4話
◇
『遊びに来たぜ、歩夢!』
「は、陽人君……?! ちょ、ちょ~っと、待ってね」
翌朝。時計の針が九時を示す頃。インターホンが来客を知らせる音で目を覚ました僕は早々に、昨日の自分を恨んだ。何が明日の僕に任せる、だ。解決策はまだしも、それらしい言い訳の一つや二つを用意しておいてほしいものだ。僕は慌てて朝の支度を整える。
揚羽さんが家に泊まっていることを知る人物は、極力少ない方がいい。
陽人君が言い触らすとは思わないが、単純にリスクの問題だ。揚羽さんがどう思うかは不明だが、僕は平穏無事な高校生活を望んでいるのだから。
と、言うわけで、思いの外悪くなかったソファの寝心地に思いを馳せる余裕もないまま、陽人君を玄関で待たせるのだった。
僕が内心でグギギ、と歯噛みしていることも露知らず、陽人君は上機嫌でいた。
「なあなあ、見てくれよ歩夢~!」
「ま、待ってね。すぐに着替えるから!」
「いや、そんな急がなくていいけど。って言うか、上がってもいいか?」
「ちょ、ちょっと待ってね。えぇ、っと……そう! い、一週間くらい掃除できてなくて、汚いから……」
「俺と歩夢の仲だろ~? 少しくらい汚れてたって気にしないって。リビングが駄目ならお前の部屋でも──」
「へぁ、っ……や、の方が、人に見せられない状況、だから……」
言いながら、自分でもこれは無いなと思えるような言い訳に苦笑いと冷や汗が止まらなくなる。
しどろもどろになって答える僕を見る陽人君の目が気になってしょうがない僕は、逃げるように自分の部屋へと転がり込む。そこには、陽人君を決して家に上げてはならない原因である人が心地よさそうに布団にくるまっていた。
「……うるさい。何時だと思ってるの」
「何時って、もう朝の九時だけど」
「小学生かよ……」
──揚羽美命は、危ない人と関係を持っている。
揚羽さんに関する噂と言えば、まず真っ先に悪い噂が思い浮かぶ。
彼女は、良くも悪くも目立つ人だ。一年次に不登校になったのもその悪い噂のせいかと思っていたけれど、昨日初めて直接言葉を交わして判明した事実が一つある。彼女の不登校は別に、悪い噂が先だって追い詰められた、というわけでは無さそうだという事。揚羽さんは赤の他人から向けられる悪い噂程度で凹む人間ではない。少なくとも、僕はそう感じたから。
であればなぜ彼女が不登校だったのかという話に繋がるが、それは分からない。ただ、「死にたい」と彼女の胸に蟠る希死念慮が不登校の大きな要因の一つとして考えられる。
その問題と言うのが、彼女が僕の家に泊まる原因ともなった「家族」が、不登校にも大きく関わっているに違いない。シャーロックホームズも驚くべき名推理で辿り着いた答えでもあるが、この件に関しては答え合わせをすることは無いだろう。僕がこの問題に首を突っ込むつもりは毛頭ないことに加え、首を突っ込んだところで彼女の抱える問題を解決できるわけでもないから。
僕と揚羽さんは、ただ死に場所を一緒に探す約束をしただけの関係。それだけに過ぎない──。
──の、だが。
少なくとも、目に見えない程に細い線で繋がってしまっている以上、僕は彼女の、そして僕の学校での評判をこれ以上落とすわけにはいかない。
片や悪目立ちする揚羽さん。片や居ても居なくても変わらない僕。
クラスでの立ち位置に不平や不満があるわけでもなく、むしろ改善を要求されたわけでもない現状。僕が気にするのはただひたすらに、現状維持だ。
それが難しいことは今現在、進行形でひしひしと感じている。
そんな使命を一方的に抱えている僕の苦労や焦燥を知らない揚羽さんはベッドに横たわって二度寝の態勢へ移る。
いそいそと着替える僕に背を向けてすぐに寝息を立て始めた彼女を放って、僕は陽人君の前に戻る。なんと言い訳を重ねようと思考を巡らす僕に対して彼の視線は、自分の首から下げたモノに注がれていた。
「なあなあ見てくれよ、これ。小遣い貯めてやっと買えたんだあ」
僕の心配など微塵も必要無かったかのように彼は甘くとろけるような、一度聞くだけで彼が有頂天だと知れるような声と、期待と興奮に満ちた目でそれを持ち上げた。
陽人君が自慢げに持ち上げたのは、知り合った当時から欲しい欲しい、と言っていたデジタルカメラだ。
