29話
◇
たった一週間で冬の寒さは本格的に厳しさを増していく。
冬将軍の本領発揮と言ったところだろうか。
クリスマスが近づき、街全体が煌びやかになって、行き交う待ちゆく人々の足が浮つき始めた頃。
僕と揚羽さんは、いつもの如くカフェ【sincerita】に居た。
「──あの時は、大目玉だったね」
「先生、怒りながら泣いてたから全然怖くなかったけどね。最後とか、笑ってなかった?」
平日の昼下がり。いつものようにお客様の引いた後の店内は、僕と揚羽さんとマスターだけになる。そのマスターも裏で仕込みの真っ最中である。
そんな訳で、カフェの制服に袖を通した僕はナポリタンの大盛りを頼んだ揚羽さんと軽口を交わす。その中で話題に上がったのは、十日前後しか経っていないはずなのに遠い記憶のように思えるあの日の記憶だ。
放課後になってから教室に戻った僕と揚羽さんは、当然のように待ち構えていた先生に捕まった。そこから場所を移して行われた事情聴取に加えて延々と続いた説教と反省文を書かされた。解放されたのは、最終下校時刻を知らせる鐘が聞こえた頃にようやくだったのを思い出す。
その鐘が鳴った頃には、冬至を目指して日没を早める地球のお陰で外は真っ暗。月が顔を覗かせる時間まで僕らは説教を受けながら反省文をしたためていたのであった。
こんこんと続いた説教は学校から遠ざかっても尚耳に残るもので、時間が経過した今でも目を閉じれば聞こえてきそうな程。それだけ先生が心配してくれていたという裏返しでもあるのだろうが、その先生の大説教は揚羽さんの言うように、言葉の端々に歓喜が滲んでいるのを感じ取れるがゆえに緊張感をほとんど覚えなかったことを覚えている。そのことを思い出しては、今でも二人の間では笑みが零れると言うものだった。
説教と言えば、僕らが丸く収まったことを伝えたいろ姉からも、先生から受けた内容と似たような説教を受けた。
ただ、先生と違う点は、いろ姉は安堵した上で僕らの考えと行動を否定してくれたことだ。
『──二人とも、一人で抱え込み過ぎないで』
いろ姉は僕が死のうとしていること──もとい、死ねばいいと人生の匙を投げていたことを薄々感じ取っていたらしい。「伊達に従姉してないっつうの」、と据わった目を向けるいろ姉には恐怖を覚えずにはいられなかった。同時に、その上で揚羽さんとの行動を見守っていてくれていたと聞き、僕たちはいろ姉の深い愛情を感じて頭が下がる思いであった。
死ねばいいと思っている僕と、死にたいと強く思っている彼女。
どう考えたって混ぜるな危険のような組み合わせである。ただでさえ芯の薄い僕だ。高い確率で揚羽さんの希死念慮に引き寄せられると分かっていながら見守るなんて、よっぽど僕のことを、そして揚羽さんのことを信用していないと出来ない真似である。
八重子さんもまた、いろ姉と似たような反応だった。二人からは続けて甘い言葉だけではない叱責と、二人が無事でよかったと安堵から来る涙を流す姿を見せられ、僕と揚羽さんは二人に顔向けできない程に恥じ入るのだった。
それと同時に、これ以上いろ姉や八重子さんの期待と信頼を裏切りたくないと言う感情が芽生えていた。
「彩春さんには足を向けて寝られない」
「八重子さんも、でしょ。それに、それを言うなら陽人君もだよ」
「あぁ……、中津川ね」
陽人君の名前を出すと、揚羽さんは途端に面倒そうな顔を見せる。
揚羽さんはともかく、僕が迷惑を掛けた筆頭と言えば、陽人君の名前が挙がる。
彼には初め、僕一人で打ち明けようと思ったのだが、揚羽さんも付いて行くと言って聞かなかったため二人で彼の前に現れると、陽人君は一瞬目を瞬かせたもののそれだけで全てを察したかのように頷くのだった。
そして一連の話を聞いた後で、陽人君「気付いてやれなくて、ごめん」「力になれなくてごめん」、と謝罪を繰り出したのだ。当たり前だが、陽人君が謝る筋合いはない。陽人君はずっと、僕に手を差し伸べてくれていた。その手を取ろうとしなかったのは僕の方だ。だから謝るのは僕の方だと謝罪合戦が始まったかと思えば揚羽さんが「あんた達、いつもこんな感じなの?」、と苦笑いで仲介に入ってくれたお陰で空気が緩み、その後で陽人君は真摯な顔付きになって揚羽さんに向かって言ったのだ。
