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27話

 




 ◇



 冬も本番に入り始めた師走も上旬。

 一年最後の一か月も残る三分の一が流れ過ぎ、僧侶が走り回るかのように生徒達もまた待ちゆく人たちと同じように例外なく近付くイベント事に浮足立っている。

 一、二年生はテストが終わって羽を伸ばし始め、三年生は受験に奔走する日々。一年後の僕らもああして目の下に隈を作って勉学に情熱を燃やしているのかと思うと吐く息も白くなると言うもの。


「……」

「……」


 そんな寒空の下。

 賑わいひしめき合う世間から切り離されたような世界で僕らは、屋上の柵の内側に戻って並んで地べたに腰を下ろしていた。


 二人の間には、長い沈黙が漂っている。

 その原因が僕の奇行にあるのは確かめるまでもない事実。

 僕があそこに立っていたのは、自殺に臨んだ彼女の気持ちを少しでも理解しようとしたから。授業をサボってまで屋上を選んだのは、目立つのを避けるため。それ以外の理由なんてない。


 死に瀕する瞬間。命に危機が及ぶ瞬間。

 彼女がどんな思いで自ら命を断とうと思ったのか。それを少しでも理解したくて、少しでも彼女に近づきたくて、あの場所に立つことを選んだ。


 だがしかし。あそこに立ったはいいものの、僕には到底あそこから一歩を踏み出すことなんて出来そうになくて。

 あの場所に立った瞬間、襲い来る死の恐怖。ぞくりと体の芯から震えるような根源的恐怖。今すぐこの場から下がれと言わんばかりに吹き付ける風に、僕は完全に気圧された。膝は笑い、腰が抜けるかと思った。


 それらの恐怖を振り払って一歩を踏み出すのに、果たしてどれだけの勇気がいることか。

 勇気や希望と言った、目に見えないものを信じることなどナンセンスだとは思うが、勇気とは力なのだと実感せざるを得なかった。


 やはり、僕の希死念慮は所詮、偽物に過ぎなかった。


 そう思って振り返ろうとした瞬間、不意に屋上の扉が開く音がして、目を見開いた揚羽さんに見つかるなんて思いもしていなかった。

 どうしてこの場所に、と僕が問うより早く抱き留められたお陰で、僕らはしばらく密着した状態だった。あの海とは逆の立場だな、なんて思いながら、揚羽さんが落ち着くのを待った。

 しばらくして落ち着きを取り戻した彼女に経緯を説明したところ、揚羽さんには呆れられたのか、すっかり黙り込んでしまうのだった。


 屋上の柵を乗り越え安全な場所で腰を下ろしたのだが、揚羽さんは依然として沈黙を保っている。

 僕らはお互いにお互いの出方を窺う膠着状態のまま、隣り合っているのだった。

 その沈黙の中で先に口を開いたのは、彼女の方で。


「……何笑ってるの」

「え? 笑ってる? 誰が?」

「あんたしかいないでしょ」


 揚羽さんは依然変わらずむっつりとした顔のまま。

 僕は言われるがままに自分の顔に手を当てて確認すると、弛んだ頬が手指の先から伝わってくる。無意識のうちに、頬が緩んでいたのだろう。


「……本当だ。気付かなかった」

「何それ」

「また、こうして君と一緒に居られるのが、嬉しいんだと思うよ」

「……何それ」


 目線の先、唇を噛む姿、バツが悪そうに眼を逸らす姿はきっと、彼女も気分が悪いというわけでは無さそう。相変わらず揚羽さんは素直じゃないな、と思いつつ、彼女も同じ気持ちだと嬉しい、なんて、口に出すには度胸の足りない感想を抱く。


 そうやって一度でも言葉を交わしてしまえば、僕らの間には今まで通りの空気が流れ出し、言葉を口にするのも軽くなる。


「あーあ。これで僕も不良の仲間入りだよ」

「たった一回授業をサボっただけで不良の仲間面? あたしの足元にも及ばないくせに」

「君に、追い付きたくてね」

「…………あっそ」


 揚羽さんとの接点は、病院で会ったのが最後。あれから彼女はすぐに退院することとなり、それからの行方を僕は知らない。だからこうして顔を合わせるのも今日この瞬間が初めてだった。

 隣に並んだ揚羽さんは、伏し目がちに言う。


「……なんで、話しかけてくれなかったの」

「え?」

「今日一日、ずっと、待ってたのに」


 横目で目線を送ってくる揚羽さんの姿と言うのは、均整の取れた顔立ちからして睨んでいるように見えるのだが、これがただの照れ隠しであることを知る僕からすれば微笑ましいものでしかない。


