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11話

 



 ◇



 和やかな空気が漂う、大浴場。

 都内各地に点在するスーパー銭湯の中でも数少ない、天然温泉に浸かれるスーパー銭湯である。


「ま、温泉の違いが分かるほど、入ってないんだけどね」


 温泉の素と入浴剤の違いすら曖昧な僕には猫に小判、豚に真珠だろうが、肉体的にも精神的にも疲弊し切った体を癒すのであれば天然温泉に勝るものは無いだろう。多分、きっと、恐らく、メイビー。


「次はあっち行こ!」

「まだだ。三十数えてからだぞ」

「きゃははは!」

「俺のマグナムが火を噴くぜ~!」

「コリブリだろ、それ」


 日曜の昼間だからか人でごった返す浴場は鬱陶しいと思えるが、一度肩まで湯に浸かってしまえば疲労と一緒にストレスまで溶け出していく。


 あああああ、と自分にだけ聞こえる唸り声を吐いて高い天井を見上げると、平穏に身が包まれる穏やかさが自覚出来て、つい先程自分たちの身に起こった非日常がまるで嘘のように思える。


 実際にあの場所に居た時間は一時間にも満たないものであったが、体感ではもう既に今日一日を過ごし終えたかのような感覚である。


「次は、あっちのお風呂に浸かってみよっと」


 ここに来るまでの道中、僕と揚羽さんの間に会話はほとんど無かった。

 会話らしい会話と言えば、お互いに男湯と女湯で分かれる直前に「二時間後に集合しよう」と話しただけだ。お陰で僕の頭の片隅には常に揚羽さんの心配ばかりが浮かんでしまい、温泉と真摯に向き合うことが出来ずにいた。


「いや、これだと温泉に失礼だし……! 来たかった場所なんだ。ちゃんと満喫しなくちゃ」


 意識を切り替えるべく自分に言い聞かせて湯をすくうと、自分の顔を勢いよく濡らす。僕はそのまま、浴場の湯船の数だけ湯に浸かるという暴挙にも似た何かで満喫を演じてから風呂を出るのであった。


「……三十分前だ」


 結局、真摯に向き合うぞ、と覚悟して望んだものの、僕は湯に浸かり始めてから一時間足らずで上がってきてしまった。ゆっくりと時間をかけて髪を乾かしたり館内着に着替えたりしたつもりでもまだ約束の三十分前である。女性のお風呂は長いと聞くし、今回の一件で揚羽さんは僕以上に疲弊していたはず。だから早めに見積もってもここから一時間半は待つことだろう。


 どこで時間を潰そう。そう思って立ち上がったその時。僕と同じく館内着に身を包んだ女性が、腰に手を置いて目の前に立っていた。


「ねえ」

「っ?! あ、揚羽さん?!」


 自論他論でもあった女性のお風呂は長い、という噂が否定された驚愕の事実が発覚した瞬間でもあると同時に、お風呂上がりの満ち足りた予後の感覚に包まれていた僕はすっかり気を緩めていたお陰で、一度浮かした腰が再び椅子に落ち着くという事態が引き起こされる。


