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2話

 


 ◇



「ありがとうございました~! ……ふぅ」


 一組見送ったところでまだまだ人気の絶えないカフェの店内は賑やかで、マスターも先程からコーヒーの世話を焼くのに忙しそうである。とは言え、マスターのコーヒーに対する愛情は人に向けるそれ以上で、何かと理由をつけて僕に試飲させるのが最近の楽しみなのだと語っていた。

 僕としては、コーヒーが得意とは言えないためオリジナルブレンドの試飲を勧められるたびに苦い顔をしている。毎回口直しの甘い飲み物の方が楽しみで、マスターの実験に付き合い始めて長いのだが、未だにコーヒーの魅力には気付けていない。

 普段からカフェバイト以外で動かさない表情筋が痛みを訴え始めた頃、見慣れた人物が来客を告げるベルの音と共に入店してくる。


「歩夢ちゃん、お疲れぇ!」

彩春(いろは)さん、お疲れ様です」

「いろ姉って呼んでくれないの……?」

「バイト中は、公私混同しないから」

「呼んでくれないと夕飯は分けてあげませーん」

「はぁ。……いろ姉、早く着替えて来てよ。忙しいから」

「は~い! マスターも、おはようございまーす!」


 爛漫な春を思わせる生命力に満ちた快活な女性は名を、皐月(さつき)彩春(いろは)と言う。

 通称、「いろ姉」だ。


 いろ姉は僕よりもはるかに長いバイト歴を誇る、自称このカフェのバイトリーダーだ。姉、と呼ぶほどの仲である彼女は、僕の従姉に当たる。

 昔からよく面倒を見てもらっていた関係でこのカフェのバイトも紹介してもらった次第。僕はいわゆるコネ。縁故採用である。

 カフェの制服に着替えて来たいろ姉は両手に抱えるほどのタッパーを僕の前に広げてくれる。


「これが茄子の煮びたしね。今回の自信作なの。それで、こっちがマグロのカルパッチョ。マグロが安く手に入ったんだあ! それから、これが冷やし中華ね。歩夢ちゃんの好きな錦糸卵たくさんいれてあるから! 具材と汁はこっちに入ってるから、かけて食べてね。明日タッパー取りに行くから、ちゃんと洗っておくんだよ?」

「うん。ありがとう」


 僕の両親は多忙で──、と言うか、家を避けているきらいがあることから、僕の幼い頃は母さんの妹夫婦のお宅に預けられることが多かった。それが、皐月家である。そこでいろ姉にもお世話なったのだけれど、一人で留守番できるようになってからは迷惑をかけると思って一人で家にいるようにしていた。いわゆる鍵っ子と呼ばれる民族だ。それから滅多に顔を見せに来なくなった僕を心配してか、いろ姉はこうして毎週末、食事を分けてくれるようになった。

 管理栄養士の資格のためだとか、食費は預かっているからとか何とか言って、僕が受け取らざるを得ない環境がいつの間にか出来上がっていたことには驚いたし、頭が下がる思いだ。

 生活能力が平均以下の僕としてはいろ姉の作ってくれる食事はありがたい限りであり、これが無ければ僕の食事は万年鍋パーティである。


「彩春ちゃんが来てくれたし、歩夢君は上がっちゃっていいよ。お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」

「そう言えば、お店の前に──」

「ああ、それはね──」


 時刻は丁度、七時五分前。

 エプロンを脱いで着替えれば、時間もぴったりだ。なんだかんだ言っても、昼下がりから夕方時にかけてお客さんの入りが多かったのは金曜日だからだろう。絶え間ない仕事を前にすっかり忙殺された僕は、何か忘れているような、という感覚を引きずったまま着替えを済ませるのだった。


「歩夢ちゃん……っ!」


 カフェの制服から学校の制服に着替えて更衣室を出るなり、待ち構えていたのは真面目な顔をしたいろ姉。

 教科書を詰め込んだ鞄と、いろ姉特製の料理が入った保冷バッグを提げた僕の両肩を、いろ姉はがっちりと掴んで言った。


「お姉ちゃんは、応援するからね!」

「は?」


 それは更衣室から出た直後の出来事で、しかもいろ姉の表情が真剣そのもの──と言うか何故かちょっと涙ぐんでいるという余りにも突飛な状況に、僕は思わず素っ頓狂な声で疑問符を打つ。

