3話
◇
「はふぁ……」
三十九度のお湯に包まれて、息が漏れる。
乳白色のお湯を手ですくい上げて顔を濡らすと、緊張で凝り固まっていた心が緩やかに解きほぐれていく。
あの後、一人取り残された僕が告げられた言葉の意味を理解しようと心の整理に苦難していると、一時間ほどかけてお風呂から上がった揚羽さんが濡れた髪をタオルで拭きながら「あんたも入っちゃいなよ」と言って出てきた。促されるがまま、気が付けば僕は湯船に浸かっていた。ここに身内以外の誰かが、ましてやクラスが一緒なだけの異性が入ったと言う事実に尻込みする暇も与えられずに、僕の中で至高の時間とも呼べるお風呂の時間を堪能していた。
お風呂は命の洗濯であると同時に、自己との対話が出来る時間でもある。お陰で、頭の中で会話をし過ぎてシャンプーしたことに気付かずに二度目のシャンプーをしてしまうと言う事態が月に二、三回起こる。今回もそうだった。
スマホに支配されたこの社会でスマホを手放すことはつまり、社会に置いていかれることになる。けれども、手元にばかり目をやっていては大事なことまで見逃してしまうし、自分のことすら見失ってしまう。だからこうやってスマホを手放さざるを得ない環境でこそ、自分自身を見つめ直さなければならないのだ。命の洗濯は趣味など別のもので代用可能だとしても、このスマホ社会でスマホ使用禁止のお風呂と言うのは言わば、都会のオアシスのような場所でもあるのではないだろうか。
「なんて、言うけどさぁ……」
湯気でもくもくと曇る天井を見上げて溜め息と共に零す。
自己との対話、なんて言ってみたけれど僕の頭の中を支配するのは揚羽さんのことばかり。置き土産のように置かれていった彼女の言葉が、頭の中でぐるぐると巡り続けていた。
『──死のうと思ってるの』
揚羽さんの話しぶりからして、彼女の家は相当に裕福な暮らしをしているのだろう。社長令嬢、という噂はあながち間違いじゃないのかもしれない。しかし、彼女が家出をしていると言うことはその恵まれた環境を厭うていることに違いなく、彼女の様子は見るからに不安定であることは鈍い僕でも十分察せられた。
だからこそ彼女もまた程度は違えど、僕と同じように希死念慮を抱いているのだろう。だけども彼女の「もうどうなってもいい」、とでも言わんばかりの素振りを目にするたびに、雲行きが怪しくなっていくのを訝しんだかと思いきや、あの宣言である。
あの瞬間、僕は何を言えば良かったのだろうか。もしくは、何も言わないのが正解だったのだろうか。ずっと考えているが、答えは出そうにない。
良く知りもしないクラスメイトに心の裡を打ち明けたのも、僕のような人を頼ったのも、その自暴自棄がゆえだとすれば、僕は彼女を家に上げるべきでは無かったのかもしれない。だけど、それと同じくらい彼女を放っておけなかったのもまた事実で。
「どうしてこうなった……」
僕はどうするべきだったのか。そして、僕はこれからどうするべきなのか。
いくら考えても、自分のことさえままならない僕のような生きる勇気も死ぬ勇気もない人間が、「死にたい」と願う少女を救いあげることなど出来そうにもなくて、僕はいつの間にか寝間着のトレーナー姿で洗面所を後にする状態になっていた。
「辛気臭い顔」
お風呂を上がった僕を出迎えたのは、ソファで寛いでいた揚羽さんの鼻で笑うような声だった。
誰のせいでそんな顔をする羽目になっていると思っているのか。そんなことを言い返す勇気もなく、僕は笑顔を作って見せた。
「あたし、ソファでいいから」
「あぁ、寝る場所? それなら、ベッド使っていいよ。弟の部屋は、綺麗なままだから」
「……へぇ、弟いるんだ。意外だわ」
「もういないけどね」
