23話
◇
揚羽さんは明くる日の日曜になっても帰って来ることはなく、遂に月曜日を迎えてしまった。
探しに行こうと何度も思い立ったものの、もしかしたら帰って来るかもしれないと思うと家を離れられなくて、マンションの周辺を見て回るのが関の山だった。昨晩夜遅くに眠るまで、その日一日はずっと心ここに在らずの状態で常にソワソワとしていた。一晩経った今でも不安と恐怖に満ちた胸中は決して晴れることはない。
「揚羽さん……」
思わず爪を噛んでしまうほどに焦れる心持ち。けれど、いくら焦燥したところで、僕に出来ることは何も無い。
ただでさえ憂鬱な月曜日が、いつも以上に死にたい、消えてしまいたいと強く思える月曜日となって襲い来る。
深い溜め息と共に登校した学校では、人の噂も七十五日と言う言葉の通り、僕や揚羽さんにまつわる噂などとうに下火であった。
それがまるで、今も学校を休んで行方知らずの揚羽さんの存在を誰もが忘れてしまっているかのようで、気味が悪い。
「おはよう、歩夢」
「おはよう」
「歩夢、お前……くますごいけど、大丈夫か?」
「え? あぁ、うん。ちょっと、眠れなくて」
噂と言う名の偏見の台風が過ぎ去ったお陰で、陽人君ともようやくまともに口が利けるようになった。噂の期間、彼と距離を取っていたのは僕の我儘でもあったと言うにもかかわらずその期間が明けた後でもこうして普通に接してくれる陽人君は本当に懐の広い男だと実感せざるを得ず、台風一過の晴れ晴れとした思いと笑みを湛える様子の陽人君に対して、僕の胸には暗雲が漂い続けていた。
僕の頭は揚羽さんのことでいっぱいで、頻りに話しかけてくれる彼の声も上の空で聞き流す。
噂が下火になったとは言え彼が僕の元から引き離されるのは相変わらずで、僕から陽人君のことを引き剥がすが如く、彼はあっという間に取り巻きに囲い込まれてしまうのだった。
それを横目にしている間に、朝のホームルームが始まる。
今日も、揚羽さんの席は空白のままだった。
「はい、今日もがんばってこー」
軽い連絡事項を聞き流し、担任の緩い挨拶を受けて一日が始まる。揚羽さんのいない、モノクロな学校生活が。
だがその平凡かつ色の無い日常は、一時間目の世界史の授業が始まる前に唐突に終わりを告げられる。
「一色。悪いが、話がある。付いてきてくれるか」
数分前に緩い挨拶と共に職員室に引き返していったはずの担任教師が、血相を変えて戻って来た。
そこで指名されたのは僕で、有無を言わさぬ雰囲気に頷く他無かった僕は周囲の訝しむような目線に晒されながらチャイムで流れる人の波に逆らうように連れて行かれる。
先生によって連れて行かれた先は、職員室でもなければ面談室でもない、人気のない校舎の片隅。
授業が始まって朝の喧騒が嘘のように静まり返った校舎の中、階段の隅にまでやって来た先生は口に手を当て、恐る恐るといった様子で何度も言い渋る気配を漂わせた果てに、「落ち着いて聞いてくれ」と前置いて言葉を紡ぐ。
いつになく緊張感に満ちた先生に僕もまた居住まいを正して続く言葉を待ち受けた結果、厳かな雰囲気のまま放たれた言葉に、僕は耳を疑う羽目になる。
「……揚羽が、病院に運び込まれたそうだ」
先生の口から聞かされた言葉に、僕の頭から血の気がサァ、と引いていく。
辛うじて示せた反応は、息を飲んだことくらいで。
「っ?!」
「電話で伝え聞いただけなんだが、どうやら……、自殺未遂を計ったらしい。学校宛てに病院から連絡があったんだ」
「それって、どういう……」
「落ち着け、一色。ひとまず一命は取り留めたと聞いているが、詳しい事情は今から病院に行ってから聞くことになっている。……どうする。一色もついて来るか?」
話を聞いて一瞬にして頭が真っ白になった僕は、なんて受け答えしたかすら曖昧であった。
それでも、記憶が曖昧なまま先生と共にタクシーに乗っているということはつまり、茫然としたまま教室まで戻って、はっきりとしない頭で荷物をまとめてから、再び先生と合流したわけだ。
