12話
◇
梅雨の時候へと季節の移行が始まるこの時期。
大型連休も終わって久しく、次なる長期休みが待ち遠しい僕たち学生は中だるみの真っ最中。それもこれも雨や湿気の所為に出来る期間というのは、真面目に属さない僕みたいな生徒にとってみれば楽園のようである。教員も生徒の気持ちを理解しているのか、お目こぼしも多発する。自称進学校とは言え、テストで良い点さえキープしていれば誰からも文句は言われないのだ。
こんな風に要領の良い子供、聞き分けの良い生徒、と言うのは、大人からすれば喜ばしいものなのだろう。
問題を起こさず、手間をかけず、困らせず。幼いころからそうすれば褒められるからと分かってやっていた。可愛くない子供だっただろう。大きくなってみれば、なんて性格の悪い子供だろうかと失笑されるべき存在。子供らしからぬ子供と言えばそうなのだろうが、ギフテッドと呼ばれる程ずば抜けて優秀な訳でもない。雄弁ではなく寡黙で、お転婆ではなく物静か。リーダーシップがあるわけでもなく、言われたままに従順。子供時代から僕は、そうやって大人の機嫌を取って来た。所謂、居れば困らないが居なくても困らなくない。居ても居なくても変わらない、そんな存在だ。
だから教師にも親にも、怒られたことが無い。それなのにこうしてシトシトと振り続ける雨の景色を眺めていると絶え間なく湧き出てくる満ち足りない感覚に僕は言い得ぬ希死念慮を抱いてしまう。
「揚羽、課題やって来たらしいな。数学の山岡先生が褒めていたぞ」
「そうですか」
「養護教諭の新藤先生も、最近顔色好くなったって言っていたし」
「もう、いいですか?」
「あ、ああ。引き留めて悪かったな」
会話が聞こえた先にいたのは、担任教師に声を掛けられた揚羽さんだ。昼休みが始まって早々担任に捕まった彼女は、鬱陶しそうにしながらも最後まで話を聞いていた。
担任教師が気に掛けるのは、問題児と呼ばれる生徒ばかりだ。このクラスにおけるその筆頭は揚羽さんで、僕のように可もなく不可もない生徒には、見向きもされない。……当然だろう。僕は、見てもらう努力をしていないからだ。
ではその見てもらう努力とは何か、と思って頭を捻っていると、気が付けば昼休みは終わりを迎え、午後の授業にもろくに身が入らぬまま放課後を迎えてしまう。
「──それで、なんであたしに聞くの?」
「いや、他に相談できそうな人、いないし」
「彩春さんとかは……、ああ、そっか。あんた、優等生ぶってるんだもんね」
学校からの帰り道、僕と揚羽さんは並んで歩く。
月曜日、疲労の抜け切らない体を引きずって僕らは学校に向かった。同じ家から出たのに時間を開けて登校するという不思議な体験を経た後、この一週間、僕らの間に会話らしい会話は存在しなかった。僕から話し掛ける理由もなかったから、と言えばその通りだが、彼女は宣言通り、平日の間は僕の家に頼ることはしなかった。けれども時は激流のように過ぎ行き、瞬きするかの如く訪れた金曜日。
僕と揚羽さんは約束したわけでもなく僕のバイト先であるカフェ【sincerita】に向かう道中で示し合わせたかの如く合流したのだった。
「あんたって……いや、いいや。言うだけ無駄っぽいし」
「何さ。そんな勿体ぶられたらいやでも気になるじゃん」
「いいから。で、なんだっけ? 見てもらう努力、だっけ?」
「あ、話し逸らした」
言葉を交わすのは日曜日以来だと言うのに、先週と変わらぬ様子で会話が成り立っていることに僕は密かに驚く。実を言うと校門を出てからずっと緊張で身構えていた節があったのだが、それを悟らせまいと必死で取り繕っているのは、揚羽さんには気付かれていないはず。
僕は変わらず平静を装って彼女の隣を歩いた。
「見てもらう努力なんて、考えたことも無いけど」
「揚羽さんは色んな意味で目を引くからね」
