24話
◇
「ここでいいのか?」
「はい。ありがとうございました」
真っ赤に充血した瞳でお礼を言う。
泣き腫らした目元を隠すように伏せていた顔をようやく上げた僕は、心配そうに見つめる先生と目線が交差する。先生はこんな顔をしていたのかと言う感想が起こるのは、非常識だろうか。
病室で涙を涸らすまで泣いたけれど、僕の気分は依然として分厚い雲に覆われたまま。
泣いただけでこの胸に蟠る気分が、はいそうですか、と晴れるはずもない。
何せ、自殺願望を抱く揚羽さんの背中を押したのは、他でもない僕だったのだから。その事実が双肩に重くのしかかった僕は、病院からの帰り道、延々と失意に暮れたままだった。
「その……、なんだ。無理は、するなよ。いつでも、なんでも、相談に乗るからな」
「……ありがとうございます」
「もし苦しかったら明日、学校休んでも良いんだからな」
「いえ、行きます。行かないと、また変な噂が立ちそうなので」
「そうか……。それなら、うん。明日、学校で待ってるよ」
先生は最後まで僕を気遣う様子を見せながら、去って行く。言いたいことを押し止めたような素振りだが、伝えるべき事は伝えたとばかりに遠ざかっていくタクシーを見送り、僕は自宅のマンションを見上げた。
「……滅多に喋らないくせに、余計なことばかり口走るこの口が……、憎い」
独り言ちる不満は、他でもない自分自身への恨みつらみ。
先生のように言うべき事は言って、言いたいことは噤む。あんな風に言葉を選べていれば、きっとこんな事態には陥っていなかった。物心ついてから今まで、一度たりとも思った通りに言葉を吐いてくれないこの口が諸悪の根源だ。
そうやって憎んでみても、僕の口がぽろりと取れたりするわけではない。
ただ虚しくなって、僕はまた、深い溜め息を吐いた。
学校には戻らず、早退した昼下がり。
平日のこの時間帯に外を出歩いている学生はおろか、社会人の姿すら見当たらない街の気配に魅入られるかのように、僕はそのまま家には戻らず、踵を返す。
僕が今から取る行動は、有り体に言えば現実逃避である。
僕はもう、これ以上辛い現実と向き合うのが苦しかった。
だから目的もなく街を彷徨い歩く。
けれども結局、どこにも行く宛ての無い僕が向かった先は、カフェ【sincerita】。誘蛾灯に誘われる蛾のようにバイト先へと吸い寄せられた僕は、今日のシフトにはまだ早い時間にもかかわらずお店の扉を潜るのだった。
「いらっしゃ……、おや、歩夢君。今日は随分と早いね」
「……時間まで、休ませてもらってもいいですか」
ランチの営業が終わる間近だったせいか、店内にはまばらだがまだお客さんがいて、ただでさえ息苦しい気分に申し訳なさが加わって、泣きたくなる。涙を流す資格なんてないはずなのに。
そんな折、僕を快く迎え入れると同時に、マスターは店内のとある席を指差して言った。
「何の偶然か分からないけど、歩夢君のお客様が見えてるよ」
「僕の、ですか?」
このカフェには、マスター目当てのお客さんが多く来店する。マダムの九割はマスター目当てと言ってもいい。それ以外の従業員目当てなど見たことも聞いたこともなかったため、僕は沈んだ気分のまま耳を疑った。
しかし、マスターがそんな人を小馬鹿にするような冗談を言う人ではないことを知っているため素直にマスターが指差した先を目で追うと、店の隅の席に座る、よれたコートに身を包んだ大きな背中が目に入った。
「朝一番に来店してね。歩夢君が来るまで待つって言うんだ。もし知らない人であれば帰すこともできるけど……」
「……いえ。僕の知り合いで間違いないです」
心配そうに見るマスターの心境が手に取るように分かる。
待ち人が、カフェの雰囲気のみならず太陽の下が不釣り合いな空気を纏う、明らかに堅気じゃない人物であったから。
回避性の精神を保有する僕としては何よりも関わり合いになりたくないようなものであるが、このカフェに僕目当てでやって来る裏社会の人間には一人だけ、心当たりがあった。