僕としては意趣返しのつもりはなかったのだが、意図せず意趣返しのようになってしまったらしい。見るからに「失言した」と言わんばかりに表情を曇らせた揚羽さんに、僕はフォローするような声を掛けられなかった。そんな余裕すら、無かったから。
弟の話は、したくない。
この感情は、彼女の死にたい理由や、家族から離れたいと言う思いと似たようなものだろう。会話したのも初めてなような間柄で、親友でさえもアンタッチャブルな領域を打ち明ける訳がない。ましてや、自分自身でさえも触れたくない話題。
僕が踏み込まれたくないように、僕も彼女の事情に踏み込んだりはしない。恐らく、揚羽さんと関わるのはこれが最後だろう。ならば、言う必要もないと判断して、ソファで寛いでいた揚羽さんから上がる「ねえ、それって……」と言う疑問の声も聞こえない振りをする。
僕は手際よく、夕食の支度にかかる。と言っても、タッパーから出してお皿に並べるだけの作業であるが。
「…………これ作ったの、あんたの彼女でしょ。あたしが食べていいわけ?」
いろ姉が作ってくれたことへの感謝と、人に出す手前、盛り付けを丁寧に済ませた料理が並んだテーブルを前にして、揚羽さんは少しだけ不機嫌そうに言った。
それが分かっていたのなら揚羽さんは彼女持ちの家に上がったことになるし、僕もまた彼女が居ながら別の女性を家に招き入れた罪に問われることになる。もちろん、前提が大きく異なるのは言うまでもないことだが。
僕如きに無視されたのが気に食わなかったのだろうか。
僕は喧嘩を買うでもなく、笑って答えた。
「大切な人、って意味で言えば合ってるけど、いわゆるガールフレンドなんかじゃないよ。あの人は……いろ姉は、僕の従姉だから」
「ふーん、あっそ」
自分で聞いておいてその反応はなんなのか。
メイクを落とした揚羽さんの顔は美人そのもの。武装を解いた、とでも言うべきか、メイクの前と後では格段に印象が柔らかくなったと言えるだろう。それでも、依然として彼女の考えていることはまるで読み取れはしないのだが。
手を合わせた揚羽さんに続けて僕も手を合わせた。
「……いただきます」
「ん。このお茄子美味しっ。……何、その顔。まだ話すことあんの? 食事に集中したいんだけど」
「揚羽さんから聞いてきたんじゃん」
「なんか自慢げな雰囲気を察したのがウザかったし、興味無いから。……親戚付き合いとか、本当にキモい」
家族のみならず、親戚に対しても憎悪を滾らせる揚羽さん。
彼女の家庭環境に難があることは理解できたが、「どうして」とは聞かない。仮に尋ねたとしても、彼女が素直に答えてくれるとは思えないし、聞いたが最後、巻き込まれでもするのは僕の本意ではないから。
僕は、彼女の悩みを晴らせることが出来るほど僕は人間力のある個体ではない。そもそも、人の悩み以前に自分の希死念慮すら晴らせずにいるのだ。どの口で「あなたの悩みを聞かせて下さい」なんて言えたものか。
だから僕は、表面上の付き合いを徹底する。
「これも、美味しいわね」
「いろ姉のご飯は他のも美味しいんだよ」
「へえ」
「……」
「……」
食事中って何を話したらいいんだと思いながら彼女の感想に相槌を打つのだが、会話のキャッチボールはうまいこと続かない。会話って、何を話せばいいんだろうか。内心で汗をかいている間も、食事は進んでいく。
ただ一つ分かることは、一人じゃない食事風景と言うのはただそれだけで、胃袋とは違う何か別のものが膨れるような気がした。
「──ごちそうさまでした」
そのまま会話と呼ぶには拙い言葉の応酬だけが繰り広げられた食事の時間はあっと言う間に進んで、終わりの時を迎えると揚羽さんは手を合わせて挨拶を口にする。
行動の端々から感じられていたが、彼女は見かけによらず礼儀正しい。ご飯の食べ方も丁寧で、育ちの良さが窺えた。