玄関に入ってきた時からわざとらしく僕の視界に収めて反応を窺うような素振りを見せていたのは分かっていたが、当の僕は陽人君を家に上げないことばかり考えていたため、触れてあげられなかった。
しかし、彼の方から話題にしたならば、僕は「好機!」とばかりに彼の話に乗るしかないだろう。そうすれば、僕の不審な行動や素振りもうやむやになってくれるだろうという算段も込めて。
「ずっと欲しかったやつでしょ、それ。すごいね。高かったんじゃないの?」
「おお、さっすが歩夢だな。そうだよな。分かっちゃうよな! でもな、これ、ミラーレス一眼だけど、中古で良い品を見つけてさ! そこは、ほら! 俺の目利きのセンスと言うか? 小遣いの前借りにおける交渉の末と言うか? とにかく! 長い長い戦いの末にようやく手に入れられたんだ! そんで、記念すべき一番最初のフィルムに映したいのは俺の親友ってわけで……」
「だからってこんな朝早くに来なくても……」
「いいだろ? ほら。はい、チーズ」
陽人君は、本当に良い奴なんだ。
そんな彼が友と呼んでくれることに縋り付く僕こそ、ろくでもない人間というだけで。
「あれ? なんか、薄ボケてるな? スマホで撮った方が、綺麗じゃね?」
初めてのシャッターは上手くいかなかったようで、僕の薄汚い顔は彼のフィルムに鮮明には映らなかったらしい。
「……なら、さ。試し撮りってことで外に行ってみよう。ね」
「え? あぁ。でも、まだ使い方分からないんだよ。中古で、説明書ついてなかったからさ」
「スマホで調べればなんでも分かるから、平気だよ」
「それもそうか!」
ありがとう、文明の利器。ありがとう、科学の力。ありがとう、林檎の人。
表情を取り繕ってほらほら、と陽人君の背中を押して外に出る。
まだしばらくは眠っているであろう揚羽さんの枕元には「好きに食べてていいから」とメモ書きを残しておいたから問題は無いはず。来客中に家主が居なくなるなんて前代未聞だろう。それこそ、親友や身内と言った間柄でもない、ただのクラスメイト同士の関係でそれが成立するなんて、誰が思うだろうか。僕だって正直これが正しいかどうかすらも危ういのに。ただ、今は陽人君に揚羽さんのことを知られてはならないという一心のみで僕は行動を起こしていた。
いつになく積極的な僕に陽人君も戸惑っているようだが、この場で最も混乱しているのは間違いなく僕である、と胸を張って言えるのは確かであった。
「──製造年がちょっと昔の八年も前のやつだけど、シャッター回数が何と驚愕の五千以下! しかも一緒に買えばメモリーカードもレンズもサービスしてくれるって言ってな。なんでも、店員さん曰く、元の持ち主が始めようとしたけど続かなくて結局手放すことになった品らしくてな。これを見つけた時、ど~してもこれが欲しくて、お店の人にキープしてもらってたんだよ」
「それは……、破格だったんじゃない?」
「そうなんだよ! 正直、親を説得するのが一番大変だったぜ。妹なんか、何がいいのやら、って顔で見てくるしよ! やっぱ分かってくれるのは歩夢だけだぜ」
「僕もよく分かってるわけじゃないよ?」
「いいんだ、いいんだ。それで。否定せずに一緒に来てくれるだけで俺は嬉しいんだからよ」
「そう、なんだ? ……まあ、せっかくだし色々撮ってみてよ」
これさえあればなんでも出来るスマホ片手に、僕たちは通い慣れた高校への道を歩くことに決めた。毎朝、毎夕歩く道でも、平日と週末と言うだけでも全く違う道を歩いているような気がしてくる。
僕でさえも違って見えるように、揚羽さんの目には登下校の道はどう見えているのだろうか。死にたいと強く願う彼女には、日常がどんな色で見えているのだろうか。
少なくとも、学校に居る時も、バイト先のカフェにやって来た時も彼女の顔色は明るいものでは無かった。明確な顔色の変化を捉えたのは、注文の品を全て平らげた後のことだったような気がする。後は、いろ姉の料理を食べていたときだろうか。
……もしかしたら彼女は、意外と食いしん坊なのかもしれない。
「歩夢? 聞いてるか? 使い方なんだけど……」
「うん、聞いてるよ」
この場にいない人物に馳せていた思いを手繰り寄せて、隣でスマホの画面と実物のカメラを見比べて頸を傾げる友人に視線を戻す。
陽人君は良く、「毎朝が憂鬱だ」と言う。
