22話
◇
「──というわけだから、今回は多めに見るけど、次から紛らわしい真似はしないようにね」
「はい、はい……。ご迷惑をお掛けしました」
地元の人による通報で駆け付けてくれたらしい警察の聴取に応じた結果、僕たちは青春の気まぐれという件で片付けてもらうことにした。保護者への連絡はどうしても避けたかったがゆえの作為である。動転する最中でありながら我ながら上手く切り抜けられたのではないかと思っていると、引き上げていく警察の人が最後に振り向いて、こう言った。
「……どう言う背景があるか分からないけど、自殺は、余り褒められた行為じゃないよ」
「……ご忠告、痛み入ります」
聴取の際、一言も喋らなかった揚羽さんの様子から汲み取られたのだろう。抜け目のない警察を見送った後、安心感からか大きな溜め息が零れるのだった。
「はぁ~……。とりあえず、座ろう。靴も靴下も、ビショビショだからさ」
「うん……」
何度拭っても靴に付着した砂は取れない。その不快感も、今では自分の心を現実に引き戻してくれる頼もしい実感の一つでもあり、僕は先程までの浮世離れした現実と向き合う。
「ええと……。どれから、聞けばいいか分からないけど、聞いてもいいかな」
「……あたしさ、結婚させられそうになったの」
コンクリートの縁に座って何から聞こうか逡巡する僕を押し退けて、揚羽さんはとんでもない話を口にする。
彼女の話に、心構えの足りていなかった僕の心臓は予想以上に大きく跳ねた。
そんな僕の反応に気付かない様子で、彼女はつらつらと話していく。
「相手は、どこぞの会社の御曹司らしくて。なんでも、うちの会社が傾きかけてたらしくて。要するに、あたしは借金のカタで売られたってこと。しかも夏祭りのあの日、あたしはあのままお見合いに直行させられたんだよ? 頭おかしいでしょ。そんな時代錯誤なこと、有り得るのか、って」
「……反抗、しなかったの?」
「したかったよ。したかったに……、決まってるじゃん」
揚羽さんの性格からして、例え時代錯誤の親の決めた結婚だとしても、自分の生き方を曲げられることを許容するはずが無い。許容できていれば、初めから長期に渡る家出などという行動は取れないはずだから。
そんな彼女の口から語られたのは、文字通り別世界の話で。
十七歳の揚羽さんに紹介されたのは別の会社の御曹司。
とは言え、齢三十を超えた男性だ。例えその相手がどれだけ誠実だろうと、彼女の身に刻まれた「売られた」という感覚が拭われることは決して無い。そして、僕たちの間でのみ行方不明となっていた四ヶ月の間、彼女は花嫁修業と言う名目で軟禁状態にあった。父親たちが外堀を埋める手立てを組んでいたのだろうが、そこで彼女はせめてもの抵抗としてそれら全てをボイコットしていた。そんな中、ようやく訪れた千載一遇の機会を生かして、やっとの思いで揚羽さんは自分を閉じ込める檻から逃げ出すことに成功したのだと語った。
だから揚羽さんはあの時着の身着のままだったし、携帯も財布も持っていなかったのだろう。
どうして僕の元だったのかと尋ねると、揚羽さんからは「知るか馬鹿」と返された。
「何回も、死んでやろうって思った。でも、出来なかった」
どうして、と問うと、揚羽さんは僕の顔を見た後、「……どうしてだろうね」と遠くを見て言った。視線の先では、海岸線と雲の境目がなくなっていた。
揚羽さんが逃げるために活用した機会と言うのが、ある時、家が立てた婚約者の男性に、揚羽さんが過去に付けた手首の傷痕を見られた、という事件と呼ぶには些末な出来事。それは彼女が中学生の時に付けた傷。言葉では伝えられない不安や苦悩を訴えるための、当時の揚羽さんなりのSOSだ。僕はそれを醜いとは思わないが、婚約者の男性はそれを見て、「気持ちが悪い」と激怒したのだそう。父親も、初めて見たそれに怒り狂ったのだそう。「相手の機嫌を損ねるなんて」と。正しく、大事な商品に傷を付けられた、とでも思ったのだろう。実にクソッたれな世界の話だ。
その話を聞いて僕の頭に一番に思い浮かんだ感情は、激しい怒りだった。揚羽さんの家にも、その婚約者の男に対しても。
揚羽さんは、物じゃない。
こんなにも可憐で、一生懸命に生きている彼女が、どうしてそんな目に逢わなければならないのか。そのことをつくづく思わずにはいられない。しかし、これら一連の流れの中で一番傷付いているのは僕じゃない。揚羽さんだ。