「……あたしだって、人にどう見られているかくらい分かってるよ。でもね、どう見られたいかは全く違うの」
「本音は、どう見られたいの?」
僕がそう聞くと、彼女はゆったりとした歩様を止め、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、世間に向かって中指を突き立てて言った。
「……どいつもこいつも、こっち見んなカス──……って、思ってる」
「おぉ。なんだか、それは……ロック、だね」
「なに、それ」
堂々たる振る舞いを見て僕が震えてそう言うと、彼女は肩を揺らして笑った。
「揚羽さんって、かっこいいよね」
「急に何。キモいんだけど。ってか、なんだと思ってたの」
「てっきり、ネット掲示板とかで喧嘩してそうなイメージだったから」
「失礼じゃない? それに、今はもうやってないし」
「昔はやってたんだ……」
「うざ」
なんと言うか、揚羽さんの言いたいことも分かる気がする。
否が応でも注目される揚羽さんと、誰にも見てもらえない僕。どっちがいいかと聞かれると、多分どちらも嫌だと答える。そんな我儘な自分がいるのも自覚している。欲しいのは、その狭間。周りの誰もが卒なくこなしている、「普通」の領域に僕も踏み入れたい。こんな孤独とはおさらばしたい。そう思っても出来ないからこうして悩んでいる僕を横目に、吐き出してすっきりした様子で再び歩き出した揚羽さんは、「それはそれとして」、と言いながらポケットから一つのチョコを取り出した。コンビニのレジ横とかに置いてある、小さなチョコレート菓子だ。
「例えば、チョコ。目の前に見た目が全く同じ、だけど材料も作った人もバラバラな場合、どれが一番最高級か、あんたには分かる?」
「全部、見た目が同じ?」
「そう。一番下はスーパーで手に入る、やっすいチョコね。これもこれで美味しいけど、最高級品には遥かに劣る。けど、それって食べてみないと分からないでしょ?」
「……確かに。でも、それがどう僕の悩みに関わってくるのさ」
「世界中のチョコレートが全て同じ見た目だったら、どうやって区別するか、って話」
「ううん……。例えば……、包装、とか。デコレーションとか?」
「そう。みんな大好きなチョコレートだって、丁寧で綺麗な包装や見た目に特徴を付けて価値を生み出しているの。そうしないと、誰にも見向き去れないから。もしもこのチロルチョコの中身だけ最高級チョコレートに変わっていたとしても、それを知らずに食べた人はチロルチョコだとしか思わない。すごく美味しくなったと感じても、所詮はチロルチョコの範囲内でしかないの。分かる?」
「うん、なんとなく。先入観とか、そういう話?」
「そう言うこと。人は見たいものしか見ない。どれだけ中身が高級チョコでも、道端に落ちていて、木の葉に埋もれたようなチョコなんて、誰も見向きしないでしょ? 要するに、あんたはそう言う存在なの。誰の目にも映らないし、気付かれない。見たいと思えるほど興味を惹く要素が無い。退屈で、つまらない人間ってこと。分かった?」
「ぐはぁ」
チョコレートは確かに素材と職人の腕で大きく左右されるよな、なんて思いながら聞いていると、想像以上に深く突き刺さるボディブローが放たれ、ノーガードの胴体にクリーンヒットする。一撃ノックアウト間違いなしのこの威力に辛うじて二本足で立っていられたのは奇跡と言えよう。
「そ、そこまで言わなくても」
「本当のことでしょ? せっかくこのあたしがあんたのつまらない悩み相談に乗ってあげたって言うのに、その言い草?」
「う、ぐ……。あー、ありがとう、ございます」
しかし、揚羽さんの言うことも尤もで。僕は大人しく頭を下げる他無かった。