「……あんたもさ、死にたいんでしょ?」
「はい?」
前言撤回。
片付けの最中、揚羽さんはぶっきらぼうに「ねえ」と尋ねてきたかと思うと、突拍子もない質問を投げかけてきた。
腹八分目となった食後の余韻を楽しむ空気を打ち壊すかのように揚羽さんの口から飛び出して来たのは、デリカシーの「デ」の字もない問い。問い掛けと言いながら、彼女の中では確定している事象として話が進められていく。
「あたしも死にたいんだけど、一人じゃ勇気出なかったし、あんたなら丁度良さそうだと思ったんだよね」
「ま、待って? 話が見えてこないし、そもそもどうして勝手に決め付けてるのさ」
「嫌なら嫌って言えばいいし。って言うかぁ……、嫌ならあたしのこと家に上げたりしないでしょ? 普通。それってつまり、あたしの意見に同意したって意味じゃん。あたしと同じ思いなんでしょ? あんたは」
グラスの中の氷を指でかき回しながら、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう言った揚羽さんの目は、まるで蜘蛛のようだと感じた。テーブルの対面に座す僕の気分は、さながら蜘蛛の巣に引っ掛かった羽虫の如く。クーラーも付けていないのに、体感温度が一度下がったような気がする。
おかしいな。ここは僕の家のはずなのに、いつの間にか揚羽さんの巣に取り囲われてしまっているようだった。
「い、いやいや、同意なんて、これっぽっちも、全く……!」
「優しいあんたは、断れないでしょ?」
にっこりと、目だけが笑っていない顔で揚羽さんは言う。
僕の全てを見透かしたような物言いに、僕はまともに返事をすることすら出来ずに押し黙るしかなかった。
返って来ない反応を見て満足そうに微笑む揚羽さんは、正しくスワロウテイルの如く人を誑かす魔性の女である。
などと思っていると、揚羽さんは「それで──」と言って話を進めようとするのを、僕はそこで初めて彼女の言葉に「待った」をかける。
「──先に、片付けをしよう」
「……それも、そうね」
問題の先送りこそ、僕の抱える大きな問題の一つであると同時に、得意技でもある。
この瞬間を乗り越えることが出来るのなら最早、何でもよかった。こうして時間を稼いでいる間に、彼女の言い分をひっくり返せるような何かを思いつかなければならない。
「ほら、座りなさいよ。さっきの続きだけど」
けれども、揚羽さんの協力もあって手早く片付けの終わった僕たちは、再びテーブルについて向かい合うのであった。当然、回転の遅い僕の頭では何も考えついていない状態で。
「あたしは死にたい。あんたはあたしに付き合う。それでいいでしょ?」
「──話し飛ばし過ぎじゃないですか?」
揚羽さんは開口一番、各駅停車の電車に乗ったつもりが、快速や特急クラスに間違えて乗ってしまった時のような絶望感を与えてくる。思わず顔から表情と言うものが抜け落ちてしまうほどだ。
問題を先送りにしたせいで余計に話が見えなくなってしまっている現状を整理すべく、咳き込み一つして居住まいを直す。
「ま、まず、揚羽さんが、その……いなくなりたいと思っているとして」
「思っているとして、じゃなくて、鮮明に、明確に、確実に、そして、強く思っているの。それと、死にたい、ね」
「……丁寧な訂正をどうもありがとう」
「ふん」
「だけど揚羽さんは一人じゃ死ぬ勇気が無いから、ってことで、僕に一緒に死なないか、って言いたいんだっけ?」
揚羽さんは静かに頷く。
当然ながら、彼女の提案に対する僕の答えは、ノーだ。