『──歩夢のこと、お願いします』
と。
揚羽さんはそれの言葉にしずしずと頷き、その場はお開きになるかと思いきや、陽人君の口からは続けて僕のセールストークが始まると言う奇異な展開になると言う一幕もあったりした。
「そう言えば、最近陽人君の周りから人が減ったように思えるんだけど」
「知らないの? あいつ、啖呵切ったらしいよ。『俺の友達を悪く言うな』、ってね。あいつ、歩夢のこと好きすぎじゃない?」
「揚羽さんのことも含んでるんでしょ、きっと」
「あたし、別にあいつと友達になった記憶無いし」
「あれからずっと一緒にお昼食べてるのに?」
「だってあいつ、歩夢といるといつの間にかセットで居るようになってるし、成り行きみたいなものだし……」
「まーた捻くれてる……」
「うっさい。あんただって友達少ないくせに」
「今この瞬間で言えば僕の方が友達の数は多いけどね」
「ゼロか一の競い合いじゃない」
「……これ以上は止めておこう。お互い、虚しくなるだけだし」
陽人君が僕のせいで虐められて孤立するようならもちろん助けに入るつもりだったが、彼が教室で一人になるような光景は想像し難い。
元より彼の明るい性格と温厚でユニークな人柄は常に人を惹き付けてやまず、彼は本当の意味で心が通じる友人を持てたのだろう。僕もその一人だと嬉しいが。
友人の数で言えば、揚羽さんに勝ったとしても陽人君の足元にすら及ばない。
そんな彼は今では趣味のカメラやアニメや漫画などの話で周りを巻き込んで盛り上がっている姿をよく見るようになり、正しく青春を謳歌している姿そのものだった。
しかし、輝かしい青春を謳歌する者がいる一方で、僕の目の前にはその青春を取り上げられそうになっている人物がいるのもまた事実であった。
「でもまさか…………、揚羽さんが卒業できないとはね」
「まだだし! まだ可能性の話だから! あと一回でも休んだら留年、ってだけの話だから!」
「二年次が終わるまでにあと三か月あるけど……。それって、ほぼ絶望的じゃない?」
「うっわ、最低。それが今頭を抱えてるあんたの彼女に掛ける言葉なの?」
「冗談だよ、冗談」
「……勉強、手伝ってくれるんでしょ?」
「もちろんだよ。一緒に卒業したいし」
そう言うと、揚羽さんは嬉しそうに微笑んで口いっぱいにナポリタンを頬張った。
卒業できない可能性。
あと一日でも休めば留年、と言うのはあくまでも指標と言うか、目安のようなもの。正確な日数は後から伝えられるそうだが、後一日でも休んで良い日は無いのだと思い込ませることが重要なのだと先生は語っていたし、揚羽さんも納得していた。
食事中が一番幸せそうな顔をする彼女を見つめていると、不意に来店を示すベルの音が鳴る。ここ最近ではこの時間の来店は揚羽さん以外に滅多になかったから珍しいなと思いながら職務を思い出して扉に目線をやる。
「いらっしゃ──あ」
不自然に言葉を切らした僕の反応に釣られたのか、リスのように頬を膨らませた揚羽さんがもぐもぐと咀嚼を繰り返しながら同じように視線を向けた。
「おう! また来たぜ、歩夢。マスター!」
「エランさん!」
僕らの目線の先、背を屈めて扉を潜るように店内に踏み入って来たのは、見知った顔。大柄で強面な、僕と揚羽さんにとってはキューピッドとも呼べる、恩人であった。風貌はまるで翼を持った少年とは似ても似つかないが。
「会うのは……、あの店ぶりか? 久し振りだな、嬢ちゃん」
「……その節は、どうも」
「クカカ。相変わらず、猫みたいな嬢ちゃんだ」
エランさんは僕やマスターの顔を見て破顔した後、僕らの傍までやって来る。
「エランさん。先日でもうメニューは全部制覇しただろう? 今日は何を食べるんだい?」
「……いや、今日は二人の門出を祝いに来ただけなんでな、悪い」
エランさんの来店を知って奥から顔を出したマスターに対して、エランさんはそう言って僕らの顔を見る。いつの間にそんなことをしていたのだろうか。