むしろ、僕が呼んだ側でもある。
「お待たせしました。──エランさん」
「ん? おお、アユム! 待たせたのは俺の方だ。ほら、いいから座れ。腹、減ってないか?」
泣く子も黙る強面の顔を綻ばせる彼の名は、美神エラン。
彼は今日もサングラスの奥で鋭い眼光を光らせていた。
エランさんは、揚羽さんの死に場所探しで一番初めに赴いた場所で何故か気に入られた野生の熊かと見紛う程に大柄な男性だ。あの場所には震え上がるような思い出しか残っていないのにもかかわらず、お互いにファーストネームで呼び合う仲になっているのは僕の人生における最大の謎と言えよう。
もちろんこの関係はエランさんからの一方通行ではなく、僕もエランさんに一定以上の好意を有している。隠さずに言うならば、エランさんに父親の幻を見ているのだろう。彼の頼もしい背は、マスターや先生とも異なる、身を委ねたくなるような後ろ姿だったから。
僕が着席すると、エランさんは飲みかけだったコーヒーを飲み干し、返答を待たずにマスターにいくつか注文をしていく。
去り際、マスターが心配そうに見つめるのを「後で説明します」と濁して僕はエランさんと向き合った。
「いやあ、裁判が長引いちまってな。釈放されるのに時間かかっちまったんだ」
「裁判?」
「ああ、ほら。あの場所の事だ。関係者だったもんでな。無罪放免ってわけにはいかないんだ。まぁでも、俺は情報提供者ってことと、あくまでも場所の斡旋ってだけで実行はしてねぇからな。薬だってノンタッチだ。自殺志願者を死なせてたのも、秘密裏に燃やしてたのもオーナーの手配さ。俺はただの水先案内人に過ぎない、ってことで情状酌量を認められて、拘禁刑三年と執行猶予五年の判決だ。要するに、大人しくしてりゃ、お咎めなしだ」
ニヒヒ、と悪びれも無く言ってのけるエランさんだが、彼があの場所で立っていたことにどれだけの自責の念を抱えているかを知っている身としては、彼の心情を推し量るのは難しいことではなかった。理解するのは、また別の話だが。
「それで、あの嬢ちゃんとはどうなんだ? 付き合ってるのか? キスくらいはしたのか?」
「ッ、僕と揚羽さんはそんなんじゃないですからね?!」
涙を流した分だけ水分を補給しようと、渇きを訴える喉に水を流し込んだところ、エランさんの投下した爆弾発言で噎せ返してしまう。
「僕と揚羽さんはただの……、ただの──」
「アユム?」
どう答えるべきか分からなかったのは、僕が揚羽さんを友達と呼んでいいのかどうか分からなかった、と言う人生経験の欠如によるものではない。
今この瞬間、僕が彼女の何になりたいのか、と言う疑問が不意に脳裏をよぎったからだ。
ただ、どうしてだろうか。
僕はこの時、不思議と口が軽くなっていたかもしれない。それがエランさんの放つ父性と言うべきもののせいなのか、それとも、単純に僕が誰かに話を聞いてもらいたかったのかどうかは分からない。
もし仮に本当の父親を前にしたなら、僕は一言も口を開けなかっただろうから感覚としては後者で間違いないのだが、エランさんだから聞いてほしかった、という可能性を信じたかった。
社交辞令の質問も、自己懐疑的な疑問もかなぐり捨てて、僕は言う。
「…………昨日、揚羽さんが、自殺未遂をしました」
「…………、そうか」
呼吸を整えた後、何度も言い淀み、何度も躊躇いながら、言った。
エランさんはそれを何度か咀嚼した後で飲み込み、短く答えるのみだった。
突然こんなことを告げられれば、真っ先に疑問が生じるところだ。だけどエランさんはどうして、とか、なぜ、とは聞かず、冷静なまま声のトーンを一つだけ落として言う。
「それで、アユムはどう思ったんだ?」
エランさんのその言葉は、「いつでも頼ってくれ」と寄り添ってくれた先生の言葉より、「ごめん」と泣きながら謝った揚羽さんの言葉よりも、はっきりと僕の鼓膜を震わせ、胸にすとんと落ちてくる言葉だった。