「なんでそんな驚くの」

「いや、てっきり長風呂するのかと思ってたから……。まだ三十分前だし」

「あぁ、それ? 人が多くてあんまりゆっくり出来なかったから。……てっきりすっぴんに驚かれたのかと思ったわ。そっちだったら、絞めてたけどね」

「別に、すっぴん自体は昨日も見てたし……」

「何? 何か思うところでもあんの?」

「いや、何も。強いて言うなら、肌が綺麗だな、ってことくらい」

「……うざ」

「聞いておいて罵詈雑言で返すなんて……。まあ、揚羽さんらしいけど」

「うざっ! うざ、うざ!」

「ストレートな罵倒は僕も傷付くよ?」

「知らないし。と言うか、小銭、持ってない?」

「あるけど、どうするの?」

「コインランドリー。洋服、あのまま着れないでしょ」

「あ、そっか。コインロッカーは使えたの?」

「舐めないでよ。百円くらい持ってるし。……両替してもらったけど」


 彼女は数少ない手持ちの五十円玉四枚を使ったらしく、誇らしげにささやかな胸を張っていた。


 揚羽さんに言われた通り、僕はロッカーから財布と未だに甘ったるい煙の臭いを纏う洋服を抱えて併設されたコインランドリーに向かった。あの場所を思うと、燻製が苦手になりそうだ。マスターの好物でもある燻製チーズをともに楽しめないと思うと、なんだか物悲しく思えてならない。


「結構混んでるんだね」

「一緒に洗えば場所も取らないでしょ。洗濯ネットも貸し出しされてるんだって。借りちゃお」


 お風呂に浸かったお陰なのか、彼女の口は重く閉ざされたままと言うことはなく、むしろいつもより明るく聞こえる。それが空元気のように思えなくも無いのだが。


 これで燻された洋服たちから煙の臭いとおさらばできると思うと、先程まで僕らを悲痛の彼方に追いやっていた重荷を下ろすことが出来たような解放感すら覚える。香りは記憶、と言うように、あの場所との繋がりを断つ意味でも、洗濯は重要なファクターだっただろう。そんな中で、揚羽さんがひょいひょいと洗濯機に服を投げ入れる際に僕は見てしまう。僕の貸し出した服に見覚えの無い、女性物の下着が軽やかに舞う瞬間を。


「……つかぬことを聞くのだけれど」

「何、その喋り方」

「もしかしてだけど、揚羽さん。今、下着付けてないの?」

「…………キモっ」

「うん、今のは僕の聞き方も悪かった」

「普通にキモかったから。反省して」

「ごめんなさい」


 揚羽さんは自分の体を抱くように僕を忌避し、道端のゴミでも見るかのような目で見てくる。しかし、これは僕の失言が招いた罰でもある。甘んじて受けようではないか、とバツの悪い顔を見せていると、鋭い罵倒と共にお尻に蹴りを見舞われるのだった。

 その後、僕たちはお昼でも食べようかと併設されたフードコートに足を伸ばしたのだが、流石は日曜日。何処を見回しても人、人、人である。昨今のサウナブームも相俟ってか、どこのスーパー銭湯でもこの混雑ぶりらしい。僕と揚羽さんは視線を交わし合い、「そこまでお腹空いてないよね」と頷き合った後にフードコートとは打って変わって水を売ったような静けさで満ちる休憩室に足を運んだ。


「ちょっと、寝るから。洗濯物終わる頃に起こして」

「乾燥機が終わったら起こすよ」

「……分かった」


 休憩室の外の音が遠巻きに聞こえてくるが、意識を向けなければ聞こえてこないほどの静寂。休憩室に設置されたテレビから聞こえる音と周囲の小さな生活音だけが聞こえる休憩室はまるでここだけが切り離された空間のよう──って、なんだか午前中にも似たような感覚を覚えたような気がする。


 しかも、揚羽さんはテーブルの対面に座るわけでは無く、何故かテーブルの角を選んで座っている。結果的に、彼我の距離が近くなって否が応でも僕の胸は高鳴ってしまう。昨日までとは打って変わった距離感に僕はどんな顔をすれば良いのか分からず、けれども「手を繋いだ」という実績を解除した以上、今更距離感の違いに戸惑うのもどうかと言う訳で。僕は澄ました顔で休憩室の漫画を手に取った。

 しかし、


「……寝ないの?」

「今、寝るところだったの」


 妙に揚羽さんからの視線を感じて漫画に集中できない。そうこうしている間に洗濯機が終わる頃を見計らってかけていたアラームが時間を知らせるようにポケットの中でムームー、とバイブレーションする。


