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28話

 



 ◇




 揚羽さんが泣き止んだのは、それから十分ほど経ってからの事だった。

 人の感情のピークは六秒しか保たないと言うが、揚羽さんは常人の百倍もの時間、感情を炸裂させ続けた。

 それだけ彼女の中には凝縮された感情の束が解放する場がなく積もり積もっていたのだろう。


 いつの間にか僕たちは二人の間には拳一つの隙間すらなくなっていて。

 その距離は、屋上に吹きつける風から互いを守るように近かった。


「……本当は、もっと早く謝りたかった。会って、ちゃんと、謝りたかったの」


 揚羽さんは泣き腫らした目元を伏せるようにして手に持ったハンカチを固く握る。彼女の華奢な肩が落ち込む様子を見れば、彼女の胸中に渦巻く感情が手に取るように分かる。同時に、互いが触れ合う箇所から流れ込んでくる自責の念は、とりわけ濃いように感じ取れる。


 実を言うと、揚羽さんが自殺未遂を起こしてから学校に復帰するまでの間、僕は彼女の行方を知らなかった訳ではない。

 その点で言えば、彼女の自責感情を解消するためには僕の方から会いに行くべきだったとも言えるのだが、そこは告白同様、勇気が足りなかったのだ。


 だけど、揚羽さんがこんなにも重い肩の荷を背負っていると知らず、それなら後先考えずに動くべきだったと、僕の中では罪悪感と共に後悔の念が押し寄せてくる。もちろん、後悔先に立たずの言葉の通り、今となっては遅い感情であるが。


「退院した後、帰る家が無かったあたしに帰る家を提供してくれたのは、おばあちゃんだった──」


 揚羽さんが病院から退院した後、彼女の身元を引き受けたのは、彼女の祖母、八重子さん。

 婚約破棄に憤慨していた父親はもちろんのこと、彼女に無関心である母親も姉も、揚羽さんの心の拠り所にはなろうとしなかった。

 母親と姉に関しては、揚羽さんが自殺未遂を起こしたことすら知ろうとしなかったらしい。そんな悍ましい家庭環境の中で唯一彼女に手を差し伸べられるのは八重子さんだけであり、揚羽さんは迎えに待機していた八重子さんのコンシェルジュである山崎さんに連れられて、八重子さん所有のマンションに連れて行かれたのだそう。

 生活必需品の全てが揃ったその場所で、揚羽さんは昨日まで軟禁生活を送っていたらしい。軟禁、とは言葉の綾であり、実際は八重子さんが揚羽さんの身の安全を確保し終えるまで安全な場所で守られていたのだが。


 揚羽さんが自殺未遂を図ったと聞いた八重子さんは、父親のように自殺を図った彼女を本当の意味で非難するよりも先に原因を探った。そしてそれが父親の言動を始めとする家庭環境にあると知って一抹の希望も潰え心の底から失望したと同時に、このままではいけないと踏み切ったのだそう。むしろ、遅かったくらいだ、と揚羽さんは謝られたらしい。結果、揚羽さんを守るために八重子さんは「アゲハグループ」の筆頭株主である地位を生かして取締役社長である揚羽光秀を解任。それに踏み切ったのには娘を甚振った、などという経営に関係のない家庭事情が理由だけでなく、娘を差し出さなければ経営が傾く程の失態を隠蔽しようとした、などという退陣に追い込むに相応しい理由が探せば出るわ出るわで、八重子さんは自分の息子ながら情けない、と眉間を押さえて言っていた。


 そして、こうして揚羽さんが無事に登校できたと言う事は近々、大々的に揚羽さんの父親が辞職と言う、市場が揺れるであろうニュースが世間を騒がすこととなるのだろう。


「──それで、おばあちゃんが色々やってくれたお陰で、ようやく登校できるようになったの」

「そっか」

「……ごめん。言い訳みたいなことを言ってるって、自分でも分かってる。でも、歩夢には、誤解されたくなくて……。連絡だって本当はしたかったけど、どうしても……、できなくて。謝るなら、会ってちゃんと言わなきゃ、って自分に言い聞かせてて……だから」