確かに僕は常日頃から死にたい、消えたい、いなくなりたいと思う希死念慮を抱えているが、もしも目の前に殺人鬼か何かが現れて「殺してあげる」と言われても、全力で逃げるだろう。何故なら、僕の希死念慮とは名ばかりの、ただの現実逃避だから。
生きることは、難しいから。責任が、課題が、問題が常に付きまとう世界で生きる選択をし続けるのは、難しい。だから簡単な方へと、逃げる方へと向かいたがる。なぜなら、そっちの方がずっと楽だから。でもそれは思うだけで実行に移しはしない。なぜなら、死にたくないからだ。
死にたくないのに希死念慮を抱くのかと言われれば、僕は嘲笑われる覚悟で頷き返す。そんな矛盾を孕んでいるのが、僕と言う人間だ。
「……悪いけど、僕は揚羽さんの自殺願望には付き合えないよ。揚羽さんのそれを否定するつもりは無いけど、肯定するつもりも無い、ってことは最初に伝えておくよ。僕は確かに死にたいって思うときはあるけれど、本当に死にたいわけじゃないからさ」
そう言うと、期待感を乗せていた揚羽さんの瞳が俄かにブレる。
──死にたい、消えてなくなりたい。
そう思うことはこれまで多々あれど、いざ誰かに僕の希死念慮を打ち明けたことなんて今まで一度も無かった。いろ姉にも、マスターにも、陽人君にも。それこそ、両親にだって言ったことが無い。そもそも言える関係性でもないが。
そんな自分だけの悩みの種をほぼ初対面のような揚羽さんに打ち明けることが出来たのは、彼女が僕以上に濃厚で濃密な希死念慮を抱いていたからだろう。僕は彼女ほど希死念慮に支配されているわけでは無い。文字通り、ただの逃避としてそれを抱いているだけ。ファッション希死念慮だと後ろ指をさされる覚悟で打ち明けた。
だがしかし、既に希死念慮に飲み込まれている揚羽さんには、僕の言っていることは理解できないようだった。
彼女の猫のような目が細められ、微かな怒気が込められた視線に身を強張らせたのだが、瞬き一つする間に揚羽さんの目は逸らされてしまっていた。
「別に、一緒に死んでくれなんて、そこまで言ってないし。……あたしはただ、暇そうで話す相手もいなさそうで無害そうなあんたなら、あたしの死に場所探しに付き合わせてもなんの罪悪感も沸かないと思って声を掛けただけだから。誰がそんな相手と一緒に死にたいって思うわけ? 自惚れてんの? キモすぎるんだけど」
「ぅぐっ」
早とちりしたのが事実とは言え、そこまでぼろくそに言わなくてもいいじゃないか。と思いつつも、言い返すことのできない僕は引き攣った顔を見せるばかり。
「それで、返事は? どうせ暇でしょ?」
「どうせって……。まあ、別に、付き添うだけなら構わないけどさ」
「っ、ほんと!? 今、言質取ったから。後になって無しとか言わないでよね」
断られる、と思っていたのか、彼女からすれば想定外の答えに、僕としては予想外の喜色ばんだ反応が返って来て圧倒される。揚羽さんは言うまでもないが、美人だ。そんな彼女と顔がズイ、と近付けば、免疫ゼロの僕はオドオドするに決まっている。
「う、うん」
「それじゃあ、早速明日は──」
「あ。明日は無理だよ。陽人君が遊びに来るし」
「は? 中津川? なんでよ。あたしとその男、どっちを優先すべきか分かって言ってるの?」
ただでさえ真っ白な僕のスケジュール帳に書き込まれた数少ない予定である。優先するのは決まって先客である。と言うか、そんな予定があるにもかかわらず揚羽さんを家に泊めることになっているではないか。
明日は一体どんな顔で家にやってくる陽人君を迎え入れるべきか。……ひとまず、それは明日の僕がどうにかしてくれると信じて、今日の僕は今日を終わらせることに尽力しよう。
「週末は二日あるんだし、どっちかでもいいんじゃない、かな」
「ふ~ん。それって、明日も泊めてくれるって、こと?」
「まあ、親はどっちも帰って来ないし……」