「洗濯物乾燥機に入れてくるよ」

「よろしく」


 横になったままの彼女に見送られコインランドリーのエリアに向かう。洗濯物に余り目を向けないよう取り出して乾燥機に移動させ終えた僕が休憩室に戻ると、揚羽さんはすっかり寝息を立てていた。


「……もう。風邪ひくよ」


 いくらお風呂で体を温めたとは言え、その後で体を冷やしてしまえば元も子もない。貸し出し用のブランケットを借りて彼女の肩にかけてから、僕は途中だった漫画を読み始める。


 ……思えば、今日体験した出来事は、まるで漫画や映画と言ったフィクションの世界の話のようだった。そのせいか、未だに現実味が無い。あれは僕と揚羽さんが見た白昼夢だったと言われても納得出来そうだ。この都会でキツネや狸に化かされたのかもしれない。そんな可能性が脳内を過ると言うことは、そうであってほしいと言う願いの表れでもあって。けれど、無かったことにはしたくないと強く願う自分が居るのもまた事実。

 死に場所探しで向かった先。そこは、自殺志願者が集まる場所だった。しかし揚羽さんが望んだ文化はとうの昔に失われており、現代では隙間に入り込んだ細菌によって膿んだ傷痕のような場所だった。その場所での記憶は今すぐにでも消したいものだが、あそこで出会った人物、エランさんと結んだ縁は、何故だか手放し難いものであると自覚していた。あれはそう、陽人君に対して抱くものと似た感情。いわゆる友情のようなものを僕は抱いていた。だからなのか、それまで無かったことになるのはなんだか嫌で、僕は午前中の出来事を確かにあったこととして認識しなければならなかった。


 とは言え、僕の受けた直接的な害と言えば、香害くらいのものである。道中も頼もしい味方がずっと傍に居てくれたお陰で、実際に僕が味わった恐怖と言えば揚羽さんが恐怖を味わうことへの恐怖くらいのものだ。エランさんから話を聞いて、彼女の期待が裏切られることも、これ以上強く希死念慮を抱いてしまわないかがずっと不安である。今も、隣で眠る彼女はどんな夢を見ているのだろう。出来るなら幸福な夢であってほしいと心の底から願っている。


「……願うなら、揚羽さんの中では、無かったことに」


 あの場所では揚羽さんは死ねない。

 そう思ったからこそ、僕は彼女の手を引いたのだ。

 被害の規模で言えば、直接的な暴力と恐怖を味わった揚羽さんの方が僕のと比べても何倍も、何十倍も大きい。だって、レイプされかけたのだから。その恐怖はきっと、男である僕には理解しがたいものだ。けれども、理解しようと想像し、寄り添うことは出来るわけで。


「跡にならないといいけど──……、って?!」

「ん……」


 何を思ったのか。

 気付けば僕は、寝ている揚羽さんの頬に手を伸ばしていた。少し腫れている彼女の頬に指先が触れそうになる直前で僕は正気に戻って手を引っ込めたものの、その違和感に気づいたのか、揚羽さんは覚醒の時を迎えてしまう。

 彼女は先程まで僕の指先が伸びていた頬に手を伸ばすと、何かを探るように手を動かす。そこに何も無いことが分かると諦めたように手を引き戻したところで、僕と目が合った。


「……なに」


 何やら不服そうな彼女は起き上がると体に掛かる毛布に気付いて体を埋めるのだが、僕はたった今引っ込めた手の置き場に困ってしまいあたふたしてしまう。揚羽さんから見れば、明らかに挙動不審であるに違いない。


「えっ、あ、いやぁ……その、そう! もうすぐ、乾燥機が終わる頃だな、と思って」

「何キョドってんの。キモ」


 寝起きのせいか、綿毛のようなパやパやとした空気感を纏う彼女の口から放たれる「キモ」は、普段と違って愛があるように思えて、僕は痛くも痒くもなかった。


 鉄は打たれて強くなると言うが、こうして彼女と過ごすことで手に入れられた人としての強さに自覚を得た僕は、どこぞの戦闘民族よろしく、溢れ返る力に圧倒されるかの如く実感を得るのだった。