「うん、うん……。分かってる。分かってるよ。ちゃんと、揚羽さんの気持ちは、伝わってる」

「でも……!」


 一度遠慮なく泣いたせいか、それともお陰か、すっかり心が弱り切った様子の揚羽さんに、僕は打ち明ける。今し方彼女が話した内容も、どうして僕が天下の「アゲハグループ」のそんな内々の事情を知っている理由を。


「……全部、知っているんだ。全部、八重子さんに教えてもらったから」

「おばあちゃんに?」


 こちらを向いた揚羽さんの目に、失望だとか幻滅だとか、とにかくそんな色が宿っていないことに胸を撫で下ろす。相変わらず、揚羽さんと言えども他人を信用できない性格が発揮されるのはそろそろ自分でも嫌になってくる。


 彼女の瞳に見蕩れて腫れぼったい目元さえも潤んだ瞳を輝かせる要素の一つでしかないと知り、僕は一つ頷いてから言葉を続けた。


「正直、これを話すのは恥ずかしいんだけど」

「聞かせて。おばあちゃんと、何を話したの?」


 実は、と口火を切って話し出す内容は、その日が揚羽さんの退院日だと知らずに八重子さんに会いに行った日の話だ。


 以前二人で赴いた、リゾートホテルばりの老人ホーム。当然、連絡先も知らない八重子さんに話を通してなどおらず、完全なるアポなしでの突撃だった。自分にそんな行動力があったのかと驚くと同時に、地上四十階建てと天高くそびえ立つ風貌に気圧されたせいか、常識知らずなこの行動に我に返って引き返そうとした僕を引き留めたのは、意外にも八重子さんのヘルパー兼コンシェルジュの山崎さんだった。

 僕と遭遇したのは、時間帯的にも揚羽さんをマンションに送り届けた後だったのだろう。山崎さんは僕の訪問を訝しむことなく八重子さんの元まで案内してくれた。


『──美命さんを、助けてください。お願いします!』


 八重子さんに会って僕が一番にしたことは、決死の懇願だった。

 膝をつき、指先を揃えて頭を地面に擦り付ける。

 揚羽さんを助けるために僕に出来たことは、揚羽さんを守ることができる大人を頼ることしか無かった。


 悔しいことに、僕には揚羽さんをあの家庭から、あの父親から引き剥がす術を何一つ持ち得ていなかった。むしろ、一体何処にたかだか十七歳の子供が他所様の家庭事情に首を突っ込んで、あまつさえその根幹を揺るがせると言うのか。ましてや相手は超一流会社の社長家族だ。僕に出来ることなんて揚羽さんを連れ出すという犯罪行為に手を染めることくらいだ。それも、この現代社会では逃避行など上手くいくはずもないことは分かり切っていて。それに何より、それでは彼女の根本的な問題を解決できない。親とは、ただ親としているだけで子の縛りになり得る。それが僕たちのように未成年であれば、尚更。


 だから僕は、彼女を縛る鎖を断ち切ってあげたかった。

 どれだけみっともなくても、どれだけ情けなくても、プライドなんかかなぐり捨てて人を頼る。


 僕に出来るのはそれだけだった。

 揚羽さんがもう二度と自分を縛る鎖で傷つかないようにという、一心のみで。


 真っ当な手段で揚羽さんを助けられるのは、血の繋がりを持つ八重子さんだけだ。揚羽さんをあの家庭から救い出すことが出来るのは八重子さんだけだからこそ、断られるわけにはいかなかった。もし仮に助ける代わりに、とどんな要求をされようとも応えるつもりでいた。