それは彼が単純に朝が苦手だということもあるが、基本的に彼が夜の住人だからでもある。夜深のドラマに始まり、深夜アニメに続き、明け方まで友達同士ゲームで盛り上がるのが常なのだそう。そのため、彼の高校生活は毎日寝不足なんだとか。
そんな中でも今日、朝早くのこの時間にカメラをぶら下げてやって来たのは、カメラの取得、と言うのが彼の日常を文字通りひっくり返すほどの出来事なのだと言うことだ。
「絞り? レンズの種類? シャッタースピード? あいえすおー感度? 何言ってんだ?」
「背景をボカしたり、動くものを撮る時や、暗い場所での撮影法の違い、だって。最初はオートモードでいいみたいだよ」
「オート? って、どこで変えられるんだよ。そもそも今、何モードだよ」
使用者ではない傍観者のはずが本人よりも詳しい状況にある、という日常のあるあるに遭遇した僕は密かにほくそ笑む。そのまま陽人君をサポートしつつ、念願のカメラの初期設定を完了させた僕たちは、手当たり次第に写真を撮ることにした。
「この看板なんか、良いんじゃない?」
「映えを意識するんじゃなくて、映えさせるんだよな。そこが違いって言うか」
「あ、猫」
「にゃんこ! おお、いいぞ。カメラ雑誌の一ページっぽい! 動くな、動かないでくれよ~。…………あっ」
「逃げちゃったね」
「カメラって、難しいんだな……」
「スマホとは全然違うみたいだね」
歩き慣れた通学路も、一本違う道に足を伸ばせば、まるで違う景色が広がっていた。
ミラーレス一眼のデジタルカメラを構える陽人君と並んで、僕もスマホのカメラで風景を切り取っていく。カメラのレンズ越しに見える景色を見ても、「こんなものか」とパッとしないように見えるのは、僕に写真を撮るセンスも才能も無いからだろう。どこが駄目で、どこを良くすれば人に見せられる写真になるのか、さっぱり分からない。
そしてそれは陽人君も同じだったようで。
「ハハッ、見てくれよ。ピントもフォーカスもブレブレ!」
「ほんとだ。猫が化け物になってる」
「俺はまた大変なものを生み出してしまったのかもしれない……」
「あ、でも、今のは綺麗に撮れてるんじゃない?」
「え? あ、おぉ……!」
何十回とシャッターを切った中で、たったの一枚。それを見つけた陽人君は、興奮した様子で瞳を輝かせている。
陽人君からすれば奇跡の一枚となるそれを目にした彼は、声を震わせてその一枚を凝視する。そこに写っていたのは、なんでもない、ただの風景写真。言ってしまえば、たった一度だけピントが合っているだけの写真である。スマホのカメラ機能を使えば、簡単に、誰でも撮れるであろう写真。それを、陽人君は熱い感情を乗せて凝視する。なぜならそれは、陽人君が自分の目でファインダーを覗いて切り取った一瞬。何十回とシャッターを切って、初めて上手く撮れた写真だからだろう。
カメラのディスプレイに映し出された写真のように、僕と彼とでは見えているものが違う。似たような構図、似たような画角で撮った写真がスマホに映し出されるが、解像度や画質の違いの他にも、明確な違いがあるような気がしてならなかった。
見ている世界の違い。
それこそがきっと、僕と陽人君の違いなのかもしれない。
──それなら、揚羽さんには何が見えているのだろうか。
惚れ惚れするように画面に食い入る陽人君を他所に、今日一日そんな思考ばかりが脳裏をよぎる。
僕には僕の色が、陽人君には陽人君の色が見えている世界の中で、揚羽さんも揚羽さんで、彼女にしかない世界を持っているように思えた。だからもし同じ風景を三人で切り取ったのだとすれば、彼女の写真は、どんな風に見えるのだろうか。そして、僕や陽人君の写真を見て、なんて言うのだろうか。『退屈な写真』、とこき下ろすか、それとも『綺麗な風景』、と褒め称えるのか。
昨日までの僕なら前者の台詞で、加えて蔑むような目で見てくる揚羽さんの姿しか思い浮かばなかっただろう。けれど今の僕には、後者の台詞を口にする揚羽さんの姿も想像できないわけでは無かった。美味しい、と言ってご飯を食べる姿も、死にたい、と言って悩む姿も、眠い、と言ってベッドを占有する姿も、どれも等身大の彼女のように思えているのだった。
「歩夢? 聞いてるか?」