 まるで理解が追い付かない。


「え、何……?」

「いいからいいから。ほら、早く行きなって」

「いや、本当に。なんなの?」

「今度、お姉ちゃんにも紹介してよねっ」

「え、いや、だから……」


 雲を掴むようなやり取りの末、僕は背中を押されるがままに扉にまで追いやられる。後は帰るだけだったから何もおかしくは無いのだが、いろ姉の妙なテンションと、「私は分かってるから」とでも言わんばかりの態度とは裏腹に、当人であるはずの僕が何の心当たりも無いことに首を傾げるばかり。そのクセ、何かを知ったであろういろ姉はお客さんから「すみませーん」と呼ばれ、すっかり接客モードである。僕が着替えていた間に一体何のやり取りが行われたと言うのか、それを確かめるためにマスターに視線を向けると、目が合う。


「……」


 目が合ったマスターは、キラリと星が散るようなウィンクと笑顔を浮かべるだけで、僕の欲しい答えは見つかりそうにない。客席から上がる黄色い悲鳴から逃れるように、僕はカランコロンとベルを鳴らして店を後にするのだった。


「──時間ぴったしじゃん」

「え」

「待ち疲れたし、さっさと案内してよ」

「────」

「こっから近いの? 途中でコンビニ寄るから」

「…………」

「さっきから何、その顔。ムカつくからやめて」

「あ、ご、ごめん」


 店を出てすぐ。

 声を掛けてきたのは、帰ったはずの揚羽さんで。

 僕は思わず瞠目し、口を開け放ち、驚きの余り硬直し続け反応を返せずにいると、彼女の顔に苛立ちが窺えて即座に謝意を示した。


 あの後、大盛りナポリタンとポテトフライ、コーヒーにアイス抹茶ラテを平らげた揚羽さんはしばらくの間スマホを開いてゆっくりしていたかと思えば、店内のテーブルが一つ、また一つと埋まっていくのを尻目に店を後にしたはずだった。

 しかし、どうやら彼女は店先に置かれた待機用の椅子に場所を移しただけだったようで、僕が店を出ると同時にまるで僕を待ち構えていたかの如く立ち上がったのだった。まるでも何も、僕を待っていたのだろう。


 つまり、あの時テーブルで聞こえた「トマトとラセット・バーバンク」の下りは聞き間違いや空耳なんかではなく、正真正銘「泊まらせて」と言ったということになる。


「えぇっ?!」

「っ?! びっ、くりした。……何、急に変な声出して。キモ」

「ご、ごめん」


 揚羽さんのような女性に「キモい」と言われると普通に怖いし、普通に傷付くのだが、今のは正直言って僕が気持ち悪かった。そもそもなんだよ、トマトケチャップとラセット・バーバンクって。誰がポテトフライ頼む時に芋の品種を尋ねるものか。


 と言うよりも、どうして揚羽さんが僕の家に泊まることになったのか。


 冷静さを取り戻すべく、そこに至るまでの経緯だとか流れだとかを精査すべく記憶を辿る。……しかし、事の発端まで遡ったところで、三時間前のカフェでの出来事が蘇るに過ぎず、僕にはどうしてそうなったのかなどまるで考え及ばない。だから潔く聞くしか出来ないのであった。


