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7話

 


 ◇



「──なるほどねぇ。てっきり、あーちゃんが……、歩夢ちゃんが可愛すぎて性転換しちゃったのかと思ったけど、違うのね。残念」


 女性の混乱を解くためにここに至るまでの経緯を説明すると、一色歩夢が「いろ姉」と呼んでいた女性はそう言って肩を落とした。何がどう転がったらそんなファンタジックな事態に見えるのか、目の前の女性の思考は全く理解できない。そしてどうして落胆した様子で肩を落とすのかも分からなくて、あたしは引き攣った笑みで適当に流す。


「あはは……」

「ああ、そうだ。自己紹介がまだだったよね。私は皐月(さつき)彩春(いろは)、二十一歳、女子大生です。歩夢ちゃんとは従姉の関係です。それで……あなたは?」


 皐月彩春と名乗った女性は、ノーバングでかき上げた髪は大人っぽいけれど、綺麗な瓜実顔と親しみやすいにこやかな表情も相俟って、初対面の人であれば誰もが麗らかな春を想起させるような印象を抱く女性だった。正しく、あたしとは正反対に位置するゆるふわ女子を代表するような人物像。


 しかし一方で、一色歩夢とあたしの関係を探るために「あなたは?」と開かれたさくらんぼのような唇から漏れた声はさっきまでの甘くて蕩けるような声音とはまるで違う、トーンと共に周囲の温度すら下がってしまったかと錯覚してしまえるほどに警戒心に満ちた声で問われ、あたしは息を飲む。


「一色……、君のクラスメイトで、揚羽(あげは)美命(みこと)って言います」

「へぇ、クラスメイト。お友達じゃなくて、ただのクラスメイト。それが、どうして歩夢ちゃんのベッドで寝ていたのかな? それも、歩夢ちゃんの部屋着まで借りて」


 彩春さんは首を傾げ、瞬き一つせずに見つめてくる。柔らかな垂れ目は今は細められていて、それがあたしの背筋に寒気を走らせる。思わず居住まいを正さざるを得ない。


 しかし、彼女の言う通りだ。ただのクラスメイトが、それも年頃の女子が異性と一つ同じ屋根の下で泊まると言う意味を理解していれば、この状況は明らかに異質なものであると分かる。と言うよりも、彼女はあたしが名乗るより先に見抜いていたように思える。同時に、あたしが一色歩夢を利用しようとしていることも含めて目の前の従姉は見抜いたのだろう。たった一言二言挨拶を交わしただけで。


 そうでなければ、事情も経緯も説明した上でそのような問いかけをする意味が無い。

 ……皐月彩春。彼女はゆるふわ女子の皮を被った、雌ライオンである。ゴリゴリの肉食系である。母性の強さは、警戒心の高さとイコールのよう。


「……」

「悩まなくていいの。私が聞きたいのは、一つだけだから。それに答えてくれればいいだけだから」


 なんて答えれば彼女の不興を買わないか。そもそもどうしてこんな肝心な時にこの家の家主が何処にもいないのか。あいつは週末の間は誰も帰って来ないから、なんて言っていたくせに。湿気った火薬庫みたいな人間がやってくるなんて聞いていない。下手に答えて折角の思い出確保できた寝床から追い出されるのだけは勘弁だ、と実家に居る時と似たような思考に追い詰められていく。

 ここには居ない家主に向けて怒りを募らせると同時に、目の前の年上女性の望むであろう答えを探していると、そんな答えあぐねるあたしを見かねて彩春さんは「はい」か「いいえ」で答えられる問いに切り替えた。その内容が、内容であり……、





