26話
◇
『 生きる理由について、考えたことはあるか。
人はどうして生きるのか。そんな哲学的な問いを投げ掛けたいわけではない。
子どもの自殺者数が過去最多を記録しているとあって、ふと思い立った。
僕は、幼い頃に弟を亡くしている。だからなのか分からないが、そのニュースを聞いて、スマホを操作する指が止まった。
ニュースのコメント欄を見ると、「夢も希望もない」「大人の方が」「遺憾です」と書き込まれたコメントの数々がどこか他人事のように見えて仕方がなかった。
僕らが手にするスマホと言う、現代を象徴する利器がある。雨風を凌げる屋根も壁もあれば、快適に過ごせるよう暖房や冷房だって備え付けられている。食うに困ることのない環境がある。五体満足である。
等々、絶望する必要が無いくらい恵まれた環境にいるはずなのに自ら死を選ぶ人がいるという事実がある。
その事実を残念に思う反面、自殺を選んだ人たちを「もったいない」の一言で片付けるのは違うんじゃないかとも思ってしまう。
なぜなら、僕も死にたいと思ったことがあるから。それこそ、数え切れないほどに、何回も。
死にたい、消えたい、楽になりたい。そう思える瞬間は、ふとした瞬間に訪れる。
誰かと比べられて自分が劣っていることをむざむざと突き付けられて、死にたくなる。朝起きて学校に行きたくなくて、消えたくなる。当たり前のことが当たり前に出来ない自分に失望して、早く楽になりたいと願う。
人からすれば、「そんなことで」と言えるような、本当に些細な出来事をきっかけに衝動が顔を出す。
この感覚を味わったことのある人は、きっと少なくないと思う。大人たちの中にもきっと、この経験を経ている人は多くいるはずだ。高校生の僕には分からないことだけど、もしかしたら、大人の世界の方がずっと多いのかもしれない。
けれど、そんな希死念慮を抱えていても多くの人は死を選ばない。成長して、大人になって、年老いて死んでいく。それはどうしてか。
それは、死ねない理由があるからだと思う。
生きる理由ではなく、死ねない理由。
これがあればもう少し頑張れる。あと一歩踏み出せる。あと一歩、踏み出さずにいられる。少しでもそう思えることこそ生きる理由でもあり、死ねない理由だ。
言い換えればそれは、その人の居場所。逃げ込める場所とも言える。心が憔悴した時、何に頼るのか。友達か、家族か、恋人か。それは人にとって千差万別。物や現象に頼る人もいるかもしれない。いわゆる、ストレス解消というものだ。僕の場合は、お風呂に入るのが好きだ。バイト先で誰かの役に立っていると実感すると、安心できる。
そう言ったように、多くの人は、その人にとって心の支えとも呼べる「逃げ場」を持っている。
でも、多くない人達。
自殺を選んだ人たちは、それを持っていなかった。
人は、何かを「する」よりも、何かを「しない」方が得意だ。後者の方が、楽だから。簡単だから。勇気が必要無いから。だから、死なない。だから、生きている。だけどそれは、翻せば何かを「する」ことを選んだ人は、何かを「する」に足る勇気が、理由があったのだということ。
例えば、死ねない理由が無くなった、とか。逃げ場が奪われた、とか。そこにどんな背景があるかは十人いれば十通りの答えがある。中には「そんなことで」と思える理由だってあるかもしれない。
けれど、「そんなこと」で人は死を選ぶ。
当たり前だが、自殺はしない方がいい。肯定はもちろんのこと、否定もされるべきではない。それでも、自殺を選んだ人たちにどんな理由があったのか、どんな原因があったのか。もっと早くに歩み寄れていれば救えていたんじゃないか。そう、思わずにはいられない。
もちろん、僕一人が動いたところで何かが好転する訳じゃない。これは僕を含めた「誰か」が動かなければならないこと。
歩み寄ること、理解を示すこと。そして、逃げ場を作ってあげること。それが出来ていればもしかしたら自殺者数の数字は1、減っていたかもしれない。
生きているだけで偉い。一見して無責任に思えるこの言葉も、実は本質を捉えているのかもしれない。
生きる理由なんて大層なものを考えることよりも、明日のご飯は何を食べようか、と考えるだけでも今日を生きられる。死ねない理由が生まれる。生きる理由なんて本来、それだけで十分なはずだ。それでももし不安に駆られたなら、周りを見てみるべきだ。進んで手を差し伸べてくれる人はそう多くはいないが、君の周りには案外、伸ばした手を掴んでくれる人はたくさんいるはずだから。
君は一人じゃない。
僕は君の、生きる理由になりたい』
──校内に掲示された、一枚の新聞。
それは全校生徒に配られるわけでもなく、ただこうして校内に張り出される為だけに刷られたたった一枚の校内新聞。