「その、どうして、急に泊まることに……?」

「どうしてもこうしても、家に帰りたくないから」

「それは、つまり……家出中、ということ?」

「端的に言えば、そう。でも正確に言えば、違う。これは──」


 仕方なく歩きながら尋ねる僕の家までの帰り道。

 前を歩く揚羽さんは、学校でのイメージとは違って見えた。

 教室での僕が孤立なら、揚羽さんは孤高だ。

 彼女の佇まいは、山の王者たる虎の如し。僕はさながら、隅っこで生きるネズミのような存在だ。

 だけど今僕の目に映る揚羽さんの背中は、猛々しさよりもっと、不穏な何かを感じずにはいられなかった。


「──これは、反逆なの」


 不穏さが醸し出す答えは、獰猛な笑みとなって返って来た。


「は、反逆……? 一体、誰に? 何に?」

「家族に、だけど」

「揚羽さんは、家族が嫌いなの?」

「嫌いに決まってるでしょ。嫌いじゃなきゃ、帰る場所を捨てるわけ無いじゃない」


 その笑みも見間違いかと思いたかったが、淡々と語られていく彼女の身の上に僕は踏み込んでよいものなのかと逡巡する。

 家出中。家族が嫌い。

 それだけのキーワードで一体何を察しろと言うのか。


 ──どうして家族が嫌いなのか。


 それを問えるほど僕は揚羽さんを知っているわけでも、寄り添えるほどの仲でもない。それに、彼女もそれを言って聞かせたいわけでも無さそうで。


「家出中、って言うのは分かった。けど、それなら僕じゃなくて、別の……同性の友達とか。それこそ、彼氏さんとか。僕以外に他に、頼むべき相手がいるんじゃない?」


 僕の抱いた疑念の正体は、それだ。


 別に、揚羽さんを家に泊めたくない訳じゃない。泊められない訳でもないし。

 それに、彼女が本当に困っているのなら、同級生として、クラスメイトとして、手を差し伸べるのはやぶさかではない。

 だけど、僕らの間に立ちはだかる最大の問題は、倫理である。

 僕と揚羽さんの関係値で泊めてくれと頼むのは、最早最終手段と言うに相応しい状況だ。なぜなら、それ以前に彼女が頼るべき存在がいるはずだから。大人が信じられないと言うのなら、友人や知人。それこそ、僕にとってのいろ姉のような存在が彼女にも居るかもしれない。もしも自棄になっただけであれば、僕は彼女を拒むのがきっと正しいはず。


 しかし、僕のそんな意見なんかは、足を止めて再度振り向いた揚羽さんの目を見て、そんなものは絵空事、もしくはもうとっくに最終手段が必要な段階なのだと悟らざるを得なかった。


「……あたしを匿ってくれる友達なんか、いない。彼氏だって、とっくに別れた」

「っ」

「あんたが駄目なら、そこらへんのオジサンの家に泊めてもらうから、いいよ──」


 彼女の目は、真っ暗だった。

 希望も絶望も無い、ただの、虚無。

 僕のぽっと出の希死念慮なんか比じゃないくらい死の気配が強く感じられて、「嫌なら、もういい」と言って去ろうとする彼女の手を僕は、衝動的に引き留めてしまう。


「……ぅ、え、っと。その」


 どうして引き留めたかは分からない。考えるより先に体が動いた、と言う奴だ。

 ただ、今ここで引き留めなければ絶対に後悔すると思ったのもまた事実で。だけども咄嗟の行動ゆえに、僕の舌は鞄に入れたままのイヤホンくらい絡まってろくな言葉も出せなかった。


「……何」

「──ご、ご飯! いっぱいもらったんだ。ひ、一人じゃ、食べきれないから、良かったら、一緒に、どうか、なって思った、ん、だけ、ど……」


 掴んだ手を見て驚いた様子を見せながらも、振り払う仕草のない彼女を前にしてようやく口に出来たのは、そんな言葉だった。


「……」


 いろ姉からもらったご飯の量は、育ち盛りの高校生をして食べきれない量がある。それもそのはず。今日と明日の二日分だから。

 だけどもそれを知らない揚羽さんからすれば僕の言い分には正当性があるはず、と踏んで口に出したのだが、よく考えれば彼女は先程ナポリタンの大盛りとポテトを平らげているのだ。ご飯で釣るには彼女の満腹度が邪魔をするだろう。そう思うと、口に出した言葉も尻窄んでいく。


「……だっさい誘い文句。いいから手、放してよ」


 刺すような冷たい目線が向けられる。

 討たれ弱い僕には「ごめんなさい」と謝ることしか出来なくて。

 やはり、どれだけ高級な釣り餌を用意しようと、どれだけ高性能な竿や釣り針があっても、魚が満腹であれば釣り針に引っ掛かることも無い。そもそも魚には満腹中枢があるのかどうか。


 もしここで僕に意気地があれば、きっと彼女にみっともなく縋り付いてでも引き留めるのだろうが、人目のある道端ではノミの心臓である僕には到底そんな真似は出来ない。彼女を引き留めることは出来ずに終わるのだと眉尻を下げて彼女の行く先を見守っていると、揚羽さんは鞄を背負い直して、言った。


「…………さっさと、案内して」

「えっ? いいの……、って、う、うん。ここから、少し歩くから」


 頼りない釣り餌と下手な誘いに、彼女はお情けのごとく釣られてくれた。

 僕が思わず表情を綻ばせると、揚羽さんはバツが悪い様子で顔を背けていた。

 そこからはお互いに無言のまま、先とは前後を交代して道を進んでいく。


 本来であれば学校からバイト先のカフェ、カフェから家までの道程は自転車で動くのが最も効率的なのだが、僕の壊滅的すぎる運動神経の悪さのお陰で、この年になってもまだ自転車に乗れないため、帰路における最高効率を叩き出すことは困難であった。こんなの帰宅部失格だよ、と同じ帰宅部の同士にすら笑われることには慣れていた。


