1話
死にたい、消えてなくなりたい、楽になりたい。
そんな風に考えつくことを、希死念慮や自殺念慮と言うらしい。
かの有名な文豪である太宰や三島。芥川だって常に希死念慮に付き纏われていたと言われている。
文豪とも呼ばれる人と、今を惰性で生きている僕らのようなちっぽけな存在が背負う精神的負荷は比べるべくもないけれど、現代のストレス社会において、もしかすれば希死念慮を抱いたことのない人の方が少ないのではなかろうか。かく言う僕も、日夜繰り返しそんなことを考えている。何せ、僕は今、思春期真っ盛りだ。ホルモンバランスが不安定なことによって生じる情緒の不安定化は避けられず、些細な失敗や微弱な不安から、希死念慮の発生を察知する。
それでも僕は、まだ生きている。
死にたい、消えたい、楽になりたい。
そう思いながらも、生きている。
希死念慮を抱きながらどうして生きているのか。
それは僕にも分からない。
生きていればいいことがある。
そんな風に物事を考えられたらどれだけ楽だろうか。
きっと、僕がまだ生きているのは、ただ死ぬ勇気が無いから。
生きることに勇気は必要ないけれど、死ぬことには勇気がいる。
命を断つ行為は、自分を殺すこと。誰かの命を手にかける時、人はどれだけの勇気がいるのだろうか。もしも勇気がこの目で見えたなら、どんな輪郭をしているだろう。そして、勇気を測る単位はどれになるだろう。グラムか、メートルか、それともマイルか。もしかしたら、ポンド、ヤードか。
──なんて、野暮ったいことを考えていると、気が付けば今日も一日が終わっていた。
「今日はどこ行く?」「部活始まるって! 急げ急げ!」「ねぇ、さっきの授業だけどさ……」「先生、テスト範囲教えて~」「なぁ、あそこ勝てないんだけど、バフの管理どうなってる?」「ああ、あそこは──」
漫然と日々を送る僕の目には、時間が景色のように過ぎ去っていく。耳に残る終礼の挨拶にハッとした頃には、帰りのホームルームすらも終わっているのだった。
さようならの挨拶は義務教育までで、第二次性徴も終えた高校生にもなれば幼児期のような無邪気さを失った僕たちは気恥ずかしさを覚えるようになって誰も担任教師の挨拶には目もくれなくなる。口の中でもごもごと挨拶をする人でさえ誉めそやしの対象になるほどに。そして僕もまた、担任教師の挨拶には会釈を返すだけだった。
「お前ら、挨拶はしっかりしろよ」
「はーい! せんせーさよーなら~、ってどう?」
「ハァ……。まぁ、それでもいいけどよ」
教卓周りで繰り広げられるそんなやり取りを耳にしながら、教科書をカバンに詰め込んでいく。
学校と言う日常から、放課後と言う非日常に移行するこの瞬間。
傾いた陽の光が校舎に差し込み、影を伸ばすこの時間は、学生にとって特別なものだ。
授業中死んだ目をしていた生徒の多くが、その目に輝きを取り戻していく光景と言うべきか。希死念慮とは遠縁な、生き生きとした溌溂さを取り戻す光景を眺めているのが、僕は好きだった。
優等生も不真面目な生徒も、陽の者も陰の者も、それぞれが築き上げたコミュニティの中で自分だけの色を咲かせていく瞬間と言うのは、まさに青春と呼ぶに相応しい光景だと思わないだろうか。
趣味と呼ぶにも烏滸がましい癖のようなものは、当たり前だが誰にも言えないものだ。言えば引かれるのが火を見るよりも明らかだから。
高校生活も二年目に入って、中には後輩に慕われる先輩となった同輩や、新たな友人関係を結び生活に彩りを加えるようになったりと、誰もが新しい環境に順応を果たしていく中、教室の中で青い春に取り残されているのは、ただの傍観者を気取った僕と、一人の女子生徒だけだった。
「揚羽、休んでいた分の課題が溜まりに溜まっているからな。職員室に来てもらうぞ」
「……チッ」
「先生に向かって舌打ちをするな。いいから、ほら、行くぞ」
