5話
◇
にこやかに喋る陽人君と、相槌を打つ僕。
傍から見ている分には和やかに見える昼食を終えた後も、陽人君のカメラ修業は続いた。
僕たちはかなり遠くの公園にまで足を運んでいた。
桜の季節はとうに過ぎ、新緑も終えて深緑に染まる自然の中、週末だからか子供連れの姿が目立つ公園で、陽人君は被写体を求めて犬の散歩をしてる人に声を掛けてはペットの撮影に勤しんでいた。
段々とフォーカスやピントを合わせることにも慣れてきたようで、失敗するフィルムの数が減って来たのも撮影に前のめりになる要因だろう。
ただ、その横で僕は陽人君が撮影したものを時々確認する程度。陽人君には「歩夢も撮ってみれば分かる」、と言われてスマホでの撮影を促されたが、結局一枚二枚撮ってお終いだった。
いかに文明の利器と言えど、所詮スマホのカメラは多機能の一部。撮影に特化したデジタルカメラの前では、映し出される鮮明さがまるで違う。陽人君の撮った写真と見比べると、僕のスマホで切り取った世界はとても味気なく映るのだ。もちろん、その味気無さを薄味に変えて、スマホでしか撮れない世界、スマホだからこそ表現できる世界、と言うのもあるのかもしれない。だけど僕にはそれを突き詰めるための情熱も意欲も足りなくて、陽人君が見せてくれる彩りある世界の方が見る価値があると思えてしまう。
だから僕は陽人君の視界に入る中で、ぼんやりと公園を散策する。
彼が犬と戯れているのを見て思うのは、揚羽さんは犬と猫、どっち派なのだろうか、なんてことばかり。陽人君に浴びせられた陽気によって希死念慮が発生したのを機に、ついつい彼女のことばかり考えてしまう。
──あたしね、死のうと思ってるの。
ふとした瞬間に、その言葉が脳裏をよぎるのだ。
死にたいと思うのではなく、死のうと思っている。それも、彼女は『鮮明に、明確に、確実に』と念押しまでして僕に言った。同じ希死念慮だとしても、僕と彼女のそれは正しく月とスッポン。まるで比べ物にならない。だからこそ、僕は揚羽さんがどうしてそこまで強く死を願うのかが気になって仕方がなかった。
「……どんな人生を送れば、あそこまで死にたいって思うんだろうか」
それは、純粋な好奇心。されど、深入りすれば僕まで引きずり込まれる深い沼。好奇心は猫をも殺すと言うけれど、それが例えで済まないのが、揚羽美命という女性だ。それゆえに、強く興味が惹かれる相手でもあって。
だからせめて彼女を構成する何かしらを知れれば彼女が死にたいと強く思うに至る何かしらが掴めるのではないかと思う度に、些細な興味の矢印が揚羽さんに向く。思い付くのは本当に些細なことばかりで、潮干狩りの真似事であればきっと、深い底まで引きずり込まれるということは無い、と言う浅はかな考えの下、思考を散らかしている。もしも不興を買うようであれば、さっさと引き返せばいいのだから。
「揚羽さんは、何に感動を覚えるんだろう……」
「──なんか良い写真、撮れたか?」
「?!」
子供たちが集まる遊具を見つめてぼんやり呟いていると、不意に背後から聞こえた声に肩を飛び跳ねさせて振り返る。
「びっ、くりしたぁ」
「……歩夢、なんだか今日、変だぞ?」
「そ、そうかな? いつも通りだけど。それより、陽人君の方こそ良い写真は撮れた?」
冷や汗をかいて振り向いた僕を、陽人君は訝しむような目で見つめる。慌てて取り繕うも、陽人君は考え込む素振りを見せて、より一層僕の心拍を逸らせる。
朝一番から心ここに在らずではあったのは違いない。けれど、その理由を目の前の陽人君に明かすことは出来ない。僕だけの問題じゃないから。