「門出、って、卒業まであと一年以上ありますよ」
「門出ってのは、新たな挑戦の一歩。新たな人生の始まりだ。お前達は新しく二人で歩き始めたんだろう? 祝うに相応しい門出じゃないか」
門出、と聞けば卒業や進学と言った、次なるステージへと進む言葉が浮かぶが、エランさんが言うにはいつが門出だって良いのだそう。実にエランさんらしい破天荒な物言いに感心していると、物悲しそうな表情でエランさんは呟く。
「それに……、だ。俺ぁそろそろこの街を出るつもりだからな」
「そっか、寂しくなるねぇ」
「っつうわけで、これで二人に美味いコーヒーでも淹れてくれよ、マスター」
「そんな、悪いですよ」
「小僧が遠慮なんかするんじゃねぇ。それでも嫌だってンなら……、また次に会った時に、二人でコーヒーでも奢ってくれ」
そう言われると断れない僕らは、エランさんがくれたコーヒーを黙って受け取る他無いのであった。
「……なぁ、アユム」
「はい」
「前に聞いたろ? 夢はあるか、ってな」
それは、エランさんと初めて会ったあの場所で、二人の時に聞かれたものだ。会話の流れの内の一つに過ぎないものだと思っていたが、僕は確かに覚えている、と頷き返す。確かあの時は、何も答えられなかったんだったか。
「今、もう一度同じことを聞いてもいいか? ……アユム、お前に夢はあるか?」
少しの間をおいて問われたのは、あの時と同じ問い。
それでもあの時と違うのは、隣には揚羽さんがいるという事。
エランさんの問いに、僕は口ごもる。以前のように答えられない訳ではない。僕如きが口にしていいものかと言い淀んでしまうのだ。
「……」
一体いつになったら入荷してくるのか、相も変わらず、僕の中に自信の在庫は無い。
けれど、いつからだろうか。僕でも気付かない間に、夢と呼ぶに相応しいものが芽生えているのは確かだった。
以前との僕の反応の変化を察したのか、エランさんは僕が答えるのをただジッと目を見つめて待ってくれている。
答えられない訳ではない。つまり、僕の中に「夢」と呼んで差し支えないものが芽生えたのは事実だが、それを口にする勇気が出ない。
何せ、今まで夢を語った経験が無いから。初めてのことだったから。
それでもふと思い出して顔を上げると、こちらを見つめる揚羽さんと目が合う。
「歩夢……?」
僕は、一人じゃない。
僕が前を向くのに必要なのは、それだけで十分だった。
「……僕は、心理学を学ぼうと思っています」
「ほう」
「心が蝕まれて苦しんでいる人に寄り添える大人に、なりたい。そして、揚羽さんに相応しい人になりたい。揚羽さんの隣で胸を張っていられる自分になりたいんです」
夢一つを語るだけで息を切らしているようでは、やはり揚羽さんの足を引っ張ることになる。彼女の隣で寄り添いたいと言うのは、寄り掛かっていたいと言う意味ではないから。
八重子さんに言われた「自信を持て」と言う言葉に報いるためにも、僕は未来に向かって進む変化を受け入れなければならない。それは今まで僕が意図して目を背けてきたものであるが、こうして変わっていく生活も、意外と心地は悪くなく感じていた。
「……いい夢じゃないか。俺は応援するぜ、アユム。お前なら、きっと良いカウンセラーになれる。頑張れよ」
サングラスの奥で光るものを称えながら、大きな手でわしわしと頭を撫でてくるエランさんに、僕もまた鼻を啜った。
「それで……、嬢ちゃんに、夢はあるか?」
「え、あたし?」
隣で耳を傾けていた揚羽さんは、突然振られた話題に小動物みたいな顔で呆然とした顔を見せる。
そんな彼女に微笑ましく思う傍ら、エランさんは彼女の隙を埋めるように尋ねていく。
「ああ、そうだ。次はお前の……、ミコトの夢を聞かせてくれ」
「あたしの、夢……」
固唾を飲んで見守る、とは正にこのことだろう。
これまで、希死念慮と言う形で目先の恐怖に囚われていた揚羽さん。
未来を覗くことのできる穴が塞がれていた彼女にとって、未来を見据えると言う経験自体が稀有なものだとすれば、エランさんの問いに答えるのは僕以上に難しいのかもしれない。
けれど、揚羽さんは諦めていなかった。