物語る揚羽さんの横顔には、苛立ちや腹立たしさ、それから、無力感だろうか。その時の感情を思い出しているのか、声を震わせ唇を噛んでいる。そんな揚羽さんに僕は、寄り添う事しかできない。彼女に「生きていて欲しい」、などと言っておきながら、僕に出来ることは本当に些細なことでしか無くて、自分の無力さに辟易とするばかりだった。
「……」
しかしながら、話を聞いて余計に疑問が大きくなる。
素養は八重子さん譲りな揚羽さんが、四ヶ月もの間ろくに行動を起こさないでいられるものか。話を聞いても納得できず、その疑問を消化できずにいると、揚羽さんの口から驚愕の事実がもたらされる。
「……反抗も、出来なかった。下手な真似をすれば……あんたを巻き込む、って脅されてたから」
「は……? どうして、そこで僕が出てくるのさ」
「あたしが珍しく、言う事を聞いたから。それを見て、使える、とでも思ったんでしょ。本当に、卑劣で卑怯な父親。そんなんだから、周りからも失望されてるのよ……」
嘲弄や冷笑が織り交ぜられる言の中に、僕は引っ掛かりを覚えずにはいられなかった。
「どうして……っ」
「あんたを巻き込んだのはあたし。だから、その責任として、せめてあんたにこれ以上迷惑をかけないように、って──」
「違う!」
語気を強めたのは、自分でも想定外だった。
揚羽さんの思い遣り溢れた言の葉を否定したかったわけでは無い。けれど、それ以上に僕は揚羽さんの間違いを正さずにはいられなかった。
「な、なんであんたが……そんな顔するのよ……」
「どうして……っ、どうして君が僕なんかのために、自分を捨てるような真似をしなくちゃいけないんだ。僕なんか、放っておけば良かったのに」
「っ、分かってない! アゲハグループは、色んな所と提携を組んでるの! それこそ、教育現場にだって手広くね。だから、やろうと思えばあんたのこれからの進路を妨害することだって難しくなくて──」
「分かってないのは揚羽さんの方だ! 僕の将来なんかはどうだっていいんだよ! 必要なのは、君の未来の方だ。……揚羽さんが生きてさえいてくれれば、僕はそれで十分だ。どんな苦難だって乗り越えられる。……それなのに、どうして君はそうやっていつも自分自身を蔑ろにするんだよ。他のものに縛られる必要なんて、ないのに……! 君はもっと自由でいいのに……!」
揚羽さんは、一人で飛んで行けた。
それを僕が足枷になって邪魔をしていたと知って歯噛みするが、今更になって彼女と関わり合いにならなければ、と後悔したいわけじゃない。
僕はただ、揚羽さんには自分自身を大切にしてもらいたい。その一心で僕は心の底から言葉を紡いだつもりだった。
「~~~~っ! それを……、あんたが、言うの……?!」
なのにどうしてか。
揚羽さんは片方の眉を吊り上げて意気揚々と反論の狼煙を上げた。
「そ……っ、れを言うなら、あんただって──」
それから僕らは、冬に向けて日の入りが早まる時間帯まで、言い合いのような、喧嘩のようなやり取りを交わした。
向かい合って、言葉を交わした。
今まで幾度となく交わして来た機会だ。
それでも、こうしてお互いに息を荒げてまで会話を交わすことなんて、彼女と出会ってからはもちろん、僕の人生においても初めてのことだった。
彼女に生きていて欲しい僕が伝えたいのは、ただ一つ。
自分の未来は自分だけのものだ、という、当たり前で、在り来たりで、当然なこと。
だがそれは僕の口から言えた義理ではなかった。偏屈で卑屈で愚か者である僕が言ったところで説得力など雀の涙ほども生まれない。だからどうにかして揚羽さんには気付いてもらいたいのだが、果たしてそれが伝わったのかどうか。
お互いに荒げた息も整えて一息ついたかと思いきや、揚羽さんは深い溜め息を吐いて僕の肩に体を預ける。視界に映るのは彼女の頭頂部ばかりで表情は伺えないが、彼女が吐いた言葉に著しい諦念が宿っていることだけはよく分かった。
「……じゃあ、どうしろって言うの?」
長い沈黙を経てようやく吐かれたその言葉に、僕は彼女の心を動かすような高説を垂れることなど出来なかった。
ただ、
「生きてほしい」
それしか、言えなかった。
「そればっかじゃん」
そこで、僕は今日初めての彼女の笑顔を見た。
空を塞ぐ曇天の向こう側。晴れ渡る空の如き眩さとはかけ離れた、どこか影のある笑顔。それでも、僕にはその笑顔が何よりも美しく見えた。
「……ね。おばあちゃんに言ったって言う言葉、あたしにも聞かせてよ」