しかし陽人君は一度僕の目を覗き込んだかと思うと、「良し」、と言ってカメラから手を離した。
「……何か、悩んでるんだろ。俺で良ければ話、聞くからさ。話してくれよ。な? 俺と、歩夢の仲じゃないか」
「……」
彼が口にしたのは、純粋な善意。
真正面から降り注ぐ100%の善意を受けた僕は、言葉を失う。それは驚愕ゆえだろうか、それとも、失望ゆえだろうか。自分でも、良く分かっていなかった。
底抜けに「良い奴」である陽人君の唯一の悪い点と言えば、これだろう。
彼の言動の全てに、悪意が無いこと。
普通の人から見れば欠点にはならない、むしろ彼の良いところでもあるのだが、僕のように捻くれた人間にとって、悪意のない彼のような人間は癪に障る。ましてや、その感覚を味わう度に、彼の長所を短所として見るような自分に反吐が出そうになる。
「力になりたいんだよ。だって俺たち、親友だろ?」
僕の肩を両手で掴み、僕より頭一つ分高い視点を自ら下げて見つめてくる彼の瞳の輝きは、さぞ美しく見えることだろう。
そんな善意に満ちた彼のことを、僕は凄い奴だと思っているし、尊敬もしている。だけど同時に、僕にとって彼は僻みの対象でもあって。
教室で陽人君が揚羽さんに対して言っていた言葉を思い出す。
──住む世界が違うんだから。
その言葉は、もれなく僕と彼にも当てはまる。
中学生時代。僕は一度だけ、彼の家に遊びに行ったことがある。
あの時は確か、彼の家で、バーベキューが行われていたんだったか。その時に陽人君の小学生時代の友人も紹介されたが、記憶に残っていない。その時に食べた肉や野菜の味も覚えていない。唯一覚えているのは、途方もない程の無力感。目の前で繰り広げられた、僕の知らない世界の話だけ。
母親が居て、父親が居て、彼には妹も居た。
両親からは「陽人」と呼ばれ、妹からは「お兄ちゃん」と慕われる彼の姿。その場の誰もが、笑顔を湛えていた。表情から、態度から、雰囲気から。何から何まで、彼の家には幸福が溢れていた。そこには、僕の知る家族の形とは大きくかけ離れたものがあって、絶句したのをよく覚えている。彼の家族には「緊張してるんだね」と言われたが、僕はあの時、何を思い、何て返したんだったか。
今思えば、その時からだ。薄らとだが、僕と彼とでは見ている世界が違うのだと。それを、僕は揚羽さんと言う別の視点を得たことで確信に変わった。
僕と陽人君もまた、住む世界が違うのだと。
彼の存在そのものが、僕のコンプレックス足り得るのだ。なんたる皮肉か、と世界を呪わずにはいられない。
けれども、そのことで彼に嫉妬したり、敵視したりするのは話が違う。ただ、彼のことを疎むだけだ。
善意しか持ち得ない彼には、僕や揚羽さんの気持ちは理解できないだろうから。
「…………ごめん」
だから僕は、彼から一歩退いて、一言、「ごめん」、とだけ口にする。
「っ、ぁ、歩夢……?」
僕のそんな反応を予想していなかったのだろう。陽人君は大きく目を見開き、口を開閉させた後、か細い声で僕の名前を呼ぶ。
そんな顔をさせるつもりは無かった、なんて言い訳が頭に浮かんでくるが、ここから先、陽人君が踏み入ってもろくなことにならないのは目に見えている。
泥舟に乗るのは、僕だけで十分なのだから。
「な、何か、歩夢の気に障ることしちゃったか? 嫌われるようなこと、したか?」
どうしてそんなに狼狽するのか。
陽人君には、僕以外にも友達がたくさんいる。頼れる家族だっているはずだ。なのに、どうして彼はこんなにも僕に固執するのだろうか。……いや、固執しているのは僕も同じか。陽人君の友人、という座を捨て去れずに居座っているのは、きっと僕の方だろうから。