クラスの誰よりも目立つ派手なメイクと、猫のようにつり上がった目はいつだって怒気を孕んでいながら、纏うのは気怠そうな雰囲気。いわゆる一軍女子のような風貌ながら孤高を気取る彼女は、垢抜けた髪色も相俟って近寄りがたい空気を放つ。その女子生徒の名は、揚羽美命。
彼女はかの有名な、アゲハグループホールディングスの社長令嬢らしい。彼女自身に確認したわけでもないあくまでも噂の一つだが、クラスの誰もがそれを前提で話している。
そんな彼女は、一年次に担任との関係が上手くいかなくて去年一年間、不登校気味だった。
二年次になってからは教室でも頻繁に目にする機会が増えていたが、彼女が誰かと話している姿はほとんど見かけない。
嫌々な雰囲気を隠さずに教師の後をついていく。
僕と彼女を繋ぐ要因は、去年も同じクラスというだけ。だからと言って友人であるわけでもなければまともに話をしたことすらない。
そう。何を隠そう、僕と揚羽さんは他人でしかないのである。
彼女が不登校になった理由も、彼女がどんな人かも僕は知らない。けれど、なぜか不思議と僕の視線は彼女に吸い寄せられてしまう。その理由は、彼女が登校している姿が珍しいから、と言うだけでは無いような気がしていて、不必要に目で追ってしまうのだ。
先生に連れ立されていく彼女の背を見つめていると、ひょっこり、と僕の視界に男子生徒が割り込んできた。
「あ~ゆ~むっ! ……まーた、揚羽さん見てんのか?」
「む、陽人君。見てたわけじゃない。目で追ってただけだよ」
「それを見てるって言うんだろ? ま、一年七組は俺と歩夢と揚羽さんの三人だけだし、気に掛かるのも分からなくはないけどな。ちなみに俺は進級早々に話しかけて無視された後だ。……歩夢は変な女に引っ掛かりそうだから心配だ。彼女が出来たら必ず俺に教えてくれよ! お前の親友として、審査する必要がある。……それでも、揚羽さんはやめといた方がいいぜ。俺たちとあの人じゃあ、住む世界が違う、って話だ」
「そう、かな」
「まあ、それはいいや。歩夢は今日もバイトか?」
「うん、まあ」
「あのカフェだろ? 居心地よかったんだよなあ。また遊びに行ってもいいかマスターに聞いといてよ」
「いつでも来ていいって言って──」
「──陽人~。早く行こうぜー!」
割り込んできたのは、溌溂とした男子生徒。彼の名は、中津川陽人。
クラスでも一人か二人しかいない金色に染めた髪と、端正な顔立ちをした陽人君は、僕の中学からの友人だ。なお、僕に友人と呼べるのは彼一人のみで、それだけで僕の人間性が良く伝わるんじゃないだろうか。
地味な見た目の僕とは正反対な彼。一軍男子のグループ入りを果たした派手な見た目の陽人君であるが、中学生の頃は僕と同じ、パッとしない男子生徒Aに過ぎなかった。だから中学時代の彼とは接しやすかったのだけれども、高校に入るなり彼は輝かしい金色に染めた髪と、長い前髪の下に隠れていた塩顔イケメンに類する持ち前のルックスによって、瞬く間に僕とは違う世界に旅立っていってしまった。
いわゆる、高校デビューと言うやつだ。
高校デビューに成功した彼とは違って、地味、目立たない、記憶に残らない、の三拍子を揃えている僕としては、趣味と呼べるほど崇高なものではないただの暇潰しで手に取っていた読書で意気投合しただけの仲に過ぎない僕を、取り巻く環境が変わった今でもこうしてにこやかに接してくれる彼を邪険にする訳にもいかないのが、徐々にストレスに変わりつつあった。
中津川陽人、と言う人間を一言で表すのなら、「良い奴」。
僕以外のクラスメイト全員に分け隔てなく接する陽人君はそれこそ、物語の主人公みたいな人だ。
中学一年から続く腐れ縁のような関係があるからこうして彼は関わってくれているのだろうが、本来であれば僕と揚羽さんと同じように、僕と彼もまた、違う世界の人間である。そのはずなのに、彼はそうは思ってくれないようで、未だに陽人君は頻繁に僕を気にかけてくれているし、こうして彼らの遊びにも誘ってくれる。高校に入ってからと言うもの、僕がその誘いに乗ったことなんて一度も無いと言うのに。