自分でも気づかずに胸のどこかで欲していた言葉をなんでもないようにくれたエランさんに、僕は拙い言葉でその時の自分の気持ちを伝えていく。
「……苦しかった。頭が真っ白になった。けど……、何よりも、彼女を追い詰めた周囲に対して、腹が立った。でもそれ以上に、彼女を止められなかった僕自身に、ものすごく、腹が立った」
僕が抱える心境。それは複雑のようでいてその実、言葉にしてしまえば大したことはないもので。
僕はただ、揚羽さんを繋ぎ止められなかったことが悔しくて、自分自身を情けなく思っている。そして、何より、彼女を追い込んだ自分に怒りを抱いている。
僕は僕を許せない。
実にシンプルな回答だ。
およそ一時間前までは荒れ狂う嵐のようだった胸の内も、どうしてか今だけは冷静に捉えることが出来る。
それもこれも、聞き手であるエランさんが落ち着き払っているから、というのが大きいだろう。
落ち着きを取り戻してしまえば、病室で抱いた「揚羽さんを追い詰めた」、なんて感想は所詮、大言壮語であったと鼻で笑えてくるもので。
そもそも、僕如きが、揚羽さんにそんな影響を及ぼすようなこと、有り得ないのだから。狭窄した視野では冷静に考えれば分かることさえ分からなくなっていたのだ。病室に漂っていた空気に毒されたせいもあっただろう。
あの病室の中、僕には涙を流すことだけじゃなく、もっと他に出来たことがあったんじゃないかと今更になって痛感せざるを得ない。
揚羽さんの要望通り、怒ればよかったのだろうか。叱ればよかったのだろうか。
そう思う度に、「どの口が」ともう一人の僕が嘲笑う。
黙り込んで自己嫌悪に陥った僕に対して、エランさんは変わらぬ態度で問いかける。
「それは、どうしてだ?」
「どうして…………。僕は……、揚羽さんに死んでほしくなかったんです。それが、死にたいって言う彼女の気持ちを無視したものだと分かっていながら、僕はその気持ちを彼女に、押し付けたんです。重荷になると、分かっていながら」
僕と揚羽さんを繋げたのは、お互いの心に宿った他人には打ち明けられない闇。
それが僕らを引き合わせた。
その先で待っていたのは、自殺願望を抱いた揚羽さんの素敵な死に場所探しの相方役で。けれども、死に場所探しに付き合うと言っておきながら、やっているのは二人旅の真似事でしかなかった。だけどそれが、思いの外心地好かったのは紛れもない事実だった。
陽人君はやいろ姉、マスターとも違う。一緒にいても不思議じゃない、まるで自分の半身に出会ったかのような感覚を手放し難いと思えた。生まれて初めて誰かに執着したその相手が死にたいと願っていて、それを叶えることも止めることもできない自分に、僕はもうずっと前からどうすればいいのか分からなくなっていた。
「なるほどな。だから──人を殺した後、みたいな顔をしてたわけだ」
「っ」
「……人間ってのは難儀なもんでな。どうしてか、生きる理由を求めると、死にたくなるらしい。自分の価値に疑問を抱くようになっちまう。過去、あの場所に来た連中もみんな泣きながら同じことを言っていたぜ。──生きる理由が見つからない、ってな」
「……」
彼女を繋ぎ止めたい。
揚羽さんの本質は、死ではなく、生だ。
目付きが悪くて、口も悪い。だけど笑顔が可憐で、美味しいものを前にした時の目の輝きはこの世のどんな宝石と比べても見劣りしない。
そんなただの女の子である揚羽さんが自殺しなければならないのだとすればそれは、世界の方が間違っている。
揚羽さんの本質は何も特別なものではない。それを知るのは、きっと僕じゃなくても出来ることだ。僕に見せていた表情は、僕だけに見せるわけじゃないから。
それこそ、彼女を気に掛けている先生だって、程度は知らないが理解していると思う。ゆえに僕は、彼女を繋ぎ止める楔になりたいなどと、分不相応な願いを抱いてしまったと痛感しているのだ。