「ふふ、どうする。このまま岩盤浴とか、行っちゃう?」

「は? なに、急に。もっとキモい」

「ですよね……」


 訂正。僕は強くなどなっていなかった。彼女の「キモ」に愛があって優しくなっていただけで、僕は何も変われてなどいなかった。


 そんな現実に打ちひしがれる僕を連れて、揚羽さんはコインランドリーに向かう。

 そこでガス乾燥機によってフカフカに仕上げられた洋服たちに表情を綻ばせながらそれに着替えて荷物をまとめた僕らは、再び休憩室に戻って来た。

 休憩室に置かれたテレビは夕方から夜にかけて放送している全国ネットのニュースを垂れ流していて、もうそんな時間か、と思いながら寛ぐ。


「……この後、どうする?」

「あんまり、お腹空いてない」

「そっか」


 服と命の洗濯を経てすっかり元気を取り戻したかに思えた揚羽さんであるが、彼女の表情に時折差した影が、それが空元気であることを証明する。お陰で僕は揚羽さんになんて声を掛ければいいのか悩みあぐねてしまい、会話はろくに続かない。会話がろくに続かないのは単純に僕のコミュニケーション能力が欠如しているから、と言う問題を棚に上げて考えるのだが、元より彼女との間で会話が盛り上がったためしなど一度もないことに気がつく。むしろ、この言葉に詰まるような沈黙の方が、僕たち二人の関係を表わしているかのようで心地良さすら感じるというもの。


 けれどもその中で声を掛けようと思うのは、僕が彼女に元気であってほしいと思う願い。即ち、エゴである。僕が知る限り、希死念慮に囚われ死にたい、消えたい、いなくなりたいと表明する彼女のデフォルトの状態が「元気」であると断言するのは難しい所だ。

 僕が抱く揚羽美命という女性は、口汚く生命への愚痴を吐き、恨みつらみの対象に喜んで唾を吐きかけるような、そういう人間なのだ。それが大人しいとなると調子が狂う。それを正すためには今日あったことに触れなければならないのだが、僕にそんな意気地は無かった。

 そんな僕らの折を見て察したかのように、テレビから身に覚えのあるニュースが聞こえて来た。


『──本日午前十一時過ぎ、警察は匿名の通報があったとして大規模麻薬捜査に乗り出し、東京都千代田区にある建物から使用目的と思われる大麻やコカイン、覚せい剤など、合わせて末端価格で二百億円以上もの薬物を押収しました。警察はその場で自称バンドマンの酒巻容疑者三十八歳を初めとする五十二名の容疑者を、麻薬及び向精神薬取締法違反の罪で一斉逮捕しました。酒巻容疑者他数名に渡っては余罪も見られ、今後慎重な捜査が進められる見込みです。なお、東京都内における薬物の摘発においてこの規模の摘発は──』

「……」


 男性アナウンサーの淡々とした声で聞こえてくるニュース原稿は、静まり返った僕らを更に黙り込ませるほどの圧迫感を与え、僕らはまるで死刑執行を待つ死刑囚の如く胸の内で大量の汗を流していた。

 そんな時。床に付いた指先に何かが触れる。その先に目線を動かすと、同じように動揺した揚羽さんが助けを求めるかのように指を絡ませてきていた。


「……お願い。ちょっとでいいから、握ってて」

「揚羽さん……」


 しかし、人は自分よりも動揺している人を見ると落ち着くと言うかのように、僕の心は鎮まっていく。それはきっと、揚羽さんを見て落ち着いたと言うのもあるが、一人じゃないと実感を得られたことも大きく関与している。だから僕も、彼女の一助に慣れればいいと思って、何も聞かず、何も話すわけでもなく、ただ揚羽さんの差し出して来た手を、優しく握り返すのであった。