 だからこそ、杖の先端で小突かれながら頭上から帰って来た答えに間抜け面を披露する羽目になってしまったのだが。


『もう、とっくに動いているさ。可愛い末の孫娘のことだ。それに何より、あたしとしてもこれ以上は見過ごせないものだったからね』


 八重子さんはとっくに動いていた。

 僕が頭を下げるまでもなく、一大の決心をする必要もなく、八重子さんは揚羽さんのために動いてくれていた。

 ただその事実だけで、僕はホッと胸を撫で下ろし、感謝の言葉と共に泣きじゃくった。


『そうさな。確かに老骨に鞭打って働いた報酬をあの子に請求する訳にもいかないし、働いた分の報酬はあんたからせしめてやろう。あたしの要求は一つだけさ。あの子を……美命を、幸せにしてやっておくれ』

『それは……』

『今更、それは無理、なんて言いっこなしだよ。自信が無いのなら、あの子を振り向かせて繋ぎ止めておくだけの自信をつけな。それが、あたしからの唯一の要求だ。それでも足りない、ってンなら、出来るなら墓前じゃなく、この目であの子と二人の晴れ舞台を見させておくれ──』


 それから、何故か連絡先を交換させられた山崎さんから八重子さんによる進捗が頻繁に送られてきてつい最近……、と言うか、昨日だ。昨日の夜に、「明日から登校させます」とメッセージが送られてきた次第というわけだ。


「…………んふ」

「あ、揚羽さん?」


 僕の話しを聞き終えた揚羽さんは声を押し殺すようにして、笑った。

 思わず漏れてしまった、と言うような小さな笑い声は、けれど嘲るようなものでは無くて。

 ではどんな笑い声だったのかと思い彼女の顔を覗き込むと、そこには必死になって弛む口元を抑える揚羽さんの尊顔があった。


「ち、違うの。可笑しかったからじゃなくて、これは、その……、嬉しくて」


 そう言って、頬をりんごみたいに赤く染めた、見たことも無いような気恥ずかしさに満ちた彼女の微笑は、とにかく愛らしいものだった。

 お陰で、緩む口元が僕の方にまで伝播してきてしまったではないか。


「──こほん」


 二人の間に漂い始めた空気を払うように我に返った揚羽さんが咳払いを一つして居住まいを正す。それに釣られて僕も居住まいを正すと、屋上のコンクリートの上で膝を突き合わす二人、という、揚羽さんが感極まって中断された劇の再演とばかりに目を合わす。けれどそこには、先のような糸が張り詰めたような緊張はなく、エピローグへと向かって歩き出す緩やかな空気が漂っていた。


「えっ、と。それで、その……。返事、なんだけど」

「はい」

「……なんでそんな余裕ある顔してるの」

「なんで、って。僕はもう、伝えるべき事は伝えたからさ。後はもう、野となれ山となれ、だよ」


 告白を終えた今の僕は、言うなれば無敵である。

 何も怖いものなんてない。その一大決心へと踏み切る勢いが、内申点優等生の僕を授業のボイコットにすら踏み切らせたのだろう。放課後は反省文コースだろうが、こうして揚羽さんときちんと向き合える時間が作り出せた代償としては安いくらいだろう。