そしてそれは、全校生徒が行き交う玄関入り口などではなく、中庭に続く誰もが素通りするだけの廊下の掲示板に貼られていた。
誰の目にも留まることのない新聞。
まるでその一つの作文を載せるためだけに作られたようなレイアウトの前に、一人の女子生徒の影があった。
「──」
その女子生徒は、様々な感情を目に宿し、穴が開く程に新聞を眺めていた。
少女の喘鳴のような呼吸音が響く程に静まり返った校内は、まるで彼女以外の全てが居なくなってしまったかのよう。
思い返せば、彼女がこの場所に足を止めた時点で午後の授業開始の鐘が鳴っていた。しかし、それでも彼女はこの掲示物を目にして足を止めざるを得なかったのだ。
「──」
少女は、動いた。どこへ向かうべきは曖昧なまま。
ガラリ、と引き戸を開ける。
「うん? 揚羽、遅刻の癖に堂々登場か? さっさと席につけ──って、おい! どこに行くんだ?!」
教室の後ろの扉から覗き込むと、目的の席が空白であることに舌打ちし、呼び止める声も聞かずにその身を翻す。
授業をボイコットすることなんて両手で数え切れないほどしてきた。どうせ教室に居ても、三か月も休んでいた少女にはろくに授業の内容なんて分からない。あの場に居ても聞いている振りをしているだけなのだから。
だから彼女は切り替えて目的の人物を探すことに注力する。
お昼前までは居たはず。なのに姿が無い。けれど、鞄はあった。なら、目的の人物はどこに居るのか。
少女は考えた。
目的の彼と過ごした日々を、思い返す。
どれだけ月日が経とうとも決して色褪せない色のついた日々を。そこで、少女は唇を噛んだ。学校内での思い出が、数えられるくらいしか無いことを。
少女の胸の中で煮え滾って溢れ返る泡のような感情を自覚してからは、殊更に後悔ばかりが募る。お陰で、ようやく学校に戻って来られた今でもまともに話すことすら出来ていない現状に、少女は焦れていた。
だからあの掲示物に彼の名前を見つけて、齧り付いたのだった。少しでも、彼を理解したくて。
「…………階段」
思い出と呼ぶには拙い記憶。
教室以外で、ただそこで話したというだけの場所。
思い至った時点で、既に少女の足はその場所に向かって動き出していた。
「居ない……」
だけども、そこにも彼の姿はなくて。
七段目。この場所だ。二人で並んだ階段の場所を、まるで固執するように見つめる少女の目に落胆の色が宿りかけた、その時だった。
「っ!」
キィ、と頭上から音が聞こえて頭を跳ね上げる。
常であれば、生徒達の雑踏に紛れて聞こえることのないような、蚊の鳴くような音。それに釣られて階段を上って見ると、屋上へと続く扉が半開きになっているではないか。
──鍵、壊れてるの。誰も気付いてないから、直そうともしない。
そうだ。悪事の「あ」の字も知らないような彼に悪知恵を授けたのは、他でもない自分だ、と少女は逸る気持ちのままとを開け放つ。
彼が放った言葉であれば何気ないことから大事なことまで覚えているが、少女自身の放った言葉はあまり覚えていなかったのだ。
「──あ」
「……ッ」
乾いた冬の風が吹き付ける屋上で、少女の──揚羽美命が求めた彼、一色歩夢は、彼女を待っていたかのように佇んでいた。
──屋上の柵の、向こう側で。
「な──ッ」
何してるの、と叫ぶより早く、彼女の体は動いていた。
一瞬、柵の向こう側に立つ歩夢の姿がブレたかのように幻視され、美命の背筋にぞくりと冷たいものが走る。
その幻を現実のものにしないために、美命は走った。
気が付けば彼女は息を荒げて、歩夢の背に飛びついていた。
少女の腕は彼の命綱と化し、踏み出させはしない、とばかりに、ぎゅうっ、と彼の胸に回した腕に力を込めた。
「何、してるのっ?!」
「シーっ、静かに。先生達に、バレちゃう」
「静かに、って、それどころじゃ……!」
「……大丈夫。落ちても、死なないから」
絞り出した声は、切羽詰まった金切り声。
それに反してやけに落ち着き払った声の主が指差す先は、屋上の柵の向こう側。
促されて下を覗いてみれば、目に映るのはこちらとあちらの棟を繋ぐ渡り廊下の天井部分。足を滑らせでもしたら真っ逆さまに地上に落ちる、というわけでは無いらしい。
とは言え、人は自分の身長と同じ高さからでも、落ちたら死ぬかもしれないのだ。それを知る美命は尚更、少年の体に回した腕に力を加える。
「……あんたはあたしを生かしたんだから、勝手に死のうとしないでよ。あたしを、置いて行かないで……」
「……ごめん。そんなつもりじゃ、無かったんだ」
「許さないし、あたしのことも許さなくていい……。だから、一緒に居て」
お互いの間を埋めるのは、制服の生地の厚さだけ。
密着し、相手の鼓動の音が聞こえてくるほどの距離で二人は、しばらくの間、そうやってお互いの体の熱を交換し合うのであった。