以前の僕のように無言を返すわけではなく、彼女の中で「夢」という言葉を何度も何度も頭の中で反芻しながら、自分なりに答えを見つけ出そうとしているのが分かる。
揚羽さんの瞳の奥に宿った輝きは、彼女なりに未来を見据えようとしているのがひしひしと伝わってくる。
エランさんもそれを見て取ったからなのか、黙って見守ることに徹していた。
黙り込んだ揚羽さんが自分なりの答えを見つけ、再び顔を上げたのは、マスターがコーヒーを三杯運んできた頃だった。
「──あたしは、そんな大した人間じゃない。あたしは、これまでずっと嫌なことからは逃げて、怖いものからは目を背けて……、逃げてばかりの人生だった。だから、歩夢が憧れてくれるような、素晴らしい人間なんかじゃないの。あたしから見れば、歩夢の方が何倍も、何十倍も素敵な人に映る。だから、こそ。──あたしは、歩夢の隣で、あんたの傍で、同じ歩幅で生きていけるような人間になりたい。歩夢の隣で、胸を張って生きていける人間に、なりたい。……そう、なれるように努力をしたい。…………これで、いい?」
一つ一つ、言葉を選んで、絞り出すようにして言葉にした揚羽さんの瞳は不安に揺れていて、その視線が向く先は、僕だ。
彼女の視線には、まるで質量が込められているかのように僕の双肩に重しが宿る。ともすれば押し潰されてしまいそうな重みに、僕はフッと頬を弛めて彼女の手を取った。
「良い夢だと思う。それに何より、僕が君の夢になれるなんて、すごく……、嬉しい」
素直じゃない揚羽さんの、率直な想いを真正面から受け止められることがこんなに嬉しいなんて、と不安げな瞳を覗き返すと、彼女は自分の言葉を思い出したかのように首まで顔を赤く染めて、つつつ、と目を逸らすのだった。
「……なあ、マスター。このコーヒー、ちっとばかし砂糖を入れ過ぎたんじゃないか?」
「ははは、ブラックのはずなんだがね」
後方から感じる生温かな視線を思い出して慌てて手を離した僕らを、エランさんとマスターは変わらず微笑ましいものを見るような目で見てくる。
「ミコトらしい、良い夢だ。とても、素敵な夢だ」
しかし最後には心の底から称賛するような言葉を送られ、揚羽さんは照れ臭そうにしながら小さな声で「……ありがとう」、と感謝の言葉を返すのだった。
エランさんはカップを一気に傾けコーヒーを煽った後でカップを静かにソーサーに置くと、コトン、とマスター厳選の陶器のカップから小気味よい音が鳴る。それを合図に静まり返った店内の中、エランさんは僕らの目を見据えて言う。
「……諦めなければ夢は叶う、なんて無責任なことを言うつもりは無い。だけどな、信じ続けなければ夢は叶わない。信じるために何が必要かは、もう分っているな?」
「嘘を、吐かないこと」
答えると、エランさんは満足そうに、ニッ、と笑う。
嘘は、自分の価値を下げる。
価値の無いものを信じることは、難しい。それは同時に、僕に価値を見出してくれた人を貶める行為でもある。
「それが分かっていれば、十分だ」
そう言うと、エランさんは僕と揚羽さん、それぞれの頭に手を伸ばして、その大きな手で頭が揺れるくらい激しく撫でてくれる。手の皮の厚いエランさんの手はお世辞にも心地が良いものとは言い難いが、それでも彼の手の平から伝わる熱いくらいの愛情が、心地の悪さすらをも凌駕して僕らの全身を包んでくれるようであった。
あの揚羽さんですら、居心地悪そうにしながらもその手を跳ね除けることはない。この瞬間だけは、僕らは幼子に戻ったかのようであった。
名残惜しむようにその手が離れていくのを見届けた後で、エランさんは重々しく、けれど物々しさを感じさせない、軽やかな口調で最後に尋ねた。
「……もう、自殺する気は、無いな?」
その言葉に、僕らは目を瞬かせる。
互いの反応を見て、僕らはお互いに、むしろその言葉でようやく思い出したかのようですらあったことにもまた驚く。
──そう言えば死にたかったんだっけ、と。
その拍子につい、と言わんばかりに顔を綻ばせた僕らは、その問いに対する答えを口にする。
「「──自殺なんか、するもんじゃない」」