「……何の仕事してるのよ。あんたの親は」
「母さんは演奏家で、父さんは……良く分かんないや」
「へえ、意外だわ。なら、あんたも当然音楽は──」
「僕には、才能は無かったからね」
親の話になると、必ずと言っていいほど聞かれることだ。親族を始めとする周囲の人々の期待から落胆へと変わるリアルタイムアタックを常々更新させてきた僕としては今更どう思われようが構わないのだが、どうやら揚羽さんの方にこそ思うところがあったらしい。
「……ごめん」
「どうして揚羽さんが謝るのさ」
「家族のことで何か言われて比較される気持ちは、あたしもよく分かってるつもりだったのに……。今一瞬、自分が一番嫌いな人間たちと同じ考えをしてたから、謝っただけ。別に許さなくてもいいから。謝罪なんて所詮、ただの自己満足だから」
先程までのお転婆お姫様の如き振る舞いが嘘のように鳴りを潜めてしょぼくれた揚羽さんは、いつものメイクによる武装が解かれていることも相俟って物凄くしおらしく見える。言うなれば、そう……とても、可愛く見える。
「……意外と、真面目なんだね」
「何、笑ってんのよ。あたしの中でも譲れないものはあるの。だから」
「いや、悪意を持って笑ってるわけじゃないんだ。ただ、なんて言うか、その……今の揚羽さんは、すごく、人間味があるように見えてね」
「馬鹿にしてんの?」
揚羽さんの第一印象は、美人でかっこいい、と言うものだ。男子と並んでも遜色ない背丈。引き締まった唇から吐かれる低めのハスキーな声。そして何よりも、我が道を往く姿勢。それらが相俟って、僕は彼女に尊敬の眼差しを向けていたのかもしれない。
そんな思いを丸っと抱えて伝えたのだが、彼女は不満げに呟いて目を逸らしてしまうばかり。その姿は、尊敬の眼差しを介して見ていた学校での彼女と比べるべくもないくらい、接しやすい。それがご飯を食べて腹がくちくなったからなのだとすればきっと、彼女はずっと、お腹が空いていたのかもしれないな。
人間、腹が減るとろくな考えも湧かないと聞くし、家出しているとなれば尚のことまともな食事もままならないだろう。そう思うと、揚羽さんを見る目が変わってくる。そう思って勝手に温かい目を向けていると、揚羽さんは「こっち見んな」と言って睨みを利かすのだった。
「それじゃあ、寝室に案内するよ」
会話が途切れたタイミングを見計らって、席を外す作戦を実行に移す。この作戦は温めていたものではなく、たった今思い付いたものであるが。
「ここが弟の部屋で、隣が僕の部屋。揚羽さんは弟の部屋の方を使っていいから。掃除は、ちゃんとされてると思うよ」
「寝床を借りられるだけましだと思ってるし、文句を言うつもりはないから」
「トイレは洗面所の隣ね。喉が渇いたら飲み物は冷蔵庫の中を好きに漁ってくれていいから」
「……そんなに気を許していいわけ? 何か壊されたりとか、盗まれたりとか、普通警戒するでしょ」
「盗むの?」
「いや、言ってみただけだし」
玄関で靴を揃えたり、着の身着のままでソファに寛いだりしない点とか、食事に向き合う姿勢だとか。
揚羽さんの行動の端々から感じる礼儀正しさを目の当たりにしている僕は、口に出さないけれども彼女に対してそれなりの信頼感と言うものを抱いていた。我ながらチョロいと思うが、これで違ったなら僕の見る目が無かったと言うだけの話。
それに、我が家から盗まれて困るような値打ちが付くものは大抵、両親それぞれの部屋にしかない。その二部屋とも施錠されているため、揚羽さんはおろか僕だって入ることは出来ない。
両親の部屋に入ることが出来るのは両親か、月に一度やって来るハウスクリーニングの人だけだ。
「何かあったら、呼んでいいから」
「何かって、何。お化けでも出るの?」