 歴史的快挙とすら思えるほどに運動神経の欠片も無い僕にも出来る運動はどこかに無いだろうか。

 出来る、と言うのは人並みかそれ以上であり、野球をすればボールがブレて見え、フライは疎か、ゴロですら股の下を潜り抜けていく。サッカーをすればボールに躓いて引っ繰り返る。テニスをすればボールが通り過ぎてからラケットを振るし、卓球をすればサーブで試合が終わる。そんな風に、これまで平均的に平均未満の成績を叩き出し続けてきた僕に出来る運動とは一体……、なんてことを考えられるくらいには僕の頭はリラックスしていた。


「……」

「……」


 否、余計なことを考えていなければ、この無言の空気に耐えられなかったのだ。


 見慣れたはずの帰り道なのに足が重い理由は、道中で会話が一切起こらないからだろう。

 道中コンビニに寄ったのだが、その時も揚羽さんには「外で待ってろ」と言われて飼い犬の如く店先で待つだけだった。茜色から夜の青に染まる宵の口の時間。夏の夜の茹だるような蒸し暑さとも、冬の凍えるような寒さとも違う、二季の狭間に到来するこの穏やかな気候の中で見上げる空というのも乙なもので、夜風に吹かれて程良い空腹を感じていると、彼女はコンビニの袋を下げて出てきた。


 時間の割に小さな袋を持って出てきた揚羽さんに何を買ったのか聞くわけにもいかず、僕たちはそのまま街灯が照らす夜道を歩いて帰るのだった。


「着いたよ」

「へぇ……。あんた、結構いいとこ住んでるのね」

「そう、かな?」

「自慢じゃないけど、あたしの家もそれなりだと自負してるつもりだから期待はしてなかったし、ボロッちいアパートでも良いかと思ってたけど、これは良い意味で裏切られたかも」


 それは、褒めているのか貶されているのか。

 帰り道で唯一彼女の口が開いたのが僕の暮らしているマンションを見上げた時、と言うのは正直反応に困る。


 自分の置かれた環境と言うのは、外に出て客観的視点から見なければ分からないものである。だから僕が日々を過ごす3LDKの分譲マンションがどれだけ価値のあるものなのかを、まさかただのクラスメイトが何の理由で、どんな経緯があるかも分からないのに家に泊まることになってそれを知るとは思いもよらなかった。


 この出来事はきっと、僕の人生における数奇な出来事の一つとして晩年に思い出すことだろう。


「お邪魔しまーす」

「あ、あんまり、触らないでね」

「あたし、こう見えても育ちだけは良いから。人ん家の冷蔵庫を勝手に開けるとかそんな無粋な真似はしないし。と言うか、先にシャワー借りていい? 二日くらい、入れてないから」

「……ふ、風呂キャンセル界隈……! 不潔……」

「ハァ?! そんなんじゃないし。露骨に嫌な顔すんなし。……家出中だって言ったでしょ。いつも入ってないわけじゃないから! お風呂に入れていないだけだし……。デリカシー無さすぎでしょ、あんた」

「わ、分かってるよ。すぐにお風呂沸かすから、リビングで待ってて」

「いや、シャワーだけで十分──」


 異性が家に踏み入る、と言う事態でさえ、母親やいろ姉と言った身内を除けば経験のない事態であり、玄関のドアを閉じれば、嗅ぎ慣れない香りにドギマギしていると告げられた信じがたい事実に、僕は「ハハハ、ご冗談を」と言う余裕すらなく驚愕した。……余裕があってもそれが言えたかどうかは怪しいところだが。


 湯船を掃除して給湯器のボタンを押すだけの簡単なお仕事。

 初夏にはまだ早い夏先だけれども、湯船に浸かるのが苦痛とは感じないこの時期。むしろお風呂上がりの外気が心地良く感じられる、長湯には最適な時期とも呼べるこの季節に湯船に入らないなんてもったいない。特に、お風呂は命の洗濯とも呼ばれるほどリラックス出来る場所で、彼女の瞳の暗さがほんの少しでも晴れればいいな、とも思っていた。そして何より、母親譲りの温泉好きの身分としては、お風呂をシャワーだけで済ませるなど言語道断。それは見過ごせないものであった。


「お風呂が湧いたら、入れるから」

「お湯張りをします、って聞こえたから」


 リビングに入ると、彼女はソファに浅く腰を下ろしただけで待っていて、やけに上手な機械音の真似をして言った。


「タオルは用意してあるのを使っていいし、シャンプーもどれ使ってもいいから。あと、入浴剤も好きなの選んでいいからね。温泉の素とかもあるんだ」

「意外。お風呂、好きなんだ?」

「母さんの影響で、ね。と言うより、ずっと聞きたかったんだけど……」

「何」

「──なんで、僕だったの?」


 本来であれば、真っ先に尋ねるべき質問。それをここまで引き摺ってしまったのは、偏に僕の意気地の無さが原因である。自覚があっても踏み込めないからこその意気地なし。僕の意気地の無さは折り紙付きだ。

