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21話

 



 ◇



「……」

「よく眠れた?」


 扉が開く音がしてそちらを向くと、寝癖のついた揚羽さんがリビングに現れる。

 揚羽さんが起床したのは、時計の針が天辺を回った後のこと。午後一時を過ぎた頃だった。


 昨夜は僕も寝入りが遅く、今日が土曜日と言う事もあってか八時過ぎに目が覚めた。

 揚羽さんがぼんやりと起きてきたのを見て人によっては昼過ぎまで寝ているなんて、と怒る人がいるかもしれない。だがそれは少し待ってほしい。彼女が穏やかな寝息を立てることが出来たのが明け方だと言う事を考えれば、むしろ睡眠時間が足りていないとすら言えることを知ってから意見を発信してもらいたいものだ。

 それに付き合っていた僕も相当だと言えるが、僕は元より眠りの浅い人間であるため、問題は無い。


 揚羽さんは僕の質問に答える素振りは見せずに、幽鬼のような足取りでソファへと向かう。

 どうやら、彼女の横顔に差したまま陰を見る限り、寝て覚めてもそれが取れることはないらしい。


 昨晩、夕食時に見せていた明るさは、夜を抜けられぬまま朝を、そして昼を迎えたようで。揚羽さんはソファにその身を沈めて、口も半開きのまま瞬き一つせずにただぼんやりと天井を見上げている。


 このまま放っておけば、今すぐにでもベランダから飛び降りて行ってしまいそうな、そんな気配を捉えた僕は飲み物を片手に彼女の隣に腰を下ろす。すると、彼女は僕の存在を忘れていたかのように体を跳ねさせ、大きな目玉が零れ落ちてしまいそうなくらい大きく目を見開いた。


「おはよう」

「っ……。ごめん、ボーっとしてた」

「いいんだよ。もし元気があるなら、気晴らしも兼ねて、お昼でも食べに行かない? 無理なら、出前でも取るけど」


 ぱちくりと瞬きを繰り返す揚羽さんに尋ねると、彼女のお腹から「くぅ~」と可愛らしい返事が聞こえた。どうやら頭は寝惚けていても、体は正直らしい。


「準備できたら行こうよ。なんなら、手伝おうか?」

「……いい。ちょっと待ってて」


 元気の無い彼女に変わって努めて明るく振る舞ってみたものの空振りで終わり、揚羽さんは洗面所に向かっていってしまう。


 もしかして、昨日の夜の姿は僕が生み出した幻だったのか。

 そう思えるほどに笑顔の失われた揚羽さんの横顔は、見ているだけでも辛いものがある。


 どうにかして揚羽さんの顔に笑みを取り戻してあげたいのだが、昨夜のベッドの中、彼女の中で濃いまでの死臭がかまくびをもたげた。彼女を駆り立てる希死念慮は、寝て起きてもまだ彼女の身に纏わり付いたままである。まずはそれを取り払う必要があるのだが、どうやったら晴れるのかすら見当もつかない。

 あの雰囲気は、僕と彼女が初めて出会った夜に見た色とよく似ている。酷似しているからこそ、心配でたまらないのだ。ふとした拍子に飛び出して行ってしまいそうで。


「……お待たせ」


 揚羽さんの支度が終わったのは、それから一時間半後の事だった。

 最低限のヘアセットと、簡単なメイクのみ。服装はこの半年余りですっかり彼女の室内着と化した僕のスウェット服姿。それだけにこれだけ時間をかけたのかとは思っても言うまい。けれども、僕は見逃さなかった。彼女の目元に、泣き腫らした後が隠れていることを。コンシーラーで巧みに隠されているが、見慣れた彼女の顔の違和感くらい、すぐに気が付く。だからと言って、それをわざわざ指摘するほど野暮ではない。この間にもまた、彼女の命の灯火がとても小さくなっていた。


 彼女には後、どれくらい生きる気力が残っているのだろうか。美味しいものを食べれば気が済むだろうか。出来ることなら、昨日の夜みたいに吐き出して欲しい。それを受け止める覚悟は出来ているが、その一歩が踏み出せない。


「……それじゃあ、行こうか。どこか行きたいとことか、ある?」


 僕は、彼女の繊細な心に触れることは出来なかった。


 タイミングじゃないと言えば聞こえはいいが、要するに、度胸が足りないだけだ。


 揚羽さんに笑顔を灯せるだけの自信も確証も無い僕には、ここで彼女の核心に触れる勇気はなく、少しでも目線を逸らすことが出来ればいいとだけ思っていた。お得意の、問題の先送りだ。それが悪手だと分かっていても、逃げる手段を覚えた猿は一生臆病なままなのである。


