20話
◇
何の成果も得られぬまま月日は流れ、霜月。
十一月も後半に入り、冬の寒さが本格化し始めた頃。
待ち望んだ瞬間は何の前触れもなく、訪れた。
「…………久し、振り」
「揚羽……、さん?」
その日も、金曜日だった。
バイトも終わり、家に帰ってくると、マンションの前に彼女はいた。
長い冬の入り口に立ったばかりで体が寒さに慣れていないのが丸分かりなほどに彼女は夜の寒さに震えていた。
何せ揚羽さんはトレーナー一枚と言う薄着。鼻の先っぽを赤くして、何とも言えない表情を見せたのは罪悪感なのか、それとも別の感情を宿しているのか、揚羽さんの表情はとにかく硬かった。
「寒かった、でしょ」
「……うん」
「お腹、空いてない? ミネストローネ、貰ったんだ。一緒に、食べよ」
「……うん」
彼女に会えたらなんて言おうか、たくさん考えていた。それなのに、久し振りの邂逅で出た第一声は、日常会話の延長線上のような文言で僕はたまらず内心で頭を抱えた。
それでも揚羽さんはズズズ、と鼻を啜った後、強張っていた表情を緩めたのを見て、これが正解だったのだと思い込むようにした。
「何を聞けばいいんだ……」
待ちに待った、再会。
指の先まで凍えた揚羽さんをお風呂に入れている間、僕は一人頭を悩ませながら電子レンジの光をぼんやり眺める。
言いたいこと、聞きたいことはいくらでもある。毎夜の如く町へ繰り出しても見つからなかった彼女を前にしたら伝えたいことだってたくさんあったはずなのに、五体満足の彼女の姿を見た途端にそれら全てがどうでも良く思えてしまえたのだ。
彼女が居なくなってから、早四ヶ月。ナスやピーマンなら収穫できる月日だ。
それだけの月日が過ぎてもまだ生きていてくれたことに心の芯からホッとしてしまい、言いたいことも、聞きたいことも、伝えたいことも、全部、頭の中からすっぱりと追い出されてしまったのだ。
「……お腹空いた」
「スープ、温まってるよ」
揚羽さんが生きていたことを感慨深く思っていると、肩にタオルをかけた揚羽さんがやって来る。
先程までとは違って、寒さではなくお風呂上がりで上気し赤く染まった肌を見せる彼女の姿がやけに懐かしくて僕が表情を緩めると、揚羽さんは「何笑ってんの」と言う。そんなやり取りがまた微笑ましくて、似たようなやり取りを何度か繰り返しながら僕たちは夕食にありついた。野菜の旨味が溶け出したミネストローネスープは、体も心も温まる。揚羽さんは「お肉が良かった」と愚痴をこぼしながらも完飲していたし、添えられたチーズトーストもぺろりと平らげていた。
「……」
「……何も、聞かないの?」
片付けも終え、食後の心地良い満腹感に体を委ねていると、彼女の方から話が切り出される。揚羽さんの口が動き話題が切り出された刹那、僕は内心で「来た」と叫び、己の手指に力が込められたのを感覚的に受け取るものの、いざ自由に質問していい権利を与えられたとて、何を問うべきなのかを決めかねていた。お陰で、二人の間に沈黙が走る。
けれども、質問したいことは決まっていなくとも、言いたいことは決まっていた。僕はその間を埋めるように、手元のマグカップに視線を落としたまま、口を開いた。
「……生きててくれて、良かった」
「!」
僕の言葉に、揚羽さんは驚いたように目を見開いたまま固まってしまう。そんなに驚くような事だろうか。僕に何を言われると思っていたのか、と彼女の反応一つで気になることが膨れ上がってくるが、次の言葉は彼女が驚きを噛み締めるのを待ってから口にした。
「……正直、揚羽さんが無事な姿を見れたから、もう満足だったりしてるんだ」
「それで、いいの?」
「いいの、って、何が?」
「勝手に居なくなって、勝手にまた現れて……。迷惑だと、思ってないのか、って」
思いの丈を明かすと、返って来た反応に今度は僕が驚き唖然とする番だった。
揚羽さんのその言葉で、彼女が本心から申し訳ないと思っていることがひしひしと伝わってくる。だから僕は、心配し続けた四ヶ月もの月日の苦労など微塵も感じさせないよう、努めて明るく反応を返す。