もし仮に学校で待っていろと言われても、僕はきっと授業などそっちのけで飛び出していたこと
そんな話を聞かされて、彼女の元に行かないという選択肢など、初めから存在していなかった。
「大丈夫か、一色」
「……どうして、僕に声を掛けたんですか」
「揚羽と仲の良い生徒なんて、お前以外に思い当たらなくてな。クラスに馴染めない揚羽のことを、一色はいつも気に掛けていただろ? ……実は、神社の夏祭りでも見かけてたんだ。巡回のついででな。その後でも揚羽の登校拒否の間、休みの理由を尋ねてきたのは一色、お前だけだったしな。あの時、本当は先生の方が聞きたかったんだけどな」
暗いタクシーの車内を少しでも明るくしようと、先生は先程までの張り詰めた緊張を微塵も感じさせないで話すその語り口は、なんの個性も無い僕を確かに見ていてくれた人の証左であり、常に不安に揺らいでいた僕の心に俄かな安心感が生まれる。
「揚羽の家は……ほら、少し変わってるだろ? だから、一色が揚羽の友達になってくれて少し、いや、大分頼もしいんだ」
それを言われた僕は何も言えなくなる。
外から見て僕と揚羽さんの関係が「友達」と呼べるものだなんて思ってもみなくて、こんな状況にもかかわらず嬉しいなんて思ってしまったことに恥じ入るばかり。なんて言えばいいか分からなくなってしまったのだ。
そのまま、タクシーが目的地に辿り着くまで、僕は黙り込んだままだった。
先生も、無理に僕の反応を引き出そうとはせずに、漂う緊張感に身を委ねるようにして目的地まで運ばれるのを、二人して黙って待つのであった。
タクシーに乗って着いた先は、大学病院。
緊張で強張る体に反して逸る気持ちに板挟みになって足がもつれるかと思いきや、それを遥かに上回る不安と恐怖が逆巻く胸中は新たに芽生えた緊張によって僕の胸は他の感情が割って入る隙間すらなく埋まっているため、ある意味で均衡の取れた僕は平静を装ったまま先生の後ろについて行く。
気が触れそうなくらい、心臓がうるさく鳴っている。
入館証を首から下げた僕らが向かった先は、『一二一六号室』。
その病室がある階に踏み入れた途端、嗅ぎ慣れない空気に眉をひそめる。
人が働いていて、大勢が入院している環境だと言うのに生活感と言うものが欠如した空間に、ほんの僅かな拒否感を覚えずにはいられなかったからだ。
初めて感じる病院への恐怖に呆然として足を止めていると、疑問に思った先生が振り返る。慌ててその後をついて行った、矢先。清潔な廊下に不釣り合いな、耳障りな怒号が響き渡った。
「──いい加減にしろッ!!!」
荒げた声の出所が僕らの目的の病室から聞こえてきたことに、僕と先生は目を見合わせて駆け足になる。
緊急事態ゆえに、病院では走ってはいけない、なんて優等生思想を保ち続ける余裕はなく、背後から掛かる「走らないでください」の声も僕らの耳には届かない。
「──クソッ! ……、っ。お前は……!」
「あ……」
そうして駆け付けたお陰か、それともその所為か。病室の怒号の主が飛び出してくるところに居合わせてしまう。予想した通り、声の主は他ならぬ、揚羽光秀。揚羽さんの、父親であった。
彼は僕と目が合うと、キッ、と身も竦むような眼光を飛ばしてくるものの、激しい苛立ちによる腹立たしさは僕に構っている余裕もないようで、大きな舌打ちを一つして扉の傍に立つ僕や先生を押し退けるようにして去って行く。
怒気を孕んだ足取りは、看護師でさえも注意を躊躇われるほどだった。
「知ってる、人か?」
「……揚羽さんの、戸籍上の父親です」
「なんだその含みのある言い方は。だがまあ、あの人がそうなのか。何度連絡しても繋がらないわけだ」
自分の一物ある物言いに対して自覚しつつも、先生の反応は教師としてそれでいいのかと思わずにはいられない。しかし、これ以上この場所で無駄な討論を交わしていられるほど心に余裕があるわけでもなかった。
乱暴に閉ざされた扉の向こうに、彼女が居る。