「僕は陽人君のこと、嫌いじゃないよ。友達だと思ってる」
「じゃあ、どうして……」
「友達、だからだよ。友達だから、言えないことがあるんだ」
なんだよそれ、と頭を抱える陽人君の姿は、直視できない程に僕の胸を締め付ける。
彼が優しくなければ。彼が打算で動いていてくれれば。彼に悪意の欠片でもあれば。僕はもっと、はっきりと言えたのだろうか。
これ以上関わらないでくれ、と。
でも彼は、優しかった。打算などなく、ただの善意で僕を「親友」だなんて呼んでくれている。
だから僕は彼を突き放せないし、彼が伸ばしてくれた手を払えずにいる。
「ごめん。もう、帰るね」
「ま、待ってくれ! また……、また、誘ってもいいか?」
身を翻した僕に縋り付くように陽人君の声が掛かる。
「……誘ってくれたのは、嬉しかったんだよ。僕の方からも、また、誘わせてよ」
「あぁ……、ああ!」
そうやって答えると、彼の表情にはじんわりと笑みが取り戻されていき、彼は小走りで僕の傍までやってくる。その笑顔を見て、僕はまた苦い感情が喉をせり上がって来るのだった。
僕のやっていることは、どこまでも中途半端だ。
打算で、悪意をもって、彼を利用しようとしている。
僕の方こそ、悪い奴だ。
「次は、歩夢を楽しませられるようにするから!」
「今日も楽しかったよ。すごく」
「……今日は、歩夢に気を遣わせたし、俺は気を遣えなかった。本当に、ごめんな」
「そんな、こと」
陽人君は先程の狼狽する姿が嘘のように平静さを取り戻し、午前中とは打って変わって心塞ぐ気分のまま言葉を交わして帰途につく。
「……子供の時、言われたことがあるんだ。距離感が近過ぎてウザい、ってさ。だから、最近は気を付けていたんだけど、今日はちょっと、浮ついちゃってたかな」
「……念願のカメラだったんでしょ。浮足立つのは当然だよ。ただ、今日はタイミングが噛み合わなかった。それだけだよ」
「いや、母さんや父さんからも再三言われてたんだ。だから、俺が悪いんだよ。でも、歩夢にも楽しんでもらいたかった、ってのは本当だ。それが叶わなかったのは、ちょっと悔しいけどな」
「僕の事なんか──」
陽人君なら、一人でも楽しく生きていける。そこに僕が居なくとも、彼の周りには自然と人が集まるはずだ。
そう思って口を挟んだところ、僕の言い分は彼の言葉に被せられ封殺されてしまうのだった。
「──歩夢が楽しいと、俺も楽しいからさ」
言いながら、いつの間にか彼は僕の顔にレンズを向けてシャッターを切っていた。
そのことに呆然としながら、僕の頭には彼の言葉が巡る。
果たしてその逆は、どうか。
陽人君が楽しいと、僕も楽しい。そう思えたことはあっただろうか。彼のように、人に自分の感情を託すようなことを、僕はしてきただろうか。それはきっと、心を許すことだ。僕はこれまで、陽人君に心を許して来たことがあっただろうか。
「おっ、良く撮れてるかも」
彼が見せるカメラのディスプレイには、僕のポカンとした間抜けな顔が映っていて。
「……辛気臭い顔だね」
「どっちかって言うと、自身の無い顔だよな。歩夢はもっと、自信を持っていいって俺は常日頃から思ってるんだ」
「そんなこと……」
「あるの。それに、最初に言っただろ? 俺が撮りたいのは親友だ、ってな。歩夢は、良い奴だからさ。お前は俺が誇れるくらい、凄い奴なんだよ」
すっかり元気を取り戻したように見える陽人君は、言いながらポン、と軽く肩を小突く。その肩が、僕にはとても痛くて。