「それなら、週末遊ぼうぜ。歩夢に見せたいもんがあるんだよ。確か、親御さんいないんだったろ? なら、二人で。な?」
「うん、それなら……。いつもごめん」
彼の誘いを断るのは、これで何度目だろう。
陽人君の友人たちもそう思っているのか、僕にも聞こえるように「あんなやつのどこがいいんだよ」と彼に尋ねている。僕だって、あんなにキラキラした陽人君が僕のどこに何を見出しているか分からない。今だって、「歩夢は面白いんだよ」と言う彼の言葉に、僕が首を傾げるのだった。
「……ハァ」
ただでさえ人目を集めるようになった陽人君に声を掛けられたお陰で僕まで注目の的である。逃げるように教室を飛び出していく。
言ってしまえば、僕は彼が苦手だ。高校デビューを果たした彼の誘いを断るためにバイトを始めたと言っても過言ではないくらい。だからと言って、彼が嫌いな訳ではない。苦手と嫌いは必ずしもイコールで繋がる訳じゃないから。
人は変化を厭う生き物。
些細な変化でさえ神経質になって嫌がる人だっているくらい、人は変化と言うものに敏感だ。それを乗り越え、中学生時代の自分から変わろうとする努力が出来る彼のことは、素直に尊敬に値する。
──じゃあ、その変化を受け入れられなかった僕はどうなるのか。
陽人君を厭うなら、陽人君みたいに変わればいい話だ。
でも、それはしなかった。それは、どうしてか。
現状に満足しているから?
そんな訳はない。死にたいと思えるくらい、日々に鬱屈としている。
答えは単純。僕は変わらなかったんじゃない、変われなかったんだ。
僕にはただ、彼とは違って変わる勇気が無かった。ただ、それだけの話である。
……それでも良いと、初めは思っていた。
僕と陽人君は違う道を歩むんだって、そう思っていた。
だけども、彼は見た目が変わろうと、中身までは変わっていなかった。以前と変わらずに僕と普通に接してくれている。それを嬉しく思うのと同時に、僕にはそれが苦しかった。
大勢の友人に囲まれても尚、僕を気にかけてくれる陽人君。
それはまるで、彼と僕との間に開いた差のよう。
それを見せつけられるたびに、僕は情けないほどの劣等感に苛まれる。そしてそれを彼に伝えられる程の勇気も無ければ、自ら変わる勇気を出した陽人君を、僕のたった一人の友人を尊敬出来るどころか毛嫌いする僕の薄汚い心を自覚させられるたびに、僕は僕自身を嫌いになっていく。
陽人君は……彼は、何も悪くない。あれだけの友人に慕われているんだ。彼が憎めない奴だって言うのは誰が見ても一目瞭然である。
悪いのは、僕の方だ。
彼が良い方向に変わることが出来たとするなら、僕は悪い方向に変わってしまったんだ。僕も、変わらずにはいられなかったんだ。
こんな変化を、僕は望んじゃいなかったけど。
頭を抱えたくなるような自己嫌悪に包まれる中、僕の足は気が付けばバイト先のカフェ【sincerita】に辿り着いていた。
「いらっしゃ──。おぉ、歩夢君。早かったね」
「おはようございます」
カランコロン、と鈴の音を鳴らして扉を潜った先で出迎えてくれたのは、マスター。バイト先の店長である。
老齢ながらも背筋は常にまっすぐで、完璧にセットされた髪の毛は白髪が混じっているのに若々しく、目元に刻まれた皺は大樹の年輪かの如くマスターの人生の深さを思わせる。高い鼻梁と、突き出た眉頭はまるで欧米人を思わせる彫りの深い美形。以前に話の流れで若い頃の写真を見せてもらったことがあるが、テレビで見る芸能人や俳優なんかよりよっぽどイケているのが、このカフェ【sincerita】のマスターである。いわゆる、イケオジという奴だ。
カフェのエプロン姿も画になるが、これがスーツ姿にでもなれば、スラッとした手足も相俟ってそれこそ、街ゆく人々の目を惹き付けて止まないかもしれない。同性の僕からみてもそう思うように、このカフェの客の何割かは、マスター目当てのマダムが多かった。
「それじゃあ、いつも通りよろしくね。私は裏で仕込みをしてるから」
「はい」