 しかし、まさか揚羽さんの口からそんな言葉が飛び出してくるとは思ってすらいなかった僕が胸に宿った驚愕をそのまま顔に出してポカンとすると、揚羽さんは今度こそ本当に、自分の発言を撤回すべく眼光を鋭くさせた。


「もういい、知らない──」

「あああっ! ち、違うよ。話しかけて良かったのか、って思っただけで」

「あんなことした後だから、あたしの方から話し掛けられるわけ、ないじゃん」

「あれは、揚羽さんが悪いわけじゃ」

「誰が悪いとかじゃなくて。ただ、あんたに……! あんなことをして、歩夢に、嫌われたと思ったから。だから、不安で……」


 ……なんだ、この、可愛い生き物は。


 自分の腕を抱き寄せながら控えめに言う揚羽さんの姿に、僕は場にそぐわない感想を抱く。


 僕が心配していたのは、その逆。

 彼女を追い詰めてしまったかもしれないという責任。その辺りの問題はきっと、これから長い時間をかけて折り合いをつけていくしかない。僕も揚羽さんも、「君のせいじゃない」、と言われただけで、はいそうですか、と納得できるような真っ直ぐな性格をしていれば元より、こんな事態には陥っていないのだから。


 胸に沸いたドギマギする感情を誤魔化すように、僕は自分のブレザーを脱いで彼女の肩に掛ける。


「別に、寒いわけじゃ」

「かっこつけたいんだよ」

「……あんたが? あたしに?」

「それ以外にある? ここには、僕と揚羽さんしかいないのに」

「……余裕のある態度が、なんかむかつく」


 余裕。

 揚羽さんにそう言われて、僕は初めて気付く。僕が余裕を持っていることに。


 思えば、僕はいつも背中を丸めて、下を向いて歩いていた。自意識過剰かと思えるほどに周りの視線全てに怯えていた。それは特に学校では顕著だったし、揚羽さんと居る時も例外では無かった。


 揚羽さんが僕に余裕を感じたと聞いて、以前と今との違いはと言えば、例の作文を書いたことだろうか。

 三日前に提出して、今日掲示されたばかりの作文。

 会心の出来かと問われれば首をかしげるが、僕の書きたいこと、伝えたいことを書いたお陰か、妙に心が晴れやかなのは事実だった。自覚できる点と言えば、文才や文体がどうとか、そんなものは気にならなくなったのが大きな成長と言えるだろう。


 ちなみに、掲示されていることは知っているが、どこに掲示されているかは知らなかった。


「あの作文からも、なんか、余裕が感じられたし」

「! 読んだんだ。あれ」


 だから、揚羽さんの口から飛び出した発言に、僕は驚きを隠せなかった。

 どこに貼りだされたかも分からないものを、まさか宛てた当人に、しかも貼りだされた当日に見つかるとは思いもしなかった。


「……読まれたなら、隠す必要もないか。あれは、僕の本心だよ。紛れもなく、君に宛てた言葉のつもりで、書いたんだ」


 いざ口にしてみると、変態的。

 誰が目にするかも分からないものに特定の個人への感情を綴るなど、気が触れたとしか思えない所業だ。言いたいことがあるなら直接言え、と言う言葉はごもっともである。だけど僕には、面と向かって思いを告げる勇気も、歯の浮くような文言を詰めた愛の手紙を靴箱に入れることも出来なかった。何故出来なかったか、と言う言い訳はいくらでも考えられるが、一言でまとめるのなら、「勇気が無いから」である。


 告白とは、一種の好意の再確認とも呼べるもの。だから相手が自分を好意的に見てくれているという自覚こそが踏み切るための最大の追い風となるのだが、僕は最後までその一歩を踏み出せなかった。それは揚羽さんの気持ちを信じられなかったからではない。


 僕が、僕自身を信じられなかったからだ。


 だけどそれは、逃げた訳じゃない。お得意の、問題の先送りをした訳ではない。


 あの文章は揚羽さんに向けたのと同じく、僕自身にも向けたものだったから。


「……分かってる。そうだといいな、って思って、読んでた」

「自分でも、書いてて思ったんだ。正直、綺麗事だなって。偉い人がとっくに考えついて実現できない机上の空論だな、って。実際、何様のつもりで書いてるんだって言われてもおかしくない文章だったでしょ。たかだか十七歳の子供に何が出来るんだって思われても仕方ない内容だとも思う。でも、僕はそうありたい。君を、揚羽さんを一人にしない僕でありたいと、思ってるんだ」


 きっと同年代が読んでも、これを書いた人は自惚れているとか、勝手に憐れむな、とか言われるような、中身の薄い文章だという自負はある。

 それでも、あの文章には僕の思いの丈を文字通り、ありったけ詰めている。

 長い間向き合おうとしてこなかった自分と向き合って、揚羽さんへの想いも詰め込んだ末に生まれた作文だ。この世界に存在するありとあらゆる文章が世界で一つだけのもであるように、僕の作文もまた、唯一無二。それが読んで欲しい人に読まれたのであれば、既にその役割は遂げてあると考えていいだろう。