 ◇




 それからどれだけ時間が流れただろうか。

 僕らの心を震わせたニュース番組は気が付けばバラエティ要素の強いコラムに移行しており、揚羽さんも落ち着きを取り戻して来たように思える。それでもまだ、手は繋がったままである。


「揚羽さん」

「……何」


 普段であれば棘のついた朝顔みたいな揚羽さんも、今ではすっかり萎れた蕾の状態である。そんな弱々しい彼女に、僕は今から追い打ちをするようなことを口にする。僕にそんな意気地は無いと言ったが、アナウンサーが程良いパスを投げてくれた。この好機を逃せば、今後一生僕と彼女の間には禁忌が生まれ、触れてはならないパンドラの箱を生み出すことになるだろう。そんなもの、無い方が良い。だからこそ、僕は今ここで無い意気地を振り絞る。僕は今この瞬間だけでも、益荒男とならねばならなかった。


「さっきのこと、なんだけど」


 彼女の視線はテレビに釘付けされたまま反応らしい反応は返って来ないものの、繋がった手指の先には力が込められた。

 聞こえてはいるのだろうと思い、僕は無理に彼女の反応を引き出すことはせず、聞いているだけでいいというスタンスで言葉を続ける。


「……僕は、君の自殺願望を否定するつもりは無いよ。けどそれは、君の軽率な行為を肯定する訳じゃない」

「……うん」

「死に場所探しには付き合うけど、危ない場所には付き合えないよ。僕は、揚羽さんが危ない目に逢うなんて見たくないんだ」


 僕が揚羽さんの死に場所探しに付き合うのは、同情だからではない。では何なのかと言われると返答に困るのだが、僕はきっと、彼女を見捨てられないからだと答えるだろう。なぜなら、彼女の姿が僕の有り得たかもしれない姿でもあるから。僕と彼女の違いは、希死念慮の濃さ。もしも何かの因果が狂えば、僕が揚羽さんで、揚羽さんが僕だったかもしれない。そう考えると、僕は自分で自分を見捨てられないだけ。つまるところ、独り善がりな自己犠牲のようなものである。だから、という訳ではないが、揚羽さんが傷付くところは見たくなかった。


「……」


 揚羽さんは僕の言葉をゆっくりと咀嚼するかのように黙り込んでしまう。

 揚羽さんでなくとも、誰かが傷付く姿など、望んで見たがる人はいない。だけど僕は、彼女だから傷付く姿を見たくないのだと断言できる。揚羽さんはもう、今の時点で死を願うほどに傷付いているのだから。

 彼女が傷付く理由は知らないけれど、もし叶うのであれば彼女がこれ以上傷付かない世界を僕は望む。


「……どうして」

「うん?」

「どうして、そこまでしてくれるの」


 そこでようやく僕の方を向いた彼女の瞳は、俄かに震えていて。

 ここで「君が大切だから」、と言えればどれだけかっこいいことか。しかし、意気地なしの称号を持つ僕にはそんな真似できそうもない。

 それに、ここで僕の頭に浮かんだ通りの答えを口にするのは憚られる。何せ、「君に自分を重ねているから」、なんて、女心の分からない僕でも口にしてはならないことくらい分かっている。なら、彼女の問いに対する答えで言葉に出来るのは一つしかなくて。


「君が、僕より価値ある人間だからだ」

「……は?」

「変な意味じゃないよ。本気で、心の底から思ってる。君が死ぬくらいなら僕が死ぬ。その方が良いと思ってるから、僕は君に付き合ってるんだ」


 不安がる瞳から一転、戸惑いや困惑の色に満ちた彼女の目が大きく見開かれる。僕はそれを一点の曇りなき眼で見つめると、揚羽さんは納得した様子で「……そう」と言って目を逸らした。


「それで、揚羽さんはどうするの? これからもこんな危ないことを続けるつもりなの? 普通の死に場所探しならいくらでも付き合うけど、あんな危ないことはもう二度とごめんなんだけど」