「……海」

「え?」

「……海、行きたい」


 行き先を尋ねたのはいわゆる社交辞令だったし、まさか返ってくるとは思っても居なかった僕は、彼女の返答に二つの意味で驚いてしまう。


「この時期に、海?」

「……」

「う、うん。いいかもね。ある意味、新鮮で。僕も丁度、魚介、食べたかったし」


 彼女の確固たる意志は揺らがぬようで、放っておいたら一人で行ってしまいそうな空気を察して、何の面白みも無い返事で取り繕う。


 腫れ物に触る、とはまさにこのことで、玄関先で気を遣う素振りに複雑な感情を宿した揚羽さんと共に、出発する。

 空は、どんよりとした重たい雲が蓋をしていた。

 電車に揺られる僕たちの目的地は、季節外れの海。その方向に進めば進むほど、当然ながら人は減っていく。その間、僕らの間に、会話は一切生まれなかった。


「着いたね。最寄りからは歩くみたいだけど、どうする? タクシー乗る?」

「……」

「あっ、ちょっ、待ってよ揚羽さん」


 着いたのは終点。調べると、夏の間は二つ前の駅から海水浴場に直行するバスが運行しているのだが、冬の時期はここから歩いていくしかないらしい。そのため、僕が交通手段をどうするか悩んでいると、揚羽さんは一人で勝手に歩き出していってしまう。


 ここに来るまでの間も心ここに在らずという様子であったが、駅に降り立ってからの彼女の様子は、正直、異常だ。


 潮の匂いに惹かれるように歩く様は、普段とはまるで雰囲気が異なる。


 今まで死に場所探しで色々な場所に足を運んだが、彼女はいつも降り立ってすぐに買い食いをしていたし、場所によっては僕よりも乗り気で死に場所探しより先に飲食店探しに夢中だった。


 そんな在りし日の姿と比べて、見るからに憔悴し切った横顔。

 昨夜のベッドでの彼女を思い出して、このままでは本当に死んでしまうんじゃないかと悪い予感が働いてならない。


 悪い方悪い方へと思考が傾いていく中、彼女の止まらぬ歩みは遂に、海岸にまで到達してしまう。


「誰も、いない」

「そうだね。そりゃあ、これだけ寒ければ、人も居ないよ……」


 吹き付ける潮風は、十一月の寒風となって襲い来る。

 空に蓋をしたような曇天を映す水面は灰色で、空と海の境目が分からない景色はどことなく薄気味悪い印象を与えてくる。そのお陰なのかそれともその所為か。夏には人で埋まるはずの海岸には人っ子一人おらず、それが余計に海への恐怖を駆り立てる。まるで、海の奥底から何かが這い出てくるような、そんな不安に満ちた恐怖を覚えずにはいられなかった。


 思わず二の足を踏みそうになる海岸線を前に、揚羽さんは喜んでビーチに踏み出していく。波に、風に乗って運ばれてきたゴミの上を望んで歩いていく様というのは、異様としか言い表せない状況だった。


「ねぇ、もう、帰ろう……?」


 僕の力無く、情けない声は、止むことのない潮風の音によって掻き消され、揚羽さんには届かない。


 ここに来るまででおよそ二時間近くが経過している。時計は既に午後四時を回っていて、この時間でもやっている飲食店はそう多くはない。それこそ、地元住民しか知らないようなお店ばかりだろう。そんなお店を探し当てる嗅覚に乏しい僕としては、目当てにしていた海鮮丼を諦めつつ、昼食なのか夕食なのか分からない規模の小さな疑問が押し寄せる不安によって押し流されていくのを、黙って見送る他無かった。