示し合わせた訳でもなく重なった声に、思わずと言った形で零れた「あっ」、と言う感嘆の声すらも被って、僕らの顔は余計に綻んでいく。
そして、その問いをもたらしたエランさんはと言うと、僕らの答えに満足気に頷いた後でもう一度僕らの頭を撫でた後で、席を立った。
「……もう、行っちゃうんですか?」
「寂しくなったら、連絡しな。すぐに駆け付けてやるさ」
「寂しくなるね」
「それは違うぜ、マスター。初めに言ったろ? こいつは門出だ、ってな」
旅支度は済んでいるのか、鞄一つに収められた荷物を担いだエランさんの背を見て呟いたマスターに、エランさんは振り返って笑う。
「自転車と同じさ」
「自転車かい?」
「あぁ、そうだ。親父が手を貸すのは、スピードに乗るまでだ。あとは手を離してやれば、子供は勝手に進んでいく。あいつらはもう、前を向いて歩き出したんだ。……歩き出したんだよ。俺たち大人は、ただ黙って見守ってやればいいんだ」
大きな背中を向けて去って行くエランさんは最後に、扉に手を掛けて振り返って言う。
「──コーヒー奢る約束、忘れんなよ?」
その言葉に、僕は笑って「もちろんです」、と答えると、彼は後ろ手に手を掲げた後で、カランコロン、と音を鳴らして扉を潜って行くのだった。
サングラスの奥で目を細めてニヒルに笑う顔は、生涯、忘れられそうもない。
エランさんが去った後で、僕はまるで夢から覚めたみたいな感覚に陥る。きっと、揚羽さんも、マスターも同じだろう。
途端に静まり返った店内で、僕らは目を見合わせて笑う。
「……嵐みたいな人」
「そんな人と繋いでくれたのは、揚羽さんだよ」
「そんなつもり、ないけど」
「でも、事実だ」
「ふふ、そして歩夢君が私と彼を繋いでくれた」
「そんなつもり、ありませんけど」
「でも、事実さ。彼は、良い友人さ」
こうやって世界は巡るんだなあ、なんて大袈裟なことを言うマスターも含めて、僕らは寂しさを埋めるように笑い合う。
そんな折だった。
再びカランコロン、と来店を知らせる鐘が鳴り、自然と視線が吸い寄せられる。
そこに居たのは、店内の全ての視線が自分に寄せられて気まずそうにしている、お客さんだった。
「……あのー、やってます?」
「っ、はい。いらっしゃいませ──」
絶賛職務中であることを思い出した僕は、目の端を拭ってカフェ店員の姿に戻る。否、皮を被ると言った方が正しいか。
僕らはこうして、日常に戻っていく。
出会いがあって、別れがあって、日常に戻っていく。
嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、日常に戻っていく。
毎日の中で、僕らは生きていくしかないのだ。
結局、生きる意味とは、死んだ後でしか分からないのだから。
それならば、意味のある人生だった、と死んだ後で思えるような人生を生きたい。
満足も後悔も、希望も絶望も、人生に意味をもたらすためのスパイスだ。そう言い切れるような人生を送りたいと、あの背中を見た後では強く思う。
変哲で、いびつで、理不尽。だけどそれが醍醐味だったりする人生を、逆らう事の出来ない時間の流れと共に生きていく。
変化を、違いを、そしてそれぞれの視点を味わい、咀嚼して飲み込んで消化して糧にして、僕らは生きていくのだ。
これから先、揚羽さんと喧嘩することだってあるだろう。お互いの違いに噛み合わないと思う日も来るだろう。だけどそれを無理に合わせようとする必要はない。僕らは僕らのまま、噛み合わないままでいい。
その都度話し合って、問題を解決していけばいい。
誰かと一緒に生きていくとは、そう言う事だと思うから。
僕は、揚羽さんと一緒に生きていく。
どんな暗闇もきっと、二人なら怖くはない。
明るい日と書いて、明日だ。
僕らの未来を閉ざしていた蛹の殻を脱いで羽化した先は、きっと明るいだろう。
二人なら、どこまでも飛んで行ける。そんな気がする。
僕はもう、一人じゃないから。
完。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
他の作品で、またお会いしましょう。