「──歩夢ちゃんと、セックスはしたのか、って聞いてるの」





「……っ」


 皐月彩春は、イかれている。

 一時間にも満たない邂逅で得られたのは、その情報だけ。

 けれども、その情報さえあれば、彼女を語るには十分だと思えるほどの価値ある情報であるように思えて、あたしは皐月彩春の瞳孔の開いた瞳を見つめ返した。

 今この瞬間。果たしてあたしは「イエス」と答えるのが正しいのか、それとも、「ノー」と答えるのが正しいのか。


「して、ません」

「そう……。それなら──」


 背筋に落ちていく冷や汗は長考の証。

 やがて絞り出したあたしの回答は、「ノー」である。


 それは紛れもない事実。果たしてそれを捻じ曲げるべきだったのかどうか。あたしの返答を聞いて俯くイかれた従姉の反応は、いかに。


「──それなら……、良かったぁ!」

「良か、った……?」

「脅かしてごめんねぇ。歩夢ちゃんのことが絡むと、私ってばあんまり冷静でいられなくって」


 ホッと胸を撫で下ろした彩春さんは、先まで纏っていた底冷えするような空気は霧散し、朗らかな様子で微笑んだ。予定外の緊張感に張り詰めていたあたしは、彩春さんのように安心感から胸を撫で下ろすのも忘れてポカンと口を開けて呆けるばかり。


「歩夢ちゃん……と言うか、一色家は色々ごたごたがあってね。その話は、歩夢ちゃんから聞いてる?」

「いえ、何も。ただ、週末は親が帰って来ない、とだけ」

「まあ、そうだよね。陽人君だって知らないことだもの。そう簡単に言わないか」


 陽人……、中津川か。

 彼は、一色歩夢の居場所を尋ねた相手だ。同時に、彼と遊びに行くから、と家主に誘いを断られた相手でもある。そう思うと、中津川陽人に対する印象はプラスとマイナスで打ち消し合うも、辛うじて負の印象が勝るだろう。そもそも、どうしたら一色歩夢のような人と中津川陽人のような正反対に位置する人が仲良くなれるのだろうか。それが不思議でならない。


「詳しいことは省くけど……、スマホで『佐倉(さくら)佳乃(よしの)』って調べてごらん」

「なんで……」

「いいから、いいから」


 どうして、なぜ、と反論する間もなく促され、「佐藤の佐に、倉庫の倉。あとは平仮名でよしの」と言われた通りに検索すると、ヒットしたのは音楽家の女性であった。


 正確にはチェロ奏者らしく、東京の三大オーケストラにも所属している有名なチェリストなのだそう。世間では綺麗すぎる音楽家、と褒めているのか貶しているのか分からない肩書きで人気らしく、テレビにも多数出演しているとかなんとか。言われてみれば、あたしでもテレビで見たことがあるかもしれない。


「これが、何か」

「それが、歩夢ちゃんのお母さんで、私の叔母さんに当たる人。あ、佐倉は旧姓ね。ちなみに、叔母さんって呼ぶとめちゃくちゃ怒る」

「……演奏家、ってチェリストのこと。あ、もしかして、リビングのトロフィーとかって」

「そう。全部、叔母さんの。それで、配偶者のところ見てごらん」

「っ! 一色二郎って、まさか……!」

「そう。俳優の一色二郎。なんて言うの? バイプレーヤー、ってやつ? それが、歩夢ちゃんのお父さんなの。まあ、今じゃ毎週のように若い女優を引っ掛けて飲み歩いているような、ろくでもない人だけどね。叔母さんと一緒で、ここじゃないどこかに別邸でも持っているんでしょうね。帰って来辛いからって。なんで離婚しないんだろ。……とまあ、そう言うわけで、歩夢ちゃんは言うなれば、俳優と音楽家の二世なんだよ」