「確かに甘いなって思う部分もあったけど、あの文章みたいに、あたしはあんたのそう言う、優しいところが……、好き」

「──」


 そのお陰、と言うべきか。


「…………揚羽美命さん」


 踏み出せなかった一歩がいつの間にか、踏み出せていた。


「な、なに」


 語気の変化に気が付いたのか、膝を突き合わせた僕に対して、揚羽さんは背筋を伸ばして、何かを期待するような、それとも警戒するような気配を見せる。


 人間は、鏡だ。

 緊張に強張る表情筋や忙しなく震えて見える彼女の瞳のように、今の僕もまた、同じ顔付きになっていることだろう。だから僕は、耳から心臓が飛び出しかねない程の心拍も、一つ息を吐くだけで落ち着きを取り戻すことが出来た。


 そして吐いた息を取り戻すかのように吸った僕が紡ぐは、直接的な好意であった。






「僕は、あなたが好きです。ずっと、君の隣に、いさせてください」






 大切な宝物を見せびらかすみたいに、いつから溜めていたかも定かではない感情を、打ち明ける。


 どこかの詩人のように、蝶よ花よと言葉に詩を乗せるわけではない。

 どこかの文豪のように、知恵と発想で言葉に感動を含ませるわけでもない。


 ただただ真っ直ぐに、いつから芽生えていたか分からない感情の束を紡いで、彼女に捧げる。


 それはともすれば泥臭く、みっともなく、情けなく映るかもしれない。

 大人の余裕とはかけ離れた、幼くて、実に簡素な告白。


 それでも、たったそれだけの自分の思いを伝えるだけで、心臓が痛いくらい跳ねるし、じっとりと滲んだ汗でインナーが体にへばりつく。

 落ち着いている、なんてのはやっぱり、気のせいだったみたいだ。


「──」


 言い放った後で訪れた、空白。


 それは永遠にも感じられる程に長く、そして体感時間の経過と共に不安が膨れ上がる。しかし、それでも僕は揚羽さんから目を離すことは出来ない。彼女もまた、僕の告白を受けてそれを咀嚼し噛み砕いて飲み込むまでに時間がかかっているようだったから。


 お陰で、揚羽さんのポカンとした顔が目に焼き付く。いつだって形の変わらない綺麗なアーモンド形の目が、今はとびきり大きく見開かれていた。



「──っ、っ!」



 瞬き一つしないその瞳いっぱいに涙が溜まり溢れていく。

 その一部始終を見納めた僕が慌ててハンカチを取り出して拭うと、僕の手はもののみごとに捕まってしまう。


「うっ、ぇぐ……っ、ひぅっ、ぇう……! あ、あたしの、方ぅぐっ、こそ……っ!」


 途端。これまで堪えていたものが決壊したかの如く滂沱の涙を零す揚羽さんは、ひっくひっくと、子供のようにしゃくり上げて泣きながら告白の返答と思しき言葉を放つのだが、嗚咽に混じりの震え声は聞き取るのも怪しいほどである。


 それでも揚羽さんは僕のハンカチを掴んだ手を離そうとはせず、感情のまま泣き声を上げる。それはまるで、幼子が自分の極まった感情を言葉にしようと必死になっているかのよう。自分でも溢れる感情の制御が出来ない様子。ともすればそれは、幼少期に出来なかったことを再現しているかのようにも見えて。だけどもそれは言い換えれば、それが出来るようになった、とも言えるわけで。


 僕はそれを、一番傍で見届ける。




「あたしも……っ、あたしも、あんたが好き……。大好き! 一番、辛かった時に、寄り添ってくれた、歩夢のことが大好き……っ! でも、でも……! あたしは……、あたしは、歩夢の期待を裏切った、から……! だから、だから、あんたを好きでいる資格なんて、あたしには無くて……!」




 僕の手を固く握ったまま、揚羽さんは俯いてしまう。


 極まった感情は、溢れ返った嗚咽は、最早言葉を紡ぐ事さえ出来ないのだろう。そういう時は、思う存分泣くに限る。


 そう思って、泣きやすいよう揚羽さんの体をそっと抱き寄せると、彼女は自ら進んで僕の肩口に顔を埋めてわんわんと泣き出した。


 それはもう、嵐の如き勢いで。


 僕の体をかき抱くかのようにしがみ付く彼女を、僕はシャツに皺が付くのも厭わずに抱き留め、彼女が泣き止むまでその背を擦り続けた。


 僕はここに居るよ、と安心させるように彼女の背に手を添え続けるのだった。









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