 そしてここからは言わば、エキシビション。答えを待つ間に僕が出来ることは何も無いのだから。祈ったところで告白の答えは過去の自分の行いが全てだ。


 だと言うのに、すぅはぁ、と深呼吸をして緊張に一区切りつける揚羽さんを見て自然と僕の体に緊張が行き渡る。


 その瞬間。まるで世界が空気を読んだみたいに屋上に吹き付けていた風が止み、揚羽さんの口から何も妨げるものがない言葉が吐かれるのだった。






「……好き。大好き。あたしは、歩夢の事が大好き。こんな気持ちになったのは、歩夢が、初めて。だから、その……、こんなあたしだけど、ずっと一緒に居て下さい」






 それは、告白の返事。


 甘く、そして熱い言葉は、互いの感情を瞬く間に沸騰させる。


 彼女が口にしたのは、返答と言うには火傷しそうな程に熱が込められている告白だった。彼女の思いの丈が詰まったそれは、いとも容易く僕の感情を極めさせる。


 それでも言葉を失う前にと、返事を紡いだ。


「こちらこそ……、よろしく、お願いします」

「~~~~~~っ!」


 揚羽さんは喜びを噛み締めながら、うんうん、と頷き繰り返し、目線をあっちにキョロキョロ、こっちにキョロキョロと彷徨わせては僕と目が合えば嬉しそうに頬を弛ませる。正しく、幸せいっぱい、と言った様子に釣られて僕も笑う。


「ご機嫌だね」

「……いいでしょ、別に。だって、ここ一週間、ずっと無理だと思ってたし。本当なら謝った後で、あたしは自分のこの気持ちだってこのまま黙っているつもりだったから」

「僕の方が、黙っていられなかった訳だ」

「それに、好きな人に好きって言ってもらえるのが、こんなに嬉しいなんて、思ってもみなかったし……」


 ニヨニヨ、と表現するに相応しい、教室での彼女を思うと想像もしえない弛み切った表情を前にした僕は、お互いの想いが交わったことへの余韻もさることながら、伝えるべきことがもう一つあることを告げる。


「……揚羽さんばかりが謝ってるけど、僕も、君に謝らなくちゃいけないことがある」


 真摯な眼差しでそう訴えると、揚羽さんは怯えた様子で身を引く。

 彼女が何を危惧したかは分からないが、安心させるために「込み入った話じゃないけど」、と加えて、告白の場を再度整える。


 ……僕がこれからするのは、告解とも言うべきものだろうか。罪の告白。懺悔にも似た何かである。


 本来なら、今ここで言うべきじゃないのかもしれない。この甘くて優しく包み込んでくれる空気に浸っていたい。


 だけどこの機を逃したら僕は一生言えないかもしれないから、もう一つの告白を決意した。


「僕は、君に嘘を吐いていたんだ」

「嘘……?」

「僕と君を結んだ、希死念慮。あの作文にも書いたけど、僕はずっと死にたかったし、揚羽さんも死のうとしていた。だからきっと、僕らは引き合ったのかもしれない」

「うん……」


 ロマンチストと言われようとも、そうして出来た繋がりが僕を僕らしくない生き方へと導いてくれたのは紛れもない事実である。僕らの根幹にあるその繋がりを否定することなど、何人たりとて許せはしない。だからこそ、僕の中に芽生えた一つの可能性。作文を書くに至り、僕らを結び合わせたきっかけを否定するような事実を見つけてしまったのだ。


 もちろん、このまま黙って見ない振りをすれば、今まで通り、揚羽さんと新たな関係を築いて行けるだろう。だけどそれは、不誠実だ。自分自身のみならず、揚羽さんにも嘘を吐いて生きることになる関係は、きっとどこかで限界を迎えるだろう。だから僕は、告解する。不安げに揺れる彼女の瞳を見据え、言い淀む口に気力を込め、打ち明けるのだった。




「……僕は本当は、死にたかったわけじゃないんだ。ずっと勘違いしてたんだ。だから揚羽さんと一緒に行っても死ぬ気は起きなかったし、わざと遠ざけようとしてた。今思うと、真剣に悩んでいた揚羽さんに対して、凄く失礼だったと思う。だから……、ごめんなさい。僕はずっと、君を騙していたんだ」




 僕の懺悔を聞き届けた揚羽さんの顔は、見えない。


 その様子に僕の脳内には瞬間的に複数の危惧が流れ過ぎていくが、僕の思考が悪い方向へと流れていく前に、揚羽さんは溜めに溜めた深い溜め息を吐いた。




「はぁ~~~~~~~~~っ!」



 彼女の跳ね上がっていた肩も、膨らんでいた風船がしぼんでしまったかの如く、驚くべき撫で肩へと変貌してしまっているではないか。


「あ、揚羽さん?」

「なんだそんなことか、ってホッとしただけ。歩夢ってばほんと、真面目過ぎるし優し過ぎるよ。……そういうとこが、好きなんだけどさ。それに、あんだけもったいぶるから、てっきり、告白も全部嘘でした、とかかと思って、警戒しちゃったじゃない」