その楔と言うのを言い換えれば、彼女の生きる理由になりたい、と同義である。
エランさんの言葉が、抜けていたパズルのピースの如く嵌まっていく。
そして、「生きていて欲しい」という彼女に捧げた心よりの言葉は、追い詰められた彼女に生きる理由を探させる結果となり、エランさんの言葉の通り、より一層彼女の死を早めてしまったのかもしれない。
僕は、そう思いたいだけなのかもしれない。
「やっぱり、揚羽さんが自殺しようとしたのって、僕が……」
「いや、それは違うだろ」
震えた声で上がった仮の話を、エランさんはばっさりと切り捨てる。
「自殺しようと思ったのも、自殺が未遂で終わったのも、全部嬢ちゃんの意思だろう。そこにお前が責任を感じる必要は、一切無い」
「でも」
「でももへったくれもない。日本人はどいつもこいつも揃って真面目な血が流れてるな。それが美徳でもあるが、欠点でもある。いいか、良く聞けアユム。お前達はさっきから、生きるも死ぬも真剣に考え過ぎだ」
「考え、すぎ……?」
「生きる理由ってのは、生きる意味だ。そんなもん、死んだ後でようやく分かるようなもんだ。生きている今考えたところで、答えなんか出るもんか。出るんだとしたら、どこぞの天才がとっくに考えて答えを出してるはずだ。だが、今はどうだ。百人いれば百人の、千人いれば千人の死生観で溢れてやがる。どこに答えが転がってやがるってんだ」
「……」
「いいか、アユム。生きる意味なんて、哲学者でもない俺達は考えるだけ無駄なことだ。それで自分の価値を疑って死にたくなるなんざ、本末転倒もいいとこだ。大体、勿体ないと思わないか? たった一度きりの人生だぞ? 今を生きずに、いつ生きる? 考え込んで下を向いたまま人生を終えるのか? そんなの、生きてるなんて言わん。そうなるくらいなら、何も考えなくていい。さっき死生観がどうたらとは言ったが、実際に死生観について考えている奴なんて、十人に一人かそこいらだ。どいつもこいつも、今を生きるのに必死なんだよ。……なあ、アユム。そいつらが何を考えて生きているか、考えたことはあるか?」
僕や揚羽さんが、文字通り死ぬほど悩んでいた希死念慮。それを「馬鹿げている」と一蹴するエランさんに対して、僕は怒りが湧くよりも先に彼の言葉に納得する自分がいるのを否定できなかった。
「……それこそ、生きる理由、なんじゃないですか」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。待ち行く連中が何を考えて生きているか……。それは、死なない理由だ」
「死なない……。それは、僕と揚羽さんと、何が違うんですか」
「似て非なる、とも違うな。どちらも翻せば同じ意味になる。けど、そうだな……、アユムは、ゲームをしたことがあるか? 例えば、RPG。ドラクエだ、ドラクエ」
エランさんの意図が読めない問いに、僕は理解が追い付かない中で首を縦に振る。陽人君の勧めで、何本かプレイしたことがあるが、ゲームは自分がやるより人のプレイしている姿を見る方が好きだった。
「なら分かるだろ? 生きる理由を考えるより、死なない理由を考える方が、消費MPが少なくて済むんだ。結果が同じなら、かかるコストが低い方を選ぶ。ゲームも人生も同じだ。わざわざ効率の悪い方を選ぶ必要はないのさ。そう思わないか?」
「……」
同意を促された僕だが、フィクションとノンフィクションを同列に考えたくはないと言う思考が過り、目線を逸らす。かと言って、エランさんの考えを訂正できるような言葉は持ち得ておらず、僕はただ不服そうな顔をして言葉を詰まらせることしか出来ない。
「納得いかない、って顔だな。なら、実際に考えてみるといい。生きる意味や生きる理由なんて難しいことじゃなく、死なない理由、死ねない意味を考えてごらんよ」
「……例えば、エランさんは、どんな理由を持って、生きているんですか」
