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10話




 ◇




 低い天井と、狭い通路。

 壁は見たことも無いような壁材で、ライブハウスの受付で見たようなフライヤーや、数多のバンドのステッカーなどが長い年月をかけて刻まれた年輪の如く重ね貼りされているようで、湿気ったこの場の空気も相俟ってか、壁に手をつくと沈むような感触が返って来る。


 ただでさえ気味の悪い空間。味方になってくれたエランさんのような頼もしい人が一緒でなければ、問答無用に裸足で逃げ出していたことだろう。

 そんなエランさんほどの巨躯が通れると言っても、この通路では彼とすれ違うのは簡単ではない程に狭く、ただそこに立っているだけでも窮屈感を覚えるようなものだった。


「く、臭い……」


 それに何よりも苦痛なのは、この通路に滞る臭気。

 エランさんに続いて踏み込んでいく通路の中はとにかく煙たくて、鼻がひん曲がりそうだった。


 この場所を例えるのであれば、湖畔の別荘で寝泊まりをした翌朝に見られるような、朝靄。薄く靄のかかった息を飲むほどの絶景に例えるのは失礼だろうが、僕が例えとして持ち出せるものはそれくらいしかなくて。もしも僕が喫煙所に踏み入ったことがあったなら、そちらの方が表現として正しかったと思えるだろう。

 そして何よりも苦痛なのが、煙が放つ臭い。通路に充満するくらい放出された煙は鼻の奥をツンと突くような臭い。鼻孔を拡げれば甘ったるい妙な香りの煙は、考えるまでもなく健康に悪いことが分かる。長い時間こんな場所に身を置いていたら、脳味噌が収縮してしまいかねない。


「察しの通り、ここは時代の腐敗と退廃の象徴だ」

「こ、ここは……なんなんですか?」

「ここは1980年代後半の頃に建てられたディスコの跡地でな。ライブハウスはその時の設備をほぼそのまま使っている。いわゆる居抜きってやつだ。……お察しの通り、ここはバブル経済崩壊後、ろくでもない奴らが身を潜めるために増築された、違法建築の建物だ」

「……ろくでもない奴ら、って。僕たち……、生きて帰れますか?」

「安心しろ。ゾンビがゾンビになるファクターを踏まなければ、帰してやれる」

「ゾンビ……?」


 一時期陽人君がハマっていたゲームを語る口でしか聞いたことの無い単語が聞こえ、そのまま聞き返す。それに対するエランさんはふと考え込む。


「……なあ、小僧。お前、夢はあるか?」


 突然の問いに、僕は押し黙る。

 それは驚いたからでもあったが、最大の理由はエランさんの問いに押し黙ることしか出来なかったから。ある意味、その沈黙こそが答えのようなものでもある。


 果たして、最後に夢を抱いたのはいつだろうか。小学生? それ以前? 最早将来の夢の記憶すら曖昧である。


「無いなら無いでいいさ。これから見つければいい。人生は、長いんだからな。夢を見ることを諦めなければ、それでいいのさ」


 諭すように言いながら、足を止めたエランさんは胸元からハンカチを取り出して僕の口に当てる。そして僕の目を彼の力強い瞳が捉えたかと思うと、おもむろに一番近くの扉を開いて見せるのだった。


「……っ」


 扉の向こうにいたのは、数人の男女。ねばつくような空気は口元を抑えたハンカチさえも通り越して肺に潜り込み、たちまち気分が悪くなる。

 しかしそれ以上に目を引いたのは、その男女の有り様であった。


「最低な空間だろ」


 常に中空を見上げている目の焦点は合っておらず、痩せ細った肉体からはまるで生気を感じられない。そのくせ、目的も無いように室内をうろついている姿というのはまさしく、ゾンビのよう。

 部屋の中を覗き見たエランさんはそのまま彼らに構う事無く扉を閉めて振り向いた。


「動じないんだな。見慣れているのか?」


 僕を見て目を細めるエランさんだが、僕はただひたすらに驚きふためいている。ただ、それに勝るくらいの恐怖が全身を巡っているだけだ。


「いえ……。単に、現実味が無いからだと思います。それで、今のは……」

「言っただろ。ここは現代の地獄だ、ってな。奴らはみんな、今この瞬間の悦楽のために未来を捨てた結果、薬に溺れて、自分の未来とも向き合えなくなった成れの果ての姿だ。こいつらもみんな、かつては夢追い人だったんだがな……」