「告白も、僕が君のことを好きなのも全部嘘じゃない。紛れもない本心だし、事実だよ。でも僕はずっと君を騙していたわけで、謝らないのは違うなって思って……」

「そう、そうだよね。もし全部嘘でした、とか言われたら、あたし……今すぐあんたを殺してあたしも死んでたかもしれない」


 冗談めかして笑う揚羽さんだが、その目だけは本物だった。


 覗き込めばどこまでも落ちて行きそうな程に深い黒。だけど僕はもう、とっくに揚羽さんと言う魅力の底にいる。そこから抜け出すつもりも、逃げるつもりも毛頭ない僕にしてみれば、そんな彼女に物怖じする必要などなかった。


「ふふ。死ぬ時は一緒だね」

「……変態っぽい」

「お互い、変わり者に愛されて大変かもね」


 見つめ合って恋をして、また笑う。

 この瞬間だけは、冬の寒さも感じられなかった。


「それで。あんたは何を勘違いしていたの?」

「ええと……。僕は、死にたかったわけじゃない。いつ()()()()()()()、って思っていたんだ」

「……それって、何が違うの?」

「全然違うよ。追い詰められているわけでもないのに死にたいなんて、それは生への冒涜だから。要するに、僕は全てを諦めていたんだ。生きることも、死ぬことも。もしかしたら、死ぬきっかけを欲していたんだろうけど、死ぬ理由なんて早々転がり込んでこない。僕はただ、毎日を無気力に生きていただけだったのさ」

「……どうしてそれに気付いたのか、聞いてもいい?」

「そのことに気付いたのは、有生と……、弟と、向き合わなくちゃいけなくなったから」

「弟──、あぁ、あの部屋の」


 文字には、自分が映る。

 僕が執拗に避けてきた、自分自身との対話が文章に宿る。


 今回の作文を書くに当たって僕がまずしたことは、有生の墓参りだった。


 有生が死んで十年以上もの時間が経って初めて墓参りに行こうとした僕を、母は詰った。そもそも、母さんと口を利いたのも数年ぶりだった。第一声で母さんが何よりも大切にする有生の墓参りに行きたい、だなんて虫の良い言葉に母さんが激憤するのも無理はない話だろう。母さんの中に土足で踏み入ったようなものだから。親しき中にも礼儀あり。親しくなければ尚のこと、礼儀はあって当たり前、という語る必要の無い常識。それを失したのは僕の失態である。だけども僕は、諦めなかった。諦められなかった。

 だから次に頼ったのは、父だ。偶然と言うべきか、幸運と言うべきか。母さんが激昂した夜のうちに父さんは帰って来た。母さん以上に最後に口を利いたのはいつだったか思い出せないほどに記憶の薄れた父さんは、僕の記憶にある顔よりも十や二十老いて見えた。それでも父さんは僕の頼みを聞いて、僕に聞こえないような小さな声で「……大きくなったな」とだけ呟いていた。


 そんな一悶着の後でようやく有生の墓の前にやって来た。墓は細かく手入れされていて、供えられた花も枯れてはいなかった。……実を言うと、墓の前で手を合わせて有生と何を話したかは、あまり覚えていない。ただ分かっていることは一つあった。僕が、死にたがっているのではなく、いつ死んでもいいと思って生きてきたんだと、弟の墓の前に立って初めて、思い知らされた。僕に纏わり付いていた希死念慮は、現実味を持たせるためだけの僕の妄想。死にたいなんて思ってもいなかったのだ。