「俺か? 俺はそうだな。今から運ばれてくる料理を食うまでは死ねないな。何せこの店は食べログ評価四点越えだし、かなり期待を寄せてるんだ」
言って、カフェの評判が載るスマホの画面を見せるエランさん。エランさんみたいな人でも食べログとか見るんだ、と思いつつ、そんな些細な理由でいいのかと疑問が湧く。
「そんなので、いいんですか?」
「そんなの? 今、そんなのって言ったか?」
「あ、ごめんなさい……」
「いや、謝らなくていい。だって実際、そんなの、だからな。言っただろ? お前達は、難しく考え過ぎなんだ、って。死なない理由なんて、美味いものを食うためでも、漫画や小説、ドラマの続きが気になるからでもいい。人によっては、愛する我が子のためってのもあるだろう。だからアユム。惚れた女のためでも、いいんだよ」
「僕と揚羽さんは──」
「否定するな」
「でも……」
「自分の気持ちを、否定するな。それは、自分に嘘をつく行為だ。自分に嘘をつき続ければ、いずれ自分を信じられなくなる。自分自身を信じることのできない人間が誰かを信じることなど、出来やしない。誰も信じられなくなれば、人間は孤立する。孤独は、人を狂わせるぞ。だからアユム……、自分に嘘はついちゃいけない」
「……っ」
孤独は人を狂わせる。
その現実を僕も、揚羽さんも嫌と言うほど思い知っている。なのにそれを繰り返そうとしていた自分に気付かされ、僕は言葉を失ってしまう。
黙り込んでしまった僕に対して、エランさんは運ばれてきたサラダを美味い、美味い、と言いながら口に運ぶ。
「人の色恋に外野がどうこう言うもんじゃないってわけで、俺からは最後に一つだけ言葉を送ろう」
その声に顔を上げると、ぺろりと前菜を平らげたエランさんはフォークを手に持ったまま、サングラスの奥で瞳を輝かせて言った。
「──成熟していない愛は『あなたが必要だから、あなたを愛してる』と言う。成熟した愛は『あなたを愛してるから、あなたが必要だ』と言う。……アユム、お前はどっちだ?」
どっちだ、と聞かれた僕は戸惑うまま言葉を口にする。
「愛……。僕のこの気持ちは、愛、なんですか?」
いつ何時だって、ふとした瞬間に、揚羽さんのことを考えている。
ご飯は食べているだろうか。
お風呂は入れているだろうか。
よく眠れているだろうか。
お腹を減らしていないだろうか。
……今度は、いつ会えるだろうか。
彼女のことを考えている間は、いつだって空白だった胸の中が埋まるような気がして、とても心が穏やかになる。そして、揚羽さんが辛い思いをしているのを知って支えになりたかったし、彼女の抱える苦しみを少しでも和らげたかった。
そんな考えがいつしか、行動として現れていたのだろう。数々の行動を、僕は意識的に無意識化しようとしていた。そうやって答えを出すことに怯え、先送りにし続けたツケが、今回って来ているのだ。
僕の腑抜けた問いにも、エランさんは真剣に向き合ってくれる。
「俺が知る限りじゃ、その気持ちは愛だ恋だと言われるものと相違ない、な」
「でも、こんな気持ち、重いかもしれない」
自分が抱く感情の意味は分からずとも、その重さは重々理解しているつもりだ。何せ、僕が今抱えていて、その重さを実感しているのだから。
ただでさえ精神的に追い詰められている揚羽さんにこんな重たいものを預けようとしているのだとすれば、僕は喜んで打ち明けないことを選ぶだろう。
それもあって躊躇っていたのだが、エランさんはフッと力を抜いて僕の頭に手を添えてくれる。その手から伝わる熱がなんだか温かくて、僕はまたじんわりと上がって来る涙を、唇を噛んで堪えるのだった。