噎せ返るほどに濃密な良心を持つ陽人君に対して、肩にのしかかる呵責に僕は耐えきれそうになかった。
「……」
「それじゃあ、また学校でな。あ、彩春さんによろしく言っておいてくれよ」
「う、うん」
「それから……」
「陽人君?」
重たい足を引きずって辛うじて辿り着いた駅前で解散の流れになるも、陽人君は気まずげに立ち去ろうとはしない。何か言いかけてはやめることを繰り返し始めて数分が経過したが、僕も背を向けるに向け難い。陽人君にも言い難いことは存在するのか、なんて考えていると、彼はゆっくりと顔を上げた。その顔に張り付いた表情はいつものように晴れ渡っているわけでは無く、どんよりとした曇り空のように眉根を下がっており、彼の中で言うか悩み果てた末の言葉をゆっくりと紡ぐのだった。
「……歩夢は、俺の持ってない物を持ってる。ずっと俺は、歩夢のことを凄い奴だって思ってる。そんな歩夢の力になりたいって思ってるけど……、きっと、力にはなってやれないんだよな。分かってる。なら、ならさ、せめてさ……、見守らせてくれよ」
言いながら彼の顔に浮かぶのは、貧相な笑み。
困った顔をして無理に作った笑顔は見るに堪えないものであったが、それをさせたのは紛れもない僕のせいである。
今この瞬間だけを、彼の首から下げたカメラで切り取ってしまえば、彼の台詞は僕が言うべきに思えるほど、沈痛な面持ち。だけど陽人君は、僕のようにその場しのぎのためだけにそんな言葉を口走る人間ではない。
果たして、彼の目には何が見えて、その言葉を紡ぐに至ったのだろうか。これがもし、僕の些細な希死念慮を見透かされたのだとすれば取り繕う意味も無い。
「待ってるから。……俺達、親友だろ?」
「うん……」
忘れ物を隠した子供のような僕の反応に、陽人君は寂しそうに言って笑うと、そのまま反対のホームへと背を向けて去って行ってしまう。
……一体僕に、どうしろと言うのか。
いくら考えても、正解は出てこない。
揚羽さんのように、誰かに助けを求めればよかったのか。今を生きる陽人君に、一緒に死んでくれないかと声を掛ければよかったのか。そんな風に素直に感情を表に出せるなら、僕は現状をここまでコンプレックスに思えていない。
駅のホームの薄くて硬いベンチに腰掛けて、通り過ぎる電車を何本も見過ごしていく。
「一瞬で、死ねたら……」
揚羽さんの望む死に場所がどこか知らないが、今ではその死に場所探しに乗り気な僕がいるのもまた事実。
つくづく思い知らされた。
陽人君と僕では、余りに、釣り合わなさすぎる。
中学時代、根暗な者同士で話が合っただけの関係。それを彼は、自分を取り巻く環境が変わってもなお、僕のことを親友と呼ぶ。僕なんかでは、陽人君には相応しくないと言うのに。周囲もその思いを強く抱いているはずなのに、彼だけはその事実を決して揺るがないものとして抱いている。
それが、僕を追い詰めていると知らずに。
「ハッ……。陽人君は、悪くなんかないのに」
陽人君が言っていたように、彼に無いものを僕が持っているのだとすれば、それは、「悪意」だ。この答えだけはすぐに分かった。僕は薄汚いネズミのように惨めだ。
悪いのは全部、僕の方。
陽人君はただ真っ直ぐ生きているだけ。捻じれて歪んで根元が腐っている僕の隣では、彼が無為に傷付くだけ。
膨れ上がる責任転嫁を止めて、顔を上げる。顔を上げた先には、いつもの電車が扉を開けて待っていて、僕はそれに乗り込む。
「僕は──」
ボソボソと口の中で言葉にならずに紡がれた思いを飲み下しながら、帰路についていく。僕の足が向く先は、もう決まったようなものだった。