「薬……」


 今のは、薬物中毒患者だったのだろう。海外ではありふれた存在だと言うそれらも、日本では滅多に見られない。だからなのか、僕としては忌避感や嫌悪感より先に、興味や関心と言ったものを抱いてしまっていた。


 それと同時に、何故揚羽さんはこの場所に望みをかけていたのかが疑問に浮かぶ。彼女の目的は「死に場所探し」。確かに薬物に手を出せば彼女という個は失われ、彼女だったものがそこに生まれるだろう。それも一つの人としての「死」なのだとすれば納得がいく。だが、彼女の望む「死」は、概念的なものではないはずだ。揚羽さんが望んでいるのは、命が奪われる行為。明確な「死」。確実な「死」である。

 この場所にあるのは、人として緩やかに終わっていく過程のみ。そんなものを手に入れるために、彼女は「ずっと来たかった」などと言ったのだろうか。


 その謎が解けずにいると、一言だけ呟いて押し黙った僕を心配してかエランさんが口を開いた。


「ここは、元はこんな場所じゃなかったんだ」

「え?」

「言っただろ。俺はここに何人もの人を通した、と。それは、通した人を薬に堕とすためなんかじゃない──」


 言って背を向けるエランさんの背中は、大きいはずなのに小さく見えた。

 そして、続く言葉に僕は抱いた疑問の答えを得る。


「──ここは、集団自殺の為に作られた場所なんだ」

「ッ?! 集団、自殺、って……」

「正確には、自殺教唆、ってやつだ。死にたい奴に、死を届ける。それがこの場所の役割だった」


 いつの時代、どんな場所であっても、自らの死を願う人はいる。

 そしてここは、そんな需要に応えるかのように出現した、死を願う者達にとっての救いの場であったのだろう。それが明らかな犯罪だと理解していても。

 けれども僕は、エランさんの物言いに引っ掛かる点があって。


「待ってください。だった……ってことは、今は、もう?」

「その通りだ。今から十五年前を最後に、死の斡旋は終わりを迎えた。丁度その頃にオーナーが亡くなられて、この場所の所有権はオーナーの親戚に移った。……その頃からだ。この場所が、夢追い人の墓場と化したのは」


 エランさんの語気には強い後悔と怒りが含まれていて、僕が浴びせられているわけでもないのに聞かされている僕の膀胱が収縮してしまいそうになる。


「じゃあ、揚羽さんは、その時の噂を知っていて」

「ここの場所は都市伝説のようにネットに転がっているからな。それを鵜呑みにしたんだろう。だから俺は止めたんだが……」

「それなら、どうして……いや、なんでもないです」

「いや、いいさ。俺もお前と同じ疑問を抱いている。どうして小僧のお前なんかに手を貸すのか、ってな。その答えは……もう出てる」

「……どうして、僕に手を貸すんですか?」

「ずっと持っていたのさ、この場所に対する疑念をな。俺のしていることは本当に正しいのか。俺のしてきたことは、間違いだったんじゃないか、って言う、疑念を」

「間違い……」

「時々、ここを利用した奴らの顔を思い出す。暗くて、沈んでいて、放っておいても死んじまいそうな連中の顔だ。あのカウンターだけが、この場所に繋がる唯一の道。だから、俺はあそこを通った全員の顔を否が応でも見ている。一度見た顔は忘れられない質でな。見送ったあいつらの顔を、全部知っている。全員の顔を、覚えているんだ」


 悔恨に満ちた声。

 それはまるで、覚えている、と言うより、忘れられない、と言う方が正しいかのよう。


「……」


 この場所が生まれた80年代後半と言えば、バブル最盛期からバブル崩壊にかけての時期だろうか。学校の教科書でしか知らない世界を、エランさんはこの場所で見て来たのだ。経済的な不景気を迎えた90年代初頭であれば、就職氷河期に飲まれた人だったり、会社が倒産した人だっていただろう。時代の中で爪弾きにされ、置き去りにされた人達にとってこの場所とは、唯一彼らを受け入れた場所なのでは無いだろうか。

 それが、人生を終わりにするための場所だとは言え。


 そうして逝って行った彼らを見送り続けてきたエランさんの声に宿るのは、途方もないほどの、後悔だった。


「……もしもあそこで俺が引き留めていたら、奴らは今も、まだ生きていただろうか。テレビやラジオで同じくらいの年齢の奴を見ると、考えちまうんだ。どんなにみすぼらしくても、みっともなくてもいいから、生きてさえいれば今頃は、あの時のことを笑って話せていたんだろうか……、って。考えても無駄なことを、つい思っちまう」