そう思うと跳ねる心臓が痛いくらいに鼓動を繰り返す。一生の内で心拍が刻む回数は決まっているのだとすれば、もうこの後で死んでもおかしくないくらい鼓動が早まっているのを理解する。
それでも僕は突き動かす感情の澱を腹の奥に抑え込んで居住まいを正しながら、先生の後に続いて病室に踏み入る。
そこで待っていたのは、
「……やっちゃった」
先生に続いて僕の顔を見るや否や、驚いて目を瞠った後でバツが悪そうに笑う揚羽さんの姿だった。
「学校の先生、で、よろしいでしょうか?」
泣きそうな笑顔の彼女の横で、先生に声を掛けたのは白衣に身を包んだ医者の男性。医者の顔には僕たちを歓迎するような色はなく、不快感を隠そうともしない様相に僕は怪訝な眼差しを向ける。
「……先程の男性に説明しようとしたのですが、入って来るなり患者にも看護師にも、そして私にも罵声を浴びせて出て行かれてしまったので、先生に説明すると言う事でよろしいですか?」
「えぇと、ここじゃなくて……」
「ここで、大丈夫です。……彼にも、聞いてほしいから」
「揚羽さん?」
いつもの傲岸不遜ともとれる堂々たる振る舞いはすっかり鳴りを潜め、ともすれば手折れてしまった花のように儚い背中を丸くした揚羽さんに促され、僕と先生は揃って椅子に座り医者の話に耳を傾けた。
「患者の入院理由は、路上での薬物の大量服薬……。つまり、オーバードーズによって引き起こる意識混濁による緊急搬送です。搬送時には中毒症状が見られましたが、胃洗浄及び尿排泄等の処置を行い、今朝の時点で数値は正常の規定内に落ち着きました。昨晩の冷え込みもあって、あと一時間でも搬送が遅れていれば低体温に陥り命の危険もありましたが……、無事、一命を取り留めました」
カルテを片手に告げた医者の表情は、人ひとりの命が救われたにもかかわらず暗いまま。
「……これで説明責任は果たしましたから」
事務的に、そして義務的に行われた報告を終えた医者はカルテを畳んで揚羽さんに向き直る。
「最後に。あなたは今、自殺したいと思っていますか?」
「…………いいえ」
「はぁ……。医者はあなたのその言葉を信じる他無いので、信じます。あなたがこの一件でどれだけの人に迷惑を掛けたか、決して忘れないように」
「っ、失礼ですが、その物言いはあんまりではありませんか?」
職務を全うする医者。しかし、その口ぶりに相手を慮る心が込められていないことに先生が抗議を口にする。
自殺したい程に苦悩し、追い詰められた末に、実行に移った。それが今の揚羽さんだ。それを、これ以上追い込むようなことを口走るのはいかがなものかという先生のその気持ちも尤もなのだろうが、立ち上がった医者が去り際に放った言葉に、僕も先生も、そして揚羽さんも揃って口を噤む他なかった。
「……私は精神科医じゃない。私はね、自ら命を投げ捨てようとする人を助けるために医者になったわけではないんですよ。死にたい人を生かすなどそれこそ、馬鹿げていると思いませんか?」
容赦のない言葉。されど、それを否定し得る言葉をこの場の誰も持っておらず、医者の去った病室では重たい沈黙が漂う。
「……頼りない担任で、すまない」
その空気の中で一番に口火を切ったのは、先生で。それは自殺企図を実行に移すまで気付けなかったことか、止めてやれなかったことへの謝罪なのか。
教師としての立場から見るこの状況がどんなものなのか、一生徒でしかない僕には想像することさえ出来ない。当たり前だが、僕は先生が先程の医者のように揚羽さんを見下げた様子がないことに静かに胸を撫で下ろしつつ、先生は「飲み物でも買って来るよ」と言って病室を後にしていった。
「……」
「……」
残された僕たちは、それでも依然として黙り込んだまま。
二人だけの空間は僕の家と変わらないはずなのに、ここが病室と言うだけで肩にのしかかる空気が重たく感じる。お陰で、第一声を揚羽さんに譲る羽目になってしまった。
「……ごめん、なさい」