「いやあ、歩夢君がいてくれると安心だよ。注文入ったら教えてね」
「今日は、忙しくなりそうですか」
「いやあ、どうだろう。金曜日だからね、いつもより多めに仕込んでおかないと」
それじゃあ、と言ってマスターは裏の厨房に向かっていく。
ここは昼間の時間帯はカフェとして営業しているが、夜はダイナー兼バーのような雰囲気に様変わりするのだ。そのため、マスターは未成年の僕を「教育に悪いからね」と言って夜の時間帯に働かせてはくれない。
ここはコーヒーや紅茶と言ったカフェメニューよりも、噂が噂を呼ぶように広まっていったマスターお手製のランチメニューやお酒に合うディナーの方が遥かに売り上げが良い。そのせいか、本分であるはずの昼下がり、カフェの時間帯はホールスタッフを一人雇い入れるだけでマスターが仕込みに集中できるくらい、暇なのであった。
「よしっ、頑張るか」
そんなでも、この世界の誰か一人にでも必要とされているという実感を得ると、ここに来るまでに抱いていた自己嫌悪から連なる希死念慮も薄れていく。承認欲求は希死念慮の大敵。承認欲求は希死念慮に効く特効薬である。僕にとって希死念慮とは、不安や恐怖が塊となって襲い来る代わりに、誰かに必要とされたり、求められたりすることで簡単に代替できる感情。言ってしまえば、その程度なのだ。
死にたいと思っていても死ねないのには、希死念慮の希薄さが原因の一つなのかもしれない。
憂さを晴らすようにバイトに精を出す僕の元にこの時間、案の定と喜ぶべきか否かは判断できないが、来客はゼロであった。
マスター目当てのマダムたちは帰った後なので夜の営業に向けて店内の清掃に張り切っていると、カランコロン、と来客を示す鈴の音が突如として鳴り響いた。
「いらっしゃい、ま……せ」
愛想よく、溌溂に。
それがアルバイトを始めて一番最初に教わった接客業のいろはであり、箒を片手に努めて明るく歓迎の呪文を唱えて振り向いた途端、僕の表情は凍りついてしまった。
なぜならば振り向いた先、カフェのドアを潜ってやって来たのは、この世界全てを憎んでいるかのような目をした、揚羽さんだったから。
彼女は僕の表情が固まったのを一目で見抜くとあからさまに不機嫌な様子で、「やってるの?」とだけ口にした。僕は咄嗟に表情を切り替え、「営業中です」と頷き声を掛けると、股下一メートルの超絶スタイルの持ち主にしか地に足を付けて座れないカフェの椅子に彼女を導く。
そも、僕の本業はこっちである。掃除や片付けなんかは本業をサポートするための後方支援に過ぎないのだから。
「こちら、メニューになります」
「……おすすめは」
「今の時期でしたらアイスコーヒーやラテなんかが人気です。若いお客様には抹茶ラテのアイスなんかも人気ですよ」
「へぇ、美味しそう。じゃあ、抹茶ラテ。アイスで」
「かしこまりました。マスター」
接客業とは、言うなれば定型文での勝負である。
店ごとの定型文を覚えるまでが困難で、覚えてしまえばメニューと言う名のカンニングペーパーを見ながら穴埋め問題を解くかの如く当てはめていけばいいだけだ。そこにある程度愛想の良さが上乗せされれば、後はお客さんが勝手に選んでくれる。もちろんこれは接客業としては及第点。お客様の顔を見て、反応を窺って、相手の欲している品を宛がってこそ、伝説のウエイトレスと呼ばれるのだろうが、僕はそれになりたいわけではない。だから僕はホールスタッフとして最低限の質を保証し、お客様を不快にさせない接客を心がけるのが課せられた使命であるし、そこにこそ給料が発生するというものだ。
後はマスターに「抹茶ラテ、アイスで」と注文を通し、完成した品を運ぶだけで僕の役目はお終いだ。
「彼女、歩夢君のガールフレンドかい?」
「違います。どこどうを見たらそう見えるんですか? ただの、クラスメイトですよ」
「歩夢君の顔色が珍しく変わったからね」
「……持っていきますよ」
「よろしくね。掃除が終わったらゆっくりしてくれて構わないから」