「……そんなの、エランさんの所為なんかじゃ」

「……もしかしなくとも、お前も嬢ちゃんと同じで、その口だったか?」


 彼の後悔を少しでも軽くしたいと思って発した言葉に僕は何を含ませていたのか。自分でも気づかない程に薄い毒を察したエランさんが放った言葉に、僕の胸はドキリと跳ねた。

 図星を突かれて言葉を失った僕を肩越しに見るエランさんは、何を言うでもなく肩を竦めて溜め息交じりに言葉を零す。


「これも、時代の流れなのかね。今の時代、人と人との境界線がとにかく曖昧になってやがる。どいつもこいつも己が身の振り方を他者に委ねすぎている。……でもな。結局、自分を信じられるのは、自分だけだ。人生の内でどんな選択をしようが、誰に身を委ねようが、そいつの勝手だがな、誰になんと言われて唆されようが、その道を往くと決めたのは、お前自身。誰のせいにすることも許されない」


 自分の所為にするのは怖いから、人の所為にする。なぜなら、人の所為にすれば自分を責めなくて済むから。何よりも、楽だからだ。


 エランさんにフォローの言葉を掛けたのも、善意からではなかったことを思い知る。僕は自分に言い聞かせたいがためだけに、先のおためごかしの言を放ったのだ。悪意ある物言いであれば非難できる分、善意の振りをしているのが余計に質が悪い。正しく、僕の人間性を表わしているかのようだ。エランさんはそれを容易く見透かしていたようで。


「俺は俺の人生に後悔しかない。だけどな、この場所に居るのを選んだのは俺。この場所に居続けることを選んだのも俺なんだ。そして、この環境から抜け出さないことを選んだのも俺だ。そこに後悔はあっても、納得してないわけじゃない。だから、慰めの言葉は不要だ」

「ごめ、なさ……」

「いや、謝らなくていい。お前が優しさから言ってくれたことは分かってるからな。それを捻じ曲げさせたいわけじゃない。その優しさは、お前の根幹だ。大事にしろよ」


 足を止め、振り返ったエランさんは、バスケットボールすらも鷲掴みできそうな手で僕の頭を撫でてそう言った。

 優しく諭すような声音は、恐怖で縮み上がりそうだった僕の心地に平静を取り戻してくれる。


「……なあ、小僧。これから死ぬって奴らが最後にどんな顔をするか、知ってるか?」


 祖父と呼べるほどに年が離れているわけではなければ、父と呼ぶには年嵩のいっているエランさんを見上げていると、彼は不意にそう言って尋ねて来る。僕は、首を横に振って答えを示す。


「……奴らはな、最後に『ありがとう』、って言って、笑うんだよ。これでようやく楽になれる、ってな」

「……」

「お陰で、俺は馬鹿な勘違いをしちまったんだ。こんな仕事でも、人の役に立ててるってな。……そんな訳、ないのにな。それに気付いていたのに、気付かない振りをして今まで沈黙を貫いていた。けどな、それじゃあ駄目だって気付かせてくれたのは……、お前だよ、アユム」

「ぼ、僕、ですか?」

「あの嬢ちゃんも同じで、自殺しに来たんだろ? それを何故か、アユムが止めようとしている。それも、本気でな。あの時のお前は、本当に良い目をしてたんだ。本来なら、大人の俺がそうするべきだった、って言うのにな。……あの時も、今も、俺が止めるべきだったんだ。死にたがってるやつも、こんな場所を生み出したオーナーも両方とも、な。止められるのは一番近くにいた俺だけだったから。アユムが、俺に気付かせてくれたんだ。だから、俺はお前に手を貸す」


 もしもエランさんの言うことが正しいのであれば、それはきっと、エランさんの心が動きかけていたからだ。エランさんの役割と同じ。僕はただ、ちょっとした切っ掛けを与えたに過ぎない。彼の心を動かしたのは、九割九分、彼の意志の力である。僕は傾きかけた大岩に、風雨のごとく些細な切っ掛けを与えただけ。僕がいなくとも、彼は時間が過ぎれば動いていたに違いない。