「どうして、揚羽さんが謝るのさ。揚羽さんが謝る必要なんて、無いのに」
重たく開かれた口から謝罪が飛び出す。彼女がどんな顔をしているのか分からないのは、お互いに俯いているから。そして、僕は反射的に口を衝いて出た本心を恨まずにはいられなかった。
揚羽さんの謝罪は、僕に必要なものではない。揚羽さん自身に必要な謝罪であるにもかかわらずそれを否定したことが何よりも拙い。
加えて、本当ならもっと聞きたいことがあるのに、それに続く言葉を僕は引き出せずにいた。
彼女に謝るべきは、僕の方だ。
先生のように僕も謝るべきなのに、僕は何か理由をつけないと動くことのできない軟弱な精神性を覆せずにいた。
「謝らせて。あたしは、あんたを裏切ったんだから」
「……違う。違うよ。……揚羽さんは、何も悪いことをしたわけじゃない」
「でも! さっきのお医者さんが言ってたように、あたし、色んな人に迷惑を……!」
「それは、あの人の立場だからそう言っただけだ。揚羽さんの取った行動は褒められこそしないけれど、揚羽さんの立場からすれば、とても勇気がいるものだったと思うから……」
「──ッ、そんな言い方、しないでよ……」
最良を目指して言ったつもりの気遣いの言葉は揚羽さんにからすれば最悪の選択肢でもあったようで、彼女が固く握った病院のシーツに皺が寄った。
「だって……、あたしは、あんたのことを裏切ったんだよ?! だからさ、褒めないでよ……認めないでよ……! あたしのことを、もっと責めてよ! 怒ってよ! 叱ってよ! そうじゃないと、あたし……、あたしは、何の、ために……!」
身が引き裂かれるかのように叫ぶ揚羽さんに、僕は何も言えなかった。
裏切ったとはどういう意味なのか。それを問い質す気力すら湧き得ぬほど、彼女は憔悴していたから。
褒めてはいけない。持て囃してもいけない。なぜなら、自殺未遂は認められるべき行為ではないから。この点で言えば、医者の言う通りだろう。しかし、それを踏まえても尚、こうして揚羽さんと会って、そして向かい合って話が出来ることが何よりも嬉しく、彼女が生きていてくれるだけで胸を撫で下ろすには十分であった。
だがそれを伝えることは、揚羽さんの自殺未遂を認めることになる。だからと言って、僕の感情とは正反対に怒ったり叱ったりするような器用な真似も出来なくて、病床のシーツに涙の染みを作る揚羽さんに向かって言える言葉は、僕は何も持っていなくて。
だからしばらくの間病室に彼女の嗚咽が響き渡る中、僕はそんな彼女に寄り添う言葉一つすら掛けられないまま、時間だけが過ぎていく。
「──あたし、婚約も家も、全部無くなったの」
彼女の嗚咽が止んで、耳にうるさいくらいの静寂が室内に染み渡った頃、揚羽さんはポツリとそんな言葉を零した。
「さっきのは、もしかして」
「そう。あたしの自殺騒ぎで婚約の話は破談。予定されてたお相手の会社との商談も全部パァ。それで、朝一番に駆け込んできたかと思えば、目をこんなにも吊り上げて全方位に当たり散らす始末……。ざまぁみろ、ってね……」
掠れた声で虚しさすら宿る微笑を湛える揚羽さんの姿というのは、見ているこちらが苦しくなるほどに痛々しい。
全てを失ったことで解放されたとも言える揚羽さんの顔を見ることのできない僕は、彼女の手を取り、無様にも謝罪を口にすることしか出来なかった。
一つの、答えに至ってしまったから。
「……っ、ごめん。ごめんなさい。本当に、ごめん……」
「なんで、なんであんたが謝るの……」
僕の頬を伝って落ちる涙の色は、薄汚れて見える。
彼女の自然な問いに、僕は答えることが出来なかった。
──揚羽さんを自殺に追い込んだのが、僕だと気付いてしまったから。
揚羽さんとその家族の確執は、簡単には拭えないものだと分かっていた。もしかしたら一生かかっても残ったままだったかもしれないと言うものだが、それでも時間をかければ、努力次第で少しずつでも解消できたかもしれない。もしかしたら、いつの日か、揚羽さんの中で折り合いが付けられる時が来たかもしれない。だと言うのに、僕の余計な言葉一つで、その可能性に蓋をしてしまったのだ。
