笑うと、前掛けを外してネオンの電源を落とした。


「自己紹介が遅れました。僕は、一色歩夢って言います」

「俺は、エラン。美神(みかみ)エランだ。エランでも、愛の伝道師とでも呼んでくれ」

「はぁ……」


 こんな状況でもジョークを欠かさないのは、日本人離れした風貌の持ち主特有なのだろうか。

 案内してくれ、とは言ったが、まさか本当に動いてくれるとは思ってもみなかった僕は僥倖、とばかりに彼の後を付いて行く。


「……嬢ちゃんにも言ったが、こっから先にあるのは、嬢ちゃんが期待するような世界なんかじゃねぇんだ。こっから先は──地獄だ」


 厳かに言い放つエランさんは、厨房の奥、突き当りに置かれた調理棚を軽々と持ち上げるとそれを横にずらす。すると、まるでゲームか何かのように大人がしゃがんで通れるくらいの横穴が顔を見せるではないか。


 唖然とする僕はそのままに、隠された通路を拓いたエランさんはその巨体を押し込むように奥へと続く暗闇に体を潜らせていく。僕も慌てて、それに続いて行くのであった。







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