「……俺ァ、反面教師だ。後悔しない生き方を選べよ」


 だからと思い「そんなことない」、と謙遜しようにも、僕の謙遜は彼の大きな手のひらで再度、頭を撫で付けられたことによって口を閉ざさざるを得なかった。


「この場所は、今じゃ薬と怠惰が巣食う地獄だ。助けるなら早い方が良いだろう。ここからは手分けしよう」

「えっ──、えっ?」

「安心しろ。分かれ道はここだけの一本道だ」


 僕の戸惑いもそれなりに、「見つかったら大声で俺を呼べ」とだけ言い残すと、ここへ来て初めてぶつかった分かれ道をエランさんは左へと駆けて行ってしまう。


 今ここで叫べば引き返してくれるだろうか、なんて考えつつ、僕は恐る恐ると言った歩様で分かれ道を右に進まざるを得ず、渋々といった様子で壁伝いに歩いて行く。


「──オラ! もっと騒げよ、オラァっ!」

「ああぁんっ」

「おお、ペロ。会いたかったぜ。どうして動かないんだ? 俺を忘れちまったのか?」

「オロロロロロ──」


 身が竦むような怒声に罵声、鳥肌が立つほどに艶めかしい嬌声や悲鳴。


 頼もしい背中が離れたせいか、右の道に進んだ途端それらの声がやけにはっきりと聞き取れるようになり、僕はたちまち不安に迫られる。

 その声は今までここに来るまでも聞こえていたはず。しかし一人になった途端明瞭に聞こえるようになり不安が増加したということは、エランさんが傍に居てくれたことの安心感が取り除かれたがゆえだろう。


 一人になるということがどれだけ心細く、そして寂しいことかを再認識すると、この先に居るかもしれない揚羽さんが心配になる。彼女のことだから何とも思っていないかもしれないけれど、一人で居るよりはずっとマシだろう。


「──おい、面の良い女が入荷したぜ」

「本当か? 体は?」

「退屈だが、とにかく面が良い。自殺がどうとか言ってるが、気にせず沈めようぜ」

「自殺ぅ……? ……あぁ、この場所の前の話か。そんなこと信じてるやつ、まだいたのか? だけど、キメる前からイッちゃってるなら、気後れする必要もねぇな。適当言って俺達で楽しんでから売り飛ばそう。適当にもてなしておけ。こいつを黙らせてから俺も行く」


 通路を埋めるような煙の量も、心なしか増えたように思える中で聞こえて来た物騒な会話。扉越しに会話を盗み聞くなんて……、両親の喧嘩を部屋から聞いていた経験がここに活きている。


「この先に、揚羽さんが……?」


 話の内容からして、その可能性は十分ある。僕は息を潜めて扉から出てきた男の背後を付いて行く。男は酩酊したかのような千鳥足であったが振り返ることはなく、この後のことを夢想して不快な笑いを繰り返しながら歩いていた。どうやらこの男も、とっくに薬に溺れているらしい。

 そうこうしていると、間もなくして聞こえてくる、甲高い声。




「──っなしてよ! あたしは、自殺しに来たの! 医者がバックにいるんでしょ?! 後始末も完璧なんでしょ?! 早く紹介してよ! 風俗なんか、興味無い! さっさと、あたしの命を終わらせてよ!」




 見えたのは、鬼気迫る様子の揚羽さんと、その様子に苛立ちを隠さない男たち。今すぐに手を出さないのは、目の前の男の指示を待っているからだろうか。


 想像を絶するじゃじゃ馬っぷりに、彼女を取り囲うバンドマンらしき男たちも扱いに困る様子を見せているが、いつ手が出てもおかしくはない雰囲気。そんな危機的状況からどうやって彼女を連れ出すべきかと思案していると、知らず道案内をしてくれた男が彼女に近寄っていく。

 刹那。男が手を振り上げたかと思うと、何の躊躇も容赦も無くその手を振り下ろし、揚羽さんの顔を盛大に殴りつけた。


「ぅうるっせぇなぁ……。女は黙って股開いときゃあいんだよクソが。ぴーちくぱーちく騒いでんじゃねぇぞバカガキが。命には、感謝しねぇといけねぇんだよ。なんだ? 死にてぇのか? なら、いっそのこと、殺さないでください、って言うまで、殴ってやろうか? えぇ、おいっ?!」

「……っ」


 ここにいる連中は皆、非合法な集団である。当然常識が通じるはずはない。


 女だから、子供だから暴力は振るわれない。そんな常識すらも打ち破られた揚羽さんは、先程までの威勢はすっかり消え失せ、怯えた表情を浮かべて頬を押さえている。


 僕はもう、見ていられなかった。


「ああクソッ。イライラするぜ。おい、まだ薬あったよな──」

「──揚羽さん、帰ろう」

「……ぇ?」


 彼女を殴った男が別の人物に声を掛けている隙を狙って、僕は揚羽さんの腕を取った。

 困惑する彼女が抵抗しなかったのが不幸中の幸い、僕はそのまま、彼女の腕を引いて来た道を戻るべく駆け出していく。


 背中側から「おい、待て」と聞こえるが、薬に溺れて脳味噌も身体機能も収縮した大人を振り切るのはどれだけ運動神経が壊滅的な僕でも難しくはない。とは言え不安が残るのは事実。だって、いつ足がもつれて転んだっておかしくないのは僕も同じなのだから。むしろ、その可能性の方が高い。だから、事前に交わした通り、約束を履行する。