「そんなこと思っていたら、初めから家に上げたりして無いよ。……これを言うのは少し恥ずかしいけど、僕はまたこうして揚羽さんと一緒にご飯を食べられたことが……、素直に嬉しいんだ。どれだけ君に会いたかったか。それに……」
「そ、それに……?」
「……言っても、怒らない?」
「言ったら怒られるようなこと言うつもりなの?」
久し振りの揚羽さんとの邂逅は、自分でも分かるくらいテンションが上がっている。いつの日か、二人でお酒を飲んだ日の時のように気分が浮ついている。
だから恥ずかしいことも容易に口走れるため、自分の口が余計なことを口走る前に念のため、保険としてそう尋ねたところ、揚羽さんは期待や不安を織り交ぜた表情で、「言ってみろ」とジトっとした目で僕を見た。
それを見て、言う前から怒っているじゃないか、と思いながらも口を噤みつつ、僕は「それに」、に続く舌の上で転がしていた言葉を紡ぐ。言ったら怒られるだろうな、と思いつつも、高揚した僕の舌は止まりそうになかったから。
「それに……、揚羽さんは、そんな殊勝な性格はしてないでしょ。他人の迷惑かどうかを気にするなんて、君らしくない」
「へぇ……。……あんた、あたしのこと、そう思ってたんだ」
「ち、違うよ? 君にはそう言う強さがあるって言いたいんだよ! い、言っても怒らないって約束したじゃないか」
「そんな約束した覚えは無いし。聞いてから判断するって思っただけだし。そんで、聞いて怒ることを決めたの」
「あ、後出しジャンケンだ……!」
事実、高校一年次に不登校だった彼女が二年生になってから登校するようになっても、揚羽さんは堂々たる振る舞いであった。
既に出来上がったコミュニティなど糞食らえとばかりに登校してきた姿は、クラスメイト達からすれば図々しい光景として映ったことだろう。あんなに悪意に晒されていても平気な顔をしていたと言うのに、此度はどうしてこうも殊勝な態度を見せるのか。あの時みたいに、以前と変わらぬ姿である方が揚羽さんらしいと言うのに、と思ったままを告げると、彼女は苛立ちを隠せぬ様子で顔を伏せた。
揚羽さんを怒らせるに至った一連の流れ。明らかに揚羽さんによる反則行為ではあるが、折角顔を見せに来てくれた彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。そう考えて、僕の思考の内を明かそうとする前に、揚羽さんが折れたように言葉を漏らす。
「……どうでもいい奴にどう思われようと、普段は気にも留めないんだけど……」
「けど?」
「あんたに嫌われるのは……なんか、その…………、嫌だから……」
「そ──……、っか……」
揚羽さんの放った言葉に、お互いが顔を背けてしまう。
僕はともかく、揚羽さんまで顔を背けることは無いだろうと思いつつ、今までの沈黙とは異なり今だけは二人が望んだ沈黙が僕たちの間には流れていた。
それから、どれだけの時間そうしていただろうか。
彼女の言葉の意味をどう捉えればいいのか分からなくてチラリと彼女を覗けば、偶然にも同じタイミングでこちらを向いた揚羽さんと目が合って、二人揃って振り出しに戻るような真似を続けている内に、揚羽さんが先に音を上げてしまう。
「あ~~っ、もう! もう! 寝るから! いい?!」
「う、うん」
揚羽さんはこの空気に耐え切れなくなったのだろう。お風呂上がりよりも上気した顔で立ち上がった彼女は、逃げるようにリビングを飛び出していく。かと思いきや、角から顔だけ覗かせて悪びれた様子で付け加える。
「……お風呂あがったら、部屋、来て」
それだけ言った揚羽さんは、再び首を引っ込めて、今度こそ部屋の扉を閉める音がした。
「どうすればいいんだ……」
いつにも増して揚羽さんの心情が読めない僕は、彼女の去ったリビングで頭を抱える。
あの殊勝な態度は、僕に嫌われないため?