「それは、かなりすごいのでは……?」

「凄いことだよ、うん。凄いことだけど、当人にとっては、そうじゃないみたい」

「……」

「それを言うなら美命ちゃんも、歩夢ちゃんに負けず劣らずの生まれなんじゃない?」

「ッ?!」


 どうして一色歩夢の家族構成をあたしに話したのかと思っていると、彩春さんは器用に片手でスマホを操作してとある会社のホームページを見せつけてくる。


 ──アゲハグループホールディングス。


 それは、あたしの父親の会社だった。


「物流、派遣、広告……最近じゃ飲食まで。随分手広くやってるみたいだね。名前くらいは聞いたことあったけど、実際に見てみるとすごいねぇ」

「……偶然、じゃないですか? 珍しい名字ですけど、たまたまでは?」

「そう? 揚羽社長の奥さん、元アナウンサーでしょ? 美命ちゃんによく似てるのに。最近じゃお姉さんも露出し始めてるんだって? こっちも、ほら。よく似てる」

「……なにが、言いたいんですか」


 タブを移動させるだけで、母親の現役時代の写真だったり、メディア露出を始めた姉が載っている記事を見つけ出したりと、手際よく暴かれていくあたしのパーソナルな情報。

 それはまるで、彩春さんにじりじりと壁際まで追い詰められているかのよう。実際はただ、テーブル越しに向かい合っているだけなのに。

 朗らかで柔らかい印象はスイッチでオンオフ可能なのか、またしてもいつの間にか消え去っており、彩春さんは再び雌ライオンの如き威圧感を内包してあたしを見つめていた。


「こーんな大企業の令嬢が、何を思って家出して、何を思って歩夢ちゃんに近付いたのかと勘繰ったけど……、あなたのような年頃の子であれば、所詮は思春期の思い過ごしでしょ。歩夢ちゃんは、優しいからさぁ」

「だから、何が言いたい──」

「──水は低きに流れ、人は易きに流れる。この言葉、知ってる?」


 迂遠な言い回しに痺れを切らしそうになった途端、殺気すら纏う彼女が放った言葉に、あたしは一瞬考え込んでしまう。お陰で噴きこぼれそうになった鍋の火を慌てて小さくしたみたいに落ち着きを取り戻してしまった。

 彼女が口にしたのは、性善説の解釈の一つ。人は流されやすい生き物だと言う意味。あたしのことを馬鹿だとでも言いたいのだろうか。


「……あたしが、あいつの足を引っ張るって言いたいんですか」

「ううん、その、逆。あなたが、歩夢ちゃんに引っ張られる」

「は……?」

「歩夢ちゃんはね、人生の底を知っている。それなのに、底抜けに優しいの。ある意味、タガが外れてるとも言えるくらい。だから、あなたの覚悟程度じゃ、あの子は揺るがない」


 きっぱりと断言する彩春さんに、あたしの怒りの感情はすぐに再沸騰する。

 ぼんやり生きている程度のあの男と比べて、あたしの方が程度が低いなんて言われたのだ。ここで噛み付かなければ、家出してきた意味がない。


 あたしは、喰われるだけの草食動物ではない。

 十代の家出なんて、さして珍しいものではないことくらい、理解している。大人から見ればさしたるものではないことくらい、分かっている。でも、この家出は違う。あたしの家出は、覚悟あるものだ。だから、百獣の王の妃相手でも、あたしは噛み付いた。


「勝手に決め付けないで! あたしは、本気で──」

「──」


 テーブルを叩いて、立ち上がって、声を荒げる。


 けれど、あたしの怒りに任せた言動はすぐに尻窄んでいく。

 微動だにしない彩春さん。彼女の瞳は少しも揺れていなかったから。


 それが酷く恐ろしく思えて、あたしの語気は尻込みしていくのだった。

 完全に言葉を失ったあたしに続いて彼女の口が動く。またしても肉食動物のような唸り声かと思いきや、今度は予想外にも母のような慈愛に満ちた声音だった。

 だから思わず、耳を傾けてしまって。


「人は易きに流れる。だけど、人はいつだって這い上がれる。自分の意思さえあれば、どんな状況でだって這い上がることが出来るの。一人じゃ無理でも、二人でなら、ね」

「そんなの、出来っこない。それにあたしは、這い上がりたいわけじゃないし」

「さっきも言ったけど、歩夢ちゃんはね、優しいの。優し過ぎるから、いらないものまで抱えちゃうの」

「……は? 急に、何……」

「だからもし美命ちゃんが歩夢ちゃんとヤった後だとしたら不味いなあ、と思ってたの。もしヤった後だとしたら、きっと美命ちゃんの悩みも全部、抱え込もうとしていただろうからね。あの子なら、一緒に飛び降りても不思議じゃない」

「……」


 泊めて、と問いかけた時も、自殺の下見を提案した時も、あいつは一にも二にも無く頷いてくれた。それがあたしに好都合だと思っていたけれど、彩春さんの話を聞いている限り、どうにもそうじゃないように思えてくる。