「え? ごめん、ボーっとしてた。それで、なんだっけ?」
「いや、もう結構撮ったし、お昼どうするよ」
「もう、そんな時間?」
慌ててスマホを覗き込むと、時刻は既に十二時目前。陽人君の隣でシャッターを切る音を聞きながら散歩する時間はいつもより過ぎる時間が早く感じられてしまったようだ。
僕たちはそのまま、学校から少し離れた場所にある鉄板焼きのお店に入った。
「食べ物なら上手く撮れる気がする!」
「風景とかは、上手く撮れるようになってきたじゃん」
「そうかぁ? へへへ」
陽人君が何度か利用したことのあるお店に入って写真の出来を確認していると、初めての写真たちと比べても格段に良くなっている写真たちが続き、僕はお世辞抜きに褒め称える。陽人君は知り合った当時から感覚派だから、実際に使っていくうちに使い方を理解していったのだろう。最早僕のスマホのカメラで撮った写真とは比べ物にならない段階にまで到達しているように思える。
「俺の好きな物を否定しないで居てくれるのは、歩夢だけだよ」
「……そうなんだ」
「そうなんだよなぁ。あいつらなら絶対、『高く売れそうじゃん!』、とか、『写真家になれるわけないのに』、とかマイナスことばっか言うに決まってんだ。だから、一番に歩夢に見せたかったんだ」
上機嫌に答える陽人君の言葉に、僕は自然と笑みを凍り付かせる。
彼には彼の交友関係がある。
そのことについては理解しているし、そこに口を出す権利も義務もないのは承知している。僕が不思議に思ったのは、どうして彼はそんなことを言う人を「友」と呼んで慕うのかが分からない。
……きっと、彼の友人たちも、僕に対して同じ思いを抱いているのだろう。
そして、陽人君はどうして僕とそんな人たちを比べるような物言いをするのだろうか。
僕では君の享楽を満たせないから?
そもそもの話。陽人君は僕に一体何を見出して一緒に居るのだろうか。承認欲求を満たすためだとか、自分より下の人を傍に置いて悦に浸るためだとか。もしも彼の目的がそれなのだとしたら……。
「高校に入ってからよく来るようになったんだけど、俺、意外と焼くの上手いんだよ。見ててくれよな」
ヘラを両手に装備して言う眩い太陽のようにはしゃぐ陽人君を見て、僕は無粋な思考を振り払う。邪な考えを抱いているのは僕の方だ、と日陰に逃げ込む。彼の前に出るには今の僕では無防備過ぎたのだ。
彼は……、陽人君は、言葉に含みを持たせるような人ではない。人間関係を値踏みして決めるような人ではない。中学生時代に知り合った時を思い返せば、そんなことすぐに分かるのに。僕に自信がないばかりに、彼に疑いの目を向けてしまった。下衆の勘繰りをしてしまった。彼はあんなにも真っ直ぐなのに、僕は捻じれて、歪んで、根腐れを起こしたような性格になっている。彼と言う光に照らされると、僕の嫌な部分が浮き彫りになる。自分でも知りたくなかった負の感情が、明るみに出てきてしまう。それに、耐えられそうにも無くて。
「本場、関西のお好み焼きは、格子状に切るんだって。知ってたか? 人数分で等分しようとしたら、山根の奴に『ピザじゃねえんだから!』、って笑われてさ。ほら、あいつ大阪から引っ越して来たって言うしさ」
「そう、なんだ」
だからと言って、それを「止めてくれ」、などと言えるはずもない。だってそれこそが陽人君の良さでもあるから。僕の一存で、気に食わないからと彼の個性を掻き消せるはずが無い。そんな理由で、唯一の友人を失くすわけにもいかないから。
たった一人とは言え、友達がいるというアドバンテージを手放すには惜しいと思えてしまう時点で、僕はとんでもないクズ野郎なのかもしれない。そう考えると、どちらが自分の欲求のために相手を利用しているかは丸分かりである。尚更、自分が嫌になる。
自分に関わりの無い人の話を聞くくらいなら、陽人君が好きなドラマや俳優の話、ゲームやインターネットの話を聞いている方が何倍も面白いし興味も持てるのに、食事中、彼の口から紡がれるのは、高校生となり陽人君が得た人脈に纏わる話ばかり。僕は楽しそうに話す陽人君に、相槌を返すことしか出来なかった。
僕はただ、愛想笑いを浮かべてソースとマヨネーズの濃い味に意識を逸らすばかり。
目の前の鉄板は熱いのに、僕の心は凍ったままだった。