その言葉を鵜呑みにしていいのか、どうか。
人生経験の浅い僕には、何が正解か否かが分からない。……これがもし、彼女なりのSOSなのだとすれば、僕はどうするべきなのだろうか。
なんだか、揚羽さんがこの家に初めてやって来た夜と似ているな、なんて思いながら、様々な可能性が脳裏を巡る中で丹念な入浴を果たす。その後で自分の部屋に向かうと、そこでは落ちた照明と、ベッドの横に敷かれた布団一式が待ち構えていた。
「……今日は、そこで、寝て」
「どこから見つけたの、これ」
来客用の布団だろうか。僕でも居場所を知らなかった寝具を引っ張り出して来た揚羽さんは、壁の方を向いたまま僕の今日の寝床を指定してくる。
以前から揚羽さんは僕がソファで寝ていることを気にしていたのだが、揚羽さんが僕と変わってソファで眠ることは僕の沽券にかかわるとして却下。保てる面子や矜持があるのなら、僕だって少しは格好つけて気概を見せたいのだ。
寝床問題については同衾は以ての外として棚上げになっていたのだが、まさかこんな解決策を見つけて来るとは思わず、僕は苦笑しながら布団に潜り込んだ。
「……」
結局、僕が揚羽さんに出来ることは何かと無い頭を振り絞って考えた結果、導き出されたのは一つだった。いい加減、自分の気持ちに嘘をつくのは限界が訪れたということでもある。ここが年貢の納め時と言うべきか、自分の心に素直になるべき時だと言うのか、僕は上体を起こして、隣のベッドでこちらに背を向けている揚羽さんに声をかけようとした──その時だった。
「……ねぇ」
声を掛けようとしたタイミングはほぼ同時。揚羽さんの方が若干早く口を開いたお陰で言葉が重なることはなく、スムーズに彼女の声に耳を傾けることが出来た。
しかし、それがまた、僕の判断を曇らせるとは知らずに。
「どうかした?」
「……ごめん、あたし……」
軽い気持ちで向き合った僕に反して、ベッドの中から漏れ聞こえて来た嗚咽と彼女の震わせた声が聞こえてきた途端、肝が冷える思いがした。
「あ、揚羽さん……?」
希死念慮に囚われたままの僕らのような人間には、泣きたい夜がある。
幾度となくそう言った夜を越した覚えのある身としては揚羽さんの沈んだ心地に寄り添うべきだと分かっているのだが、彼女の情緒の乱高下に一抹の不安が過るのだ。
三十分前に見せた穏やかかつ年相応に見えた振る舞いが彼女なりに取り繕っていたのだとすれば、僕の今の思考はどれほど愚かだっただろうか。相も変わらず現実逃避が得意な僕は、彼女のSOSに気付かない振りをしていた。
何せ、四ヶ月もの間、連絡もつかず、行方も知らない彼女が、何の前触れもなく突如僕の前に現れたのだ。
──何かあったに違いない。
その答えに思い至らなかった自分が、何よりも恥ずかしい。あまつさえ、自分の感情を優先しようとした愚行は、大罪も同然。過去の自分に会えるのであれば、グーで殴って目を覚まさせたいくらいだ。正しく、穴があったら入りたい思いである。
だが、この場合は穴に入っている場合ではなくて。
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから。ここには、僕しかいないよ。君の敵は、どこにもいないから」
酷い嗚咽を繰り返し過呼吸になりつつある彼女の背を擦りながら、声を掛け続ける。
ベッドの中で小さく背を丸めている姿は、とても同年代の女子とは思えない程に幼く、苦し気に呻く彼女の身に何があったのか、想像するのも耐え難い。
だが、今この瞬間、一番苦しんでいるのは間違いなく揚羽さんであり、僕は余計なことを考えずに彼女が落ち着くことに尽力する。
「……何があったか、聞いても、いい?」
宥め続け、声が嗄れるまで泣き続けた彼女がようやく落ち着いた頃、厳かな空気に満ちた中で問い掛ける。
いくら宥めたところで、泣きたい夜は延々と続く。一人じゃないことは確かに力をくれるが、それらはあくまでも対症療法に過ぎない。根本を治療しない限り、僕も揚羽さんも、この苦しみから抜け出すことは叶わないのだ。
だからそれを探るために尋ねたのだが、返って来たのは、か細い謝罪の言葉のみだった。
「……ごめん、言えない。どうしても、言えないの……」
落ち着きを取り戻したとは言え、まだ声は震えているし、体は縮こまったままだ。
僕のように、昔の傷というわけでもない。つい最近の出来事なのだ。怖い思いは、そう簡単には忘れられないことを知っている。
僕だって、弟や両親の事に整理を付けられたのも中学生になってからのこと。
悲劇と言うのは、そう簡単に折り合いが付けられるようなものではないことを分かっているため僕は静かに頷き返した。
「うん、分かったよ──って……?!」
無理に聞き出すものではないから、と素直に身を引こうとした、刹那。
彼女の背中に置いていたはずの手が掴まれ、彼女の前方に回される。余りにも突然の出来事で反応出来なかった僕は、弱り切った揚羽さんの非力な力でも簡単にその体ごと手繰り寄せられてしまうのだった。