「愛なんてのは、重くてなんぼだ。何せ、愛ってのは往々にして重たいもんなんだ。でもな、ただ重いだけの愛は、すぐに破綻する。必要なのは、配慮と尊重、それから、責任と知識の四つだ。今のアユムには、前の二つしか無い。だがそれが悪い訳じゃない。お前の愛は成長途中。まだ蕾の状態、ってだけだ。これから残る二つを蓄えて、初めて成熟するものなんだ。……なら、未熟なままじゃ駄目なのか、って言いたい顔だな。安心しろ。ここに五つ目が加わると、新たな選択肢が芽生える。それは──覚悟だ」
反対の指で指折り数えるエランさんの言葉を反芻し、繰り返す。
「これはアユムだけに言っているわけじゃない。相手の、嬢ちゃんの覚悟も合わさって、初めて早熟する愛の形だ。アユムは、嬢ちゃんの答えは聞いたのか?」
「……聞いてない。それに、まだ、ちゃんと伝えてもない」
「なら、アユムがやるべきことはただ一つ。だろ?」
──揚羽さんに、想いを伝える。
愛だなんだとかは関係なく、僕の思っていることを、素直に伝えるべきだ。
何が、彼女とどうなりたいか、だ。
答えなんて、ずっと前から決まっていたと言うのに。
エランさんの言葉に自分でも納得してこくりと頷くと同時に、注文の品が運ばれてくる。
「……歩夢君。今週はゆっくり休んでくれていいからね。有休も残ってるし、また来週から、元気な姿を見せておくれ」
「ありがとう、ございます」
「良い人じゃねぇか、マスターも」
心配そうな眼差しは変わらないけれど、エランに諭された僕の顔色を見てマスターの顔色が安心した色に戻っているのに今更気付く。周りを見渡せば、店内に居るのは僕たちだけで、すっかりランチ営業は終わりを迎えているようだった。
「いただきます」
エランさんが注文したカルツォーネは、このカフェの名物の一品だが、僕は初めて食べる。
マスターのアレンジの利いたカルツォーネはボリュームがあって、一口食べればパイ生地のカリっとした食感に加え、中のチーズが待ってましたと言わんばかりに飛び出してくる。まるでお肉のように旨味を纏ったチーズは、トマトソースのほのかな酸味と甘みをこれでもかと味わわせてくれるし、破裂せんばかりに詰め込まれた野菜も飽きの来ない工夫がされていて、まさに絶品の一言に尽きるものだった。
鶏肉のトマト煮込みをこれまた「美味い、美味い」と言って頬張るエランさんは、食べ進める手を止められない僕を見て、微笑んで言う。
「まあ、振られたらいくらでも慰めてやるから、思い切りやってやれ。日本ではこういう時、当たって砕けろ、って言うんだろ?」
「砕けちゃ、駄目なんじゃないですか?」
「それもそうか!」
そこで今日、初めて浮かべた笑顔に自覚して、自分でも驚く。
果たして、揚羽さんの前で僕はどんな顔をしていただろう。
思い出すことさえできないことに眉をひそめるが、それでも僕は背中を押された通り自分のやるべき事をやるのだと決意を定める。
まだまだ足りなければ、至らないこともある。当たり前だが、想いを伝えて振られる可能性だってある。それでも僕はここで踏み出さなければ、僕の心は一生囚われたままになる。答えを出さないことは確かに楽だけど、それは間違いなく僕にとっても揚羽さんにとっても碌なことにはならないだろう。
それに何より、これ以上僕は、揚羽さんにとって関係のない個人ではいたくない。それが僕の包み隠さぬ本音だろう。
後はこれを、どうやって伝えるべきか。
「エランさん、ありがとうございました」
「おう。骨は拾ってやるからよ」
と、縁起でもないことを言うエランさんに礼を告げ、カウンターに立つマスターから「行ってらっしゃい」と見送られて、店を後にする。
その光景に既視感を抱くと、思い出されるのは八重子さんに見送られた時の光景。
──あんたは一人じゃないよ。
もしかしたら、あの短いやり取りですっかり見透かされていたのか。あの時の言葉は揚羽さんだけじゃなく、僕にも声を掛けていたのではないか。そう思わずにはいられないほど、僕は周囲の人に恵まれていたらしい。
自分の恵まれた環境に奥歯を噛み締める思いを胸に、僕はいっぱいになったお腹と胸を擦って、帰路につくのであった。