 彼は、一色歩夢は、イカれている。

 彩春さんの言うことを否定できないのが、良い証拠だ。


 果たして、あの男はどこまであたしの言いなりになってくれるのだろうか。

 一緒に死んでくれと言えば、死んでくれるのか。

 彩春さんはきっと、それをさせないためにあたしに釘を刺したいのだろう。彼女の言いたいことが見えてくると、沸き立っていた怒りも静まり返っていくというもの。


「歩夢ちゃんはね、私たちとは違ってピュアだから。貞操を金銭代わりに使ったりしないの」

「……ハッ。クソ童貞じゃん」

「そうなの。歩夢ちゃんは、クソ童貞なの。可愛いでしょ? だから、美命ちゃんも、自分の身体の価値を、自分から下げようとしないで」

「……」


 彩春さんの言動に言葉を失うのは、これで何度目か。

 この人は……。彩春さんは、どこまで分かっているのか。

 あたしは大人しく椅子に腰を落ち着ける。

 一色歩夢のためならどんな相手だろうと牙を剥ける彩春さんのような人間を、あたしは初めて見た。

 それだけ思って貰えている一色歩夢をほんの少しだけ羨ましく思うと同時に、目の前の彩春さんに対して素直に感心すると同時に、続く彼女の言葉に耳を傾けた。


「だから、美命ちゃんがもしも歩夢ちゃんを利用するなら、好きなだけ利用していいよ。私が許したげる」

「えっ」


 彼女と相対し始めてから、一体何回予想を裏切られればいいのか。


 てっきり一色歩夢を守るために言い含めたいのかと思えば、彩春さんの口からもたらされたのは、一色歩夢を存分に利用せよ、と言う内容のもの。

 あたしは今、一色歩夢の真意どころか、彩春さんの真意すら分からなくなりつつあった。


「でも、一度手を出したなら、絶対に途中で投げ出さないであげてほしい。……出来ることなら、歩夢と、あの子と、ちゃんと向き合ってあげて」

「意味、分かんない」

「今は分からなくていいの。知りたくなったら、歩夢ちゃんに聞いてごらん。きっと、美命ちゃんになら話してくれるだろうから」


 気が付けば彩春さんの表情には穏やかな笑みが湛えられていて。あたしはすっかり強張っていた体から力が抜けて、椅子の背もたれに全体重を預けていた。


 結局、彩春さんには全てが筒抜けになっている、という事だろうか。目の前の女性には、そう思わせるだけの凄みがあった。あたしの父親と相対してもここまでのことは感じなかったと言うのに。


 一体彩春さんにはどこまで分かっていて、どこまで知られていないのか。


 彼女は、一色歩夢を利用するなとは言わなかった。もちろん、利用するなら、という条件付きではあるが、あたしを追い出そうとはしなかった。言ってしまえば、あたしのパーソナルな情報を知られた以上、彩春さんからあたしの保護者である両親にあたしの居場所を伝えることは出来るのだ。向こうがそれを信じるかどうか、動くかどうかは別として。それを盾に追い出そうとしなかったということは、彩春さんはあたしが一色歩夢の優しさにつけ込むことを容認してくれたということだ。彩春さんにどんな思惑があるかは不明のままだけど。


 正直、彩春さんの得体の知れなさは尋常ではない。だから一色家に連泊することを認可されたことは、果たして良いことなのか悪いことなのか。

 寝床の確保、と言う観点で見れば良いことなのだろうけれど、彩春さん相手に借りを作り続けることは余りよろしくないように思えてならない。

 加えて、あたしが知れたのは一色歩夢の家族構成のみ。一色歩夢の口からは聞けて彩春さんの口から出て来なかった「弟」、と言う単語が気になるが、それが一色家に纏わる秘密、だったりするのだろうか。内容の想像が出来てしまうがゆえに、詮索する気にすらならない。


 彩春さんに見透かされて暴かれた内容と、あたしが得られた情報。その量は同じだとしても、価値が同じとは到底思えないのだが、あたしがそれに文句を言う筋合いはない。

 だから、「仲良くしましょう?」と言ってにこやかに差し伸べられた手を、あたしは躊躇いながら取るしかないのであった。


「あっ、歩夢ちゃん帰って来たみたい。美命ちゃん、ご飯作るの手伝ってくれる? 時間もあるし、腕によりを掛けようかと思って」

「……手伝わせてください」


 彩春さんの提案にあたしが拒否権を行使することは出来ない。

 まるっきり彩春さんにペースを握られたまま、あたしは帰って来た一色歩夢に驚かれつつ、夕食の支度に勤しむのであった。


 異次元の手際を披露する彩春さんのアシスト有りとは言え、初めて作った料理にしては上手くできた気がする。







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