見てもらう努力。それは、人に興味を持ってもらえるだけの価値を身に着けること。そう言われて僕は、胸の内で一人項垂れる。両親すらも興味を失うほどに無価値な自分が、一体どうすれば周りの興味を惹けるものか。揚羽さんも、陽人君も、いろ姉も、僕が見ても分かるくらいに魅力的な人間である。だから彼らの周りには人が集まるし、数多の人の目を引くのだ。
対する僕はと言えば、どうだ。
会話もフィラーばかりで、詰まってばかり。面白いことの一つも言えなければノリも悪い。感情表現も迂遠でヘタクソで、趣味も無ければ好みも無い、偏屈で捻くれ者。特に、自分を不幸だと思い込んでいるところが癪に障る。
鏡を覗けば、そんな自分が映る。
──僕は、僕が嫌いだ。
どれをとっても良いところなんて見当たらない、実につまらない人間だ。揚羽さんみたいにチョコレートで例えるのなら、安さだけを求めた末に生まれた、混ぜ物で出来たチョコレートに扮した化合物だ。所詮は偽物。偽物は本物にはなれない。
「……」
「なんか、ごめん」
黙り込んだ僕を見て、揚羽さんは反射的に謝罪を口にした。
けれど彼女が謝る必要はない。むしろ感謝すべきだ。僕に気付かせてくれたのだから。
「揚羽さんが謝ることはないよ。だって、本当のことだから。僕のことは、僕が一番よく分かってるつもりだよ。変えたくても、変えられないこともあるってことくらい、知っているからね。見てもらう努力なんて、考えるだけ無駄だったのかも」
本当に、醜い。今の僕は、本当に醜かった。こんなもの、八つ当たりも同然だ。揚羽さんには悪いことをした。だけど、こうして平静を取り繕っていないと感情が溢れてきそうで耐えられなかった。そのくせ、相手の機嫌を取るためだけに癖付いた表情筋が感情とは裏腹に笑みを浮かべる。
見るからに道化でしかないこんな顔を見られたくなくて 僕は彼女の方を振り向けなかった。
「──はい、これ鍵」
「……は?」
ようやく彼女の方を見ることができたのは、カフェの近くにまで来た頃だった。
何の脈絡も無しに渡した鍵を見て、揚羽さんは「何を考えてるんだ」という素っ頓狂な表情で僕を見た。
「家、行っててもいいよ。ただ待っているのも、手持ち無沙汰でしょ」
「いや、あたし、一応部外者だからね? 悪用されたらどうするの? 危機感無さすぎでしょ……」
「悪用、しないでしょ?」
「……チッ。帰ってきても開けてあげないから」
悪態吐きながらも揚羽さんは僕の手から奪い取るように鍵を受け取ると、僕と一緒にカフェに入店する。てっきりそのまま帰るのかと思っていたが、彼女は「お腹空いたから」と言って普通にカフェの客として居座るのだった。
それから、しばらくして先週のように店内の客入りが増え始めた頃に彼女は席を立った。レジ越しに住所を伝えると、彼女はそのまま退店していくのだった。その後で、マスターからあれやこれやと質問を受ける羽目になったが、今週のバイト初めである月曜日からあれこれ聞かれているため、すっかり慣れた様子で質問の意図を躱し切るのだった。
……どうしてマスターくらいの年代の人はすぐに男女をくっつけたがるのだろうか。
◇
「おかえり~」
「……た、ただいま?」
「なんで疑問形なの」
「言い慣れてないから、かも」
「ふーん、あっそ。あ、お風呂、先に頂いたから」
オートロックを開けてもらって家に帰ると、僕を待ち受けていたのはドライヤーの音に紛れて聞こえる揚羽さんの「おかえり」だった。聞き慣れない言葉に言い慣れない返事。
俄かに感動を覚えた僕の心も、質問に答えたはずなのに微塵も興味の無い様子の揚羽さんに僕の感慨はすっかり封じられてしまうのだった。
ソファで寛ぐ揚羽さんが、僕の部屋着まで拝借していることに気付いて「随分遠慮が無くなったね」、なんて口を突いて出そうになる言葉を必死で押し止める。藪を突いて蛇どころか、彼女相手では鬼が出てきてもおかしくない。だから僕は沈黙を貫いてお風呂に向かうのだった。