「いや……普通に。コンビニ行きたい、とか」
僕の言葉にほんの僅かに顔を青くさせた揚羽さんを見て思わず口元を緩めてしまうと、彼女は一気に不機嫌さをあらわにして叫んだ。
「…………もう寝るからいい! おやすみ!」
「あ──、おや、すみ……」
バタン、とドアを閉め切った後で、僕は呆然と立ち尽くしてしまった。
なぜなら、「おやすみ」なんて挨拶を交わしたのが、久しぶりだったからだ。最後にシたのは、中学生に上がる前。皐月家にお世話になった最後の日だろうか。
そもそもの話。振り返ってみれば誰かと一緒に食事をすることすら珍しかった。中学生に上がるまではいろ姉の家に厄介になっていたけど、迷惑がられているのが分かるようになってからは、もう一人で大丈夫だと言って世話になる回数を徐々に減らしていった。だからそれこそ、五年振りになるのだろうか。誰かと一緒に夕飯を食べるのも、おやすみと言って別れることも。
言ってみれば、たったそれだけのこと。それこそ、揚羽さんに言えば鼻で笑われるかもしれない。何に感動してるんだ、って。
だけどなんだか、その程度のことが僕には嬉しくて、胸の奥がポカポカするような気分で自分の部屋に戻り、就寝の支度を済ませていく。
「復習も、予習も完璧だ……」
隣に揚羽さんがいるにもかかわらず普段と変わらぬ夜を過ごした僕は、いつも通りデジタル時計が二十二時を示した辺りで眠気を覚える。
陽人君が言うみたいに「俺昨日寝てねーわ」といつか言ってみたいところだが、生憎と健康優良児である僕はこの時間になると睡魔に襲われるのだ。
歯磨きも済ませて、後は布団に入って眠るだけ。
「おやすみ、か」
あくびを一つして布団に入っても、まだ微笑みの消えない感情が尾を引いていて我ながら気持ち悪いとすら思えるが、それだけ嬉しかったのだ。
そうして、いつになくフワフワとした心地のまま、気持ちの良い眠気に誘われていく──かに思えた、その時だった。
「──ねえ」
「ひゃあっ?!」
電気も消えた暗がりの中。枕元に薄らと感じた人の気配に目を向けた僕が見たのは、ドアの向こうから漏れる光に照らされ、暗闇にぼう、と浮かんだ揚羽さんの姿だった。
思わず悲鳴を上げて飛び起きた僕がベッドの端に寄ると、彼女は僕の温もり残るベッドに押しかけて来る。
「……」
「な、な、な。なんで、何も、言わないの、ですか……?」
ジリジリと、無言で迫る彼女。
思わず敬語が飛び出して身構えてしまう僕に対して、揚羽さんは布団の中に滑り込んでくるようにして僕に背を向けてしまう。
「……ベッド、交換して。……あの部屋、何か気持ち悪いから」
「え……? あ、あぁ、うん、いいけど」
「嫌なら、このまま寝させて」
「いや、で、出て行く、から……」
「……うん、ありがと」
暗闇の中、薄ぼんやりと見えた彼女の表情は、とても疲れているように見えた。
自慢では無いが、僕は布団が変わろうとも枕が変わろうとも、何処でも眠れる体質だ。揚羽さんはその逆で、弟の部屋のベッドや枕が合わなかったのかもしれない。そんな疲れた表情の彼女を「嫌だ」と言って追い出すのも、夢現な彼女と同衾するのも憚られ、僕は揚羽さんには触れないよう細心の注意を払って布団から這い出てから、大人しく弟の部屋に向かった。
「……いいや。ソファで寝よう」
しかし、ドアを開いて部屋の中を覗いたところで僕の動きは止まり、そっとドアを閉めた。
もう一度だけ揚羽さんが寝ている僕の部屋に戻ると、弟の部屋と違って殺風景な部屋の光景にギャップを感じつつ、タオルケット一枚を手に取りリビングのソファで横になる。
「おっ。意外といい寝心地、かもしれない」
なんてふざけて言いながら、明日の僕にバトンタッチするのであった。