 空気が薄いように感じる狭苦しい通路の中で、息せき切らして走る最中、僕は胸を反らし、肺一杯にクソッたれな空気を含んでから、一息に吐き出した。




「──エラン、さ~ぁんッッ!!!」




 背後で揚羽さんが驚くような気配を感じる。

 僕も、驚いている。こんな大きな声、人生で初めて出たかもしれないから。


 そうして間もなく聞こえてくる、地鳴りのような足音。狭い通路を壁が迫るような迫力でこちらに駆けてくるのは、間違いなくエランさんだった。


「た、助けて下さいッ! 変な、人達に、追われて!」


 エランさんと合流するなり開口一番。僕の口を突いて出た言葉はなんとも情けないものではあったが、彼はサングラスの奥で心底嬉しそうに笑って、頭を撫でてくれた。


「でかしたぞ、アユム。お前今、さいっこーにカッコいいぜ」

「そ、そんなことより──」

「ああ。こっから先は、大人の仕事だ。このまま突き当たりまで進んで、一番奥の扉から外に出られる」

「エランさんは……」

「俺は俺の責任を果たす。忘れるな、俺はお前を尊敬している、とな」

「っ! か、カフェ【sincerita】で、待ってます!」


 エランさんはそれだけ言うと、サムズアップで答えてくれた。彼がどうやって責任を取るのか。僕には想像もつかないが、彼はきっと約束を果たしてくれる。そんな気がしたのだ。




「──見えた!」




 エランさんが指し示した先は来た道ではなく、彼が曲がった先。つまりは左の通路だった。その突き当たり、僕らは言われた通りの扉を潜って、外に飛び出した。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 こんなにも長い時間全力疾走をした経験の無い僕は肩で息をし、何度も何度も咳き込み繰り返して呼吸を整えるのに長い時間をかけてから頭を上げると、そこは廃墟の如き空間で、甘ったるい煙の臭いから、今度は埃臭い空間に出てきていた。

 揚羽さんの呼吸も整ったところで居場所を確かめるために外に出ると、そこはライブハウスのあった建物とは反対側のビルであることを知る。


「……あっ」


 新鮮な、とは言い切れないけれども、あの場所よりは何倍もマシだと思える吸い慣れた淀んだ都会の空気を胸いっぱいに取り込んでいると、あの場所からずっと揚羽さんの手を引いたままだったと思い、手を離──そうとした。


「……」

「あ、揚羽さん?」


 しかし、いつの間にか彼女の手が僕の手に絡み付いていて、双方から繋がれた手は一方が離したとしても離れることはなく、繋がれたままであった。

 依然変わらず沈黙と俯きを貫く彼女を見て、僕はもう一度彼女の手を握り締める。すると、今度はさっきよりも強い力で握り返された。


「……なんで」

「うん?」

「なんで、助けてくれたの」


 それはまるで非難するかのごとき問い。しかし、俯いたままの彼女からは表情が窺えない。だから僕は、思ったままのことを口にするのだった。


「……うまく、言えないけど。君の体は、君だけのものだ。自慢の身体なんでしょ? それが傷付けられるなんて、君の尊厳が傷付けられるのを黙って見てることなんて、出来ないよ。それに、揚羽さんはレイプされるためにここに来たわけじゃない。ましてや、薬もそうだ。……もし、余計な真似をしたのだとしたら謝るけど」

「謝らなくていい、から」


 間髪入れずに僕の提案を断った揚羽さんは、それきり黙り込んでしまう。


 僕はもっと洒落こんで、「約束を果たすために」とか、「君を守りたかったから」とか、彼女を元気づけるためにも様々な言い回しをすべきだったかなんて、再び訪れた沈黙は僕の思考を自己反省に促すのに十分な要素であった。


「と、とりあえず、移動しようよ。あ、そうだ……。温泉、行かない?」


 体や髪に染み付いた、煙の臭い。これはしばらく取れなさそうだと判断した僕は、この場所を離れるという名目で彼女を温泉に誘う。揚羽さんは僕の提案に一瞬瞠目したものの、弱々しい小さな声で「……行く」とだけ答えるのだった。








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