 とは言え、この問題は棚上げできるものではない。


 自分でも言った通り、僕に頼るのは最終手段だ。

 それこそ、僕ではなくクラスの中心的人物である陽人君や、他のクラスメイトに頼むことでさえ同じくらい最終手段であることに変わりはないが、彼女にはいくつもあったはずの選択肢の中から、どうして僕を選んだのかが分からなかった。

 地味だから、目立たないから、記憶に残らないから、無害だと思われたから……エトセトラ。

 自分で理由を挙げてもキリがないような事態に、僕は直接問うべきだと判断した。そこに踏み切るまでに長い時間を要したわけだが。


 そもそも、高校生とは言え僕らはまだ未成年だ。しかも、未だ情操教育を涵養している最中である。一つ屋根の下で年頃の男女が一緒に居るとなると、間違いが起きる可能性だってある。もちろん、僕にその気はないし、彼女にも無いのは承知の上だ。しかし、その危険性は常に孕んでいると言うことを理解した上で、友人というスタートラインにすら立っていない、言わば赤の他人である僕に声を掛けて来たという行動に対して、僕の社会に適応しない頭では理解が及ばないのである。帰り道で見せた彼女の振る舞いも相俟って、僕は「揚羽美命」という女性が理解できないのであった。

 だからこそ、僕は彼女のことが知りたかった。


「……教室で、聞いたから」

「え?」

「話してたでしょ、教室で。あんたの家に今日は親いない、って。流石にあたしだって、家族揃ってるところに被害者面して邪魔するつもりは無いし。それなりの常識も捨てたつもりだって、無いから」


 確かに、陽人君とそんな話をしたような気がする。

 あれは陽人君が一方的に僕の情報を開示していたとも言えるが。

 それはつまり、今この事態は陽人君の所為だとも言えるわけで。次に会ったら文句の一つでも言ってやろうと意を決するものの、どうせ言えないのは目に見えている。


 倫理観が欠けているだけで、思ったよりも常識人な一面を見せる揚羽さんに呆然としつつ、ただ「都合が良かったから」と言う話を淡々と続ける彼女の言葉に耳を傾ける。


「それで、廊下で駄弁ってた中津川からあんたのバイト先も聞き出してあんたを見つけてから『泊めてくれ』って言ったら、まさか二つ返事で返ってくるんだもの。あの瞬間ばかりはあたしも驚いた」

「いや、あれは。その……」


 言えない。

 あれはただ驚嘆していただけで、言葉の意味を分かっていなかった、だなんて。

 驚いた、と言う揚羽さんより、僕の方が驚いていたと言うことだけは、胸を張って言える。

 しかし、そんな僕の慌てぶりを視界に収めることすらせず、揚羽さんは何もついていない真っ暗な液晶テレビの一点だけを見つめて、「でも」と話し出す。


「本当は、違うの」

「ち、違う?」

「……本当は」


 ぽつりと呟くみたいに吐かれた言葉の重みは、それまでの談笑とは比じゃないくらいの重さがあって。その言葉と共にこちらを向いた彼女の目は、あの時と同様に、暗く、そして濁っていた。


「あんたから、同じ匂いがしたから」

「におい……?」


 玄関での揚羽さんの発言も相俟って背筋にゾッと寒気が走ったのも束の間、彼女は自分の手元に目線を落としながら、僕の核心を突くようなことを吐くのだった。


「心のどこかでずっと、死にたい、消えてなくなりたいとか、そんなことを考えてる匂いがしたから」

「っ!」


 揚羽さんは僕の希死念慮を言い当てても得意げな笑みを浮かべるわけでもなく、さも当然と言った様子を見せる。彼女は、「ここまで言えば分かるでしょ?」と、あくまでも平静なまま、感情を宿さない声音で、静かに告げた。




「──あたしね、死のうと思ってるの」




 冷蔵庫が駆動する音が静かに響くリビングの中。

 彼女のその言葉に、僕の耳は静寂がキンキンとうるさいくらいに聞こえてくる。


 なんの感慨も無く言い放った揚羽さんの言葉に何か返さなければと視線を彷徨わせた刹那。小気味よいミュージックと共に、機械音がこだました。


『お風呂が沸きました』


 僕はただ、洗面所に向かっていく揚羽さんを見送ることしか出来なかった。








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