「……お願い。何もしなくていいから、今夜だけでいいから、抱き締めて」
「……」
精神的に参っている揚羽さんの誘いに、僕は思わず唾を飲む。
思い返せば、ここが僕の住み慣れた家という自分が安心できる殻の中だから油断し切っていたが、この状況は八割同衾なのでは無いだろうか、と脳裏に過る。
しかし当然ながら、僕は人の弱みに付け込むような真似が出来る男ではない。そもそも彼女の行動は、不安に揺れる心を安心させるためのもので、この場合、下心を抱くなど言語道断。それは揚羽さんの信頼を裏切るような真似だ。
そうやって自分に言い聞かせた僕は、怯えた幼子の如く震える揚羽さんの背中を見つめ覚悟を決める。鼻孔をくすぐる嗅ぎ慣れたシャンプーの香りに体を強張らせながら、彼女に触れるか触れないかの如く浮かせた腕を体に回す。
「……もっと、ちゃんと」
「ひっ!」
僕の葛藤や苦労を水泡に帰すかのように揚羽さんは回された腕を引いて密着させる。
「もっと、強くして」
「も、もっと?」
「もっと」
「まだ……?」
「もっと、強く」
「く、苦しくない?」
「……壊れちゃうくらい、強く、抱き締めて」
「……」
腕の中にすっぽりと納まった揚羽さんから伝わってくる体温、心拍、呼吸の音。全てが僕の葛藤など生温いものだと思えて来るほどにか細く感じると僕の懊悩など彼方へと消え去る。
今はただ、何も言わず、揚羽美命という命をこの場に繋ぎ止める役割を全うするだけだった。
「言いたくないわけじゃ、ないの。明日になれば、ちゃんと説明、するから……。ごめん……」
言うなり、僕の腕に顔を埋め、ぐすん、と鼻を鳴らしてすすり泣く音が聞こえてくる。
しかしそれもやがて収まり、彼女は寝息を立て始める。
かと思いきや、悪夢に魘されるかのように呻き、僕の腕に爪を立てる。
「……大丈夫。大丈夫、だから」
その度に、届いているかも分からない祈りのような声を掛け続け、彼女が望んだままに強く抱きしめると、荒い呼吸を繰り返しながらも落ち着きを取り戻していく。
そんな、余りにも痛々しい姿を目の当たりにして、僕は思うのだった。
「……もう、限界じゃないか」
彼女はもう、とっくに限界を迎えている。そう思わずには、いられなかった。
果たして、揚羽さんはこれまでこうやって誰かに弱音を吐くことが出来てきたのだろうか。
揚羽さんが彼氏を絶やしたことが無い、男遊びばかりしている、という噂は、そうすることでしか彼女の心に空いた穴を埋めることが出来なかったからなのではないだろうか。
それでもきっと、その穴は埋まらなくて。
なぜなら、弱音を吐くことは、誰かに甘えると言う事でもあるから。
甘えること、即ち誰かに寄り掛かるということは、誰かに愛されていないと出来ないことだ。
愛されていると言う自覚が無ければ、弱音を誰かに打ち明けることなど、決して出来ない真似なのだ。
弱音を吐く行為とは自らの弱点を晒すこと。味方のいない環境で自らの弱みを晒すことは、更なる不幸に繋がる。だから人に知られないよう内側に溜めて溜めて、溜めて……、そして、弱音を吐けないストレスばかりが積もり積もった結果、その自重で心が押し潰されていくのだ。
「……」
人生で一番初めに出会う味方と言うのは、往々にして家族である。
だけど僕も揚羽さんも、それに恵まれなかった。しかし、きっとそれは世間ではありふれた話なのかもしれない。僕や揚羽さんだけに限った話では無い。むしろ、僕や揚羽さんは恵まれているとすらされている。
──だから、どうした。
辛いことも苦しいことも、自分と同じかもしくはそれ以上の立場の人がいたら、辛いとも苦しいとも言ってはいけないのか。
恵まれている人は、弱音を吐いてはいけないのか。
自分より辛い思いをしている人に傘を差し出すことすら、傷の舐め合いだと馬鹿にされる。弱音を吐く行為は、逃げだと後ろ指をさされる。
──ならば、どうしろと言うのか。
こうして揚羽さんは眠ることすら恐怖を覚えるくらい苦しんでいると言うのに。
僕がそうだったように、恵まれている人は恵まれていることに気付けない。当たり前は、必ずしも当たり前だとは限らない。
誰しもに必ず、味方となる家族がいるとは限らないのだ。
それが分かるからこそ、こうして弱音を吐いてくれたことは素直に喜ばしいことでもあった。僕が彼女の一助になれているのなら、これ以上のことはない。もし叶うのであれば、揚羽さんがこれ以上傷付かない世界であってほしいとすら思うのだが、それは無理な話である。
だからせめて、揚羽さんの苦しさを少しでも分かち合えることが出来たなら、と思っている。実際、僕が彼女の為に出来ることは、それくらいしか無いから。
「僕は、君に──」
その夜は、揚羽さんが悪夢に魘される度に彼女を落ち着かせるのを繰り返し、次の朝を迎えるのだった。