 麻薬のオンパレードな地下施設の次は、生贄と称して信徒を抹殺していくカルト集団に潜入するつもりだったりしないだろうか。

 今回は下手をすれば逮捕者が五十四名に変わっていたところだったのだ。そうなれば揚羽さんの恩讐は果たせるとしても、彼女の希死念慮が念願叶うことにはならない。もっと普通の死に場所探しにしないだろうか、と言った意味も込めて尋ねると、彼女は目を瞬かせて言った。


「……まだ、付き合って、くれるの?」

「…………確かに」


 彼女の瞠目に、僕も瞠目で返す。

 ここは「もうこりごりだよ~」、と身を引く場面だったのではないかと、言ってから思い付く。そんな浅はかな僕を見て、揚羽さんは小さな笑みを零した。


 どれだけ小さくとも、あの場所から出てきて彼女が見せた初めての笑顔だった。


「笑わなくてもいいじゃん」

「ごめんなさい。次は、まともな場所を探すから、また、付き合って?」

「普通のところなら、いくらでも。そう言う、約束だからね」


 肩を竦めてそう言うと、彼女は快活に、とまでは言わないが肩の力が抜けたようにもう一度笑みを浮かべる。

 僕はただ、僕まで死にかねない場所は嫌だ、と言いたかっただけなのに、これから先も彼女に付き合うことが決定してしまった瞬間である。


 ──死ぬのなら、どちらか一人が必ず助かる場所でなければ意味が無い。


 僕らがしたいのは、心中じゃないのだから。


「……お腹、空いた」

「帰るついでに、どっか寄る?」

「テイクアウトして、あんたん家で食べる。今日まで泊まっていいんでしょ?」

「分かった、そうしよう。それは、揚羽さん奢ってくれるんだよね?」

「まあ、あたしの金じゃないけど」

「ダメージを与えられないのが釈然としないね」

「ダメージ、与えたいの?」

「……殴り合い?」

「したいなら、相手してあげる。どうぞ?」

「……勝てなさそうだから、いいや」

「ヘタレ」

「ヘタレでいいんですぅ」

「童貞」

「どっ……?! それは関係無いでしょ」

「関係大アリだけど。童貞は非童貞よりも八割増しでヘタレだから」

「ヘタレなら八割減じゃない?」

「マジレスすんなし」


 肩の力が抜けたお陰か、彼女の顔に笑みが取り戻される。満開、と呼べるほど明るい笑みでは無いが、月明かりに照らされた朝顔の蕾のような笑みが、彼女にはよく似合っていた。

 笑う彼女を横目に、僕らは堪能できなかったスーパー銭湯を後にしていく。次こそは岩盤浴を堪能してやるからな、と胸に誓いを立てて。


「我らはそう、銭湯民族だから……」

「何か言った?」

「いや、なんでもないです……」


 僕の熱量に対して、何の後腐れも無い様子の揚羽さんは冷たく「あっそ」とだけ言って僕らは帰路についていく。途中、近所のお弁当屋さんで僕はお弁当を一つ。揚羽さんはお弁当二つとおにぎりを買って帰った。何の気も無しに、食欲が戻って良かったと見つめていると、揚羽さんは「お弁当って、おかず余るでしょ」と言って気恥ずかしそうに買った袋を背中に隠していた。


「来週も、泊まっていいの」

「うん、大丈夫だと思う。父さんたち、平日もいつ帰ってくるか分からないし。なんだったら、平日も──」

「ううん、平気。そこまで迷惑かけるつもりは、ないから」

「そっか」


 死ぬつもりの人が今更迷惑を気にするなんて、とも思ったが、僕はそれを口にはしなかった。本当は彼女もどこかで、迷っているのだろうかと思いつつ、駅から家までの道の間、僕らは無言で歩いた。


 タイミングを見失ったせいで、離すことを忘れた手を繋いだまま。









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