厨房から見ていたのか、目敏いマスターに「歩夢君にようやく春が来たかと思ったのに」、と何故かがっくりと肩を落としたマスターを他所に抹茶ラテを届けに行く。
このカフェは、僕らの通う高校から近いわけではない。かと言って、遠すぎるわけでもない距離にあるおかげか、僕のバイト中、うちの制服を見かけることはゼロでは無かった。これまでも何度かこの時間帯にうちの高校の生徒を接客したことはあった中で、一度もマスターにそんなことを言われた覚えは無かった。
だと言うのに今回はそれらしいやり取りをして見せた訳でもないのに裏の厨房から遠巻きに見ていただけに過ぎないはずのマスターが、彼女の来店時に見せた僕のほんの些細な反応を見て取ったのだとすれば、脱帽する他無い。
相変わらず、人のことを良く見ている人である。
「お待たせしました」
「……」
この時間帯の唯一のお客様である揚羽さんに注文の品を届けたのだが、なぜか揚羽さんは届いた抹茶ラテではなく、僕を見つめてくる。
「……あ、あの。何か?」
「……」
前言撤回。
それは「見つめる」、なんて生易しい表現では収まったりしない。彼女は眼光だけで人を射殺さんばかりに睥睨してきて、僕はまるで蛇に睨まれた蛙がごとく体を硬直させてしまう。蛙化現象だ。いや、違うか。
果たして、彼女を招き入れてから抹茶ラテを運んでくるこの束の間で、僕は一体どんな粗相を犯して目の前の彼女からどれだけの不興を買ってしまったのだろうか。睨まれ、不安と恐怖が綯い交ぜになった感情に支配された僕は、まるで判決を言い渡される罪人のような気持で彼女の次の言葉を待った。
「……」
しかし、彼女は一向に口を開く様子はなく、ただただ双眸が僕を射貫く。その間、僕の目は右に左にと彷徨い続けており、かと言って僕の方から口を開くわけにもいかず、カフェの振り子時計が時を刻む音だけが僕と揚羽さんの間に流れていく。
その時間は一分か、それとも五分か。いや、実際は三十秒と経っていないかもしれない時の中で、アイス抹茶ラテの氷がカラン、と小気味よい音を立てて崩れると同時に、揚羽さんは静かに口を開いた。
「……今日、あんたの家に泊まらせてよ」
「は、はい……。────え?」
「あと、ナポリタン大盛りと、ポテトフライ」
「か、かしこまりました」
なんだ、追加の注文か。とホッと息を吐いて胸を撫で下ろし、マスターに注文を通す。マスターの小気味よい返事と共に、炎と油が弾ける音が厨房から聞こえてくる。
揚羽さんはあくまでも客だ。そもそも教室でも僕を意識したことなんて無さそうな彼女が、僕を見て何か言うようなことがあるとは思えない。
それがまさか、「家に泊まらせろ」、なんて彼女が言うわけがないのだ。僕の聞き間違いに違いない。そのはず……、なのに。
どうしてか注文の前後と全くと言っていいほど文脈の流れが合わない言葉に、僕はこの短い期間で何らかの記憶違いを発症したのかとすら思えてくる。
「あ、あの……」
「何?」
後ろでケチャップが焼き付ける音を聞きながら、恐る恐ると言った様子で彼女の言葉の真意を探ろうと試みる。
しかし、そこで問題が発生する。
もしも聞こえた空耳が本当に聞き間違いだとするなら、僕は突如として「泊まらせてくれってどういう意味か」と尋ねる意味不明な店員と化す。そしてそれはもれなく揚羽さんの不興を買うに加えて、このカフェの評判を落とすことに繋がってしまう。それは僕の望むところでは無い。このカフェは僕の唯一の居場所と言ってもいいような大切な場所なのだ。居場所を失うのと天秤で計れるほど、先の言葉の真意は僕にとって重大ではない。即ち、ただの聞き間違いで済ませるべきだと脳裏で答えが出される。
そう、あれは単なる聞き間違い。
ナポリタンにポテトを頼んだと言うことはきっと、「トマトとラセット・バーバンクでしょ?」、とかなんとか。彼女の食へのこだわりを感じさせるようなそんな感じの質問を、僕の頭が勝手に補完して変なニュアンスを持たせてしまったのだ。ちなみに使っているケチャップは少しお高めの濃厚なやつで、ポテトは冷凍の業務用だ。じゃがいもの品種なんて知る由もない。