「今日は賄い貰ってきちゃった」
「オムハヤシじゃん! ドライカレーとどっちにしようか、悩んでたんだよね。……マスターさんって、もしかしてエスパー?」
お風呂から上がって夕食にしようとすると、彼女は一際目を輝かせて身を乗り出す。ちなみに彼女はカフェでドライカレーの大盛りを完食した後、デザートにアップルパイを食べた後である。凄まじい胃袋の持ち主であることに驚きつつも、彼女が美味しいものを前にした時に宿す目の輝きだけは、まるで死にたがっている人とは思えない輝きを宿す。それは僕にはない輝きであり、僕はそれを見るのが好きだった。
「そう言えばさ」
「うん?」
「あんたの両親、帰ってきてるの? 先週の時と、何にも変わってないから」
「よく見てるね」
苦笑する僕は、部屋を見回す。
確かに彼女の言う通り、部屋に親の荷物が増えたり、逆に減っていたりするわけでは無い。しかし、僕には見慣れた光景だからこそ些細な変化には目敏くて。
「でも、帰っては来ているよ。朝起きた時、シンクにグラスが置いてあったり、ゴミ箱に記憶に無いゴミが入っていたりしてるから」
「……それって、泥棒じゃない?」
「それを否定できないのが悲しいね。実際、今週は母さんとも父さんとも会ってないから。でも、ちゃんと帰ってきてるはずだよ」
「本当に? 玄関の靴だって、変わって無かったのに」
揚羽さんは僕の倍のペースでオムハヤシを口に運びながらやけに両親のことを気に掛ける。そこに彼女の真意が隠されているとは思えない口振りであるが、僕はそれを修正してあげられるほどコミュニケーションに精通しているわけでもないため、大人しく付き合う他無かった。
「弟の部屋を見れば、一目でわかるよ」
「……あの部屋、物がたくさんある割に、生活感が全くなくて気味悪いから近寄りたくない」
「気味悪いって……。人の家だよ? まあ、僕も否定はしないけど」
むしろ、彼女の言葉に同意する。
僕は乾いた笑みを浮かべる他無かった。
気味悪さの正体は、このマンションの一角が曰く付きだからとか、ここが事故物件だから、とかそういう意味ではない。弟の部屋は、僕の何もない殺風景な部屋と違って、物で溢れ返っているからそう感じるのだろう。
弟の部屋のインテリアの全ては、母さんが仕事先から持って帰って来るお土産ばかりだ。十年前からずっと、物だけが増え続けている。丁度、未就学児が喜びそうな品々で溢れた弟の部屋は色とりどりの玩具で溢れていながら、一度も使用された形跡はない。寒気を覚えるくらい静まり返っているあの部屋の中で、揚羽さんはそれが気味悪く感じたのだろう。
「ずっと気になってたんだけど、あんた、弟は? 両親のどちらかが連れ回している、なんてのも考えたけど、普通に考えて、おかしいでしょ」
「……別に、隠すつもりは無いよ。ただ、聞いても面白くないからさ」
「親戚の家に預けられてるとか?」
「食事中に話すような事じゃないし」
「そんなの、言ってみないと分からないじゃん。同じ姉弟を持つ者同士、愚痴くらい聞いてあげるから、言ってみなよ」
美味しいものを食べてテンションが上がったのか、彼女にしては珍しく強引である。
けれど、本当に食事中に話すような事じゃないのだ。それでも、「いいからいいから」とせっつかせる彼女に押し負けるように、僕は言った。
「──死んだよ」
「!」
「弟は、十年くらい前──……。そっか、もう、十年も経つのか。僕が七つの時、弟は五歳だった。小学校に上がる前に、車に轢かれて、死んだんだ」
揚羽さんは、目を見開いて、何か言おうとして口を閉ざす。そうやって口の開閉を繰り返す傍ら、僕はすっかり味気の失せたオムハヤシを前に、「だから言ったじゃないか」と独り言ちるのだった。