「な、なんのこと?」
「とぼけないでよ。おばあちゃん、一度だけ家に来たんだよ。出歩くことさえ難しいっていうのに、わざわざね。そこで、聞かされたよ。大分前、一度しか会ったことのないあんたとの話を。そこで言った台詞、覚えてないの?」
八重子さんの事だ。一ヶ月かそれ以上もの間、彼女と連絡がつかなくなればあれほど孫想いな人が動かないわけがない。その先でまさか、僕が話題に上がるとは思ってもみなかったが。
言い渋る僕に、揚羽さんは「おばあちゃんには言えて、あたしには言えないことなんだぁ?」と言って煽ってくる。そんな彼女に、僕は気恥ずかしさを押し殺して、言った。
「……僕は君の初めての人じゃなくて、最後になりたい」
「へぇ~~~~~~~」
「~~っ! こ、これで、いいでしょ。満足した?」
「うん、いいよ。あたしの、最初で最後の人にしてあげる」
ムードもへったくれもない物言い。それでも揚羽さんは声に明るさを宿して受け答えしてくれた。どんな顔をしているのかと思って覗き込もうとしても、僕の肩に体を預けた彼女の顔は、見えなかった。
それから、気が済むまでお世辞にもきれいな海とは呼べない海を眺めた僕たちは、すっかり冷え込んだ体を思い出して、重い腰を上げて帰路につくのであった。
来る時と同じだけの時間をかけて帰る帰り道。潮風に吹かれ、冷たい冬の海に浸かった体は芯まで凍えているようなものだったが、お互いの手の平にだけは、確かな熱を保っていた。
「今日はお鍋にしよう」
「作れるの?」
「それ専用のセットが売ってるんだよ。いろ姉に教えてもらってから、毎日食べてる。後は鍋の汁と一緒に煮込むだけ。数多の企業努力に感謝感謝だよ」
「……今まで食べる機会が無かったのを幸運と喜ぶべきところ?」
「毎週末美味しいご飯を作ってくれたいろ姉にも、感謝感謝だね」
「本当に、足を向けて寝られない」
「鍋は特に、入れる具材を好みで選べるのがポイント高いよね。お肉だけじゃなくて野菜も摂れるのは大事だよ」
「なら、お肉はたくさん必要ね」
「話、聞いてた?」
最寄りの駅に着いた頃には、既に時刻は八時を過ぎていた。
一刻も早くお風呂に入りたい僕たちは、外食するのを避けて家で食べようと言う話になり、どうせなら鍋にしようと取り決めて道中のスーパーに寄った。
かじかんだ手指で財布を開いて買った食物は互いの手に一袋ずつ。それから家に帰った僕たちはお風呂に入り、冷え込んだ体の芯を温める。
「相変わらずいつも不安になるレシピだ……」
先に上がった僕は、揚羽さんが上がるのを待つ間、鍋を仕込む。パッケージに書かれた通りに具材を入れて煮込むのだが、余りに簡単すぎて本当に合っているのかどうか疑わしくなる。
「温まったぁ」
「このまま具材に火が通るまで待つらしいけど、あとどれくらいかな」
「食べてみれば分かるんじゃない?」
「生だったらお腹壊すよ?」
お風呂から上がった揚羽さんがキッチンに立つ僕の背後から覗き込むのだが、彼女は言いながらニヒヒ、と笑う。
そんな、折だった。
不意に鳴る、インターホン。
揚羽さんが、インターホンの液晶を覗いて言う。
「……宅配便だって」
「こんな時間に? 僕が出るから、揚羽さんは鍋を見てて──」
「いや、あたしが出るよ」
父さんか母さん宛ての荷物だろうか。そんなのんきなことを考えて揚羽さんが玄関に向かうのを、僕は見送る。
ぐつぐつと音を立てて煮える鍋から、僕は目が放せなかった。
「……そう言えば、鍋の締めはどうするの?」
「締め? 考えてなかったね。そんなに食べられるかな」
「鍋は締めてこそでしょ! なら、あたしが下で買って来るから、先に食べててよ」
「えっ?」
扉の開閉の音で宅配便を受け取ったのが分かり彼女の戻りを待っていると、揚羽さんはそれだけを伝えに戻ってくる。かと思えば、僕の返事を待たずに飛び出して行ってしまう。
「揚羽、さん……?」
途端、静まり返る室内。
その静けさがやけに気味悪く思えて、僕は閉じていく玄関の扉に足を向けた。
しかし、そこには閉じていく扉だけがあって、揚羽さんは既に飛び出していった後だった。
「先に食べてろ、って言っても、折角なら一緒に食べたいからな……」
そう思って、僕は彼女の帰りを待つことにした。
けれど、いくら待っても揚羽さんはその日、帰っては来なかった。
その晩、僕はただ一人で、ぐつぐつと音を立てて煮える鍋の音だけがうるさく感じる部屋の中で、夜を過ごすのだった。