 ──下らない嘘は自分の価値を下げる。


 十年以上にわたって吐き続けた嘘は、果たして僕の価値をどれだけ下げたものか。僕の価値など、とうの昔に底値を付いていることだろう。


 そんな情けない兄の姿を見て、有生は何を思っただろう。

 十年以上も自分と向き合おうとしてこなかった不甲斐ない兄を見て、なんと言っただろう。

 生前と同じように、「のろま」とか、「バカ」とか、きっとそんな風に悪態を吐いているに違いない。


 有生の墓参りに行ったのは、過去の清算という意味だけではない。

 これは、僕自身と向き合うために必要なプロセスだった。


 有生が死んだ日、僕の中で全ては静止していたから。


 自分と向き合うために、そして何よりも揚羽さんと向き合うためには、これ以上自分に嘘を吐き続けているわけにはいかなかった。その為にも僕は、幼きあの日から止まったままの時計を、動かさねばならなかったのだ。


「……それに、これは有生だけじゃない。揚羽さんのお陰でもあるんだ」

「あたしの?」

「言われたんだ。嘘を吐くと、自分を信じられなくなる。自分を信じられない人は、他人からも、他人の事も信じられなくなる、って。……有生がどうとか、昔の自分がどうとかは、やっぱり建前だ。結局のところ僕は、揚羽さんを信じたかった。揚羽さんに信じてもらえる人になりたかった。揚羽さんに対して、誠実な人でありたかったんだ」


 だから、話した。だから告解した。だから懺悔した。

 これは一種の自己満足に過ぎない。だけど揚羽さんに黙っているなんて、僕が嫌だった。揚羽さんにだけは、聞いてもらいたかったのだ。


 話を聞いた揚羽さんは僕の言葉を受け止めた上でしばしの沈黙を選んだ後、僕の手に自分の手の平を重ねて、言った。


「……ちゃんと話してくれて、ありがとう。でもね、あたしは別に、あんたに騙されたとは思ってないよ。歩夢は、苦しかったあたしの傍にずっと居てくれた。適当で無責任なその場しのぎの言葉で取り繕うんじゃなくて、ちゃんとあたしに向き合って、それでいて、寄り添ってくれていたの、分かってるから。……そんな誠実なあんただから、好きになったの」

「……好きになってくれて、ありがとう。僕も、君の芯のあるところが、ずっと好きだった」

「だった?」

「今は、もっと好きになった」


 言うと、揚羽さんは嬉しそうにニッと笑って見せる。

 いつの間にか、お互いの手指は絡み合っていた。


「──ねぇ、今度はそのお墓参り、あたしも連れて行ってよ」

「何も面白いことないよ?」

「挨拶するだけだし。それに、歩夢こそ。こんなに素敵な彼女が出来ました、って伝えなよ。安心させる意味でもさ」

「天国から嫉妬されるかも。あゆむのくせに、って」

「それならいいじゃん。自慢してよ。あたしのこと」

「まずは、いろ姉に自慢しようかな。たくさん心配かけたし」

「いいね。じゃあ、次は──」


 これまで、未来のことは、考えないように生きてきた。


 どうせ死ぬつもりだから。どうせ良いことなんて無いから。


 そう思って生きてきた僕に、かけがえのない存在が出来た


 彼女が居れば、これから先も生きて行ける。そんな気がする。


 未来のことは、まだ分からない。未来が来てからじゃないと、どうにもならないから。だけど、二人で居れば、なんとかなる。そんな気がする。なんでも乗り越えられる。そんな気がするんだ。


「──まずは、先生のお説教と反省文が待ってるだろうけどね」

「歩夢と一緒なら、なんとかなる気がする」

「……反省文は、手伝わないよ?」

「反省してるけど、後悔はしてないから。書くこと無いかも」



 なんてことを言い合いながら、放課後を知らせる鐘の音が鳴るまで、僕らは屋上で寄り添い合った。



 これまで、していたように。



 これから、するように。



 屋上の寒風はいつの間にか、止んでいた。









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