──生きていて欲しい。
そう、願ってしまったから。
あの言葉は、紛れもない僕の本心だった。
だけど揚羽さんの心に巣食う闇。底知れない規模の希死念慮に対して根本的な解決にはならないその場しのぎの言葉でしかなかったことに今更思い至る。
その闇から這い出る「死にたい」と強く訴える苦しみを、僕は知っていたはず。その上で死ねないことの窮屈さも良く分かっていた。彼女の苦しみは僕にとって既知であったはずにもかかわらず、僕はあの時、その苦しみに蓋をするような言葉を彼女に押し付けたのだ。
それはきっと、情緒が安定している人に対してであれば何の問題も無かった。
だけど、死にたい、消えたい、と願う揚羽さんの不安定な精神面を知っていながら、僕は自分の気持ちを彼女に押し付けてしまったのだ。
もしもそこに何かしらの要因で闇が溢れ出るようなことがあれば、蓋に圧力が掛かる。そして、一時しのぎでしかなかった蓋は容易く破られ、より強い圧力となって放出された闇は、衝動となって揚羽さんを襲った。
……その結果が、これだ。
揚羽さんは僕の願いを聞き届けてくれて、きちんと生きようとしてくれた。
だから、自殺に踏み切れてしまった。
死なないと分かっていて、自殺未遂を起こしたのだ。
そしてそのことに、彼女は気付いていない。
揚羽さんは自分の意思でこの行動を取ったと思っているし、その責任も感じている。
だけどそこに、僕の意思が割り込んでいることに、彼女は気付いていないのだ。
これを自惚れだと言うならそれでもいい。
純然たる黒にほんの僅かな白を加えたとて、黒は黒のまま。
だが、そこに黒を加えたとなれば、黒はより濃くなる。そして、黒が混ざり込んでいると言う事実は変わらない。
揚羽さんを突き動かした一端に僕が居るのは、紛れもない事実として重く圧し掛かる。
僕に責任がある。
僕が彼女を、死に追い込んだ。
目を逸らしたくなるような事実を前に、僕はそれを逃れようのない現実とするために最後の答え合わせとばかりに問いかける。
「……あの日、僕の家に来たのは、揚羽さんを連れ戻しに来た人、なんでしょ?」
これは、ずっと考えていたことだ。
あの日、宅配便は来なかった。揚羽さんの強張った声も、わざとらしい演技も、思い返さずとも違和感に思い当たる。
そこから導き出される答えは一つだけなのだから。
「……っ」
揚羽さんは何も言わず、ただ黙って首肯を返す。
僕はそれだけで、堰を切ったように溢れ出した涙を、止められなかった。
あの日、揚羽さんは家に連れ戻されそうになった。ようやくの思い出逃げ出したあの場所に再び連れ戻されるくらいならと、このまま家の言いなりの道具にされるくらいなら死んだ方がマシだと思い至ったのだ。
これは僕の妄想や、思い過ごしなんかじゃない。あの夏の日に彼女の尊厳を無視して連れ去った父親を知る人であれば容易に想像できる事態。
そして、そんな事態に陥った彼女が取る行動は一つ。
揚羽さんが最後の一線を踏み越えるために必要だった最後の一押し。それをしたのは他でもない、僕だ。
あの父親の行動と、僕の言葉が、彼女をこの病室へと運び込んだのだ。
──人を一人、死に追いやった。
今こうして握った彼女の手に熱を感じることに途方もない安堵と、僕の指先が急速に冷え込んでいくのを感じる。
例えそれを打ち明けて彼女がそれを否定しようとも、揚羽さんと向き合うのなら避けては通れない道だ。ここで知らない顔ができるほど、僕は揚羽さんに深入りしていないわけではないから。
むしろ、入れ込み過ぎたからこそ、起こった悲劇だ。
「な、んでっ、あんたが……っ。あんた、まで、泣いてんのよ……っ!」
僕の涙に誘い水を受けたかのように揚羽さんが再び嗚咽を漏らす。
僕と揚羽さんで流す涙の意味は異なる。
僕はそのまま別れの時まで、顔を上げて彼女の顔を直視することは出来なかった。