一年間同じクラスだったとはいえ、ほぼ関わりの無かったクラスメイトに対してあまりにも不埒な考えを浮かべたことに、もう一人の僕が罪悪感と言う名のジャブのラッシュを放ち、自己嫌悪と言う名のフックで本体の僕はKO寸前であった。
「……」
自己回顧に夢中になった僕がすっかり黙り込んでしまったことで揚羽さんは訝しみ、視線がより強く鋭くなる。僕の方から話し掛けておいて黙り込むなんて増々不審者がられるのは当然として、彼女に問うべき内容は僕の中ですっかり解決へと辿り着き昇華されてしまったため、舌が迷子のように口の中を彷徨う。
あと、えっと、その、と真っ新な伝票に視線を落としながらようやく吐き出せたのは、いわゆる定型文であった。
「──食後のお飲み物はどうされますか。コーヒーと紅茶から選べますが」
このカフェでは食事メニューに通常のドリンクサイズより小ぶりなカップで、いわゆるお口直しとしてドリンクが提供される。それを思い出して咄嗟に不審者からただの店員に印象操作を施すことができ、内心で額に浮かんだ汗を拭う。
やはり定型文。接客業は定型文が店員の命を救ってくれるのだ。
僕のカフェ店員としてのスキルをこれでもかと発揮した接客態度に揚羽さんも納得してくれたのか、怪訝な眼差しの解除に成功する。
メニューに目線を落として悩む素振りを見せる綺麗な横顔を待つこと数秒、揚羽さんは「コーヒー、ミルクと砂糖多めで」と注文されるのだった。
「お待たせしました」
うちの人気一位、二位を競うナポリタンは、昔懐かしい銀皿で提供され、上にオムレツのような卵が乗っているのが特徴である。僕もよく賄いでマスターに作ってもらうことがあるが、僕はこれより美味しいナポリタンを知らない。この味にきっと揚羽さんも驚くことだろう、なんて僕が作った訳でもないのに胸を張る自分が虚しく思えて腹が減る。後はただマスターが頃合いを見計らって淹れてくれるコーヒーを運ぶだけで、僕のやることはもう無い。
そう思って、揚羽さんから二つ間を開けて椅子に腰掛ける。
礼儀正しく「いただきます」と手を合わせる揚羽さんの姿を見たのを最後にぼんやりと夕陽に染まっていく街が映し出されたカフェの入り口を眺めていると、思いもよらぬ方向から声が掛かった。
「……バイト、何時に終わるの」
「えっ?」
「だから、バイトは何時に終わるか、って聞いてんの」
「えっと、一応、七時まで……だけど」
このカフェが忙しくなるのは、平日は七時以降だ。
その頃になればマスターも仕込みを終えてカウンターに立つし、次のシフトのバイトさんがやって来る。今日は確かあの人が……、なんて考えていると、揚羽さんは手に持ったフォークでオムレツを割りながら言った。
「そう。じゃあ、待ってるから」
「え……?」
何やら風向きの変わった気配に立ち向かうには、僕の持ち得る定型文と言う名の銅の剣では太刀打ちできなさそうだ。
所詮、定型文はあくまでも初期装備に過ぎず、経験を積んで装備を強化しなければならないのだが、僕が持っている接客業における共用通貨である『コミュ力』では銅の剣より上は手が出せない。それはつまり、敗北が必至。即ち負けイベントであり、僕は力無く一部始終を見守っていたであろうマスターへと振り返った。
「──っ」
振り返った先、同性ですらも見蕩れるほどに美しく整った顔面を持つマスターは、惚れ惚れするほどに良い笑顔を浮かべ、サムズアップをした後、ウィンクされる。
並の一般客であれば卒倒しかねないファンサービスの嵐に、僕は無言で困った表情を湛えるばかり。
解決策の一つももらえない状況で、三度カランコロンと鈴の音が響いて来客を示す。
俄かに目を輝かせてナポリタンを頬張る揚羽さんを横目に、僕は仕事に意識の大半を割り当てることで問題の先送りを行うことしか出来ない。
この状況、僕は、あまりにも無力だった。
評価と感想お待ちしています。