 海岸線を見つめ、脇目も振らぬ様子の揚羽さんから、僕は目を逸らせずにいたから。


「……本当に、誰も、居ない」

「あ、揚羽さん……?」


 ようやく追いついたとしても、彼女は僕には見えない何かを追っているかのようで、隣に僕がいることさえも忘れているかのごとく独り言ちる。


 そして、そう言って笑う横顔は今までで最も色の失われた顔色をしていて。

 それでも笑っている、と言う事実に僕の頭は混乱で満たされる。


 そうして彼女の横顔に気圧され、一拍出遅れたお陰で、僕は揚羽さんを止めることが出来なかった。


 躊躇なく海に入り込んでいく彼女を、僕は止めることが出来なかったのだ。


「あはははははッ! 冷たい、本当に、冷た──」

「あ、揚羽さんっ!」


 狂気に満ちた笑顔で踊るように深みへ深みへと歩を進めていく彼女を追って、僕はその手を掴む。

 強引に、けれども繊細に掴んだ華奢な手首は、非力な僕でも力を込めれば折れてしまいそうだと、場違いな感想を思い浮かべながら引き寄せる。


「駄目だよ、戻ろう! 危ないから!」

「嫌ッ! 離してッ! あたしは、このまま、死ぬの! 死にたいの! 死なせてよ!」

「っ……!」


 その細い体の一体何処にこんな力がと思わずにはいられない程の力で抵抗される。彼女の甲高い悲痛な叫びは、僕の耳を、胸を劈いた。


 どうして揚羽さんばかりがこんな思いをしなければならないのか。


 泣いて叫ぶ彼女の姿に、このまま死なせてあげるのも一つの選択肢ではないか、と無情な考えが浮かんでくるものの、僕は瞬時に頭を横に振ってそれを否定する。


 ──彼女は、死ぬべきではない。


 その一心で、僕は彼女を繋ぎ止める方法を脳味噌をフル回転させて模索する。


 その最中でも、揚羽さんの慟哭は止まらない。




「──もう、もう、嫌なのッ!! 生きていたって、何もいいことなんて無かった! ただ生きてるだけなのに、ずっとあいつらの影がチラつく! あたしのことを物としか思っていないあいつらに使い潰されるくらいなら、今、ここで、死んだ方がずっとマシだから! だからお願い、離してよッ!! あたしのことが好きなら、その手を離して死なせてよ!! あたしのことを思うなら、さっさと殺して──」




 あーだこーだと考えている余裕などないと判断した僕は、泣き叫ぶ彼女の背を、思い切り抱き締めた。


 哺乳類の心臓は、一生の内で鼓動を刻む回数が決まっていると言う。


 こんな状況で頭の片隅にそんなことが浮かんだのは、密着して聞こえる彼女の心拍の早さに顔を歪めたからだろうか。

 バクバク、と高速で跳ねる鼓動は、彼女の一生分の心拍をまとめて打っているかのよう。まるで彼女の死期を引き寄せているかのようで耳を塞ぎたくなるが、僕は絶対に離してなるものかと覚悟を定めて、彼女を抱き留める腕に力を込めた。


「はな、してよ……っ」

「……っ、離せない、離したく、ないんだ……!」

「なんでよッ! どうして……ッ! あんたなら、あたしの気持ちも分かってるはずでしょ!」

「分かるよ! 分かるからこそなんだ!」

「──、ッ!」

「僕は、君に……。揚羽さんに、死んでほしくないんだ! 勝手な願いだというのは分かってる。けど、君に、どうしても、生きていて欲しいんだよ……」


 僕の張り裂けそうな声に、そこで初めて、揚羽さんと目が合った。

 涙でいっぱいにした、とても綺麗な透き通った瞳だ。やっぱり彼女には、涙は似合わない。


 自分の想いを素直に口にするなんて、いつぶりだろうか。

 些細な願いは口にすれど、こうして心よりの願いなど、今までの人生において一度も口にしたことが無いかもしれない。それこそ、昨晩の揚羽さんのように、こうして甘えること自体、初めてかもしれない。


 だけども、僕の心からの言葉が響いたのか、それとも単純に疲れたのかは不明だが、揚羽さんは体を抱く僕の腕を振り払う素振りは一切なく、それどころか揚羽さんの全身から力が抜けていくのが分かった。


 諦めてくれたのか、とホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。途端、揚羽さんが喉を震わせて息を吸い込む。そして、




「──っ、ぐすっ……、ひぐっ、う……、ぐっ、ぇぐっ……!」




 しゃくり上げて泣き出してしまうのだった。


 声にならない声を上げて号哭するのかと思いきや、行き場の無い怒りを内側に押し止めるようにして全身に力を入れて嗚咽を押し殺す後ろ姿は、見ているこちらの胸が引き裂かれそうなほどに痛々しかった。泣き方を知らない子供のように泣きじゃくる彼女を、僕はいつまでも抱き留めていた。


 そんな揚羽さんが落ち着くのを待ってから、僕と二人、浜へと戻ると、待っていたのは心配そうな顔をして集まる大人達の姿。


「少し、いいかな?」

「……はい」


 その中でも一際目を引く警察に詰め寄られた僕は、手を引かれ俯いたままの揚羽さんを連れて、安全な場所にまで引き揚げるのだった。








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